第20話

 建物の二階に上がり、その奥へと進む桃と凪。一階とは変わって、あまり人の気配は感じない。下が結構賑やかだったから、余計に寒々しさを感じてしまう。


「おっと、ストップだ」

「ぐえっ」


 立ち止まった凪に、そのまま追い越してしまった桃は首根っこを掴まれ、後ろに引っ張られた。首が絞まって変な悲鳴が上がる。今の絶対に乙女が出したらダメなタイプのやつだ。

 文句を言おうと凪の顔を見上げてみれば、その瞳が橙色に変わっていて。


 次の瞬間、桃が通ろうとしていた道に、壁の向こうから氷山が突き出してきた。

 廊下の温度が一気に下がって、破壊された壁と氷山の隙間からは隻腕隻眼の男が出てくる。氷が消えれば、その奥からは男を追いかけるように、綺麗な水色の長髪を持った美しい女性が。


「待ちなさい蒼さん! 今日という今日は許しませんよ!」

「だからごめんって! 今日はもう飲まないから!」

「そんなこと言って、三日前は結局十本以上空けたじゃないですか! 今はお金がないって言ってるのに!」


 小鳥遊蒼と彼方有澄。いや、この世界ではアリス・ニライカナイと呼ぶべきか。

 桃や凪とは浅からぬ仲にあった最強夫婦だが、これは一体何事だ。


 蒼の頭上に氷塊を作り、今にも夫をぺしゃんこにしようとしている有澄が。不意に顔を上げて、二人に気づいた。


「あれ、凪さん? それに桃さんまで!」

「よし有澄客人だからここは一時休戦ということにし──」


 ブチッ。

 哀れ小鳥遊蒼は氷塊の下敷きに。さすがの桃でも可哀想に見えてきた。

 休戦の申し出も聞く耳持たず、容赦なく旦那に制裁を加えた有澄は、歳を感じさせない可愛らしい笑顔で駆け寄ってきた。


「久しぶりです、桃さん!」

「うん、久しぶり有澄ちゃん。旧世界じゃゆっくりお話できなかったもんね」


 小鳥遊蒼のことは本気で嫌っている桃だが、その嫁である有澄のことは結構気に入っていた。

 出会った時は敵対したし、最初はその力にしか興味がなかったけど。愛美と出会って、桃が本来の優しさや人間性を取り戻すにつれて、友人としての関係を作ることができた。


 あの頃はよく、互いの知識を披露しあったり、蒼の悪口を言い合ったりしたものだ。


「ドラグニアは初めてですよね? もし良かったら案内しますよ! 今日はもう夜遅いので、明日にでも!」

「本当? ぜひお願いしたいな」

「いやいや、君、今は高校生だろ。たしかそっちの世界も、明日は平日のはずだけど?」


 何事もなかったかのように、無傷で立ち上がった蒼から余計な一言が。せっかく学校サボろうと思ったのに、これじゃあ真面目な有澄が許してくれるはずもない。


「だったらダメですね。せっかく愛美ちゃんたちと一緒に、普通の学校で普通の生活が出来てるんですから。一日たりとも無駄には出来ませんよ」

「そう、かな……」


 有澄はなんの気もなしな言った言葉なのだろうけど、桃の胸に深く突き刺さった。


 一日たりとも無駄には出来ない。

 その通りなのだろう。今が楽しいのはたしかで、また愛美たちと一緒にいられることは嬉しくて。

 でも、あの日常の中にいると、どうしても言葉にできない違和感が拭えない。


 自分はこんなところにいていい人間だったろうか。ただの女の子みたいに、なんでもない普通の日常を過ごしていていいのだろうか。


 一度その思考が過ぎったら、勝手にどこまでも考え込んでしまう。


「まあ、とりあえず中に入ろう。わざわざこの世界に来たってことは、なにか用があったんだろう? まずはそいつを聞かせてくれ」


 そんな桃の様子を察した蒼が、たった今崩れた壁から部屋の中へと案内する。せめて扉から通せよとは思ったけど、いちいち誰も口にはしない。


 所々に霜が残る室内は、つい先ほどまで壮絶な夫婦喧嘩が行われていたことを物語っている。夫婦喧嘩というか、有澄からの一方的な折檻だと思うけど。

 それを詠唱も魔法陣の展開もなく、ただ魔力を動かすだけで元通りにしてみせる蒼。


 相変わらず、嫉妬に狂いそうな力だ。


「で、二人はどうしてこの世界に?」


 執務机に腰を下ろした蒼から問われ、桃は視線だけで凪に先を促した。


「俺はまあ、様子見だな。ここが出来てからは足を運んでなかったし、織と朱音が融通利かなかったんで、代わりに魔女様の護衛だ。あとこれ、蒼に土産な」

「おお! ドスカブト! さすがは凪さん分かってるじゃん!」


 ぐってりと動かなくなったカブトムシの入った鳥籠を、凪が机の上に置く。テンションマックスの人類最強だけど、やっぱりこれってそんなにすごいやつなんだ。


「わたしにはただのカブトムシにしか見えないんだけど」

「ほとんどただのカブトムシと変わりませんよ。ちょっと強くて硬いだけ。生態も、そちらの世界のカブトムシと同じです」


 補足してくれる有澄だが、ちょっと強くて硬いだけでドラゴンの鱗を破るとか、この世界はどうなってるんだ。


「ただ、絶対数自体が少ないんですよね。分布も結構偏ってて、桃さんたちが最初に出たあの森にしか出てこないんですよ。しかもあの森、実は結構曰く付きで、普段誰も近寄らないんです。だからそのカブトムシ、希少価値はかなりのものなんですよね」

「カブトムシなのに希少価値とかつくんだ……」


 日本で言えば、海外産のカブトムシは希少価値が高いだろう。有名どころで言えば、ヘラクレスオオカブトやサタンオオカブトなんかがそうだ。

 しかし普通のカブトムシを日本で見ても、大して珍しいものには思えない。


 それと同じで、ドラグニアでは珍しいというだけ。

 そもそも、桃は別にカブトムシに興味はないし。


「いやあ、カブトムシ自体久しぶりに見たよ。昔は虫同士を戦わせるカードゲームとかあってさ」

「あー、あったなそういや。え、やば、めっちゃ懐かしいじゃん。俺家にまだオウゴンオニクワガタのカードあるかも」

「もう20年近く経ってるのかぁ……」

「凪さん、その時もう二十歳くらいじゃないですか? その歳でやってたんです?」

「男は何歳になっても、少年心を忘れない生き物なんだよ」


 有澄の純粋な眼差しの質問に、馬鹿な答えが返ってくる。これだから男はいつまでもガキだとか言われるのだ。


「ともあれ、こいつのツノや甲殻は貴重な魔術触媒、あるいは魔導具の材料にも出来てね。うちにはまだあの森に行こうとするやつがいなかったから、結構助かるよ」

「うちって……そういえば、ここってなんなの? 居酒屋かなにかかと思ってたけど、時期魔導師長なんてお偉いさんもいるしさ」


 なにより、下にいた者たちは全員が魔導師だった。それもその全員、実力はそれなりに高いだろう。魔力は桃の世界と少し異なるが、感じ取れないわけではないし、その量や質もある程度把握できる。


 先ほど見てきた限り、桃の個人的な基準に則るのなら、かなりの強者揃い。もしかしたらドラゴンも紛れてるかもしれないし。


「ここはね、魔導師ギルドだよ」

「は? ギルド?」


 聞き慣れない単語が出てきて小首を傾げる。たしか、愛美が見てそうなアニメや漫画の異世界では、そんなものがあったっけ。それは冒険者ギルドとか、なんかそんなのだった気がするけど。


 しかしどうやら、実態は少し違うらしく。


「この世界にはね、魔術学院のような組織が存在していなかったんだ」

「なら今までどうしてたの?」


 魔術学院とは、魔術師を束ねて魔術世界を牛耳る、いわば監視者にして支配者。

 魔術という神秘の存在に一定の規則を設け、魔術師の拠り所にもなっていた。魔術が秘匿されるべきであった旧世界では、必要不可欠と言えるだろう。


 一方で、この世界の魔導は秘匿する必要がない。


「魔導とは科学分野のひとつでもある。旧世界とは前提からして大違いなんだ。だから、わざわざ魔導だけを取り締まるような組織は必要なかった」


 魔導師。

 そう呼ばれる存在は多くいる。基本的には魔導そのものを生業としている者たちのことだ。傭兵や騎士、研究者に医者などなど。

 例えば料理人なんかも魔導の恩恵に与っているけど、あくまでも「魔導の力によって確立された技術、あるいは道具」を使っているだけであり、魔導そのものを扱っているとは言えない。


 面倒な分け方だと感じるのは、やはり桃が異世界の存在であり、この世界の常識や価値基準などを理解できていないからか。


「基本的にはどの国も、優秀な魔導師を宮廷に招き入れているからね。ある意味では城が学院と同じ役割を果たしてたんだよ。それでも、フリーの魔導師ってのは結構いるもんなんだ」

「そいつらを纏めるために作ったのが、このギルドってこと?」

「その通り。でも君が思っているのとは少し違うかもね。そっちの世界のアニメや漫画で出てくるようなものや、実際に中世ヨーロッパに存在していたような、単なる個人の集まりだったり、組合のようなものじゃない。一つのチームとして纏まっている」


 つまり、小鳥遊蒼が個人的に所有する軍隊、ということだろうか。

 ここが一つの国である以上、そんなことが認められるとは思えないのだが。


「ギルドはここ以外にも、あと四つある。それぞれ、龍の巫女とそのパートナーが運営してるよ」

「つまり、国に属するものじゃなくて、龍の巫女に属するってことか……」


 なるほど、ギルド設立の目的が見えてきた。

 たしか龍の巫女自身も、国に属する存在ではなかったはず。有澄がこの国の第一王女であろうが、それは変わらない。


 もしも万が一、ドラグニアが世界の敵になった時が来たら。

 アリス・ニライカナイは、容赦なく故郷と戦うだろう。


 その様な存在が、それぞれ自分たちの軍隊を持つ。意味するところはひとつだけ。


「小鳥遊、いったいいつから、赤き龍の出現を見越してたわけ?」

「そんなに前からじゃないよ。そもそもはそこが発端じゃないからね」


 肩を竦める蒼だが、否定の言葉はない。


 この魔導師ギルドたら言うものは、より大きな脅威を想定して作られた。

 桃の知らないところで言えば、邪龍ヴァルハラの事件などは国民も強く記憶に残っていることだろう。あの時は異世界からの来訪者である織たちの力も借りたし、龍の巫女最強、すなわちこの世界最強のアリス・ニライカナイが帰ってきていたために、被害を最小限に抑え込めた。


 最小限でも、龍の巫女の一人は敵の手に落ちたのだ。

 おまけに巫女と同じ、ドラゴンを体に宿す存在まで現れて。この世界の百年戦争が終結してから、最も大きな事件と言える。


 それ以上の脅威が、この世界には迫っているのだ。

 赤き龍。創世の伝説に現れる二体の龍の片割れ。その本体が、この世界のどこかに息を潜めている。


「とまあ、それがここ、氷炎の宴ブルークリムゾンの概要だ。僕と有澄が自ら声をかけて回った、精鋭五十人。僕がギルドマスターで、担当する巫女が有澄。国から独立した、対『脅威』の要さ」

「なんて言っても、普段は城や国民からの依頼も請け負ってるんですけどね。そのあたりは学院と変わりません」


 小鳥遊蒼と彼方有澄。

 二人が身を投じる新たな戦いの、その最前線。


 ここなら、もしかしたら。

 僅かに抱いていただけの希望が、胸の内で大きくなり始める。

 魔女として、自分のやるべきこと。それはきっと、あの世界にはなくて。


「それで、そろそろ君の用件を聞こうか」


 きっと、戦いの中にしかないのだろう。


「わたしを、この世界に住まわせて。今だけじゃなくて、ずっと」



 ◆



「なんて、馬鹿なことを言ってるんでしょうね、あの子は」


 異世界に行きたいと言う桃を凪に任せた翌日。一夜明けても、凪から帰還の連絡は来なかったし、桃があの鍵の魔道具を返しにくることもなかった。

 心配になっていた織なのだが、朝食の席で愛美からとんでもないセリフが飛び出したのだ。


「桃が、あの世界に?」

「どういうこと、母さん」


 聞かされた織と朱音からすれば、困惑する他ない。

 だって、ようやく手に入れた普通の日常なのだ。みんなと一緒にいられる生活を、魔女があの時に求めた、復讐の先にある未来を。今の桃は、送ることができるのに。


「だって考えてみなさいよ。200年間他に見向けもせず、ただ復讐のためだけに生きてきた魔女よ? あの子が何を考えて何を求めていたのだとしても、実際にこの生活を送ってみたら違和感を覚えるに決まってるじゃない」


 断言。

 迷うことなく淀みなく、愛美は親友の心情を二人に曝す。


「戦いがないと、逆に不安なのよ。今までずっと、ジメジメとした暗闇の中を歩いていたから。日の当たる場所に出てきたら、ここは自分がいるべき場所じゃないって思っちゃう」


 そんなことはない、と言いたくて、けれど織は口を噤む。

 それはきっと、魔女本人にしかわかりえないことだ。他の誰にも、親友にすら理解を求めない、彼女だけの人生があったからこそ至った考え。


 事実、愛美の口ぶりはそんな桃を非難するようで。


「ったく、私にくらい、相談してくれてもいいじゃない」


 どこか悲しげな響きを帯びた呟き。

 親友への想いに溢れた言葉が、味噌汁から立ち上る煙に溶けて消える。


「もし、桃さんが本当に向こうで暮らす様になったら……もう、会えなくなるのかな……」

「いや、今はいつでもドラグニアに行けるんだから、そんなことはないだろ」

「どうでしょうね。馬鹿なあの子のことだし、こっちとの関係は完全に断つんじゃないかしら」

「そんな……」

「でも大丈夫、例え桃が本気でそれを望んでいようと、私が絶対に止めるから」

「なにか考えでもあるのか?」

「まあね。奥の手がひとつだけあるわ」


 自信満々に言いながら、愛美は焼き魚の骨を綺麗に取り出す。いつもながら惚れ惚れとするほどだ。

 そのちょっと可愛いドヤ顔も、骨の取り方も。


「それに……親友と離れ離れなんて、もう二度とごめんよ」


 悔恨の滲むその声に、織と朱音ですら、容易に踏み込むことはできなかった。


 殺人姫と魔女。

 親友同士である二人は、それほどに強い絆で結ばれているから。



 ◆



 愛美と朱音が登校するのを見送って、織は隣街にまで電車で足を運んでいた。

 駅を出てからスマホで地図を確認しつつ、大通りから市民公園を抜けて、その先にある大学の正門へ。待ち合わせ場所であるそこに辿り着けば、相手は既に到着している様だった。


「緋桜さん」

「ん、来たか。悪いな、わざわざ隣街まで」

「いや、俺の方から声かけたし、大学ってのも興味ありましたから」

「そういや、お前も一応そんな歳か」


 ふっと笑みを見せるのは、この大学の二年になった黒霧緋桜だ。土曜の件で直接話がしたかったために声をかけたら、授業もあるからこっちに来てくれ、と言われた。


 本来なら、織ももう大学一年生。九月に19歳となる。愛美や桃よりひとつ歳上になってしまったのだ。

 織自身、大学という場所には少なからず興味を持っている。旧世界でまだなにも始まっていなかった時は、父の事務所を継ぐにしても大学くらいは行こうと考えていたから。


「愛美とキャンパスライフは楽しめそうになくて残念だな」

「そういや、あいつ進路どうするんすかね。とりあえず大学には行くって言ってましたけど」

「事務所から通えるってなると限られるし、自然とここになるんじゃねえの?」


 偏差値高いけど、あいつなら大丈夫だろ。そう他人事のように緋桜が、大学の敷地内へと足を向けた。

 その後ろについて行き、入館証みたいなのは貰わないまま建物の中に入っていく。


 いいのかと不安になる織だが、元から大学なんて人が多い上に全生徒を把握してる人なんていないだろうし、無関係の織ひとりが入り込んだところで誰も気づかないか。


 まあ、仕事着のスーツを着てるから、それなりに目立ってしまうのだが。


 緋桜に案内された先は、なにやら研究室らしい場所。大学教授の部屋らしいのだが、こんな簡単に入っていいものなのか。


「とりあえず、適当なところに座っててくれ。ああ、そこのものには触るなよ、俺が怒られるからな」


 棚に並んでいるのは、石のようなもの。なにか意味のあるものなのだろうか。

 部屋の奥へと向かう緋桜。下手に身動きできない織は、すぐそこの椅子に腰掛けた。テーブルは綺麗に片されているが、研究に関する書類がいくつか置いてある。

 部屋を見渡してみれば、顕微鏡やらなにかの薬液やら、いかにも研究室って感じだ。


「おいサーニャさん、もう朝だぞ。もしかして、また徹夜したのか?」

「んぅ……緋桜か……」

「織を連れてくるって、昨日連絡しただろ」


 声のする方に首を巡らせてみれば、どうやら奥の方にあるソファで誰か寝ているらしい。

 そして立ち上がったのは、自慢の銀髪をボサボサにして寝ぼけ眼を擦る、白衣姿のサーニャだった。


「朱音には見せられねえな、これは……」


 いや、むしろ我が娘は、こんなサーニャも意外と気にいるかもしれないが。


 甲斐甲斐しくサーニャの身嗜みを整えてやる緋桜。といっても、この場でできる最小限だが。吸血鬼の特性を取り戻してしまったからか、肉体は人間でも朝には弱い様だ。


 今までしっかりキリッとした姿しか見てなかったから、こんなサーニャは新鮮で悪くない。


「ふぁ……すまん、待たせたな」

「いや、いいよ。珍しい姿も見れたし」

「朱音には言うなよ」

「言わねえよ」


 ジトっとした目で釘を刺された。

 一時期朱音と暮らしていたのに、その時はどうしていたのやら。頑張って早起きしてたのだろうか。それはそれで微笑ましくて、つい口元が緩む。


 さて、いつまでもサーニャの意外な姿にほっこりしている場合ではない。

 今日はちゃんと、仕事の一環でここに来ているのだから。


「さて、土曜の件だったな」

「詳しいことはこいつに書いてるんで、目を通しといてください」


 持ってきた書類をテーブルの上に滑らせる。受け取った緋桜は、パラパラと流し読み。それで大体の内容は理解できたのか、書類を置いて鼻根に指を当てて、重苦しいため息を吐いた。


「これ、転生者か赤き龍かが絡んでると思うか?」

「どうでしょうね。今の段階じゃなんとも言えないっすよ」

「人選がガチすぎるだろ。葵たちが入ってないのは、あちらさんのせめてもの気遣いだと思いたいが」


 やはり緋桜も、織と同じ考えに至ったようだ。わざわざ魔女まで指定してくるなら、それ相応のなにかが起こるかもしれない。

 そこに愛美と緋桜までとなれば、万全の状態を整えてほしい、ということだ。


「ひとまずは了解した。この護衛対象、今はどこにいるんだ?」

「大使館にいるらしいっすけどね。今狙われたら全部パァっすよ」

「ま、そこは大丈夫だろ。相手も逃げ場のある陸の上より、逃げ場のない海上の方がやりやすい。その気になれば船ごと沈めて終わりだしな」


 ただ、それは有り得ないだろう。下手に沈めてしまえば、余計な国際問題に発展してしまう。それでターゲットには逃げられた、じゃあちらさんも困るはず。

 相手もそれは分かっていて欲しいところだが、最悪の可能性として頭に入れておいた方がいい。


「せめてもの救いは、敵が日本側じゃないところか」

「所詮はテロリストだし、所属してる国なんて関係ないと思いますけどね」

「だな。それで、話はこれだけじゃないだろ? だったら直接会って話さなくてもいいしな」


 察しがよくて助かる。今日いきなり時間を作ってもらったのは、依頼の件で話したかっただけじゃない。

 一つ、緋桜に聞きたいことがあったから。


「最近、桃に会いました?」

「……」


 さすがになんの話かまでは、予想していなかったのだろう。

 聞かれた瞬間、緋桜はバツの悪そうに眉を顰めた。そこから読み取れる感情は様々だ。聞かれたくなかったと思いつつも、時間の問題だったとも感じているだろう。

 織の予想通りであれば、緋桜と桃の間になにかあったはずだ。それを悟られてしまったのが悔しいのか、余計な心配をかけてしまったと思っているのか。


 なんにせよ、その表情ひとつで答えの代わりになっている。


「やっぱり、なんかあったんすね」

「まあ、色々な」

「緋桜、ここは禁煙だぞ」


 ポケットからタバコを取り出した緋桜に、コーヒーを飲んでいるサーニャから鋭い視線と声が飛ぶ。

 タバコで自分の感情を煙に巻くのは、彼の悪い癖だ。あるいは、その軽薄な笑みで誤魔化そうとすることだって、織にも分かる。


「あいつ、昨日からドラグニアに行ってるんすよ。俺は土曜の準備があるんで同行できなかったんすけど、代わりに俺の父さんを連れて」

「凪がいるなら安心だろう」

「まあ、そうなんだけどさ……愛美曰く、桃は向こうに住みたがってるかもしれない、らしい」


 あくまでも愛美が言っていたことだ。本人から聞いたわけではない。

 しかし、その信憑性と説得力は、他の誰よりも緋桜自身がよく知っているだろう。


「そう来るか……多分、俺とのあれこれはあんまり関係ないだろうな。それがなくても、あいつならいずれそう言ってたと思うぞ」

「本当に関係ないんすか?」

「関係ない」


 真剣な眼差しで即答されると、織もそれ以上追及する気は起きなくなる。

 真実はどうあれ、当事者のひとりがこう言っているのだ。なにより、織がイタズラに踏み込んでもいい話ではないだろう。その資格があるのは、あの少女だけかもしれない。


「だったら、ひとつだけ教えてください」

「なんだ?」

「あいつが、本当にドラグニアに住むって言ったら、緋桜さんはどうするんすか」

「……あいつの好きにさせるさ。俺には、止める権利も資格もないからな」


 呟き、視線を下に落とす緋桜は、どこか哀しげな笑みを浮かべていた。

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