覚者のすすめ

出汁殻ニボシ

覚者のすすめ

 今日も水素燃焼の炎を上げて、地球表面に殺人的な熱波を送り続ける八月の太陽の眼下で、蓮沼氏は順調に死にかかっていた。

 舌根から水分が失われて既に久しく、病気の鳥のような喘ぎ声を漏らすばかりの口からは、実家に置いてきた壊れたドライヤーと同程度の、熱い吐息がひゅうひゅう吐き出されている。

 やはり、人生に疲れたからと言って、仙人を目指すのではなかった。仙人を目指すからと言って、安易に夏の登山に出掛けるのではなかった。雰囲気を味わいたいからと言って、指定のコースを外れるのではなかった。

 横になって五分も考えれば、誰でも気付けるような間違いに今更深く後悔しながら、スムーズに彼岸花の咲く向こう岸へ導かれつつある彼の体が、遂に倒れ伏したのは、いかなる偶然か、菩提樹の木陰であった。天高く腕を伸ばす緑の天幕の下に身を横たえ、蓮沼氏は世の不条理(就職活動の失敗)を呪い、わが身の不幸(就職活動の失敗)を憂い、俗界の無常(以下同文)を恨んだ。

 そうした高邁な思想も、渇きには耐えきれず、ものの数分もしないうちに、汗すらわかなくなった頭皮の下の皺浅い脳は、水分を求めて悲しく身もだえしはじめる。覚者を見習ったわけではなく、単に準備不足のために水筒すら携帯しなかった彼の覚悟を戒めるように、心臓が鼓動を打つたび、じりじりとした痛みが全身に広がる。

 これ以上ない程、人生のどん詰まりであった。

 生まれて初めて、蓮沼氏は心の底から縋った。おそらくこれほど切実に何かを望むことは、二度とないであろうと確信するほど、一心に念じた。仏さまに縋り、キリストに祈り、アッラーに頼み、ビリケンさまにすら心をささげた。以上四柱以外の神の名を知らないためである。水が欲しい。水道水で構わない。ぬるくても結構だ。水が必要だ。水をくれ!

 願いを聞き入れたのが、果たして四柱の中の誰であったのか、それとも別の神か、あるいは悪魔なのか、それは神のみぞ知ることである。とにかく、彼の人生をかけた自己中心的な願いは、やや乱暴な形で叶えられた。

 全く突然に、蓮沼氏は自分が水中に沈んでいることを発見したのである。あまりの出来事に声を上げようとした途端、切望していた水が急激に入り込んできて、彼は驚き声を上げようとしたが、それは既に試みていることで、しかもどうやら失敗したらしい、ということに驚き声を上げようとしたが、当然失敗した。

 あれほど望んだものが手に入ったというのに、今度はそれ自体が邪魔になろうとは。人の世のおかしさ、もののあはれ等といったものを感じる余裕もなく、彼はもがいた。

 足もつかず、ぼやけた視界は一面の水色である。陸はどこだ。水面はあるのか。尻がかゆい。目がかすむ。

 空気が欲しい。彼は今一度 心底祈りをささげた。おそらくこれほど切実に何かを望むことは、金輪際ないであろうと確信するほど、一心に念じた。仏さま以下四柱の神に、文字通り必死で祈った。

 またもや願いは聞き入られ、蓮沼氏の周囲から水が一滴残らず消えた。念願の大気をこれでもかと吸い込むと、彼はすぐさま大音声を上げた。周りには水もなく、暑気もなく、ついでに大地もなかった。どこまでも広がる青空だけがあった。

 さながら青春映画のクライマックスの如く、蓮沼氏は大空の中を落下していたのである。映画との違いは、魅力的なヒロインとロマンチックな音楽がないということだけである。

 風がずぶぬれになった服をはためかせ、伸び放題だった髪を噴き上げる。彼は尚も声を上げ続けていたが、どうもその声を聞いてくれる人間が周囲にはいないらしい、ということに気付くと、一応は口を閉じた。

 落下する方向を見ても、一面の青空が無責任に広がっているばかりである。ここに至って、ようやく彼は一つの結論のようなものを捻り出した。

 ひょっとして、自分は死んだのではないか? 

 これは死後の世界であり、だからこそ このような不条理極まりない世界が存在するのではなかろうか。

 だとすれば、何というロクでもない世界だろう!

 凄まじい勢いで乾いてゆく服に頬を打たれながら、彼は三度祈った。おそらくこれほど切実に何かを望むことは、神に誓って二度とないであろうと確信するほど、一心に念じた。だいたい四つくらいの神に祈った。

 やはり願いは聞き入れられ、気が付くと彼は大地をしっかりと踏みしめていた。今度は水も暑気もなく、彼が大声を上げる必要もなかった。ただ大地があり、それ以外の一切がなかった。

 十分ほど歩き回ってから、その場に座り込み、蓮沼氏は深く考え込んだ。

 ここが地獄であれ、天国であれ、それはどうでもよい。問題は一体どうやってこの世界へ、自分がやって来ることができたのか、ということだ。

 願ったからだ。それ以外に答えはなかった。この事実は、彼を喜ばせもしたし、うんざりもさせた。

 今までの願いと、その結果を振り返ってみると、どれもこれも必要に迫られて、死ぬ気で祈ったせいか、欲しいと思ったもの以外の要素が一つも存在しない世界へと飛ばされてしまったようである。

 とするならば、文字通りの意味で「願った通り」の世界にしか行けないということだ。

 彼は祈り始めた。今度は危機迫る状況ではなかったから、いくらか時間がかかることも覚悟していたが、予想に反して、すぐに別の世界へと飛ぶことができた。とてつもなく空腹だったのである。

 目の前には炊き立ての白米があり、湯気立つそれを盛りつけられたお椀とちゃぶ台が存在し、大地と箸があった。コップには冷えた麦茶が注がれていた。

 この結果に蓮沼氏は喜んで、またどこぞへ飛ばされる前に、と急いで食事を摂りはじめた。

 人間、一つの欲が満たされればまた別の欲が顔を出すものである。椀の中の白米は食べても食べても決してなくならず、その味もまた平行線を描くように、一切の変化がなかった。彼は祈らなかった。ただ単に、塩気が少しほしいな、と呟いただけであった。

 瞬間、足元の大地がざらざらと崩れ、ちゃぶ台が傾き始める。これだけは離すものかと阿修羅の如き表情で椀と箸を抱える蓮沼氏の目前で、白い流砂に巻き込まれた茶色のちゃぶ台が、音もなく吸い込まれていった。

 既に腰まではまり込んでいるその砂を、彼は嘗めた。塩の味がした。

 もはやメシどころの話ではない。塩の大海に呑まれて死ぬなど、死んでも御免だ。彼は祈った。ただし、今度はやや慎重に、一つの事柄だけを願った。元の世界へ帰りたい。

 そうして気が付くと、蓮沼氏は菩提樹の陰で倒れ伏していた。服はじっとりと汗ばんでいて、相も変わらず喉は乾いていた。ただ一つの違いは、世の不条理(々)や我が身の不幸(ゝ)への恨みが、きれいさっぱりなくなっていることだった。

 生きてるって素晴らしい。安い感動ドキュメンタリーの煽り文みたいな感想を、蓮沼氏は心の底から抱いた。

 そうやって冷静になって周囲を見回すと、そこは本来の道から五メートルと離れていない地点であった。

 山道を下り、駅舎が見えるところまで歩く頃には、彼もすっかり落ち着いて、今までの出来事に理屈をつけられるまでになっていた。あれは真夏の熱波が見せた幻だったに違いない。心の迷いがあのような幻覚を引き起こしたのだ。帰ろう。そしてまた就活に励もう。どんなに酷い会社でも、塩に溺れさせられたりはするまい。

 さっぱりした頭でそう考えながら、駅舎に入ろうとして、ふと傍のコンビニが目に入った。考えてみれば、死ぬほど熱い一日だったんだ。アイスの一つでも欲しいな。

 踏み出した足が、ずぶずぶとバニラアイスの大地の中へ沈みこんだ。


 〇


 とある山奥には、一人の妙な男が住んでいるという。年こそ若いものの、その老成ぶりは並大抵のものではなく、決して私欲に惑わされず、ただ一人で静かに修行を続けているらしい。

 これぞ現代の仙人である、と何処かのテレビ局がインタビューを敢行したところ、世捨て人らしからぬ穏やかな態度で迎え入れられた。

 修行の理由について訊かれると、彼は決まってこう答えるという

「欲に溺れる怖さを知っているからですよ、マジで」

 そうして、自嘲気味な笑みを浮かべるのだ。

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