桜の雨に濡れる

それぞれの日常

第17話

 肌にまとわりつくような、ジメジメとした生暖かい風が、教室の中まで雨の匂いを運んでくる。降っているわけではないけど、空はどんより曇り空。

 けれどこんな天気がそんなに嫌いじゃなくて、桃瀬桃は生徒会室の窓から顔を出し、深く息を吸った。


「雨、降りそう?」

「今日は大丈夫かな。明日からまた大雨だと思うけど」


 机の上に置いてある書類と向き合った生徒会長、親友の桐原愛美が、こちらに一瞥もくれず尋ねてくる。桃から視線を返すこともなく、ほんの少し上機嫌な声で返した。


 洗濯物がどうとかぶつぶつ呟いている愛美は、どうやら少しくらいは、家事をできるようになっているらしい。


「あなた、雨好きよね」

「うん。昔からね」


 まだ、自分の体内に賢者の石がない時から。あの世界での200年前から、ずっと。

 雨や土の匂い、しとしとと空から落ちてくる雫、ちゃぷんと跳ねる水溜りが。自然の息吹を感じられる雨が、好き。


 唯一不満があるとすれば、春に桜を散らしてしまうことくらいか。


「わたしの周り、似たようなやつら結構いたよ? 雨に限らず、太陽が好きだとか、土や草木が好きだとか」

「200年前の話でしょ、おばあちゃん」

「今は愛美ちゃんと同じ18歳だから!」


 元素魔術を使うやつらには、特に多かった。元々は自然信仰が転じて、現代魔術のひとつに組み込まれたものだ。

 昔は水の元素を得意としていた桃が雨を好きでも、なんらおかしなことはない。


「ていうか、あんたも仕事しなさいよ。忙しいの分かってるでしょ?」

「そう言われてもねー。葵ちゃんたち待たないと、仕事ないし」


 現在6月。月末には、この市立高校の文化祭が行われる。桃たち生徒会はその準備に追われているのだが、まだ出し物をどうするのか提出していないクラスがいくつかあるのだ。期限は今日まで。その催促に葵たち三人が向かっているから、桃は現在待機中。


「まったく、提出期限くらい守ってほしいよね。そんなんじゃ社会に出てからやってけないってのに」

「おはあちゃんが言うと説得力が違うわね」

「だから! わたしは! 18歳!」


 旧世界みたいに、外見年齢だけ18歳というわけじゃない。中身もしっかりピチピチのJKだ。まあ、200年分の記憶はあるけども。そこはいいとして。


「そもそもわたし、この世界だったらもう魔女じゃないし」

「だったらなによ。まさか、自分は善良な一般市民です、とか言うんじゃないでしょうね」

「いやいや、さすがにそこまでは言わないって。わたしたちが善良とか、織くんが聞いてたら鼻で笑われるよ」

「違いないわね」


 復讐のためだけに200年を費やした魔女と、命を奪うことに快楽を見出す殺人姫。

 誰がどう見ても、善良なんてものとは程遠い。織だけでなく、葵やグレイなんかもめっちゃ小馬鹿にしてきそうだ。


 考えたら腹が立ってきた。今度あのミニチュア吸血鬼と会ったら、嫌がらせのひとつでもしてやろう。


 けれど、それも旧世界での話。

 今ここにいるわたしたちは、その時の力と記憶を持っているけど。

 この新世界では、もっと別の生き方をしたいから。


「そうだ、魔女はやっぱりイメージ悪いから、聖女とかどうかな?」

「あんたが聖女? 寝言は寝て言いなさい」


 ふっとバカにしたような笑みが漏れた。書類仕事はひと段落したのか、愛美はペンを置いて顔を上げ、心底バカにし腐った顔を向けてくる。


「いいかしら、聖女っていうのは清らかで汚れを知らない、慈愛に満ちた人のことを言うの。あんたのどこをどう取ったら聖女なわけ?」

「わたし、優しいじゃん」

「優しさを振りまくくらいなら誰にでもできるじゃない」

「まあたしかに、あの愛美ちゃんでもできるもんね」

「喧嘩売ってるなら買うわよ?」


 うふふあははと笑い合っているが、空気は険悪なものと程遠い。

 魔女が、桃瀬桃が永い人生の中で、親友と呼べた数少ない少女だ。愛美と過ごした時間なんて、200年に比べればとても短いものだけど。

 それでも、この二人の間にしか共有されないものが、たしかにある。


 そんな相手だからこそ。

 桃はここ数日抱いていた悩みを、迷うことなく打ち明けた。


「冗談抜きでさ。わたしたち、魔女でも殺人姫でもなくなったわけじゃん? 力と記憶はたしかにあるけど、この世界ではただの女子高生。普通の暮らしっていうやつを謳歌できる立場になった」

「そうね」

「でも、だからっていうか……なんか、どうすればいいのか分からなくてさ、色々と」


 200年という、一人の人間にとっては長すぎる時間を過ごした魔女。

 それを可能としていたのは、彼女の中に確固たる目的が存在していたからだ。

 灰色の吸血鬼への復讐という、執念を持っていたから。


 一度死んで、ソロモンの悪魔によって蘇らされてからも、織や愛美たちの未来を見届けるためとか、バカな男の未練を断ち切ってやるためとか、ちゃんとやるべきことを見つけていた。


 今の桃には、それがない。

 大きな目的もなく、ただ生きているだけ。

 そりゃ受験生だし、どこの大学を目指しているとか、将来どんな仕事に就こうかとか、そういった未来へのビジョンは持っていたけど。

 それは記憶を取り戻す前の話だ。今だってそれらを捨ててはいないが、なんというか、こんなにも普通に暮らしていていいのか、と不安が過ぎる。


 自分がこの世界に求めていたものを、享受しているのに。

 ただ幸せなだけの毎日というものに対して、逆に恐怖を感じる。


 わたしは一体、この世界でどうやって生きていけばいいのかが、分からない。


「贅沢な悩みね」


 最後まで話を聞いた愛美は、優しい笑顔を浮かべてそう言った。

 かつて桃が抱いていた執念を、ほんの少しでも理解してくれている親友が。桃にとって大切なひとりが。

 打ち明けられた悩みを聞いて、どこか嬉しそうに言うのだ。


「好きなように生きればいい、って言いたいところだけど、それが出来ないって話だものね。でも、人間なんてそんなものよ。あんたはもっと、目先の欲望に目を向けてもいいと思うわよ?」

「目先の欲望か……文化祭を楽しみたい、とか?」

「緋桜ともっとお近づきになりたい、とか」

「あいつは関係ないでしょ!」


 いや本当に、あのバカはなにも関係ない。てかあんなやつ知らないし。

 どう接していいのか、未だに分からないんだから。あいつのことまで考え出しちゃうと、余計にこんがらがる。


「本当に、関係ない?」

「……っ」


 強い光を湛えた瞳が、ジッと見つめてくる。

 鮮烈な優しさと苛烈な正しさを併せ持つ親友の、そんな瞳に射抜かれると。どこかバツが悪くなってしまって、つい目を逸らしてしまう。疚しいことなんて、なにもないはずなのに。


「ま、別にどっちでもいいけど。いつまでも意地張ってたら、本当にどっかの誰かに奪われちゃうかもね」

「そんなことないもん……」


 なんとかそう返すのに精一杯で、親友の目をちゃんと見ることはできなかった。



 ◆



 本日も生徒会の仕事を恙無く終えて、桃は一人帰路につく。

 今は棗市の駅より南側にあるマンションで一人暮らしだ。両親はいない。

 最初からいないわけじゃなかった。ちゃんと、この世界での親と暮らした記憶はあるけど、桃が13の時に事故で亡くなっている。

 それからは、幼馴染でもある親友の愛美の家に助けてもらいながら、なんとか今日まで生きてきた。


 記憶が戻った今となっては、色々と複雑だ。

 旧世界で、200年前に桃を産んでくれた親のことなんて、何一つ覚えていないのだ。顔も、名前すら。

 だから、この世界での両親と同一人物なのかも分からない。


 それでも亡くなった両親にはちゃんと感謝しているし、家族だったのだという実感だってある。


「まさか、こんな風に悩むなんてね……」


 駅前の道を歩きながら、闇色に染まりつつある空を見上げて呟いた。口元の笑みにはどここ哀愁が漂っていて、まるで砂漠に取り残された旅人のような気分になる。


 この世界における、桃瀬桃という人間の特異性。彼女が記憶を取り戻してしまうことによる、彼女だけの弊害。


 吸血鬼でもなく、転生者でもないただの人間には、やはり200年は長すぎた。


 愛美は家族との時間を取り戻した。

 葵は蓮と上手くやってるし、カゲロウと翠はグレイと和解したようだ。サーニャもかつてのように、朱音を始めとした子供たちを可愛がっている。


 それぞれがそれぞれ、記憶と共にかつての日常を取り戻して、上手くこの世界に溶け込ませている。そうやって新たな日常を築いている。


 いつもの帰り道、高架下のトンネルを歩く桃は、不意に思考を中断した。

 暗い道ではあるが、いつも人通りが全くないわけじゃない。特にこの時間、まだ夜が始まったばかりの時間だと、仕事帰りのサラリーマンや桃のように帰りの遅い学生も見受けられるはずだった。


 しかし、人の気配が全くしない。

 それだけならさして気にもしなかっただろう。たまには人がいない日くらいある。

 桃が思考を中断せざるを得なかったのは、すぐそこから感じる魔力が原因だ。


 ため息と、舌打ちをひとつ。


 そのどちらも、自分自身に対するもの。


「結局わたしは、こっちの方が性に合ってるんだよね……普通を望んでこのザマなんだから、ホント、嫌になっちゃう」


 顔つきが変わる。ただの女子高生のものから、かつて恐れられた魔女のものへと。

 表情が消え、酷く冷たい色のない顔へと。


「ギギッ」


 不快な鳴き声を漏らしながら現れるのは、三頭身ほどの人型。小柄な体に醜い顔。頭頂部に角を一本持った、小鬼と呼ばれる魔物。


 こいつが、この世界でも戦わなければならない理由。

 先日の赤き龍が無遠慮に魔力をばら撒いたせいで、回収しきれなかった魔力がこうして形を持ち、魔物となる。


 得物を捉えた小鬼が、叫び声を上げながら駆けてきた。しかし、桃は腕を翳すこともなく、ただ強く睨みつけただけで。

 小鬼の体が、ぐちゃりとひしゃげて潰れる。地面を赤黒い血が汚し、散らばった肉塊は粒子となって消えていった。


 それを織に教えてもらった魔導収束で回収しながら、他に魔物が残っていないか周囲に探知をかける。すると、直ぐ近くに馴染み深い魔力の反応を捉えた。


「なんだ、もう終わってたのか。さすが魔女様、仕事が早いな」

「たまたま近くを通ったからね。そういう緋桜こそ、こんな時間に一人で何やってんの? 大学生なら今からが遊ぶ時間じゃん」


 背後から声をかけてきたのは、桃にとって大切な仲間の一人。この世界では大学生としての暮らしを謳歌している、黒霧緋桜だ。

 やたら遊んでる大学生みたく感じられる彼は、肩を竦めて軽薄な笑みを浮かべる。


「生憎、今日は声かけたやつ全員に振られてな。暇だから街彷徨いてたんだよ」

「徘徊?」

「犯罪者みたいな言い方やめろ」


 魔力の回収が終わって、改めて緋桜に向き直る。その全身をジーッと眺めてみた。


 顔はかなり整っている。旧世界でもそうだったし、この世界でも彼がよくモテているのは桃だって知っていることだ。服装も現代の若者らしく、最新のトレンドを逃さず取り入れたコーディネート。身長は桃よりもだいぶ高く、たしか180近くあるとか言っていたか。20センチ以上は差がある。

 そこいらのモデルや俳優よりも、緋桜の方がイケメンだろう。あくまでも桃の感覚なら、の話だが。

 いや、別に緋桜の顔が好みとか、そう言う話ではないけれど。


 しかしこうして改めて眺めると、自分もその外見に惹かれて寄ってきた一人みたいに思えて、なんとなく自己嫌悪に陥る。


 ため息を一つ漏らせば、頭の上から怪訝そうな視線が降ってきた。


「人の顔見てため息吐くなよ」

「ため息吐きたくなるような顔してる緋桜が悪い」

「ため息を漏らしちまうほどのイケメン、って解釈でオーケー?」

「ああうんもうそれでいいよ」

「雑な扱いは悲しくなるからやめろよ」


 軽口に対して適当な言葉を返し、桃は家への道を再び歩き始める。

 ガチで凹んでるのか、しっかり肩を落とした緋桜は、なぜか後ろをついてきていた。


「なんでついてくるの?」

「そらお前、こんな時間に高校生一人で帰らせるわけにもいかねえだろ」

「わたし、魔女だよ?」


 挑発的に、あるいは蠱惑的に笑みを見せる。そう、わたしは魔女だ。普通なんて暮らしとは程遠い場所にいる、化け物のひとりだ。

 今こうやって高校に通っていることすら、桃は自分に対してとてつもない違和感を持っていた。こんなことをしていていいのか、と。意味のない自問自答が繰り返される。

 記憶が戻ってから毎日、どこか地に足のつかない生活を送っている。


 愛美や葵、カゲロウや翠ですら、朱音までもが今の暮らしに順応しているようだが、桃はどうしても、そんな友人たちを一歩引いたところから眺めてしまう。頭の中のどこかが冷めている。


 結局わたしは、魔女でしかない。


「関係ないだろ、それ」


 それでも緋桜は、簡単にそう言ってしまう。優しげな笑みすら返して。まるで小さな子供に言い聞かせるように、仕方ないやつだと言うように。


「魔女だろうがなんだろうが、お前はお前だろ。桃瀬桃でしかない。てか、普通に補導されたら面倒だからな。それで迷惑かけるのは愛美のところなんだぞ」


 素でそんなことを言ってしまえるから、なんだろうか。

 わたしをわたしとして見てくれる。出会った時から、ずっと。


 親友である殺人姫と呼ばれた少女も、魔女と恐れられた桃ですらも救ってみせた、その正しさがあるからこそ。

 気に食わない存在だったこの男に、惹かれてしまうんだろうか。


「あとあれだ、お前みたいなちんちくりんでも、声かけようとするバカはいるからな。そいつらが魔女様の餌食にならないようにしてやらないと」

「誰がちんちくりんだって?」

「お前しかいないだろうが」

「ちょっ、頭に手を置くな!」


 いつもの軽薄な笑みに戻った緋桜が、身長差をいいことに頭を撫でてくる。抵抗しようとするが、この体格の違いだと殆ど無意味だ。

 まるで悪戯が成功した子供のようにくしゃりと相好を崩す彼を、わたし以外に何人が見たことあるのだろう。


「言っとくけど、部屋には上げないから」

「なんだ、ちゃんと一人暮らしできてるか見てやろうと思ったんだけどな」

「昔から一人暮らしみたいなもんだったし、心配される謂れはないんだけど?」

「むしろ昔を知ってるからだよ」


 図星を突かれて、思わずムッとしてしまう。たしかに学院の地下にあった自室は、我ながら酷い有様だったけど。今はそこまでじゃない、はず……多分……ダメだ、いきなり自信なくなってきた。


 まあ、どのみち緋桜を部屋に上げるつもりは微塵もないのだし、多少散らかっていても別にいいとしよう。



 ◆



 結局、部屋までついてこられた。

 繁華街に程近い七階建てマンション。その三階が桃の家だ。

 強く拒絶しなかった自分も悪いとは思っているけど、まさか本当に最後までついて来るとは思わないじゃないか。


「やっぱり散らかってるな……しかもこの様子だと、最近になって余計酷くなっただろ」

「別に緋桜には関係ないでしょ」


 ムスッと頬を膨らませてそっぽを向く。

 一人暮らしには少し広い1LDK。そのリビングには、下着も含めた洗濯物に始まり、学校の教科書やら参考書、読み差しの本にいつ貰ったか分からないレシート、果ては魔法陣を手書きされたルーズリーフまで。

 これでもかと言うくらいに散らかっていた。

 生ゴミの類が落ちていないのは、唯一の救いか。


 いやしかし、それにしても。異性を部屋に上げるというのに、下着まで放ったらかしなのはいかがなものかと。今朝の自分を問い詰めたい。

 別に今更恥ずかしがるような乙女心を持っているわけじゃないけど、こいつに見られるのは気に入らない。


「随分とまあ、色気のない下着ばっか置いてあるな」

「それ以上わたしのブラに触ったら蒸発させるよ」

「怖い怖い」


 落ちてあった下着を一枚拾った緋桜が、ふっと口の端を釣り上げる。馬鹿にされてるようでムカついて脅してみたが、指先で摘むように持つのはどうなんだ。

 まるで汚いものに触ってるみたいじゃん。


「さて、取り敢えず掃除するぞ。さすがに今から掃除機かけるわけにもいかないから、まずは本類を片付けてくれ。俺は洗濯物畳むから」

「ちょっと、なんで緋桜がそっちなの。普通わたしが洗濯物でしょ」

「いいけどお前、ちゃんと畳めるのか?」

「……」


 無理だと断言するのは悔しいので、黙って散らばってる本やら教科書やらを片付け始めた。別に洗濯物を畳むくらいはできるけど。まあ、わざわざ手伝ってくれるお礼に、下着を触らせるくらいはさせてあげてもいいだろう。

 畳めないわけじゃない。断じて違う。


 黙々と掃除をしていると、旧世界でのことが思い返される。

 あの頃もこうやって、緋桜と愛美が定期的に桃の部屋を掃除しに来てくれていた。緋桜が卒業するまでの、わずか数ヶ月の間だったけど。その短い時間が、桃にとってはかけがえのない宝物と同じだ。


 不意に懐かしさが込み上げて笑ってしまう。落ちてる下着になんの反応も示さなくなったのは、三回目の掃除に来た頃だったか。

 普段寝る時にブラウスと下着だけという格好の桃には、ついぞ慣れなかったようだけど。さすがの緋桜も、そんな格好で男の前に出て来るな、と怒っていたのを、今でも思い出せる。


「なあ、桃」


 暫く片付けを続けていると、洗濯物をまとめ終わった緋桜が、改まったように声をかけてきた。

 こっちはまだ全然終わっていないのになんなんだ。そう思いつつ目だけで先を促せば。


「お前、俺のことどう思ってる?」


 あまりにも真っ直ぐな問いが、心の奥底まで鋭く突き刺さった。

 掃除の手も止まって、言葉がなにも出てこない。答えらしきものを持っているはずなのに、それは決して形になることなく、無意味な吐息となって霧散してしまう。


 いつものように、軽口で済めば良かった。

 それこそ意味のない言葉ばかりを互いにぶつけあって、適当に誤魔化せれば。

 けれど、彼の瞳は真剣な色を帯びて、挑むように桃を見据えている。


 どうしてこのタイミングで、そんなことを聞くのか。緋桜の真意が見えない。


 彼が、わたしが、どんな答えを望むのか。

 いっそここが、改変される前の旧世界であれば、あるいは簡単に答えられていたのかも知れないけど。

 あの時、あの場所で、緋桜は自分の想いを打ち明けただけで。桃の気持ちなんて聞かずに死んでいったから。


 天使が降りたような静寂。二人の息遣いだけが聞こえる中、俯いて手元の教科書を見つめる桃は、掻き消えそうな声で答えた。


「恨んでるよ……」

「そうか……ならいい」


 きっとここが部屋の中じゃなかったら、タバコの一本でも吸っていたのだろう。

 しかしここには、彼の表情を隠してくれる煙がない。

 だから、その苦しそうな、力のない笑顔を直視してしまって。なにか、まちがえてしまったのではないかと、不安になる。


 それきり緋桜はなにも言わず、再び掃除に戻った。勝手に寝室に入って洗濯物を箪笥の中にしまい、まだ終わっていない桃の手伝いをしてくれる。

 ようやくある程度マシになったと思った時には、緋桜を部屋にあげてから一時間以上が経過していた。


「よし、一先ずはこんなもんだろ。定期的に掃除しろよ。てか使ったものは元あった場所に戻せ。それだけで結構マシになるからな」

「分かったってば。ほら、さっさと帰って」


 玄関で見送る直前までぐちぐち言われてしまい、我慢できずに早く帰れと手を振るう。

 それでも嫌な顔ひとつせず、彼はまたな、と言い残して帰っていった。


 一人残された桃は、食事の準備をすることもなく寝室に行き、ベッドに倒れ込む。

 色々と無駄に考え事を抱え込んでしまって、頭の中がこんがらがって来た。


「バカじゃないの、あいつ……」


 やがて漏れたのは、八つ当たりでしかない幼稚な罵倒。

 でも、仕方ない。だって、あんな顔を見せられてしまったんだから。


 恨んでくれって言ったのは、緋桜の方なのに。どうして、そんなに悲しそうな顔をするかな。

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