クレジット   作・網代陸

「アラン・スミシーという映画監督を知っている?」


 私の眼前に座る成田先輩は、そう問いかけてきた。


「いえ、知らないですけど……」


 無知な私を馬鹿にしているのか、それとも呆れてしまったのか、いずれにせよ成田先輩は私に向かって、困惑が混じったような微笑みを返してきた。


「そうか、知らないのか」


「その監督が何者かはどうでもいいので、私の質問に答えてくださいよ」


 秋の夕日が差し込む図書室に、私と成田先輩の影だけが落ちている。


図書委員長である成田先輩は、カウンターの向こうに腰かけ、手に持った文庫本を開いたまま、私に応対している。


「そこまでして知るほどのこととは思えないね。それに僕の口からは、委員長という立場上、とてもじゃないけど答えづらい」


「そんな……」


 私が彼に尋ねているのは、神志那優斗という生徒の存在についてだった。彼の名を知ったきっかけは、私が図書館で借りた本の数々だ。


 借りた本の背表紙裏に挟まった貸出カード。そのほとんどに書かれていた神志那優斗の名は、私の興味をそそった。こんなにも趣味が合う人がいるなんて、信じられない思いだった。


高校二年生の私。青春アニメ映画に憧れるような歳はとうに過ぎていたけれど、それでも意識せずにはいられなかった。


 私は彼に近づこうとした。図書カードに書かれている名前は、私が入学する一年前からその姿を現していたから、彼はきっと一つ上の先輩なのだろうと推測した。だけど、どのような名簿を見ても、そのような名前は見当たらなかった。


 それに私が見つけられる限りでは、神志那優斗の名は、昨年の三月に書かれたものが最後となっていた。


 彼は転校してしまったのかもしれない。もしくは、彼は二つ上の学年で、もしかすると既に卒業してしまったのかもしれない。そう考えると残念だった。しかし、仮に彼に会うことが叶わなかったとしても、せめてどのような人だったのかだけでも知りたい、と思った。


 だからこそ、本が貸出返却される際に神志那優斗と顔を合わせている可能性が高い成田先輩に事情を説明し、続けてその正体を尋ねてみたのだが……。


「まあ、学校の中とはいえ、個人情報だからね」


「それはそうですけど……」


 成田先輩は、文庫本に目を落としている。しかし、その視線は文字を追っているようには見えない。私を困らせて楽しんでいるのだろうか。それにしても、彼の言っていることは、全面的に正しいのだけど。


「お願いします、先輩」


 成田先輩は、こちらに一瞥をくれた後で、こう口にした。


「神志那優斗がもし身近な人だったら、どうするの?」


「へ?」


「彼と付き合いたいのか?」


 私は、少しだけ返事に困った。内容もそうだけれど、成田先輩の語気が、いつもよりも強くなった気がしたからだった。


「そういうわけではないんです……。ただ、よく知りたいって……それだけです」


 成田先輩の表情が、一瞬だけ固まって、すぐに柔らかくなり、そして彼は一つだけため息をついた。


 成田先輩は、微笑みながら告白した。




「神志那優斗は、僕なんだよ。彼は僕であり、同時にアラン・スミシーでもある」




 成田先輩が何を言っているのか、私にはよく分からなかった。


私が何も言わずにいると、成田先輩は、手にした文庫本の栞ヒモを指で撫でながら、言葉を続けた。


「僕が一、二年のとき、よくこうやってカウンターに座って貸出受付をやってたんだけど、その度にみんなに名前を書いてもらうのが面倒くさくって。だから僕が生徒たちの代わりに、適当な名前を書いてたんだ。」


「適当な名前? もしかして、それが……?」


「そう、神志那優斗。かっこいい名前だろ。でも、それが担当の先生にバレて叱られちゃってさ。僕としては返してくれれば名前なんてどうでもいいと思ってたんだけどね。で、それを機に神志那優斗の名前を使うのを辞めたのが、ちょうど去年の三月ごろだった」


 ということは、神志那優斗という名が書かれた本はそれぞれ、不特定多数の人間が借りていたということか……。私と特別に価値観を共有しているたった一人の男性は、いなかった……。


 成田先輩は、自嘲気味に笑いながら、さらに説明を重ねる。


「ちなみにアラン・スミシーっていうのはね、ハリウッド映画の監督が何らかの理由でクレジットに名前を載せられなくなったとき、その代わりに使用されていた架空の人名なんだ。僕はちょうどそれと同じように、神志那優斗という名前を使った」


「架空の人名……」


「勘違いをさせて悪かったね。神志那優斗の名を書いていたのは僕だけど、君と趣味を共有してはいなかった」


 心臓がゆっくりと凍っていくような、そんな感覚に襲われた。壊れた瞬間に初めて、私は、自分が抱いていた期待の大きさを知った。会ったこともない人なのに、私は求めすぎていたのだ。


 それでも、私の妙なプライドは、自分自身を無理矢理にでも気丈に振舞わせたいようだった。


「なーんだ、そんなことだったんですか。ワクワクして損した」


「奈(な)桜(お)……」

成田先輩が次の言葉を口にする前に、私はその場を去った。


 渡り廊下を急ぎ足で進んでいく。


吹きつける秋の風によって、私の中の何かがぽろぽろと削り取られていくような、そんな感じがした。




 ***




 僕は奈桜に、嘘を吐いた。


 神志那優斗は、実在している。


正確に言うと、彼は現在、神志那優斗という名ではなく、佐藤優斗としてこの学校に通っている。僕の隣のクラスに、彼は今も生徒として在籍している。


昨年の三月に、彼の両親は離婚し、彼の名字は変わることとなった。奈桜はきっと、神志那という珍しい苗字を目印に彼のことを探しただろうから、見つけることができなかったのだろう。


どうして、あんな出まかせを言ってしまったのだろうか。いや、そんなことは自問するまでもなく分かっているはずだ。


奈桜を、他の人に渡したくなかった。


僕の、勝手な嫉妬だ。


「神志那優斗と付き合いたいのか?」と尋ねたとき。その質問に答える彼女の表情を見て、僕は察してしまった。


彼女が、まだその姿を見たことのない男に、恋をしている、と。


僕や佐藤優斗が卒業するまで、のこり数か月だ。もしかするとそれまでに、奈桜が彼のことを見つけ出してしまうかもしれない。


そうなっては嫌だ、と僕は卑怯にもそう思っている。だから、僕は自分自身の恋に、決着をつけなければいけない。


奈桜にとっての憧れ、神志那優斗という名の男は、つい先ほど、彼女の中からその存在を消した。


その代役としてクレジットされるのは、僕の名前であってほしい。いや、そうでなくてはならないのだ。


最低な自分自身と、その嘘をひとまず忘れ去りたくて、僕は読みかけの文庫本を、パタンと音を立てて閉じた。

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九州大学文藝部・2021年新入生歓迎号 九大文芸部 @kyudai-bungei

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