第4話
桜の花は既に散り、雨を降る日が多くなってきた。少しずつ梅雨の、あるいは夏の気配が近づいてきた、5月。
「じゃあ父さん! 行ってくるね!」
朱音はいつもの魔術学院の制服ではなく、白いセーラー服に身を包んでいた。母親譲りの艶やかな黒髪には、先日の誕生日に織がプレゼントした髪飾りが。
「おう、行ってらっしゃい」
「魔力は使うなよ。銀炎などもっての外だ」
「分かってるって。グレイ、それ昨日からもう五回目なんだけど」
「貴様には何度言っても足りん」
鋭い視線で睨まれて、朱音は思わずぐっと言葉に詰まる。
実際に今日までの生活で、何か困ったことがあれば使ってしまっているから、強く言い返せない。
部屋に蚊が飛んでいたら魔力でプチッとやっちゃうし、掃除も魔力を使えば楽だし、アニメで見逃したシーンがあれば銀炎を使う。
ダメだと分かっていても、つい反射的に使っちゃうのだ。朱音は魔術のない世界なんてものとは、ほど遠い世界に生きていたから。
「私もさすがに外じゃ使わないから! もし使っちゃっても大丈夫! もう全部の術式見直して、魔導収束組み込んでるもんね!」
「そういう問題ではないのだが……サーニャの苦労が理解できたよ……」
ため息混じりの吸血鬼。サーニャに苦労をかけたことなんて……まあ、結構あるけど……でもそんなに、疲れた様な顔をするほどじゃなかったと思う。多分。
まあまあ、と肩に乗ったチビ吸血鬼を宥める父は、優しい笑顔を向けてきた。
「グレイのいうことも最もだけどな。それより、せっかく普通の学校生活なんだ。しっかり勉強して、友達作って、楽しんで来い」
「うんっ!」
今日は、朱音にとって特別な日。
5月から通うことになった、翠や明子のいる中学校。その登校初日だ。
今日までに何度も新しい制服に袖を通して、織とグレイの前で小さなファッションショーを行っていた。
あの花見の日以降も交流が続いていた翠と明子にも、今日から通うことは伝えてある。少し先の交差点で二人と待ち合わせだ。
二人にぶんぶん手を振りながら走り去った朱音。
織から学校に通ってみないかと聞かれた時は、まさか本当に通うことになるとは思わなかったけど。それも、旧世界での友人たちと同じ学校に。
時間的には急いでいるわけじゃないけど、逸る気持ちが落ち着かなくて。まだ着慣れないセーラー服を靡かせ、待ち合わせ場所の交差点まで駆ける。
短剣もハンドガンも家に置いてきた。登校するだけなら必要ないものだ。
いや、そもそも。平和なこの世界では、もう持たなくていい。
いつもより少しだけ軽い体。鼻歌を漏らしながらもたどり着いた先には、既に二人の友人の姿が。
「お待たせ、二人とも!」
「おはようございます、朱音」
「おはようですわ、朱音さん」
同じセーラー服に身を包んだ翠と明子が、笑顔で迎えてくれた。
翠は旧世界の時より、感情の起伏が分かりやすい。翠は今でこそ楚々とした態度だが、相変わらずのお転婆っぷりをすでに見てしまっている。
かつてとほんの少し違う、けれど根底の部分がなにも変わらない二人の友人と共に。
朱音は、人生初の中学校へと向かった。
◆
「桐生朱音です! よろしくお願いします!」
教壇の上で、元気に自己紹介。パチパチと拍手が上がり、教師に促された最後尾の席へと歩く。周りからの視線は吸い寄せられるように朱音へ向かっているが、それも当然だろう。
新学期が始まって一ヶ月。そんな時期に転校してきたのは、びっくりする程の美少女だ。本人にその自覚があるわけではないが、少なくとも、翠と明子はこうなるだろうことを予測していた。
朱音にとってはなにもかもが新鮮だ。
三十人近くが集められた小さな箱も、視界いっぱいに広がる黒い板も、漂う木の香りも。クラスメイトという存在も。
全てが初体験。そもそも本来なら、体験するはずもなかったことばかり。
「桐生さん、前はどこに住んでたの?」
「もしかして、新学期にすぐ転校しちゃった感じ? 大変だねー」
「髪の毛凄くきれー! どうやって手入れしてるの⁉︎」
「こんなに可愛いんだから、前の学校ではさぞやモテたでしようなぁ」
「えっと……」
だから、こんな風に沢山の人たちから詰め寄られると、困惑が勝ってしまう。
一気に質問され、どれから答えればいいのかと迷う。しかも、馬鹿正直に答えるわけにはいかない質問ばかり。
朱音はずっとこの街に住んでたが、それは旧世界の話だし。転校も何も、学校自体が今日初めてだし。髪の手入れは魔術でチョチョイとやってたし。人の恋愛は好きだけど、自分はまだそんな経験ない、と思うし。
朱音を中心にして集まった彼女らは、自分勝手に話を盛り上げていく。座ったままの男子たちも、美少女転校生に目を奪われているのか。クラス中が朱音に夢中だ。
こんな形で注目されることは慣れていなくて、なんだか少し恥ずかしくなってきた。
「はいはい、皆さん落ち着きなさいまし。朱音さんが困っていますわ」
「もうすぐ一時間目が始まります。準備を始めた方がいいのでは?」
さすがに見兼ねたのか、翠と明子が助け舟を出してくれた。二人に言われ、クラスメイトたちはそれぞれの席へ散っていく。
「ありがとう、翠、明子」
「いえ、礼には及びません」
「そうですわ。友人が困っていたら助けるのは、当然のことですのよ」
友人。その言葉を、この世界でも再び聞くことができた。この二人と、もう一度友人になることができた。
一ヶ月が経った今でも、その事実が嬉しくて。朱音はくすぐったそうにはにかむ。
「……少しマズいかもしれませんわね」
「ええ、これは注意しておかなければ」
「なにが?」
目の前の二人が突然変なことを言い出して、朱音は小首を傾げる。今のやり取りのどこに、マズいことがあったのか。
「いいですか朱音さん。あなたはとても可愛らしい方ですわ」
「え、どうしたの急に」
「その無邪気な笑顔は、恐らく瞬く間に人気の対象となってしまうでしょう。だから、注意が必要です」
「翠まで。そんな褒められると、ちょっと恥ずかしいんだけど」
いきなりのベタ褒めに、頬が僅か熱を持ち始める。
なんなんだこの二人は。褒められて悪い気はしないけど、こんないきなりだとその意図を勘繰ってしまう。
「つまり、よからぬ虫が言い寄ってくるかもしれない、ということですの」
「虫?」
「あるいは、朱音に嫉妬してよく思わない女子がいても、おかしくないですね」
「あ、それはなんとなく分かるよ。スクールカーストってやつだ」
「どうしてそちらは分かるのですか……」
「以前の学校はどんなところでしたの?」
どうしてと聞かれても。漫画で読んだ、としか答えようがない。
いやはや、しかし。まさか本当にスクールカーストなどというものが存在しているとは。なんかちょっとワクワクしてきちゃった。
やっぱりカースト最底辺のぼっちと最上位の美少女が恋愛したりするんだろうか。
悲しいかな。まともな学校生活を経験したことのない朱音は、漫画やラノベの知識を鵜呑みにしてしまっているのである。
「ともかく、そう言った輩が朱音さんに被害を与えないよう、わたくしたちで守らねばなりませんわ」
「はい。朱音の笑顔は、わたしたちが守りましょう」
「別に大丈夫なんだけどなぁ」
なんなら、ちょっと経験したいまであるし。ただ、二人はせっかく心配してくれているのだから、そんなことを言うわけにもいかない。
妙な使命感に駆られている二人を見ていると、教室に一時間目の数学担当の教師が入ってきた。
翠と明子と一言ずつ交わし、それぞれ席に戻っていく。朱音も机から新品の教科書を取り出し、授業の準備を始めた。
程なくして、チャイムが鳴る。
初めての学校で、初めての授業。
旧世界では教える側、それも魔術の講義だったけど。こうして、教えてもらう側に座るのも初めて。
訪れる出来事全てに心を躍らせて、朱音の初授業が始まった。
◆
四時間目までの授業が終わり、昼食の時間となった。
この学校の昼は、各自でお弁当を持参しなければならない。織が朝早くから丹精込めて作ってくれたお弁当を取り出すと、近くのクラスメイトから悲鳴の様な声が上がった。
「桐生さん、それ大きすぎない……?」
「そうですか?」
この学校は、一から三年まで共通して、教室内の席順ごとに班を分けてある。昼食時にはその班ごとに机を合わせて、みんなで一緒に食べるのだけど。
その班員のうち、野球部らしい丸坊主の男子生徒が、半ばドン引きして尋ねてきた。
そんな朱音の弁当箱は、五重の重箱。一般家庭の皆様方が、運動会とかで使ってそうなあれだ。
たしかに日常的に使うものではないのだが、朱音にその辺の常識があるわけもなく。
織としては、こんなものを使えば朱音が変な目で見られるかもしれないけど、これ以外に朱音が満足する量の入る箱がなかったから、泣く泣く使っていたりする。
父親の苦悩など微塵も知らない健啖家は、尋ねてきたクラスメイトへ一言。
「それでも少ない方なのですが。まあ、その分夜は沢山食べますので」
「嘘でしょ……」
男としての、あるいは運動部としての小さなプライドが粉々に砕け散ったのだが、朱音がそれに気づくことはない。
偶然にも同じ班になった翠と明子の友人二人も、苦笑を漏らすしかないようだ。
全員揃っていただきますの挨拶をして、朱音は早速、父親の作ってくれたお弁当を口に運んだ。
美味しそうに食べる少女の顔は、本当に幼く見える。これには班員たちもにっこり。微笑ましく見つめられていると、背中のあたりがむず痒くなるけど。
織が作ってくれたお弁当の前では、そんなもの気にしていられない。
「たしかに、朱音は少し食べ過ぎだと思います。その体のどこにそんな量が入るのか、わたし気になります」
「胃だよ」
「初めてお会いした時の衝撃は、未だに忘れられませんわ」
「そんなにかなぁ」
自分がよく食べる方だという自覚は、さすがにある。元々は概念強化を脳にかけることによる影響や、亡裏の体術による消耗など、それらの理由で大食いになってしまった。それは母親である愛美も同じだ。
ただそれでも、朱音自身が食事という行為を好んでいるのも事実。
娯楽の少ない未来では、どんな魔物をどんな風に食べようか、と考えるのは結構楽しかったから。
沖縄で食べたクラーケンのゲソとか、翠と明子の三人で取りに行った三大珍味とか、美味しかったなぁ。
と、旧世界での味に思いを馳せていれば、また他の班員、明子の隣に座る、いかにも悪ガキっぽそうな男子が、こんなことを言った。
「でもさ、そんなに食べてたら太るんじゃね? 仮に太らない体質だったとしても、明らかにデブになるだろイッテェ! なにすんだよ土御門!」
「あら、ごめんあそばせ? 淑女の扱いがなっていなかったものですから、ついお猿さんかと勘違いしてしまいましたわ」
「なんだと⁉︎」
どうやら、明子が机の下で、男子生徒の足を思いっきり踏んだらしい。別に気にしないから、そんなことしなくてもいいのに。
「今のは悟史が悪い」
「なんでだよ啓太! 事実を言っただけじゃんか!」
ふむ、どうやら野球部の子は啓太、悪ガキは悟史と言うらしい。
まだ転校初日でクラスメイトの名前も曖昧な朱音は、二人の苗字も全く知らない。だから、呼ぼうと思えば下の名前になってしまうわけで。
「別に気にしていませんが。悟史さんが悪いわけではありませんので」
「うっ……」
笑顔でそう告げてみれば、彼はなぜか顔を赤くしてそっぽを向いた。
はて、機嫌を損ねてしまったのだろうか。
「落ちましたね」
「ですわね」
友人二人の呟きの意味も理解できず、朱音は首を傾げながらお弁当を食べ続けた。
◆
六時間目までの全ての授業が終了して、放課後。各々が部活に向かう中、朱音はひとつ悩んでいることがあった。
「朱音、まずはどこに行きますか?」
「うーん……」
「そこまで悩む必要もありませんわ。本入部を決めるわけでもないのですし、サクッと決めてしまえばよろしいのではなくて?」
「でも、沢山あるから」
この中学は、校則として部活動に所属していなければならないらしい。
部活の数はそこまで多いわけではない。一般的な公立高校だ、隣人部とか奉仕部とか、自らを演出する乙女の会、みたいな変な名前の変な部活があるわけでもなく。
それでも、朱音からすれば沢山に思えてしまう。
代表的な運動部、野球部にサッカー部にバスケ部、テニス部やバレー部などを始め、その他諸々。
体を動かすのは好きだけど、反射的に魔術や異能を使いかねない。その危険性が僅かでもあるなら、運動部はやめておいた方がいいだろう。
一方で、文化部。数自体は運動部と変わらないが、生徒数で言えばやはり文化部の方が少ない。さらに言えば、朱音の中での文化部の印象は、放課後に部室でお茶を飲むもの。だってラノベの文化部は殆どが放課後ティータイムしてたから。
「二人は何部なの?」
「わたくしたちは天文部ですわ」
「昔は姉さんや緋桜、カゲロウたちも所属していたんですよ」
「桐原先輩に、桃瀬先輩。糸井先輩もですわね。先日のお花見に集まったメンバーは、半分ほどが天文部のOBやOGですの」
「みんなが……」
母さんが、所属していた部活。
それだけで、心は決まった。
「じゃあ私も、天文部に入る」
「いいのですか?」
「他の部活を見て回ってからでもよろしいのですわよ? それに、朱音さんがやりたいことだってあるかもしれませんわ」
「うん、いいの。私がやりたいことは、友達と楽しく過ごすことだから」
そうだ。それこそ、朱音がこの新世界で、なによりも望むもの。翠と明子、二人の友人と。他にも色んな人と、平和で楽しい時間を、できる限り沢山過ごしたいから。
なら選択肢は、最初からひとつだけだ。
「真正面からそんなことを言われてしまうと、わたくしまで恥ずかしくなってきましたわ……」
「ええ、わたしもです。しかし、それが朱音の美徳なのでしょう」
パタパタと手で顔を仰ぐ明子と、本当に恥ずかしがってるのか分からないほどに、表情が変わらない翠。
しかし二人とも、すぐに微笑みを浮かべて。
「でしたら、早速部室に参りましょう」
「待ってください明子。その前に、顧問へ報告した方がいいはずです」
「そうでしたわね。では朱音さん、ついてきてくださいませ」
「うん!」
三人で職員室へ向かう。
その道すがら、二人から天文部の活動について説明された。
「わたくしたち天文部の活動は、一ヶ月に一度行う天体観測を軸にしてますの」
「星を眺めるやつだ」
「その通りです。予定が合えば、姉さんたち卒業生も参加してくれます」
「本当⁉︎」
それは願ってもないことだ。あの人たちと会うには、中々口実や機会が見当たらないと思っていたけど。
まさに棚からぼたもち。事務所に顔を出す愛美と桃、葵の三人はまだしも、蓮やカゲロウなんかは接点が少なくなってしまっていたし。
なによりも朱音が喜んだのは、さらに付け加えられた翠の言葉。
「天体観測は、基本的にいつもサーニャに付き添ってもらっています」
「サーニャさん!」
「あの方は宇宙物理学者ですのよ。色々と勉強させてもらってますの」
胸の内は嬉しさでいっぱいになって、溢れた感情は顔に出てしまう。
まさしく満面の笑みと呼ぶに相応しい朱音を見て、明子がひとつの疑問を呈した。
「以前から思っていたのですけれど。朱音さんは随分と、サーニャさんのことがお好きですわね」
「え?」
「たしかに、それはわたしも思いました。朱音とサーニャは、あの花見の日が初対面と思っていたのですが。それ以前から交流が?」
「あー、えっと……」
しまった、あまりに露骨すぎたか。
翠や明子もそうだし、サーニャも、愛美たちとも。彼女らの主観では、朱音と出会ってまだ一ヶ月だ。
朱音にとってはその限りではないと言え、不審に思われて当然。少し注意が足りなかったか。
「交流とかは、ない、けど……」
自分で口にしていて、胸に僅かの疼痛が。
違うと言いたい。本当は、あの人は私にとって、とても大切な人なんだと。
言いたいけど、それは許されないことだ。
「ほら、サーニャさんって美人さんだし、とても優しいでしょ? だから、かな?」
「まあ、たしかにその通りですね」
「あの方は厳しそうに見えて、とてもお優しい人。朱音さんにも分かってもらえて、わたくしたちも嬉しいですわ」
それはこちらのセリフだ。サーニャの優しさを他の誰かも理解していると、自分も嬉しくなる。
「話を戻しますわね。天体観測の日には、卒業生以外の方も来ることがありますわ。わたくしのお兄様や、アイクさん。それに、桐原先輩に誘われて、花蓮先輩や英玲奈先輩も。さらにそのお二人に誘われて、丈瑠さんが来る時もありますの」
「おお……すごい豪華……」
つまり、花見の日にいたみんなが参加するかもしれない、ということだ。
サーニャだけでなく、丈瑠まで。
旧世界で、最後に交わした言葉。今でも鮮明に思い出せるそれは、なぜか思い出す度に恥ずかしくなってしまう。
きっと、彼が自分に向けていた親愛の、その全てが、剥き出しのままで乗せられていたから。その親愛に込められた意味を、自分も薄々察しているから。
その丈瑠とは、花見の日のメンバーの中でも、特に交流が薄くなってしまった。
彼は年上のお姉様方に振り回されているだけみたいだし、花蓮と英玲奈がいなければ、丈瑠もいない。
また前みたいに、一緒に猫のお世話をしたい。でも朱音は、前みたいに接することが、多分できない。
「職員室についてしまいましたわね」
「説明の続きは、後で部室についてからにしましょう」
二人の言葉にハッとなり、思考の海から浮上する。
なんにせよ、今日からはこの二人と、同じ部活に所属する。楽しい毎日が待っている。
今はそれだけでも、十分に幸せだった。
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