第8話
一学期のこの時期は、特に行事もない。
それ即ち、生徒会の仕事もゼロに等しいということだ。
そう言う時は決まって剣道部に顔を出していたのだけど、今日は違う。
「桃、私先に帰るから」
「え、今日は緋桜の悪口大会やるって言ってたじゃん」
「本人に直接言ってきなさいよ。じゃあね、また明日」
「ちょっと愛美ちゃん⁉︎」
親友の声には聞く耳持たず、愛美は忙しなく学校を出た。急ぎ足で商店街を通り抜け、その先にある桐生探偵事務所へ向かう。
織から全ての説明をされて、彼の手伝いをすると決めたのは昨日のこと。
今日から愛美は、魔術の世界に片足を踏み入れる。
とは言っても、どうやら愛美自身があの力を使えるわけではないらしい。ちょっと残念な気もするけど、使えないなら使えないで構わない。
たどり着いた事務所の扉を開くと、今日は織の他に朱音もいた。
「こんにちは」
「あ、愛美さん!」
「おう、来たな助手」
「助手って呼ぶな」
いや助手なんだけど。別に間違いではないんだけど。そう呼ばれるのは、なんだか気に食わない。
「今日は朱音もいるのね」
「部活がお休みだったんだ。天文部、愛美さんも入ってたんだよね?」
「あら、天文部に入ったの? なら今度の天体観測は賑やかになりそうね」
月に一度、愛美がOGである市立中学の天文部は、天体観測を行っている。
愛美を始め、他にも友人や後輩連中が結構参加しているのだ。先月は二人が旅行に行っている間にしてしまった。
今月はどこで星を見るのかと、少し楽しみになってきた愛美だが。どうやら一方の織は、天体観測の話自体初耳のようで。
「へぇ、やっぱり天文部ってそういうことするんだな」
「父さんも来なよ。みんな参加するって言ってたよ?」
「余裕があればな」
柔らかい笑みでそう返す織。その顔は朱音への愛情に満ちていて、本当に親子なんだな、と思う。
「……ん?」
「どうした?」
「そういえば、朱音の母親は?」
ふと、疑問に思った。
昨日聞いた話だと、朱音は未来を変えるためにこの時代にやってきて、そのための戦いも終わったから、今はここで織と二人で暮らしている、とのことだった。
当然のことなんだろうけど、私の知らないところでも戦ってたんだ、と変な感慨を覚えたものだ。
しかし、織と朱音が親子なのはいいとして、なら母親は誰になるのだろうか。
じーっと朱音の顔を見つめていると、何故か顔を逸らされた。目はすっごい泳いでいる。
これは絶対、なにか隠している反応だ。
それにしても、本当に自分とよく似ている。全く同じ顔というわけじゃなくて、それこそ親子や姉妹と言われても、誰もが納得してしまうだろう。
「まあその話は置いといて、早速調査についての話だ」
多少無理矢理話を逸らしたのは、瞳がオレンジ色に染まった織。綺麗なその色に見惚れそうになったが、それも一瞬のこと。気がつけば元の黒に戻っていて、自分の気のせいだったのかと首を傾げる。
それはそれとして、調査の話と言われれば気を引き締め直してしまう。
知らず緊張していた愛美に対して、二人は特に気負った様子もない。
「とりあえず朱音。中学の方はどうだった?」
「一応は問題なしかな。加茂先生も普通に来てたし、怪しい様子もなかったよ。魔力も感じられなかったから、本当に赤き龍とは関係ないのかも」
市立中学に在籍している加茂教諭は、愛美が在学時にも天文部の顧問を勤めていた。だから愛美も知り合いだし、お世話になった先生なのだけど。
本当にそんな人が、悪い魔術師のひとりなのだろうかと、今でも疑っている。
「動きがないならそれでいい。天体観測、どうせその人も同行するんだろ? だったら俺がその時に直接話してみる」
「うん、グレイにも視せようか」
「問題は、赤き龍だな」
赤き龍とは、昨日の化け物のことだ。
全然龍には見えず、むしろ悪魔とか言われた方が納得できる容貌だったけど。
「愛美、ここ一ヶ月で、この街に普段と違う異変が起きてたりしてないか?」
「急に言われても……」
「どんな些細なことでもいいんだ。ずっとここに暮らしてるお前なら、俺たちじゃ分からないことも分かるかもしれないしな」
織に頼られてる。そう思うと、悪い気はしない。
頤に手を当てて、うんうん唸りながら必死に考える愛美。この一ヶ月で起きた異変と言われても。
普段通りに学校に行って、放課後は友人たちと遊んで、天体観測にも一度行ったし、この前は花見もした。
そんな中で、特筆すべき点。異変と呼ぶべきものがあったとしたなら。
織と朱音がこの街に来たことだろう。
しかし、織が聞きたいのはそういうことじゃないはずだ。むしろ二人がこの街に来てからと、それ以前の違い。愛美の主観的な日常ではなく、もっと俯瞰的に見た街そのものの状況。
織が知りたいのはそこだろう。
なにかあるはずだ。魔術の恐ろしさは、愛美も身をもって体験した。あんなことが起きているのだから、日常にもなにかしらの影響を与えているはず。
「別にないならいいんだぞ?」
「待って、何かあると思うからちょっと待って」
悩む愛美に気を遣ってか、織が苦笑混じりそう言ってくれる。
でも、力になれるチャンスだから。自分ができることは限られていて、こういうことにしか協力できないから。
それから何分経ったか、体感では三十分くらいに思っていたが、時計を見るに五分ほどしか経っていない。さすがに根を上げて、ギブアップを伝えた。
「ごめんなさい……やっぱりなにも思い浮かばないわ……」
「いいって。そんな落ち込むなよ」
肩を落としてしょんぼりしてしまう。
自分から協力を申し出たのにこのザマとは、情けない。織はこう言ってくれてるけど、失望させてしまっていたらどうしようかと、不安になる。
でも、まだ始まったばかりだ。挽回のチャンスはいくらでもあるはず。
「ねえ、他に何かない? 私が協力できそうなこと。なんでもやるわ」
「そりゃあるけどよ。ちょっと肩の力抜け、そんなに気負う必要もないぞ」
優しく微笑みながら言われて、眉根を寄せる。たしかにちょっと落ち着きがなかったかもしれないけど。やっぱり織は、愛美のことを全部見透かしてるように思えて。ほんの少しだけ、背中のあたりがむず痒くなる。
気負うなと言われても無理な話だ。
だって、知ってしまったんだから。私たちの日常に潜む脅威を。そこで戦う探偵を。
見て見ぬふりなんてできない。でも愛美には力がないから。目を逸らしたいような現実が横たわると、逃げ出したくなる。
逃げるなんて、もっと嫌だ。
桐原愛美の持つ正しさは、それを許さない。
ならどうすればいいか。答えは一つだ。
強がるしかない。
人生は不条理の連続。現実が自分に合わせてくれるわけもないから、自分が現実に合わせて、どこまでも強がる。
魔術。漫画やアニメの中にしかないと思っていた存在。日常に潜む脅威そのもの。
今でも怖い。自分の足で踏み出して、織の助けになろうと決めたけど。この前の中学校での一件は、愛美に十分すぎる恐怖を植え付けた。
怖いけど。怖いからこそ。
そんな弱さを見て見ぬふりして、必死に強がるのだ。
「お願い、探偵さん。私はなにをすればいいのか教えて。本当に、なんでもやるから」
織の目を、強く見つめる。
きっと、愛美のそんな思いも見通されてるのかもしれないけど。
言葉よりも雄弁に、この覚悟と決意を伝えるために。
やがてひとつ息を漏らした織は、困ったように相好を崩した。
「お前の、そうやって強がるところ。俺は結構好きだよ」
「すっ……!」
突然とんでもない言葉が飛び出して、愛美の顔が一瞬で沸騰する。思考が全部抜け落ちて、頭の中が真っ白になった。
そんな少女のことなど知らぬとばかりに、探偵は話を続ける。
「そういうことなら分かった。つっても、元からちゃんと協力してもらうつもりだったから、安心しろ」
「そ、そう……ならいいけど……」
ダメだ顔がめちゃくちゃ熱い。彼のことを真っ直ぐ見れない。
けれど一方で、織は自分の発言になんとも思っていないのか。顔色ひとつ変えることもない。なんか、自分ばかりが意識してるみたいで、馬鹿らしくなる。
おまけになんだか、女性の扱いに手慣れてる感じがするし。やっぱり魔術師なんてやってると、人生経験は実年齢よりも豊富だろうし。女性経験とかも、あったりするんだろうか。
胸のあたりがもやもやする。訳の分からない腹立たしさが込み上げてきて、つい織のことを睨んでしまっていた。
それでもやはり、探偵はそんな視線もどこ吹く風。なんともない調子で、こう言ったのだ。
「よし。んじゃ今から、デートするか」
「は?」
◆
めちゃくちゃニヤニヤした顔の朱音に見送られ、織と二人で街に繰り出した愛美。
頭の中は混乱から立ち直れていない。
いきなり好きとか普通に言うし、デートとか言い出すし。別に全然織のことを意識しているわけじゃないけど、顔はずっと熱いままで、心臓の音も煩い。
「さて、まずはどこから向かうかな」
「ね、ねぇ、ちょっと」
「ん?」
「説明、説明して。デートってなに」
「言葉の通りだぞ?」
真顔でなに言ってんだこいつみたいに返された、さすがにちょっとイラつく。
いや、百万歩譲ってこれがデートだとしても、あまりに脈絡がなさすぎないだろうか。調査はどうした、調査は。
ジト目で見つめていると、探偵はおかしそうにククッと喉を鳴らした。
「まあ、半分冗談だ」
「半分は本気なのね……」
「そりゃだって、愛美みたいな可愛い子とデートしたいって、男なら思うだろ」
「そ、そうかしら? 私、可愛い?」
「おう、可愛い可愛い」
自分の容姿が優れていることは自覚しているけど、織に言われると、胸がぽかぽかする。えへへ、とついだらしない笑みが漏れて、直ぐに口元を引き締めた。
半分冗談半分本気。つまり、結局のところただのデートじゃない。
ガッカリとかしてないから。
「で、本当はなにをしに行くのよ」
「魔力の痕跡を追う。魔術師とかあの化け物みたいなやつらは、魔力っていう特別な力を持ってるからな。中には巧妙に隠すやつもいるけど、基本的には魔術師ならそれを感知できる」
「化け物が残した手がかりを探す、ってこと?」
「そういうことだ。でも、探すというよりも確認しに行くって感じだな。どこにあるのかはもう分かってるから、実際に現場を見に行くんだ」
なるほど、そうやって手がかりを繋いでいき、あの化け物にたどり着こうというわけか。なんだか一気に探偵の仕事っぽくなってきた。
ただし、ただの探偵じゃない。彼は魔術師だ。当然その仕事内容も、愛美が想像できる範囲の外にある。
行き先も聞かされないまま、織の先導で足を踏み入れたのは、商店街の裏路地だ。
横幅がそう広くない通路には、室外機や瓶ケースなどが置かれているせいで、余計に狭く感じる。
おまけに両サイドの建物が日光を遮って、夕方に差し掛かっていることもあって少し薄暗かった。
そんな裏路地を進んだ先の突き当たりには、愛美が見ても分かるレベルの異変が。
空間が歪んでいる。
そうとしか表現のしようがない光景が、そこに広がっていた。
「なに、これ……」
「これが魔力。本当なら、ここまで目に見えて分かるようには出ないんだけどな。それだけ、あの化け物がヤバいってことだ」
黒いもやのようなものが、周囲の景色を歪ませているのだ。似たような景色なら、真夏などのアスファルトで揺れる陽炎が近いか。
明らかな異常であるそれが、更に変化を見せる。黒いもやが蠢いたと思うと、自分の上半身と同じくらいの大きさを持つ、ハエのような虫に変化した。
「ひっ……」
怖い。そこで飛んでいるハエの複眼が、愛美を捉えている。あんなものに襲われたら、確実に死ぬ。
嫌な汗が背中を濡らして、全身に鳥肌が立つ。足はガタガタと震えてきた。
「下がってろよ、愛美」
けれど、視界に広がった大きな背中が、とても頼もしくて。
徐々に震えが収まってくる。大丈夫、彼が守ってくれる。昨日約束してくれたから。私は、探偵さんを信じるから。
だから、大丈夫。
必死にそう言い聞かせていると、目の前の男はなにもない場所から銃を取り出した。
銃身に龍の意匠が施された、銀色の大型拳銃。彼がシュトゥルムと呼んでいたもの。
「あんまりうちの助手を怖がらせるなよ」
低く冷え切った声が発せられるのと同時に、敵が不愉快な羽音を響かせ、こちらに迫ってくる。
対する織は、冷静に引き金を引いた。しかし銃声は鳴らず、放たれたのも鉛弾ではなく光弾だ。
敵に直撃し、一瞬怯む。
その隙を見逃さず、二発、三発と容赦なく光弾を撃ち込む織。やがて敵の動きが完全に止まり、羽音が弱々しくなった時。織の前で、二つの幾何学模様が現れた。
背中から覗き込めば、それはやがて正円に広がり、鎖を現出させて撃ち出す。
容易く絡み取った敵の体は、瞬く間に粒子となって消滅した。
「こんなもんか。意外と大したことなかったな」
「倒した、の……?」
「ああ。今のが魔物。魔物は魔力で体を構成してるから、その魔力を吸い取る魔術を使ったんだ」
「そ、そう……」
言われてもちんぷんかんぷんだけど、とにかく倒したらしい。
緊張が途切れて全身の力が抜けた。膝から崩れ落ちそうになるところを、織の腕に支えられた。
「おっと、大丈夫か?」
「ええ、大丈夫だけど……」
意外と厚い胸板に飛び込む形になってしまって、また心臓が暴れ始める。聞こえてしまわないかと不安になるほどに、距離が近い。
ていうか。魔力の痕跡を追うとのことだったけど。
「……これ、私がいる意味ある?」
「あるある。超ある」
めっちゃ首を縦に振る探偵。
そうは言われても、愛美は魔力がどうとか全然分からないし、さっきみたいな魔物と戦えるわけでもない。むしろ愛美を庇うことで、織の負担が増えているだけにしか思えないのだけど。
「いいか、愛美。これは大事なことなんだけどな」
突然真剣な表情をされて、ごくりと息を飲む。そんな顔急にされても、カッコいいだけなんだけど……でも、そこまでの役割を自分が求められるかもしれないということだ。
それは一体どのようなものか。いや、どんなものでも引き受けると言ったのは、愛美自身だ。
さあなんでも来い、と息巻いていたら。
「男は単純な生き物だから、可愛い子が近くにいてくれたら頑張れる。つまり、お前がいてくれることで、俺はいつもより強くなれるってことだ」
「……馬鹿じゃないの?」
いや馬鹿だ。間違いなくこいつは馬鹿だ。しかも一番タチの悪い、緋桜と同じタイプの馬鹿。
そうやって軽薄そうな言葉をペラペラと並べて、本心は押し隠す。
彼がどんな感情を隠しているのかは分からないけど。そんな、貼り付けたような言葉。
同じタイプの馬鹿である緋桜と、三年以上も付き合いがあるのだ。愛美に見抜けないわけがない。
でも、多分。その秘されたところまで踏み込む資格が、今の私にはないだろうから。
「探偵さん、実は女たらしなんじゃないでしょうね」
「んなわけあるか。俺は結構一途な方だぞ」
「どうだか」
「あ、信じてないな」
だから私も、今は一緒に馬鹿になろう。
いつか、彼の本心にまで触れられるように、と願いながら。
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