崩れていく日常
第9話
桐生探偵事務所の助手となった初日は、あの後も何箇所かで同じように、織が魔物を倒すのを繰り返して終わった。
その翌日も同じ。まだあの魔物とやらには慣れないし、恐怖もあるけど。織が守ってくれると信じてるから、大丈夫。
更にその次の日。
今日は土曜日だ。朝から出かける準備をして、やけに上機嫌なことを桐原組の連中に怪しまれながらも、愛美は屋敷を出て事務所まで向かっていた。
その道中で。
「あ、愛美さん」
声をかけられ振り返ると、そこにはツインテールの後輩が。
黒霧葵。中学の頃から可愛がってる後輩の一人で、生徒会の会計。緋桜の妹だ。
「あら。おはよう、葵」
「おはようございます。これから織さんのところですか?」
「ええ、まあ。探偵さんの仕事を手伝ってるのよ」
「……おめかししなくていいんです?」
愛美の全身をザッと見た葵は、コテンと首を傾げる。
たしかに今日の愛美は、休日にお出かけするというにはいささかオシャレ度が低い。
ジーパンに白のブラウス。その上から裾の長いベージュのカーディガンを着ているだけだ。当然ダサい格好というわけではなく、愛美ほどの美人なら十分似合うのだけど。
普段の休日に比べると、いくらか落ち着いた格好と言える。
「私も悩んだんだけどね。でもまあ、動き回ると思うし。だったらヒラヒラした服とかは着ない方がいいでしょ?」
「それもそうですね」
「そういう葵こそ、私と似たような服装じゃない。蓮とデートじゃないの?」
「違いますよ」
似たようなと言っても、細部は違うが。しかしジーパンは同じだし、適当なシャツにフード付きのパーカーを着ているだけだから、なんなら愛美よりもオシャレ度が低いかもしれない。
それでもツインテールだけは解かないあたり、さすがのこだわりだ。
「今日はちょっと、他に用事があるんですよ。私も愛美さんと同じで、動きやすい格好の方がいいんで」
「へぇ。バイトでも始めたとか?」
「似たようなものですかね」
あはは、と苦笑する葵の顔には、どことなく疲れが滲み出ている。
もしかして、なにかしら無理をしているのかと思ったけど。それならまず真っ先に、緋桜が葵の外出を許可していないだろう。
あるいは、これから向かう先がすこし憂鬱とか、そんな理由かもしれない。
「それより愛美さん、あんまり無茶してないですか? 危険なことに巻き込まれたりとかしてません?」
一歩詰められ、顔を覗き込んでくる小さな後輩。
無茶をしているつもりはないし、織が守ってくれるから危険でもない、と思うけど。
「してないけど、なんで?」
「いや、だって探偵のお仕事って、なんかそういうイメージあるじゃないですか」
「漫画の読みすぎよ。探偵って、思ってたよりも結構地味な仕事ばかりよ」
織に聞いたところ、普通の探偵の仕事もしていたらしいけど。迷子のペットを探したりだとか、失せ物探しだったりとか。浮気調査もあるらしいし、特定の人物の素行調査だったりも請け負うらしい。
しかしそれら全て、とても地味なものなのだ。聞き込み、尾行、最近はネットも活用した調査も。地道なことをコツコツと積み上げる。
漫画にあるような、迷宮入りしそうな事件を快刀乱麻を断つように解決するなんて、そんなことはない。
ただの探偵なら、と注釈がつくけど。
「まあ、それならいいですけど……」
「あなた、探偵さんのことあんまり信用してないの?」
「ある意味全く信用ないですね」
ある意味? けっ、と吐き捨てるように言った葵に対して、少し違和感を覚える。
たしかにこの後輩は、相手が年上だろうが物怖じせずに言いたいことを言う子だ。それは兄である緋桜の扱いを見ればわかるし、愛美や桃だって、たまにチクチクと刺さることを言われる。
けれど、あまり交流のない織に対してまで、そこまで言うとは。
年上だろうがちゃんと言いたいことを言うけど、それ以上に礼儀は弁えてる子だったはず。
ていうか、織のことは愛美と同じく、探偵さんとか、探偵の人とか、そんな感じで呼んでたと思うんだけど。
「あー、そろそろ行きますね。遅れたら煩く言われるんで」
「あらそう? ごめんなさいね、引き止めちゃって」
「いえいえ。愛美さん、くれぐれも危険なことには首を突っ込まないでくださいよ」
「分かってるわよ」
再三に念押ししてくる葵に苦笑を返して、二人は別れる。パタパタと忙しなく駆けていく後ろ姿を見送ってから、愛美も事務所までの道を急いだ。
葵の言動に違和感は覚えたけど、別に気にするほどのことでもないのかもしれない。案外自分の知らないところで、織と朱音の二人と親交を深めてたりしてるかもだし。
「おはよう、二人とも」
「おはようございます、愛美さん!」
到着した事務所に入ると、その中にいたのは朱音だけだった。元気よく挨拶して駆け寄ってくる少女に笑顔を返して、愛美は事務所を見渡す。
「あれ、探偵さんは?」
「ちょっと用事があるからって、朝から出掛けたよ。協力者に会いに行くって」
「協力者?」
たしか、織と朱音の他にも、この街には魔術師が四人ほどいるとか言ってたか。
そのうちの一人は、あの日中学校に現れた灰色の髪の男だろう。他三人が具体的に誰か聞いたわけではないけど、みんな織よりも大人で頼りになる人、と探偵本人が言っていた。
「えっと、この前話した四人以外に、もう一人協力者が増えたんだ。だから、その人と情報の共有をしに行くって言ってた」
「なら、その人も魔術師ってことかしら?」
「うん。私も知ってる人だし」
協力者が増えるのはいいことだ。
織や朱音だけに負担がいくこともなくなるし、あんな化け物が相手になるんだったら、仲間は多い方がいいに決まってる。
「だから今日は、私と二人で回ってきてだってさ」
「え、朱音も戦えるの?」
「当然! 私、お父さんより強いもん!」
無邪気な笑顔で言ってみせる朱音は、とてもそんな風に見えない。普通の中学生女子。華奢な体も細い腕も、戦いとは無縁に思える。きっと年相応に見栄を張ってるだけだろう。
魔術を使えるのはたしかだろうけど、自分よりも小さな女の子に守られるなんてわけにはいかない。
むしろ、もしもの時は愛美が朱音を守る、くらいに思っていないと。
「父さんがいなくて、残念だった?」
「え」
なんて考えていたのに、朱音の口から放たれたのは思ってもなかった言葉。
「うんうん、分かるよ愛美さん。父さんカッコいいもんね。私よりも、父さんといたいよね」
「いや、なにも言ってないんだけど……」
「大丈夫! 私は応援するから!」
それでいいのだろうか……朱音が織の娘ということは、勿論母親だっているだろうし。その母親が誰かは知らないけど、その人に悪いとは思わないのだろうか。
いやそもそも、別に応援されるようなことなんてなにもないんだけど。
「馬鹿なこと言ってないで、さっさと行きましょう」
「はーい」
ニコニコ笑顔の朱音と二人、事務所を出る。しかし今日はどうやら、街の南側の方まで出るらしい。ここからだったら、バスを使った方がいいくらいの距離がある。
はてこの近くのバス停はどこだったか、と記憶をたぐっていると、足元が突然光り始めた。
「お金勿体ないし、転移していこっか」
言うや否や、愛美の全身を浮遊感が襲う。次の瞬間には景色が変わっていて、海沿いにあるショッピングモールの近くに来ていた。
前もこの転移とやらで、織に家まで送ってもらったけど。なんか変な感じがして慣れそうにない。
「空間転移……凄いわね……」
「まあ、これくらいは出来ないとね」
こっちだよ、と先導する朱音について行けば、やがて工事現場にたどり着く。
この辺り一帯は再開発中の土地で、似たような工事現場は他にもいくつか見受けられた。他にもいくつか、背の高い建物を作ってる最中の場所がある。
その中へと迷いなく踏み込む朱音。声をかけようかと思ったが、それ以前に違和感を覚えた。
「人がいない……?」
そう、人の気配が全くしないのだ。
ここは工事現場。いくら土曜日とは言え、朝のこの時間は、本来なら工事の真っ最中のはず。なのに警備員もおらず、工事業者も一人も見当たらない。
明らかな異常だ。
朱音がなにかしたのだろうかと、幼い横顔を見てみるも、先程までの年相応な表情はどこへ行ったのか。
酷く冷たい、色のない顔に変わっていた。
「魔力を隠すのが上手いな……この規模はさすがに問題になるし、父さんかお祖父ちゃんを呼んだ方がいいかも……」
なにかを呟きながら考え事をしている少女が、とても遠くの存在に感じられる。
あの時の織と同じだ。朱音も、愛美とは違う世界で生きる人間。自分なんかより、余程残酷な現実を経験してきた。
「愛美さん、一旦帰ろう。ここはちょっとまずい」
「え、ええ……」
橙色に染まった綺麗な瞳に見つめられ、愛美は頷くしかない。
なにがまずいのかは分からないけど、たしかにこの場が異常であることは、愛美でも分かった。朱音の指示に従うべきなのだろう。
でも、気になることがひとつ。
「ここにいた人たちは、どうしたの? この時間から誰もいないなんておかしい、なにかあったのよね?」
朱音の呟きが気にかかったのだ。
この規模はさすがに問題になる。
その言葉は、果たしてどう言う意味が含まれたものなのか。もしかしたら、いつもみたいなあの魔力が大きすぎて、悪いことが起きると言う意味かもしれない。それだけじゃなくても、可能性ならいくつか思い浮かぶ。
踵を返した朱音は、決して愛美の方を振り向こうとせず。ほんの少しの間があって、端的に事実を告げた。
「……全員、死んでる」
「……っ」
「人間の魂は、とっても大きな魔力リソースになるんだ。だからここにいた人たち全員を食べて、残されていた魔力はとても大きなものになってる。正直、愛美さんを庇いながら戦える相手じゃない」
具体的に何人かは分からない。けれど、それなりに広い工事現場だ。五十人から百人ほどはいただろう。
それだけの数の人間が、死んだ。
ただの高校生に過ぎない愛美には、その事実が重くのしかかる。
けれど朱音は、冷静そのものな声音で、淡々と説明を続ける。
「だから今は一旦退いて、作戦を立て直した方がいい。父さんの報告通りだと、こっちから下手に刺激しない限りは──」
その声が、途切れた。
少女の周囲から突然銀色の炎が噴き出して、背後へと振り返り様に放たれる。
炎は建設途中の、中途半端に剥き出しになった鉄骨へ当たり、そこから巨大な影が飛び出した。
「近付いてないのに魔物化した……? 父さんの報告が間違ってたとも思えないし、誰かが意図的に起こしたかな」
愛美を庇うように立つ朱音。その前に降り立ったのは、赤と黒の体毛を持つ大きな虎だ。体高は自分たちの身長と同じぐらいあって、威嚇するようにこちらを睨んでいる。
今まで遭遇した魔物の中で、最も強い恐怖が訪れた。こいつが、ここにいた人たちを殺した。死が急速に現実感を帯びて、目の前に迫ってくる。
「愛美さん、絶対に動かないでね。大丈夫、私がちゃんと守るから」
腰に巻いているホルスターから拳銃が、懐の鞘から短剣が抜き放たれる。
幼く愛らしい少女には、似つかわしくない二つの凶器。けれど不思議と違和感がないのは、朱音があちら側の人間だからだろう。
得物を構えると同時に、少女と魔物、両者の姿が消えた。
愛美がそう認識した時には、互いの中央で激突が起こっている。衝撃の風が強く揺れ、遅れて轟音が響いた。
あまりの風の強さに顔を抑える。なにが起こったのかは分からないけど、虎は離れたところまで吹き飛ばされていて、苦しそうなうめき声を漏らしていた。
そこへ容赦なく追撃の弾丸が撃ち込まれるが、すんでのところで躱される。
また虎の姿が見えなくなったと思ったら、朱音に接近して凶悪な爪を振り下ろし、両手を交差して防がれていた。
全ての行動に付随する音が、どれも遅れて聞こえる。つまり、音速を超えているということだ。どのようにして動いているのかは全く見えず、愛美が視認できるのは、齎された結果だけ。
だから、朱音の姿がまた消えたのも、攻撃のためだと思ったのだけど。
遠く離れた資材置き場で音が炸裂する。ハッとそちらを見れば、置かれた鉄骨の山に背中から激突して、ぐったりと倒れ伏し、頭から血を流す少女が。
「朱音っ!」
駆け寄ろうとして、足が動かなかった。こちらを睨む、二つの瞳に気づいたから。
巨大な虎の魔物は、ゆっくりと愛美に近づいてきている。
殺される。ここにいた人たちのように、食われてしまう。逃げ出したくても、腰が抜けて動けない。眦に涙が溜まって、己の無力さを呪うことしか許されない。
いやだ。死にたくない。やりたい事も、行きたい場所も、まだ沢山あるのに。
でも、どうしたって体は言うことを聞いてくれなくて。
ついに目の前まで接近してきた虎の、凶悪な爪が、振り上げられる。
「誰の前で、誰に手を出してるんですか」
予想していた死は訪れず。横から伸びた極光に、虎の全身が飲み込まれた。
銀色の炎が地面を這う。口から血を吐き出した朱音は、能面のような無表情。しかしそこには、たしかな怒りが。オレンジに輝く瞳は、未だ健在の魔物を強く睨んでいて。
「あなたの相手は私ですが。人の家族に手を上げて、ただで死ねると思わないことです」
迫る銀炎から逃れるために、虎の巨体が愛美から離れる。しかし逃げた先には太い光が伸び、再び魔物を飲み込んだ。
地に倒れ苦しむ魔物。朱音は愛美の前に戻ってきて、こちらをちらりとも見ずに詫びる。
「ごめん、平和ボケしてた。もう大丈夫、母さんには怖い思いさせないから」
「母さんって、どういう……」
「あっ」
明らかにやっちゃった、みたいな横顔が見えた。冷や汗を垂らして目が泳いでいるし、どうしよう、なんて呟きも。
さっきも愛美のことを家族だとか言っていたし、まさかこの子の母親は、自分だとでも言うのか?
「あー、それは取り敢えず後! あいつを倒してから、まあ、説明はできないと思うけど……」
「いやいや、そこまで言っちゃったら、もう誤魔化しようないでしょ」
ここに来て、第三者の声が降ってくる。
けれど愛美にはよく聞き覚えのある、事務所に来る途中にも聞いた声だ。同時に、空気の爆ぜる音も聞こえる。
瞬間、青白い閃光が視界を染めた。
轟音と共に魔物へ落とされたのは、超高電圧の稲妻。
明滅する視界の中で、ツインテールの少女が上空から降りてくる。
「葵……?」
「さっきぶりですね、愛美さん」
気まずそうに苦笑を漏らすその顔を、見間違えるはずがない。愛美にとっては可愛い後輩で、日常の象徴とも言える一人。
黒霧葵は、背中に三対の漆黒の翼を伸ばし、その手には同じ色の大鎌を持っていた。
「葵さん! 来てくれたんですね!」
「そりゃこんな反応があれば来るよ。ちょっと迷ったんだけど、織さんはドラグニアの方に行っちゃったからさ」
「そうなんですか? なにも聞いてないのですが」
「状況が変わったって。向こうは結構マズいことになってるみたい。でも多分、すぐ戻ると思うよ」
二人の間で交わされる会話を、一ミリも理解できない。
どうして葵がこんなところにいて、そんな物騒なものを持っているのか。状況的にはもう確定だけど、愛美の脳は完全にキャパオーバーで、理解することを拒んでいる。
「それより、朱音ちゃんが苦戦するなんて珍しいね。そんなに強い?」
「私が平和ボケして鈍ってたこともありますが。たしかに、ちょっと強いですね」
「変な異能持ってたり?」
「いえ、そう言うわけではなさそうですが。でもちょっと、変な感じするのはたしかですので。気をつけた方がいいかもです」
「なるほど、じゃあ初手から全力だね。私も久しぶりだし、ウォーミングアップに付き合ってもらおうか」
背中の翼が、黒い稲妻へと変化する。鎌は刀へと変形して、周囲にはパチパチと火花を散らしていた。
いっそ楽しげな笑顔すら浮かべた後輩と、未だ怒りが表情から消えない少女。その二人によって。
蹂躙が、始まった。
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