助手、爆誕

第7話

「本当にもうっ! 父さんはっ!」

「いだだだだ!!!」

「私に黙ってた挙句、母さんにもバレるし巻き込むし!」

「ぎ、ギブギブ! ごめんなさい!」


 愛美を屋敷に送った後。

 事務所の二階。畳の上で娘から関節技を極められる織は、あまりの痛みに十秒と持たず降参宣言。


 普通に関節極められてるのもだけど、なによりも筋肉痛がヤバい。どれくらいヤバいってマジヤバい。ヤバいとしか言いようがないレベルで。

 一ヶ月ぶりの実戦。それだけならまだ良かったのだが、校舎内での逃走劇の最中、手段を選ばなかったのが悪かった。


 概念強化なんてものを使ってしまえば、そりゃかなりキツめの筋肉痛に襲われて当然である。


 開発者の愛美ですら、ついぞ反動の完全な克服は叶わなかった。朱音であっても、時界制御に用いる概念強化には、大きな反動がついて回る。

 いわんや、本来の使用者ではない織が使ったところで、と言う話だ。


 関節と筋肉の痛みで目尻に涙を溜めた織は、申し訳なさも相まって顔を上げられず、畳の上でうつ伏せになる。


「それで、これからどうするつもりだ?」


 十五センチのミニチュアサイズに戻った灰色の吸血鬼が、同じくらいの長さの槍で太もものあたりをチクチクしてくる。

 先端は尖っていないが、普通に筋肉痛が刺激されて痛いのでやめて欲しい。


 そのサイズに戻ってしまったのは、曰く省エネのためだとか。吸血鬼である以上、グレイも魔物の一種だ。魔物は魔力が生命線であり、今のこの新世界ではあまりにも不都合が多い。


 ていうか、元の姿に戻られると、部屋が狭くなるし。


「まずは転生者云々のあたりを整理したい。朱音、明日登校したら、その加茂先生ってのを見てきてくれ」

「うん。丁度入部届も出さないとだし」

「部活に入るのか?」

「天文部だよ! 翠と明子と一緒!」


 嬉しそうに言う朱音を見て、織も口元が綻ぶ。どうやら、学校自体は楽しめてそうだ。でも問題は、朱音に変な虫が寄り付かないからどうかである。

 こんなに可愛いのだから、初日ですでに四、五人の男子生徒を落として来たと見てもいいだろう。思春期の男子、とりわけ中学生なんてのは、好きな相手に構ってもらいたいがためだけに妙なちょっかいをかける輩である。多分に偏見が含まれているが、間違いではないはずだ。

 なにせあの歳の男子は、勘違いすることにおいて右に出る者がいないのだから。


「いいか朱音。なにか変なことしてくる男子がいたら、すぐ俺に言うんだぞ」

「うん? うん、別にそんな人いないと思うけど」


 母親から恋愛ポンコツスキルを受け継いでしまった朱音だ。仮にあからさまな好意を見せてる男子がいたとしても、この様子では気づくこともなさそう。

 まだ見ぬ男子生徒くんに心の中で合掌していると、呆れたようなため息と共に、また足をチクチクとされた。


「おい探偵、過保護なのは結構だが、話を逸らすな」

「悪い悪い。とにかく、転生者の方は様子見にしよう。さっきも結局、あれだけの騒動があっても姿を見せなかったんだ。赤き龍とは全く関係ないって可能性も出てきた」

「で、その赤き龍については?」


 朱音の言葉に、二人の視線がミニチュア吸血鬼へ向けられる。

 グレイは頤に手を当てて、考えを纏めながら説明を始めた。


「最初に断っておくが、やつの情報全てを閲覧できたわけではない。赤き龍は元々、異世界の存在。今ではアダム・グレイスやイブ・バレンタインと同じ、枠外の存在だからな」

「分かってる。視えたことだけでいいから、教えてくれ」

「まず、これは以前にも説明したが、やつは完全に復活したわけではない。これは旧世界での封印も影響しているのだろうが、やつには心臓が足りていないのだ」


 市立中学の校庭でも、グレイはそのことに言及していた。

 旧世界で施された封印。学院本部の、更に下層に広がっていた迷宮。

 魔王の心臓ラビリンス


「そもそも、あいつは赤き龍の本体ってことでいいのか?」

「いや、それも違う。あの姿は、やつの持つ端末程度でしかないだろう。本体はドラグニア側にいるはずだ。その辺りは、剣崎龍とルージュ・クラウンの報告待ちだな」


 今日起きた出来事は、既に他の仲間たちにも連絡済みだ。転生者の二人に、織の両親。黒霧の二人や一徹には、凪から話が行ってるだろう。

 そのうち、龍とルークの二人には、ドラグニアに渡って赤き龍についての調査を頼んだ。

 位相の扉が閉じている今、この世界に現れたと言うことは。あちらの世界でなにかしら異変が起きているはずだから。


「さて、肝心なのは、やつが持つ力だ」


 アダムの持つ『破壊』や、イブの『束縛』など。枠外の存在には、それ相応の力がある。あるいは、体質と言ってもいい。

 人が呼吸をするように、当たり前のものとして。彼らはその体質を振り撒く。


 彼らと同じ存在に片足を突っ込んでいる蒼であっても、『魔術』という体質を持つ。

 いや、彼の場合は体質と呼ぶには、いささか違和感が残るが。


 ともあれ、赤き龍にも似たような力、体質はあるはずだ。

 果たしてそれは、どのようなものなのか。


「やつが持つのは、『変革』の力だ」

「変革……?」

「なにかを変えて、新しくするってことか?」


 言われても、パッと想像できるようなものではない。破壊や束縛のように、その単語自体が物理的な意味を含んでいないからだ。


 情報操作の異能、その一端である情報の変換のようなことが可能なのか。しかし、わさわざ変革という言葉を使う以上、別のものであると考えた方がいい。


「いいか貴様ら、力の規模を見誤るなよ。アダム・グレイスの『破壊』やイブ・バレンタインの『束縛』とはどのようなものか、忘れたわけではあるまい」

「世界そのものに、強制的に影響を与える体質、か」


 アダムが、これまで渡り歩いてきた世界を、悉く壊してしまったように。

 あるいはイブが、世界そのものを束縛して自分のものとし、停滞を齎したように。


 本人の意思に関わらず、それらの影響を与えてしまう。世界という枠では収まり切らない、収めることが出来ない。

 赤き龍は、それと同じ存在なのだ。


「世界に変革を齎した、ってことになるの?」

「だろうな。それがいいものなのか、悪いものなのかはさておいて、だけど」


 シルヴィアの言葉を記憶の中から掘り起こす。赤き龍とは、あの世界における創世の伝説に登場した存在。異世界の友人はそう言っていた。


 今ある龍と魔導の世界が形作られるように、変革を齎した。それだけなら、恐らくは枠外の存在になんてならない。

 ならば原因はどこにあるのか。


 変革。

 全く新しいものへ変えること。


 ああ、聞き覚えのある、この身でよく味わったものじゃないか。


「幻想魔眼……こいつの大元が、赤き龍にあったってことかよ……」

「そう考えるのが妥当だろうな」


 旧世界を全く新しい法則で塗り潰し、今の新世界が形作られている。


 それも変革に違いない。


 思えば、旧世界で残っていた謎の一つでもあったのだ。

 キリの人間が位相を開いたのはいい。位相の向こう側から齎された、世界で最初の異能だということも頷ける。ならばそこから現れた幻想魔眼とは、果たしてどこから出てきたものだ?

 超常の力が存在しない当時において、本当にキリの人間が願っただけで、位相の扉が開いたのか? 他の誰かが、意図的に扉を開いたとは考えられないか?


「くそッ、結局全部繋がってやがるのかよ」

「我々キリの人間が、旧世界でやり残した仕事だな。幻想魔眼の出どころに関しては、私も意識が回っていなかった」


 赤き龍なんて枠外の存在が、封印されていたとはいえ旧世界にいたことも。

 魔術や異能といった、超常の力が齎された遥か太古のことも。

 全て、辻褄が合う。だからやつは、幻想魔眼と賢者の石を欲していた。かつて己の力の一端であったそれを。自身の心臓よりも優先して。


「なんにせよ、今のままでは手の打ちようがない。逃してしまった端末がどこに行ったのか、まずはその捜索からだな」

「お前が逃さなかったら、あの場で終わってたはずなんだけどね」


 チクリと刺すような朱音の言葉に、グレイは肩を竦めるだけ。


 しかし、グレイの言う通りだ。まずはやつを見つけ出すことから。その後確実に排除して、ドラグニアで起きているだろう異変の解決、その協力へ向かう。


「それから、やつが現れたことによる影響も考えておけ」

「ていうと?」

「そうだな……例えば、旧世界での記憶を取り戻したやつがいるかもしれんぞ」


 なにを馬鹿なことを、と一笑に伏そうと思ったのだが。グレイの表情は至って真剣。


「やつの力が幻想魔眼の大元であるなら、その魔眼で捨てられた旧世界の記憶が、どこかの誰かに蘇ってもおかしくはなかろう」

「でも、それだと変革ってのと真逆にならないか?」


 全く新しいなにかへ変える。

 それが変革という言葉の意味。しかし、記憶が戻るということは、変わる前の古い状態に戻ってしまうということ。矛盾している。


「そうとも限らん。今のこの世界と、旧世界。どちらの記憶も持っている状態自体は、新しいと言えるだろう?」

「言葉遊びじゃねぇか」

「魔術や異能の解釈など、所詮はその程度のものだよ」


 その辺りは、名前による影響などが分かりやすいか。

 織の持っているシュトゥルムでもそうだ。

 桐生と輝龍。読みが同じだからこそ、織は異世界の友人から貰い受けた力を、100%以上に発揮できている。


「とはいえ、なにも記憶だけではない。我々は魔導収束があるからまだしも、やつの使った魔力は、この世界に拡散してしまった。注意すべきはこちらだろうな」


 この新世界にも、魔力という存在、概念が、明確に現出してしまった。

 織たちのように、使ったそばから魔導収束で回収することもなく。やつの使った魔力は、この世界に漂い、確実になにかしらの影響を与える。

 分かりやすい例を挙げるなら、魔物の出現などの可能性か。


 しかし生憎と、その心配には及ばない。


「なんのための幻想魔眼だと思ってんだ。その辺は、さっきのうちに対策済みだ」


 世界を書き換える、新しい法則で塗りつぶす。赤き龍の変革の一端。

 それらのインパクトで忘れがちだが、不可能を可能に変える力こそ、織がこれまで頼ってきた最大の武器だ。

 思いついた可能性は、すでに潰している。


「ならいいのだがな。しかし、記憶のことだけは頭に入れておけよ。この世界は、貴様ら二人が中心となって構築されたものだ。旧世界のことを思い出すなら、貴様らの周りにいる誰かだろうよ」


 果たしてそれは、喜ばしいことなのか。あるいは、望まないことなのか。

 今の織には、その判断ができそうになかった。



 ◆



 自分も卒業生である市立中学。

 そこで起こった、まるで現実離れした出来事から、一夜が明けた。


 いつも通り起きて、朝ご飯を食べて、学校の支度をしてから登校。

 その間ずっと、昨日の光景が目に焼き付いて離れない。


 およそヒトとは呼べない化け物が現れたり、人間ではあり得ない速度を、人一人抱えたまま走ったり、空を飛んだり。挙げ句の果てにはビーム出したり。

 夢かと疑いたくなるようなその全てが、紛れもなく現実だ。


 何度も抱き寄せられた時に感じた熱が、夢であるはずもない。


 あんな風に、男の人に抱きしめられたのは、初めてだった。

 いくつもの夢のような光景の中で、その事実が一際強烈に、愛美の中で残っている。思い出しただけでも顔から火が出てきそうだ。

 自分は結構少女趣味というか、桃が言うところの乙女思考回路の持ち主ではあるけど。まさかまさか、昨日のあの出来事の中で一番印象に残るのがそれとは、愛美自身ですら思いもしなかった。


 もっと他にあるだろう、と思わざるを得ない。だって空飛んだし、でも飛んでる時はお姫様抱っこされてたし。なんか槍みたいなのが雨のように降ってきてたし、でもその時は思いっきり抱きしめられてたし。


 ダメだ、どこをどう回想しても、あの探偵の腕の中にいる。


 学校に着いてからも、廊下で同級生や慕ってくれてる後輩、教師たちに挨拶を交わしながらも、教室について自分の席に座ってからも、ずっと昨日のことを考えてしまう。


 ていうかそもそも、彼は年頃の女の子に対してあんな真似をするということに、もう少し思うところはないのだろうか。

 具体的に何歳か聞いたわけではないが、どう考えても同年代。一つか二つ程度しか変わらないだろう。その上で愛美は、自分の容姿が優れていることに自覚的だ。

 だからもう少し、それ相応の反応を見せてくれても良かったと思うのだけど。


 残念なことに、彼に抱かれた腕の中から見上げた顔は、なんとも思っていなさそうだった。というより、そちらに構っている暇はない、といった感じだったか。

 意外と凛々しくて、頼もしく見えて、カッコよくて……。


「愛美ちゃんおはよー」


 聞こえてきた眠たげな声に、思考が強制中断された。そちらを見やれば、欠伸を隠すこともせず大きく口を開き、一応手で隠している親友が。

 相変わらず、朝は弱いらしい。


「おはよう、桃。昨日はどうだった?」

「別になんともなかったけど。ていうか、相手は緋桜なんだし、何かある方がおかしいでしょ」

「あら、緋桜のことだなんて、一言も言ってないけど。その様子だと、ちゃんとデートだって自覚はあったのね」

「べべべ別にデートとかじゃないし⁉︎」


 眠たそうな顔が一転、急に慌てて否定する。頬には少し朱が差していた。


「あいつが言うから仕方なく帰りにちょっと待ち合わせて、近くのクレープ屋行って、服買うのに付き合わせただけだもん。デートじゃないもん」


 人はそれをデートというのだが、素直じゃない親友は中々認めない。

 そもそも、普段から適当に女性を口説いてはのらりくらり飄々と面倒ごとを躱している緋桜が、一人の女子に対して三年以上も、自分から関わりを持っているのだから。

 結果は見えているようなものだと思うが。


「ま、あんたがそう言うならそれでいいけどね。ぐずぐずしてると、何処の馬の骨とも知れない女に取られるわよ」

「え、いやそんなこと……」

「あんたも葵から聞いてるでしょ? 緋桜、ああ見えて大学では人気だって。サーニャの研究室でも、女性からは結構気に入られてるみたいだし」

「……どうしよ」


 なにせ見てくれはいいのだから、華の女子大生が放っておくわけない。歳下の桃より、同じ歳で同じ大学の方が、アドバンテージは大きいだろう。

 彼にも彼の生活があって、自分たちの知らない交友関係も築いているはずだ。


「手遅れになっても、まあ、愚痴くらいは聞いてあげるわよ」

「なんで諦めてるのさ! そこは親友を応援するところでしょ!」


 なんだかんだで、自分の恋心を認めていることに、果たして桃は気づいているのか。

 いや、後から気づいたとしても、愛美が相手だから別にいいや、で済ますのだろうけど。


 愛美の隣、自分の席に腰を下ろし、桃はどうしようどうしようと呟きながら、頭を抱えている。


 そうやって、普通の女の子みたいに恋に悩む桃が、どうしてか突然、とても尊いものに思えて。


 なるほど、これがエモいというやつか、と一人納得する。


「ところで、愛美ちゃんこそどうなの?」

「なにが」

「織くんのところ、昨日も行ったんでしょ」

「あー、そのことね」


 なんと説明したらいいか分からず、曖昧な返事になってしまった。

 昨日起きた出来事を説明したとして。まあ、十中八九信じてくれない。


 魔法や超能力なんて、所詮はフィクションの中の存在だ。アニメや漫画に出てくるだけで、現実にあり得るはずがないのだから。

 それが一般常識。

 けれど昨日の出来事は、そんな常識を覆してしまうもの。


 愛美の曖昧な返事を邪推したのか、桃は見当違いな方向に想像を巡らせていた。


「やっぱり、愛美ちゃんは一目惚れとかしちゃうタイプだよねぇ」

「ちょっと、違うから。変な想像しないでくれるかしら」

「愛美ちゃんにお眼鏡に叶う人が今までいなかっただけで、一度落ちちゃったら一直線。大丈夫、わたしは応援するよ!」

「ねえ、話聞きなさいよ。違うって言ってるでしょ殴るわよ」

「ぼうりょくはんたーい!」


 別に一目惚れとかじゃないし。たしかに昨日の探偵さんはカッコよかったけど、惚れたとかじゃないし。違うし。


 きゃいきゃいひとりではしゃいでる親友は、すでに聞く耳持たず。

 内心で何度も否定を繰り返す愛美は、しかし裏腹に、彼の凛々しい顔が頭の中から消えてくれなかった。



 ◆



 学校が終わり、生徒会も今日は休みにして、桃に盛大に冷やかされながらも、愛美はひとりで桐生探偵事務所まで急いだ。


 聞きたいことが沢山ある。彼らの正体、昨日起きたこと、あの化け物について。

 それら全てを教えてくれるとは思わないけど、それで、少しでも知りたい。

 桐生織という男のことを。


 昨日のことがあったにしても、どうして彼のことがこんなに気になるのか、知りたいと思うのか、自分ですら分からない。

 思えば、彼と知り合ってからずっとそうだった気がする。


 最初は、胡散臭くてイマイチ信じられない探偵の、その化けの皮を剥いでやりたかった。けれど、彼は根っからの善人だと分かって、信頼できる人物だと感じて、これから仲良くしていこうと思っていた矢先の、昨日の出来事。

 好奇心にも似た何かは、余計に募るばかりだ。


 やがてたどり着いた事務所の前で、一度足を止める。深呼吸をひとつ。


 これから私は、私自身の意思で、非日常へと足を踏み出す。

 多分、知ってしまったら最後、元の日常へと完全に戻ることはできないだろう。今ならまだ、引き返せる。なにも知らなかったフリをして、探偵さんとも、今までと同じように接して。


 それは嫌だ。

 あの光景を見てしまった以上。ほんの少しでも、関わってしまった以上。桐原愛美の持つ正しさは、ここで引き返すことを良しとしない。

 出来ることなら、彼の力になりたい。


 そんな覚悟を胸に秘めて、事務所の扉を開く。


「こんにちは」

「いらっしゃい、待ってたぜ」


 中にいた織は、自分のデスクに腰掛けて、なにやら書類にペンを走らせていた。

 仕事に関係するものだろう。ちょっと待っててくれ、と言われ、取り敢えずいつも通り、来客用らしいソファに腰掛ける。

 ここに自分や桃以外が座ってるところなんて見たことないが、どうやらちゃんと依頼は来てるらしい。


 五分もしないうちにペンの走る音が止まり、織は立ち上がってお茶を淹れてくれた。礼を言ってカップを受け取り、彼が対面のソファに座る。


 昨日見た凛々しい顔とは違う、人の良い笑顔。それをなぜだか直視できなくて、愛美は両手で持ったカップの水面に視線を下ろした。


「来てくれてよかった。一日経って、会いたくないなんて思われてもおかしくないって思ってたからな」

「そんなわけないでしょ……巻き込まれた以上、私は全部知るまで帰らないわよ」

「だろうな」


 苦笑を浮かべる彼は、どうにもこちらのことを見透かしているように思えて、居心地が悪くなる。


 さて、どうやって切り出すべきか。

 今更ながら襲ってきた緊張が喉を渇かし、紅茶で潤してから、意を決して口を開いた。


「……昨日の、あの化け物はなんなの?」

「俺たちの敵、だな。世界の平和を脅かす、悪い連中だ」


 戯けたように言うその言葉は、まるで冗談にしか聞こえない。

 けれど、当事者のひとりとなってしまった愛美には、わかる。断じて冗談などではないのだと。


「だったら、あなたは、なに? あんな風に速く走って空を飛んで、瞬間移動して、ビームも出して。本当に人間?」

「そこを疑われるのは、ちょっと傷つくな」

「しょうがないじゃない」


 あの化け物の仲間だと言われた方が、よっぽど納得できる。だって、普通の人間にはあんな真似できないのだから。


「あれは全部、魔術だ」

「まじゅつ……」


 耳慣れない単語。口に馴染まない言葉。少し舌っ足らずにも思える口調は、ちゃんと発音できていたのか、自分でも怪しい。


「速く走れたのは強化魔術を足に掛けてたから。空を飛んだのは飛行魔術。瞬間移動じゃなくて空間転移。ビームじゃなくて……いや、あれはまあビームでいいか」


 いいんだ。


「まあともかく。俺たちは魔術師っていう、魔術を扱って敵と戦ったりする存在だ。もう一回見てもらった方が早いかもな」


 言って、なにもない場所から突然、大型の拳銃が織の手元に現れた。銀色に輝くそれは、銃身に龍の意匠が施されている。

 その拳銃が、突然、七つのパーツに分離して宙に浮いた。それぞれが銃口のようなものを前に向けている。これは昨日も見たし、件のビームはこいつが撃っていた。


「厳密には違うんだけど、これが魔術ってやつだ。神秘の探求、奇跡の業。それを使って、自分の目的を果たそうとする自分勝手な連中。それが魔術師だ」

「あなたや朱音も、そのうちのひとりってこと?」

「まあな」


 自分勝手な連中。そんな風には見えない。

 織は昨日、愛美のことを守ってくれた。傷つけないように、こちらの身の安全を最優先にしてくれていた。

 それくらいは、愛美だって見ていたらわかる。

 だったら。


「なら、あなたの目的って、なに?」

「……家族を守る。幸せな未来を、掴み取る。それだけだ」


 出会ってから一番、真摯で熱の籠った声。

 彼の感情が全て乗せられた言葉。


 ただそれだけで、もう一度覚悟が決まったのは、何故だろう。

 桐生織という男を信じる、その覚悟が。


「俺はそのために戦う。あの意味不明な化け物とも、同じ魔術師とも、命を賭けて」

「相手のことも、殺すのね」

「どうだろうな。生憎と、俺はまだ未熟だからさ。その覚悟が出来てても、一度だって手にかけたことがない。いつもいつも、他の誰かに手を汚させちまう」


 悲しげな笑みが漏れる。その瞳は、ここにいないどこか、誰かを見ているみたいで。

 織の存在が、急に遠くへ感じてしまう。


「もしかして、昨日中学に行ったのも、その魔術っていうのが絡んでるの?」

「ああ。加茂先生だっけか。その人に、ちょっと話を聞きたくてな。それで探してたんだが、あの化け物は完全に想定外だった」

「そう……」


 愛美の住む日常に、魔術という存在は確実に根付いていた。

 あるいは、今度は友人達が、その被害に遭うかもしれない。大切な親友や、可愛い後輩たちが。


「さて。ここまで説明しといてなんだが、出来れば愛美には、こっちに関わってほしくない。巻き込んじまった側で勝手なこと言ってるのは分かってるけど、お前には危険な目に遭ってほしくないんだ」

「お断りよ」


 自分でも思っていた以上に即答してしまって、答えた愛美自身が驚く。

 しかし、織の方はその返答が分かっていたように、微笑むだけだ。


「私には何の力もないけど。それでも、あなたの力になりたい。私が住むこの街で、誰かが傷つくかもしれないなら。ほんの少しでもいいから、あなたの手助けをしたいの」

「最悪の場合、死ぬかもしれないぞ」


 低い声で忠告され、息を呑む。

 剣呑とも言えるその雰囲気に、昨日の恐怖が思い返される。


 理解不能な暴力の塊。

 あの化け物は、そう言った災害のような類だった。過ぎ去るのを待つしかない、なんの力も持たない愛美には、なす術のない相手。

 織の言葉は脅しでもなんでもなく、単なる事実だ。


 でも、それでも。

 私の気持ちは、覚悟は、揺るがない。

 己の正しさに準じて、行動を起こす。


「その時はまた、探偵さんが守ってくれるでしょ?」


 出来る限り気丈に、挑発するように。微笑みすら見せて、目の前の男に問いかける。

 桐生織という男のことを、ほんのカケラ未満だけでも理解しているから。


「そう言われちゃ、男として断れないな」


 ふっと息が漏れて、漂っていた真剣な空気が霧散した。


 信じると決めたんだ。だから、織は絶対に私を守ってくれる。そう信じる。


「でも、約束してくれ。愛美はあくまで、俺たちの手伝い。一人で動かないこと。俺と一緒にいる時だけだ。それと、絶対他の人には俺たちのことを秘密にしといてくれ」

「ええ、分かったわ」


 これでもう、本当に引き返せない。

 私は今日この瞬間から、非日常へと足を踏み入れた。

 この街に住む誰かを、傷つけさせないため。ほんの少しでも、織の助けになるために。


 その後、現在の状況や調査について詳しいことを聞いたのだが。

 朱音が未来から来た織の娘だと聞いて、愛美は生まれてから一番驚く羽目になるのだった。

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