第6話

 事務所に帰ると、中には誰もいなかった。

 はじめての登校で、土産話は沢山あるのだ。その全部を父親に語って聞かせたかったけど、その父親が不在。


 時計を見れば、既に十九時を過ぎている。翠と明子の三人で寄り道してきたから、かなり遅くなったと思うのだけど。


「仕事かな」


 呟いて、感知魔術を街中に広げる。

 魔力を探査するための魔術だ。この街で引っかかる反応は、二つだけ。織と一徹の二人だ。


 そのうち父親の方は、なぜか朱音が通うことになった中学校の方向に反応がある。

 首を傾げつつ二階に上がると、十五センチのミニチュア吸血鬼、グレイが畳の上に立っていた。


「ようやく帰ってきたか」

「あれ、グレイだけ? 父さんは?」

「やつなら仕事だ。ルーサー、準備だけはしておけよ」


 その言葉に、朱音の表情が変わる。

 平和な世界にある少女のものから、ひとりの戦士としての顔に。


「敵は?」

「転生者だ。詳しくはそこの書類を読め」


 テーブルの上に置かれていた紙束を手に取り、サッと目を通す。

 武器商人の転生者が、この街に潜伏している。そいつを捕まえるのが依頼内容だ。そして書類に載っている写真には、今日学校で見たばかりの男性が映っていた。


「平和ボケしてたかな……」

「なんだ、もうそいつに会っているのか? なら話は早いな。なにか感じたことは?」

「具体的にはなにも。ただ、咄嗟に身構えちゃったけど、私の勘違いだと思ってた」

「ふむ、本当に平和ボケしているらしいな。いや、本来なら貴様のそれは、喜ぶべきことなのだろうが」


 顎に手を当てて、なにやら思案している吸血鬼。

 朱音本人としては、断じて喜ぶべきことだとは思わない。しかし、織やグレイにとっては違うのだろう。


 この平和な世界で、一生を過ごす。

 そのために、朱音が今まで持っていた価値観や倫理観は、全て不必要なものだ。


 本当に、戦いがもうひとつもないのであれば、の話だが。


「桐原愛美の話と照会すれば、いくらか不自然な点が見つかった。恐らくだが、転生者はこの教師とすり替わっているのだろう」


 つまり、本物の加茂先生は、既に死んでいる。舌打ちをひとつ。先手を取られた。

 いや、もしかしたら朱音たちがこの世界で暮らすようになる、もっと前からすり替わっていたかもしれないけど。


「父さんが中学に向かってるのはそういうことか……それにしても、なんでグレイだけ戻ってきたの?」

「貴様に説明させるためだろうさ。私が自分で戻ってきたわけではない。探偵が勝手に私を戻したのさ」

「となると、私たちは別働隊だね」


 どちらにしても、今回の件は魔術か異能の存在がチラつく。本来なら有り得ないことなのだが、もしも赤き龍とやらの影響が既に及んでいるのなら。


 肝心なのは情報だ。

 それをより多く得るためにも、赤き龍について詳しい人に、話を聞かなければならない。


「私はドラグニアに行くけど、グレイはどうする?」

「同行しよう。貴様になにかあれば、探偵に合わせる顔がないのでな」


 そんなもの最初からないだろう。

 内心で呟きつつ、朱音は異世界への鍵を取り出した。自分のやることを果たすべく、ドラグニアへ向かおうとして。


 全身にのし掛かる、重たい圧を感じた。


「なに、これ……魔力反応……? しかも中学の方から……」

「行くぞルーサー。どうやら、我々が思っているよりも状況は深刻のようだ」

「言われなくても」


 ミニチュア吸血鬼を雑に掴んで、朱音は父がいるはずの市立中学へと転移した。



 ◆



 時刻はそろそろ十九時と言ったところ。空には薄い青が広がり、徐々に夜の景色へと移り変わる中。

 桐生織は、愛美の案内の元、娘が通うことになった市立中学に足を運んでいた。


 校庭を通り過ぎ、事務室で警備員さんに一声かけ、校舎の中へ足を踏み入れる。


「夜の校舎って、ちょっとワクワクするわよね」

「しねえよ。むしろちょっと怖いだろ」

「そう? どうせ幽霊なんてものは出ないんだし、普段夜の校舎なんて来ないんだから、非日常感があっていいじゃない」


 愛美の言う通り、幽霊なんてものはもうこの世界に存在しないが、それでも暗がりというのは人に恐怖を与えるものだ。

 数々の戦いを乗り越えてきた織ですら、ちょっと怖い。


「つーか、廊下は灯りついてるし、昼とあんま変わんないんじゃね?」

「それが逆に不気味なんじゃない。ほら、いきなり電気が消えたりとかしたら、一気にホラーっぽくなるでしょ」


 なんて言い合っていた直後だった。

 天井の蛍光灯が突然、ジジッ、と小さな音だけを残し、光を消したのだ。


 二人の立っている場所だけじゃない。校舎中の電気が、軒並み消えていた。

 誰かが意図的に電源を落としたとか、そう言う類の消え方ではなかった。


「え、ちょっと、ほんとに消えちゃうの?」

「愛美、俺から離れるなよ」


 電気が消えただけじゃない。

 それよりももっと、警戒すべき反応を捉えた。魔力だ。


 あり得ないと頭の中で否定を繰り返すが、この感覚は忘れるはずもない。

 いくつもの戦場を経験して来た時の、あの独特の緊張感が、一ヶ月ぶりに織の身を襲っていた。


 他方で愛美は、一転して真剣な、剣呑とも取れる声と表情に変わった織に、戸惑うばかり。


「ちょっと大袈裟すぎない? 電気が消えただけじゃない」

「いいから、絶対俺から離れるな。わかったな?」

「は、はい……」


 なんで敬語になっちゃうんだよ可愛いな。

 そんなことを考えられる辺り、織自身にまだ余裕がある証拠だ。


 さて、これからどうするか。先に進みたい所ではあるが、愛美がいる。引き返す方がいいだろう。

 彼女の前では、あまり派手な魔術を使えない。使えても強化くらいか。何もないところからシュトゥルムや徹心秋水を取り出すわけにもいかず、かなり行動が制限される。


「とりあえず、今日は帰るぞ」

「いいの?」

「ああ。話を聞きに行くくらいなら、いつでも出来る。お前がいなくても、朱音に頼めばいい話だからな」


 とにかく、今は愛美の安全が最優先。

 瞳を橙色に輝かせ、直近の未来を覗こうとした、その瞬間。


「……っ! 愛美!」

「きゃっ!」


 咄嗟に傍の華奢な体を抱き寄せる。次いで、愛美が立っていた場所に、高速でなにかが飛来する風切り音が。魔力弾だ。


 発射位置は正面。オレンジに染めた瞳で睨むと、暗闇の中から影が現れた。


「魔物、なわけないよな……なんだこいつ……?」

「ね、ねえ! 何が起きてるの⁉︎」


 腕に抱いた愛美の声は無視して、月明かりで全貌が露わになった影を観察する。


 二足歩行。人型の形状ではあるもの、それは決してヒトと呼べない。二メートルはあろう体躯は真紅に染まり、足が長く胴が短い。背中には体を覆うほどに巨大な、一対の翼。


 旧世界でも見たことのない、魔物と呼ぶにはあまりにも異質な存在。

 比較対象が自分しかいないから気づかなかったが、その魔力の量も質も、感じたことのないものだ。


 言うなれば。

 台風や地震などの、災害に直面してしまったような。


 ただ過ぎ去るのを待つしかないほどに、単純で純粋な、暴力と絶望の塊。


「逃げるぞ」

『■■■■』


 手段は選んでいられない。

 転移の魔法陣を起動させるが、やつがなにか声を発したと思えば、術式ごと砕け散った。


「……っ」


 驚く織だが、次の行動は早い。

 全身に概念強化を全力で掛け、愛美の体を抱き上げて廊下を走る。

 風よりも、音よりも早く駆け抜けるその背中を、やつは当たり前のように追って来ていた。


「ねえ探偵さん! なんなのあれは⁉︎」

「黙ってろ舌噛むぞ!」


 愛美の体は魔力で守ってるため、この速度でも体に支障はないだろうが。これ以上の速度はキツい。

 やがて背後から魔力弾がいくつも放たれ、それらを躱しながら校舎内を走る。角を曲がり、階段を登って、迫る凶弾から愛美を庇いながら。

 ガラスや壁がいくつも破壊され、そのうちの一つ、穴の空いた壁から外へ飛び出た。


「ちょっ、ここ四階なんだけど!」

「大丈夫だ! シュトゥルム!」


 腕の中から上がる悲鳴じみた声。

 当然のように二人の体は空中を飛び、織の周囲に出現した七つの遠隔誘導砲塔が、追って来た敵へ光線を放った。


 煙が巻き上がり、敵の姿が見えなくなる。今のうちにゆっくりと校庭へ着地するが、腕から下ろした愛美の表情は愕然としたものだ。


 まあ、当たり前か。

 明らかに異質な存在を目の前にして、物理法則を容易く無視した動きを経験したのだ。

 今の愛美は、魔術や異能の存在なんて知らない。本当にただの一般人なのだから。


「悪い、こっちの事情に巻き込んじまった」

「別にいいけど……説明してくれるんでしょうね?」

「それは……」


 ここまで来たら、もう手遅れ。なにも説明しないわけにはいかないだろう。

 これは織の落ち度だ。決して愛美たちを巻き込むまいと思っていたのに、こうも簡単に魔術の存在を知られてしまった。


 なにも教えなかったら、愛美は潔く身を引いてくれるだろうか。

 あり得ないな、と内心で首を横に振る。知り合いが危険な目に遭っているなら、どうにかして力になろうとする。


 桐原愛美とは、そういう少女だから。

 世界が変わっても、彼女の優しさと正しさは、なにも損なわれていない。


『■■ァ■……た■■い■ん■■』


 ノイズ混じりの声が、二人の耳に届いた。

 校庭に降り立った敵は攻撃してくることもなく、表情を変えることもなく。織のことを見つめている。


『あ、あ、あ。ようやく、この世界の言語に馴染んできた。久しぶりだな、探偵賢者』


 ノイズが完全に取り払われ、低く唸るような声が響く。傍に立つ愛美の体は、恐怖で震えていた。


 異質。正体不明。理解の外。

 そう言ったものは、人に根源的な恐怖を与える。

 目の前に立つ敵も、その例に漏れない。


「生憎、お前に会った記憶なんて俺にはないな。人違いじゃないか?」

『バカを言うな。その力、貴様以外が持っているはずもない。我が心臓で使ってみせただろう』


 嫌な予想が当たり、舌打ちを一つ。


 旧世界において、大英博物館の地下に広がる魔術学院本部の、更に下層。そこには広大な迷宮が広がっていた。

 その名を、魔王の心臓ラビリンスという。


 魔術世界での名前とは、とても大きな意味を持つ。

 あの迷宮の最下層に封印されていた存在は、まさしく魔王そのものだったのだろう。ドラグニア世界では赤き龍の名で伝説に残り、アダム・グレイスやイブ・バレンタインなどと同じ、枠外の存在。

 詳しい原理は省くが、魔王の心臓の名を与えることで、封印をより強固なものにしていた。しかし逆に、その名を与えることによる影響もあった。

 あの迷宮自体が、その名前と全く同じものになっていたのだ。


 だからあそこは、迷宮であると同時に、やつの心臓の内部でもあった。


「それで、この世界に何の用があるんだ? ここに魔力はない。お前が求めてるものは、なにもないんだ」

『何を言う、そこにあるではないか。有象無象の魔力などより、よほど価値のあるものが、二つ』

「……幻想魔眼と、賢者の石か」


 赤き龍がこの世界にいるとすれば、目的なんてその二つしかない。

 となれば、やつの狙いは自分か朱音だけ。あるいは、凪を狙うかもしれないが、彼は賢者の石を持っていない。


 愛美たちかつての仲間は、狙われない。それだけが唯一の救い。


 周囲に分離したシュトゥルムを漂わせたまま、手元に刀を取り出す。本来なら、背後で震えている少女の得物。徹心秋水。


 愛美を安全な場所まで逃したいが、こいつを放置するわけにもいかなくなった。

 転移は謎の力で邪魔をされる。なら、愛美を庇いつつ戦って、ここで倒す。


『無駄なことはやめた方がいい』

「そう言われてやめると思ってんのか」

『ならば仕方ない。その力、ここで早々に頂くとしよう』


 腰を低く落とした敵が、大地を蹴る。

 対して織は、居合の構えのままで動かない。分離したシュトゥルムを動かすこともせず、ただジッと構えているだけ。


 ついに敵が目の前まで肉薄して来た、その時。


「残念、望み通りの未来だよ、クソ野郎」


 銀色の炎を帯びた赤黒い槍が、敵の胸を貫いた。血が噴き出して、織のジャケットを汚す。それに構うこともなく、刀を鞘から抜き放った。


 居合一閃。

 かつて愛美が持っていた、亡裏の『拒絶』による切断能力。その力が込められた一刀は、敵の体を容易く両断する。


「気を抜くなよ、探偵!」


 上空からの声に振り返れば、そこには本来の姿を取り戻した灰色の吸血鬼、グレイの姿が。隣では凄い嫌そうな顔をした朱音が、グレイの槍に銀炎を纏わせる作業を、黙々とこなしている。


 それらの槍が全て、体を真っ二つにされた敵へと、爆撃のように落とされた。

 近くには織と愛美もまだいるのにだ。


 急いで愛美を抱えて離脱。文句を言ってやろうと思ったのだが、槍の着弾地点からより一層強大な魔力を感じ取り、そちらに注意を向ける。


 舞い上がった砂埃の中から、完全に再生した赤き龍が現れた。


『灰色の吸血鬼まで出て来たとなれば、こちらが不利か』

「無様な姿だな、赤き龍。不完全な復活の代償か?」

『幻想魔眼と賢者の石を手に入れれば、本来の力を取り戻せる』

「バカを言え。貴様が真に欲しているのは、己の心臓だろう」


 情報操作の異能。その副作用による、情報の可視化。グレイはその力で、やつの情報を全て閲覧したのだろう。


 復活が不完全であることは、織も聞いていた。そのために幻想魔眼と賢者の石を求めているのだと思っていたが、そのどちらも必要としていない、ということか?


 情報と状況が混沌としてきた。そもそも、本来の目的だった転生者はどこに行ったのか。それすら把握していない。


『吸血鬼、ここはひとつ、取引をしないか』

「なに?」

『幻想魔眼と賢者の石。その二つを差し出せ。旧世界を滅ぼそうとした貴様の願い、叶えてやろう』


 ああ、これは不味いな。

 思わずため息が漏れてしまった。グレイの隣では、朱音が失笑を漏らしている。


 旧世界で深い因縁を持ち、最後の戦いでその想いに触れたからこそ、織と朱音の二人には分かる。

 あいつは、特大の地雷を踏み抜いたのだと。


「なにを言うかと思えば……ククッ、ハハハハハハ!!! このに、今のこの世界を捨てろと! 貴様はそう言うか、赤き龍!」

『当然の提案をしたまでだが』

「お断りだよ、クソ野郎ッ!」


 吸血鬼の周囲に待機していた、銀炎を纏う赤黒い槍。その全てが、同じ色の魔剣へと姿を変える。


 グレイが持つ最強の手札。人の生き血を無限に啜る、伝説の魔剣。

 それらがひとつの巨大な剣へと収斂し、情け容赦なく振り下ろされた。


 撒き散らされる魔力と衝撃。愛美の体を胸に抱いて庇い、次にそこを見た時には、敵の姿はもうなかった。

 吸血鬼が舌打ちしている辺り、手応えがなかった、逃げられたのだろう。


「おいクソ吸血鬼! こっちのこともちょっとは考えろ! てか逃してんじゃねえよ!」

「つい頭に血が上ってな。逃してしまったことは詫びよう。しかし探偵。私に構っている場合か?」

「あ」


 胸に抱いたままの愛美を見れば、その顔は真っ赤に染まっている。

 可愛い反応で大変眼福なのだが、そうも言っていられない。華奢な体はまだ震えたままで、恐怖に支配されていたから。


「悪い、愛美。大丈夫か?」

「ええ……なんとか……」


 解放してやれば、震える自分の体を抱くようにして、右の二の腕を摩っていた。


 無理もないか。

 今ここにいる愛美は、殺人姫と呼ばれた少女とは違う。当たり前に平和な日常を過ごし、命のやり取りなんてものとは程遠い場所にいたのだから。


 それを、織の失態でこちら側に巻き込んでしまった。

 こうなってしまった以上、もう無関係ではいられない。


「説明、してくれるのよね……?」

「ああ。今日起きたことは、全部」


 不安そうに揺れる瞳。普段のような強い光が消えてしまった彼女の瞳を、しっかりと見つめ返す。


 誤魔化すことは簡単だ。

 認識阻害。記憶改竄。

 織に朱音、グレイの三人なら、魔術や異能を使っていくらでもできる。


 それでも織は、この子に対してだけは、誠実でありたいと思う。

 あの世界で、どこまでも優しく正しく、自分を導いてくれた少女に対して。自分も、同じように在りたいと。


「父さん、いいの?」

「否応なしに巻き込むことになるぞ」

「今更だろ。他の誰でもない、愛美には、知る権利がある。でも、日を改めよう。今日は送るから、明日また、事務所に来てくれ。そこで俺たちのことを教える」

「……分かったわ」


 弱々しく頷いたのを見て、織は転移の術式を構築した。

 学校の修復と周囲の認識阻害は二人に任せ、愛美を伴い桐原邸まで転移する。


 一瞬で景色が変わったことに困惑している愛美だが、そんな様も新鮮で、織は思わず口元を綻ばせていた。


「一応、今日のことは他言無用で頼む」

「こんなこと、誰かに話しても信じてもらえないわよ」


 ほんの少し余裕が生まれたのか、愛美の顔には力のない笑みが浮かんだ。

 その視線を上にあげて、織もつられて星空を見上げる。


 完全に夜の闇が広がるそこには、いくつもの光源が瞬いている。いつかの日に、彼女と見上げた夜空と同じ。

 あるいは、織が助けられた、全ての運命が始まったあの日にも、同じ星が浮かんでいたのかもしれない。


「男の人に、あんなに強く抱きしめられたり、抱えられたりしたの、初めてだわ」


 ポツリと漏らされた言葉は、酷く小さなもの。たしかに織はさきほど、愛美のことを結構強めに抱きしめてたし、いわゆるお姫様抱っこ的なこともしてしまった。


 もしや嫌だったのだろうかと、今更ながら不安が過ぎる。


「あー……気に障ったなら謝る」

「いえ、そうじゃなくて……」


 なにかを言いにくそうに、口元をもにょもにょさせている。視線は斜め下に向けられていた。

 この世界でもかなり乙女なことは確認済みだから、織に抱きしめられたことを思い出して恥ずかしがっているのだろうか。

 などと、暢気に考えていたのだが。


 やがて真っ赤に染まった顔が、小さな笑みを形作る。

 濡れた瞳に捉えられて、捕らえられて。

 息が止まってしまうほど、その表情に見惚れていた。


「助けてくれて、ありがとう……かっこよかったわ」


 織の返事を待つでもなく、愛美は屋敷の中へと逃げるように駆けて行った。残されたのは、呆けたマヌケ面を晒す男が一人。


 いや、今のは反則だろ……。


 目を瞑って天を仰いでも、彼女のはにかんだ表情は、網膜に焼き付いて離れなかった。

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