第8話 蠅の王

 無線機からの声はイリエにも聞こえた。……もう一人……、敵?


 ターゲットの殺し漏れがいたのだろうか。


「あら? でも、ターゲットはモモちゃんの狙撃で殺したはずだけど……」


 確認もした。間違いなくターゲットは死体になっている。

 ならば一般人が近くに? それでわざわざ連絡してくるだろうか。


 気を付けて、とも言っていた。

 レイやイリエ、暗殺者に向けて、だ。

 殺しに特化した暗殺者を相手にして、一歩も退かない相手と言えば限られてくる……、

 同業者か、もしくは、能力者――。


 シンデレラ・オーバー現象。


「なに、殺し損ねた仲間がいたの?」


「かしらねえ? 調べた段階では、ターゲットに近い存在に、脅威になりそうな人材はいなかったと思うけど。この炎から無事に逃げられているかも怪しいものね」


「……能力者同士がつるんでいた可能性は?」


「なくもない。だけどねえ、私たちみたいな、なろうと思ってなれる暗殺者はともかく、

 先天性の能力者がばったり出会うことが簡単だとは思えないわねえ――」


 先天性。

 それに、確かな証拠はないが。


 能力者同士が引かれ合って、出会うこともあるだろう。

 類は友を呼ぶだろうし、暴露を募って手を挙げる者もいるかもしれない……、


 その二人が繋がったとあれば、否定もできない可能性だ。


 つまり、能力者がもう一人。


 今からもう一戦するには、イリエとせつなの怪我の具合が良くない。

 レイとモモの近距離、遠距離コンビで戦ってもらうしかないが……いや充分か?


 この黄金コンビに拮抗できるのは、たとえ能力者でも厳しそうだ。


 炎の向こう側。人型のシルエット……、


「モモちゃん?」

『違うわよっ、あたしはまだ四百メートル先だから!』


 シルエットだけ見れば同じくらいの大きさだった。

 その小柄な体は、レイとはまた別の誘惑の方法があるため、彼女も彼女で潜入には向いている。小柄を武器にしているため、比べられて怒ることはないが……、


 これでもレイと同じ二十歳だ。

 子供と見間違われることに少ないながらも不満はある。


 暗殺者としてアドバンテージになるとしても、割り切れるものではなかったようだ。


『その子が敵よ! 気を付けて、中身は――』


 答えを聞く前に、無線機が雑音のみになる。

 レイの声は向こうに届いているかもしれないが、相手の声は聞こえてこない。

 四百メートル先でなにかあったのか……? だとしても、確認のしようがなかった。


「ま、モモちゃんなら大丈夫ね」


 狙撃手でも暗殺者。自衛方法は学んでいる。

 人のことよりも、今は自分のことだ――。


「怖いわねえ……シルエット、人型だったわよね?」

「……ついさっきまでね」


 炎に映るシルエット。それは巨大な――昆虫に見えた。


「…………ハエ


 せつなが呟く。


「化物を相手にするのは、暗殺者の領分ではないでしょうに」

「というか、戦う必要があるわけ?」


 と、イリエ。


 そこにいるからと言って誰でも彼でも殺していたらきりがない。

 ターゲットさえ殺せていれば、目撃者以外は見逃してもいいだろう……、

 炎によって目隠しされているのだから、

 そこにいる蠅の化物が、目撃者である心配はない……はずだ。


 はず。

 これさえなければ、見逃すこともできたのだが……。


「確実性がなければ、殺した方がいいと思うけどお?」

「…………チッ」


 普段なら逆転するこの会話。

 イリエが化物に怖気づいた証拠だった。


「無理しなくていいわよ。ここは私とモモちゃんで始末しておくから」

「誰が無理なんか……ッ」


 叫ぶと全身に痛みが走る。涙目のまま、上目遣いで睨みつけた。


 レイは、イリエの態度に慣れているのか、肩をすくめて、


「まあまあ」

「先輩、ここは任せましょう」


「アタシがわがまま言ってるみたいな扱い、やめてくれる……ッ」


 否定しながらも、

 シルエットに向かわなくてもいい、と言われたら、ほっとしている自分がいた。


 本能的な嫌悪感が、あのシルエットから感じ取ってしまったのだ。


「じゃあ、いってくるわねえ」


 斧を担ぎ、炎の中へ入っていくレイ。

 彼女の背中を見送った後、イリエが気を抜く。


 目の前の脅威が去った感覚だった。

 だからこそ、気づけたのだろう。脅威に覆われ隠れていたもう一つの脅威が、足元からゆっくりと上ってきていることに気づいた。


 イリエだから、気づけたのかもしれない――、同業者。


 暗殺者ではなく、毒使いとして――。


「っ、こ、れは……毒物が散布されてる……っっ!?」


 炎に紛れて、漂う空気に混ざり込んだ毒……、

 毒ガスだ。


「レイ! 呼吸を止め――」


 そこでイリエが咳き込んだ。

 熱風によって吹き飛ばされたマスク。

 それから、肺に取り込む空気はもちろん有害である。


 毒ガス云々以前に、炎に包まれたビル内で吸う空気が外と同じはずもなく、呼び止める以前に、イリエが吸っているこの空気も毒だと言える。


 せつなも、少なからず影響を受けている。呼吸を止めて対処しているようだが、長時間は無理だ、必ず息継ぎしなければならず、その時に吸ってしまう少なくない空気がある。


 それが着実に、せつなを蝕んでいた。

 全身火傷の怪我もあり、呼吸を止める時間も、普段よりも短い。


 痛みのせいで集中力がすぐに途切れてしまう……。


「なんで、アイツ……、平然と歩いて……ッ」


 レイもマスクをしていなかった。

 にもかかわらず、いつものように怠けて、最低限の労働力で仕事を済ませようとしていた。

 いつも通りに振る舞えるくらいには、彼女は吸う空気の問題は、クリアしていたのだ。


 呼吸を止めていた……? もしかして、ビルの内部に入ってからずっと?


 であれば、確かに有害な空気を吸うことはないはずだが……、ただ、可能か?


 息を止めていられる時間が長ければ長いほど、動きは鈍くなる。

 自分よりも大きく重たい斧を持ち上げて、振り下ろすことなんてできないだろう……。


 だが、鍛え上げられた暗殺者だ、努力で補えないこともない。

 もしも、できないと判断したその仮定が、レイにとって可能であれば、空気中に混ざる毒ガスの脅威を、無視することができる。


 毒が、空気中に散布されているだけであれば――の話だが。


「アタシみたいに、ナイフに塗ってあったりすれば……」


 傷口から入り込む。そうなれば呼吸を止めていようが関係ない。


 毒使いからすれば、相手の毒使いは対処できそうで、最大脅威でもある。


 武器として使った場合の防がれなさが魅力的であるため、それが逆転するとなると、防ぎようがない攻撃が迫ってくることになる。

 使われた毒に耐性があるならまだしも、知らない成分の毒となれば、後は時間の勝負なのだ。


 分析するのが先か、毒で死に至るのが先か――。


「レイ……ッ」


 毒か煙か、体内に取り込んだイリエの意識が、ここで途切れる。

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