第3話
今年は桜の開花が遅かった。その上で雨もあまり降らなかったから、4月半ばのこの時期でも、未だ満開に近い状態だ。
棗市の北。住宅地が広がるそこで、一際大きな土地を持つのは、この街一帯を牛耳る桐原組。
その庭に集まり夜桜を楽しむ大勢の顔ぶれを、織は茫然と見渡していた。
「これはまた、勢揃いだな」
胸ポケットのミニチュア吸血鬼が、小さな声でどこか可笑しそうに呟く。
ある程度予想できていたこととは言え、この光景を見ればやはり、様々な思いが胸に去来してしまう。
「ちょっとお兄ちゃん! そのビール何杯目⁉︎」
「まだ五杯目。大丈夫大丈夫、葵がお酌してくれるまでは酔わないからな!」
「ちょっと緋桜ー、息がお酒くさいんだから喋らないでよー。ていうか息止めて」
「むしろ息の根を止めればいいと思います」
「まあまあ副会長、翠も。緋桜さんこう見えても、誘ってくれたのが嬉しくてはしゃいでるんですよ」
「おい蓮! 余計なこと言うな!」
「つーか、桐原のやつはどうしたよ」
「織くんと朱音ちゃん呼びに行ってもらってる」
「ほーん、噂の探偵殿か。どんなやつなんかねぇ」
「あ、やっぱりカゲロウも気になる? うちらも何回か突撃してみたんだけどねぇ」
「そのうち全部留守とか、ふざけてんのかって感じだし」
「付き合わされる僕の身にもなってくださいよ……」
「丈瑠、嫌ならそうはっきり言ったほうがいいぞ。この二人は特にな」
「あ、いえサーニャさん。嫌ってわけじゃないので」
グレイの言う通り。かつての仲間が、殆ど全員揃っていた。友人も、後輩も、先輩も、みんな。桜の下に敷かれたブルーシートに座って、思い思いにはしゃいでいる。
なにも言えず立ちすくんでいれば、白い毛並みの大きな狼犬が、てくてくこちらにやってきた。
「ただいま、アーサー」
しゃがんだ愛美がその顔をもふもふ撫でてやるが、その光景が最も驚いた。
仲間たちはこの街にいることを確認していたけど。まさか、もう一匹の大切な家族すら、ここにいたなんて。
「どうかしたの?」
「……いや、なんでもない」
しゃがんだままの愛美が、怪訝そうにこちらを見上げてくる。それにかぶりを振って、一歩後ろに立っている娘へ視線を移した。
「本当に、みんないるんだ……」
ポツリと漏らした呟きは、ほんの少し湿っているように聞こえた。
改めてこの街に来た時、顔は見ているけど。こうしてみんなが同じ場所に集まっているのを見ると、より実感が湧いてくるのだろう。
ここは、朱音が望んだ平和な世界だと。
けれどそこには、かつてのように朱音の居場所があるわけじゃない。以前までのように、気軽にそこへ踏み込めない。
織も同じ。自分たちも、旧世界ではあの輪の中にいたけど。果たして、今の織と朱音が、そこに加わってもいいのだろうか。
「はい、ちゅうもーく! みんなが気になってる噂の探偵さん、連れてきたわよ」
そんな二人を引っ張り上げるように。
愛美の澄んだ声が、庭中に通る。全員の視線を一瞬で集めて、自己紹介しろと目で促してくる。
たったそれだけの合図ひとつが、彼女に受け入れられたなによりの証左。
口ではまだ疑ってるだの信頼していないだの言っておきながら、本当にそうならこの場に呼ばれることすらない。
身内には甘く、それ以外には馬鹿みたいに厳しく。
世界が変わっても、桐原愛美という少女の根底は、なにも変わっちゃいないのだ。
新世界で暮らすようになってから、涙腺が緩くなってしまったのかもしれない。
少しだけ夜空を仰ぎ、帽子を被り直して。
目の前に座るみんなへ、最大限の笑顔を向けた。
「桐生探偵事務所の所長、桐生織だ。こっちは妹の桐生朱音。なにか困りごとがあれば、うちをご贔屓によろしく」
◆
みんなの前で自己紹介を終えてすぐ、織は愛美に連れられて屋敷の中へと足を踏み入れていた。
これから、ここの組長であり愛美の父親、桐原一徹とご対面だ。
一徹は旧世界において、織にとっても義理の父親のような存在だった。だから恐れることなどない。ドンと構えていればいい。一徹も悪い人ではないから、織と朱音のことを受け入れてくれるはず。
頭ではそう分かっていても、中々どうして恐怖というものは覚えてしまうものである。
なにせこちらが一方的に知っているだけで、一徹は織のことなど微塵も知らないのだ。旧世界では魔術なりなんなりが色々と絡んだ結果、簡単に受け入れてもらえただけ。
今思えば、一徹は凪の知り合いだったようだから、そこが大きな要因だろうが。
この新世界でも、自分の父親がヤクザの組長と繋がりがあるとは限らない。その辺を凪に聞いておけばよかったと思いつつも、後悔時すでに遅し。
「ついたわよ」
「おう……」
悲壮な面持ちの織は、ついに一徹の私室までたどり着いてしまった。
よほど酷い顔をしているのか、愛美がクスリと笑みを漏らす。
「別にそんな緊張しなくても大丈夫よ。取って食われたりするわけじゃないんだから」
「分かっちゃいるんだけどな」
「まあ、仕方ないわよね。こんな家だし、探偵さんには荷が重いかしら」
「できらぁ……」
からかい混じりの可愛い笑顔で言われてしまえば、そう答えるほかなくなる。
それにしても、愛美から探偵さんって呼ばれるの、めちゃくちゃ違和感しかない。可愛いからいいんだけどね。
「さ、入るわよ」
織の返事など待つまでもなく、愛美が襖を開いた。その先には、右目に走った刀傷が特徴的な、白髪頭の老人が。この世界でも絶対十人は人を殺してそうな厳つい顔が、ギロリと客人を睨む。
その人こそが誰あろう、この屋敷の主にして桐原組組長。桐原一徹だ。
睨んでいるわけではないのだろうが、織は思わず背筋を伸ばしてしまう。
「連れて来たわよ、お父さん」
「おう、ご苦労さん。オメェは戻っていいぞ」
「いいの?」
その確認は、一徹というよりも織にしているようだった。気遣わしげにこちらをチラと見やり、それに頷きを返す。
男として、ここで女の子にずっとついててもらうなんて、情けなさすぎるので。
「お父さん、あんまり探偵さんを虐めちゃダメよ」
「悪いようにはしねェさ。ほれ、愛美はさっさと他の奴らのとこに行ってやれ」
「はいはい」
踵を返して部屋を出ていく愛美。残された織は、一徹に促されるまま対面に腰を下ろす。もちろん正座で。
さて、どうするか。
こちらは桐原組のシマにいきなり現れた、正体不明の探偵だ。よく思われていない可能性は高い。しかし一徹が娘を溺愛していることは知っているので、悪いようにはしない、という言葉に嘘はないだろう。
だが一方で、織が対応を誤ってしまえば。
背後に掛けてある刀で斬りかかられても、おかしくはないだろう。だってここ、ヤクザだし。
妙な緊張が部屋の中に走る中、不意に一徹が相好を崩した。
「そこで誰が聞いてるとも限らねェからな。防音の結界くらいは張っててくれ」
「……え?」
それは、予想だにしなかったセリフ。
目の前の老人からは、あり得ないはずの言葉が飛び出して来た。
「どうした? あの日、ここに来たばかりのオメェならともかく、今のオメェにとっては造作もない魔術だろう」
脳の整理が追いつかない内に、一徹の言葉が続く。だから考えるよりもまず、言われた通り部屋に結界を張った。
これで室内の音は外に漏れず、今から話すことは全て、ここにいる二人以外は預かり知らぬこと。
果たして桐原組の組長は。
家族に向けるのと同じ笑顔で、織を歓迎した。
「久しぶりだな、織。オメェの父親から全部聞いたぜ。よく頑張ったな」
「オヤジさん……なんで……」
「凪の仕業だ」
旧世界での記憶を全て有している一徹は、未だ戸惑ったままの織に、ゆっくりと説明した。
「桐原が受け継いだキリの力は『繋がり』だ。幻想魔眼を持っていた凪は、俺との繋がりを利用して、俺に記憶を戻しやがった。俺だけじゃねェ。黒霧の二人にもな」
「父さんが……でも、それこそなんでそんなことを……?」
凪からはなにも聞かされていない。この屋敷に来る前。事務所で愛美に誘われる直前まで、凪とはドラグニアで一緒にいた。あっちでそのまま別れたが、説明の一つくらいはあってもいいものなのに。
いや、待て。
自分とよく似たあの父親のことだ。シンプルに教えるのを忘れていただけ、という可能性もある。あまり深く考えすぎたら負けだろう。
問題は、どうしてそんなことをしたのか。
記憶持ちの人間に力を戻すことは可能だ。実際織も、ルークと龍の二人に力を戻したし、凪だって冴子に力を渡している。有事の際に備えて。
しかし、記憶を戻すことも可能、とは聞いていない。
あるいは一徹の言ったように、桐原の持っていた『繋がり』があるからこそ、なのだろうが。
「凪が俺らの記憶を戻したのは、オメェと朱音のためだ」
「俺たちの?」
「ああ。オメェにも、朱音にも、この世界では戦いとは無縁の、幸せな生活を送ってもらいてェ。旧世界であんだけ戦ったんだ、オメェらは、もう戦う必要なんかねェんだよ」
そのために。一徹と、葵や緋桜の両親である黒霧の二人に、記憶を戻した。
子供たちが戦わなくて済むように。幸せな生活を送れるように。なにかあれば、凪たち親が代わりに背負う。旧世界でなにもしてやれなかったから。
だがそれは、逆説的に。
この新世界にも、戦いの火種が残っているということだ。
「……いや、親父さん。もし今、この段階で既に、戦いになる可能性があるなら。それは、俺にも教えてくれ。戦わないなんて、そんな選択肢はないんだ」
凪はきっと、新たな戦いに備えて、一徹たちの記憶を戻した。
織と朱音をそこに巻き込まないため、と考えれば、わざわざ織に一徹のことを教えなかったことも納得できる。
実際はこの通り、一徹から全て聞いてしまったのだが。
「オメェなら、そう言うと思ったぜ」
「なら」
「まあそう慌てるな」
焦る織を、口元を釣り上げた一徹が宥める。しかし織としては、落ち着いてもいられない。せっかく手にした平和な世界なのだ。もうこれ以上、朱音を戦わせたくない。凪たちが織の親だからこそと言うのなら、織だって朱音の親だ。
自分よりもよほど長く辛い思いをして来たあの子を、もう戦わせたくはない。この世界で、幸せな暮らしを謳歌して欲しい。
そう思っていた矢先の知らせ。織が慌てるのも無理はないだろう。
「凪から聞いた話だがな。今のところ、脅威となる可能性は二つある。一つは、オメェも薄々気づいてるはずだ」
「転生者、ですね」
過去の後悔を晴らすべく、何度も転生を繰り返す者たち。
しかし彼らの後悔は、執念は、決して晴らされるようなものではない。何度転生しても、行き着く先は行き詰まりのどん詰まり。いつも同じ地獄が待っている。
それが分かっていても、彼ら転生者は諦めない。いつか、その後悔が晴れるはずだと、幻想を抱いているから。
とんだ矛盾を抱えた存在ではあるが、その転生者にも二種類の人間がいる。
まずは典型的な、ただ後悔を晴らすためだけに転生を繰り返す者。その先の結果を追い求める者だ。
小鳥遊蒼がそちらに分類される。
誰かを導く。
教え子を、王を、国を。それら全てを望んだ未来に導いてやることができず、そんなことを何度も何度も繰り返して来た。
その目的を成し遂げるために、彼は転生を繰り返したのだ。
一方で、転生者としてあり続けること自体が、後悔を晴らすことになる者がいる。
これはルークが分かりやすい。
彼女は最初の生で、一生幽閉され、何者にもなれないままに死んでいった。それが彼女の後悔であるということは、転生者として様々な生を謳歌することこそ、彼女の後悔を晴らすことになる。
つまり、手段が目的になってしまっているのだ。
さてでは、どちらの転生者が、この世界の脅威になり得るのか。
答えは前者だ。
後者のタイプにある転生者は、実は意外とスッパリ諦める。いや、諦めるというのは適切ではない。転生することが出来なくなれば、それで終わりでもいいのだ。
手段が目的になっているということは、転生という目的自体が失われるのだから。
しかし、手段だけを一方的に取り上げられたものは、その限りでない。
「この世界は、言わば俺と朱音の願望を反映させた世界。魔術も異能も失われて、もちろん転生者の力も。後悔を晴らすための手段を失った転生者が、なにかしでかしてもおかしくない」
「凪と同じ結論だな。オメェも推理が板についてきたじゃねェか」
一徹に褒められるのが照れ臭くて、まあ、と曖昧な返事をしながら、人差し指で頬を掻く。
しかし、思考をそこで終わらせてはダメだ。さらに発展させていかなければならない。
転生者は全員、旧世界での記憶を持ち越している。正直それだけなら、別に脅威にはなり得ないのだ。
織か朱音が本人に返さない限り、力を失っているのは変わらないのだから。
これは龍に聞いた話なのだが、力を返してもらったところで、この世界で転生することはないらしい。
だから殆どの転生者にとって、既に力そのものが意味を失っている。
先程挙げた二つのタイプ。その前者である転生者の全員が凶行に走ることは、まあないだろう。
世界が作り替えられたのだ。そこになにか思うところがあって諦める者もいれば、今回の生を最後にしようと決めた者だっている。
それでも諦めず、力を取り戻すために、あるいはこの人生で、後悔を晴らすために。後先考えずに動くやつがいてもおかしくはない。
よほどのバカと狂人の集まり。
そう称したのは、自身も転生者である織の師だったか。
「力を失った転生者は、それでも記憶を持ち越してる……正直、下手な魔術や異能よりも厄介っすよね」
「そうだな。膨大な経験や知識というのは、時にどんな力にも勝る時がある」
転生者の強みは、なにも力だけじゃない。蓄積される無数の経験や知識こそが、彼らの持つ最も優れた強み。
それはなにも、転生者に限った話ではないだろう。例えば魔女や吸血鬼なんかは、その長い人生で培ったものがあるから、あそこまでの強さを誇った。
そこまで極端ではなくとも、殺人姫は歳に見合わないほどの数の戦場を掻い潜り、その末にあの体術や魔術は洗練された。
他方、織にはその経験が圧倒的に不足していた。だから強力な異能を持っていても、遅れを取ることが多かった。
「転生者は厄介なことに変わりない。でも、結局は力を失ったままだ。俺と朱音だけでもどうにかできる。親父さん、本題はもう片方の可能性ですよね?」
「ああ、そうだ。だがそれに関しちゃ、そこの吸血鬼の方が詳しいんじゃねェか?」
鋭い視線は、織の胸ポケットに注がれている。そこからひょこっと顔を出したミニチュア吸血鬼、グレイは、ふわりと浮かび上がって織の肩に座った。
「赤き龍のことだな」
「赤き龍?」
つい最近、その言葉を聞いた気がする。
一週間前ドラグニアに行った際、シルヴィアの口から。
「呼び方は様々だ。あちらの世界、ドラグニアではそう呼ばれているようだが、この世界では、魔王と呼んだ方が分かりやすいだろう」
「お前、それってまさか……」
「ダンタリオンの置き土産だよ」
忌々しげに話すグレイは、頭痛でもするのかこめかみを抑えている。
旧世界の最後。あの時にダンタリオンが発動した魔術は、十一体にも及ぶ黙示録の獣を召喚した。
その末に齎されるのは、学院地下に封印されていた魔王の復活。
魔術学院本部の地下に広がるその迷宮の、最下層。そこに封印されていたのは、迷宮の名が示す通りの存在。
「桐原愛美によって、ダンタリオンの目論見は早々に潰えた。私もそう思っていたのだがな。不完全でありながら、復活自体は果たしていると見た方がいいだろう」
「再構築の影響か……」
「その通りだ」
本来なら、愛美が黙示録の獣を斬ったことによって、魔王の復活はあり得ないはずだった。しかしその直後、幻想魔眼による世界の再構築が行われることになる。
結果、本来の力とは程遠くあるものの、復活自体は果たしてしまったのだ。
「そもそも、その魔王だの赤き龍だのって言われるやつは、どんな存在なんだよ」
「元々は奴も、異世界の存在だ。彼方有澄と同じ世界から、遥か昔にこの世界に渡ってきた」
「ドラグニアの?」
それこそ、先日シルヴィアの語った話が関係してくるのだろう。
世界創世の伝説に出てくる、赤き龍。
異世界の友人の言葉から察するに、厄介な奴であることはたしか。
「アダム・グレイスやイブ・バレンタインと同じ存在だ。あの世界から弾かれた、枠外の存在。それがどう言うわけか、学院本部の地下に封印されていた。旧世界の歪みは、多少なりともやつの存在が影響していた部分もあるだろうな」
「そいつが、まだこの世界にいるってことか」
「いや、それはあり得ない」
「は?」
まだ見ぬ敵に闘志を燃やせば、グレイから飛び出た言葉は、ここまでの話を全て否定するようなもの。
「いいか、探偵。やつの復活は不完全だ。そして今のこの世界には、魔力が存在していない。あとは分かるな?」
「完全復活のための栄養が、この世界じゃ摂取できない、ってことか」
「概ねその通りだ。しかしそれだけではない。やつも幻想魔眼やキリの力については把握していると見た方がいい。私が『崩壊』を完全に扱えていた頃なら、例え完全に復活したとしても、私と貴様らが手を組めば殺せただろうさ」
果たして当時の織たちとグレイが、手を結ぶなんて選択を取るかどうからさておき。
「その脅威から逃げ、その身により合う世界を求めて、この世界からは消えたはずだ」
「てことは……」
「元の世界、ドラグニアに戻っただろうな。そして、あちらの世界で大きな異変が起きれば、位相の扉が閉じているとはいえ、こちらの世界への影響は免れない」
あちらには蒼がいる。有澄を始めとした龍の巫女や、シルヴィアのようなドラゴンも。
こちらの旧世界と比較しても、ドラグニア世界の戦力はかなりのものだ。イブが長く滞在出来ていたこともあるし、あの世界は枠外の存在でもある程度の滞在が可能なのだろう。
となれば、心配することすら烏滸がましい。蒼たちに任せていれば安心だ。
しかし、解決は簡単だからといって、その影響が全くないとは限らない。
「龍さんたちにも相談して、備えられるだけ備えてた方がいいな」
「もしもの時は、私に力を返せよ。元はと言えば、ダンタリオンを意図せず召喚してしまった私の落ち度だ。今のこの世界を壊されるのは、私にとっても困るからな」
「ああ、当然だ。そん時は精々こき使ってやるよ」
この世界にエルーシャ・アルマキリスが生きている以上、グレイは織たちの味方だ。そこは信頼できる。
ある程度の方針も決まったところで、織は改めて目の前に座る一徹へ視線を向けた。
彼は厳つい顔に似合わぬ柔和な笑顔を浮かべて、織とグレイのやり取りを見守っていた。
「頼もしくなったな、織。初めてうちに来た時から、随分見違えた」
「そんなことないっすよ、親父さん。俺一人の力でできることなんて、たかが知れてる。朱音や父さんたち、ついでにこの吸血鬼も。みんなの力を借りないと、俺にできることなんて殆どないっすから」
「んなことはねェ。そうやって誰かの力を借りれる、誰かが力を貸してくれるってのは、十分にお前の力だ」
旧世界では父親代わりだった人に真正面から褒められるのは、やっぱり照れ臭くて。肯定も否定もせず、曖昧に笑ってみせる。
誰かに頼ることしかできない。それが果たして、本当に自分の力と言っていいのかはわからないが。
それでも、それが桐生織のやり方だ。
凪にも、愛美や朱音にもできない。自分は弱いと知っていて、それでもいいのだと前を向く織だからこそ。
「凪の気持ちも分からんでもねェが、やっぱり話して正解だったな」
「父さんの、気持ち……」
父親が自分になにも話さなかった理由は、ある程度察せられる。
きっと、旧世界では、全てを織に託してしまったから。その上自分は死んでしまって、手助けしてやることも叶わなかった。
ならば今度こそは。そう思うのは自然なことだろう。
まさしく織も、朱音に対して似たような気持ちを抱いていたのだから。
彼女の生きていた未来で、織も愛美も死んでしまっていたから。だったらせめて、この時代の自分達が、と。
ただひとつ、凪と違う点があるとすれば。
織は、朱音と一緒に戦うことを選んだ。織たちを戦いから遠ざけようとする凪とは、そこだけが決定的に違っている。
「ただまあ、子供ってのは、俺ら親が思っているよりもずっと成長してるもんだ。オメェがどれだけデカイ男になったのか、凪に見せつけてやればいい」
「それもそうっすね」
今は屋敷の庭で、みんなに囲まれながら花見をしている娘の顔が、頭に思い浮かんだ。
日々成長している朱音の、幸せな暮らしのためなら。織は、何度だって銃を手に取る。
◆
一徹と軽く今後のことについて決めた後、織は屋敷の庭に戻ってきた。
そこではまだまだみんなが花見を楽しんでいて、中心には笑顔の朱音が。ちゃっかりサーニャの隣を確保しているあたり、さすがだ。
そして先ほどよりも、三人ほど人数が増えていた。
「うむ、上手い! やはり日本の文化は素晴らしいな。夜に見る桜は、母国にない風情がある」
「花見なんか基本は昼にやるもんやからな。夜を選ぶあたりが桐原らしいわ」
「欲を言えばお兄様と二人きりが良かったのですが……しかし、朱音さんという新しい友人と出会えたことを考えれば、お釣りが出るほどですわね!」
アイザック・クリフォード、安倍晴樹、土御門明子。
その三人も輪の中に加わり、桐原組の人たちも何人かいて、盛り上がりは最高潮。
みんな早速、朱音の可愛さに撃ち抜かれてしまったのか。娘はあちこちから料理を食べさせてもらっている。
思わず微笑みが漏れてしまう光景を、織は輪の外から眺めていた。
「行かないのか?」
胸ポケットに隠れたグレイが、チラと見上げて尋ねる。言葉は疑問形でありながら、さっさと行けばいいだろう、というニュアンスが隠せていない。
「なんつーか、直前にあんな話をしたせいでさ、あそこに入っていいのか分かんねえんだよな」
「気にしすぎだろう。誰も咎めることはない」
「分かってるさ」
分かってる。分かっていても、躊躇ってしまう。
自分は本来、この世界に存在しない、記録されない人間で。ここに生きているみんなとは違う、異質な存在。
自分が彼女たちと関わることで、巻き込んでしまわないかと。余計な思考がチラつく。
そんな織にいち早く気づいたのは、やはり彼女だった。
騒ぐ友人たちを笑顔で見ながら、次々に料理を口に運んでいた愛美が、ふとこちらに気付いて立ち上がる。
てくてくこちらに歩み寄ってきて、揶揄うような笑みを向けてきた。
「どうだった? 私のお父さん、怖かったでしょ」
「見た目だけならな。でもまあ、優しい人だよ」
「あら意外、あれだけビビってたのに。何を話したの?」
「男同士の秘密だ」
人差し指の当てた唇を釣り上げる。
一徹が記憶を戻したことは、織の精神的にとても助かることだった。
両親に龍とルークがいるとは言っても、みんなこの街に住んでいるわけじゃない。もしもの時に頼れる相手が、すぐ近くにいる。
もっと現金な話をしてしまえば、桐原組から事務所に仕事を斡旋してもらえる。ていうか、さっき既に何件か話を聞かせてもらったばかりだったり。
「つーか、今更だけどさ。これって何の集まり?」
ここにいる者全員、織は当然顔も名前も知っている。ただ、旧世界では魔術で繋がっていたメンバーばかりだ。そんなものがないこの新世界で、果たしてどのような繋がりがあるのか。
「基本的には同じ学校のやつらよ。ほら、私、生徒会長だから」
「風紀委員長じゃないのか……」
「風紀? なんで?」
「いや、こっちの話」
危ない、思わず声に出てしまった。
しかし、生徒会長が愛美ということは、小鳥遊栞は同じ学校にいないのだろうか。いや、栞は別に会長になりたかったというか、あの学院で好き勝手したかったから、結果的に会長になっていただけだし。世界が変わればこんなものなのかもしれない。
などと考えていると、愛美は一人ずつ指差して、友人の、あるいは後輩の、はたまた先輩の名前を、大切な宝物に触れるごとく、柔らかな声音で読み上げていく。
「桃は副会長で、私の親友。葵は会計、一番可愛い後輩ね。蓮が書記で、カゲロウが庶務。これがうちの生徒会よ。葵とカゲロウは従兄妹同士で、翠がカゲロウの妹。緋桜は葵の兄で、私の二年先輩。サーニャは葵たちの家と親しいらしくて、どっかで研究者やってるわ。私たちも何回かお世話になったことあるの。花蓮と英玲奈はクラスメイト、丈瑠はその二人によく振り回されてる一年生。アイクと安倍は去年同じクラスだったわ。明子は安倍の従姉妹ね。許嫁とか聞いたこともあるけど」
旧世界と似たような繋がり。ただ、そこに織と朱音がいないだけで。
そこに加わりたいと、いつかの様にまた、仲間たちと共にいたいと、そう思う気持ちはある。
一徹の記憶が戻った件を踏まえて、ひとつ思いついたことがあるのだ。
俺なら、愛美の記憶を戻すことだって、出来るんじゃないかと。
「なあ。お前さ、今の人生、楽しいか?」
「は?」
つい、聞いてしまっていた。
ハッとなった時にはもう遅い。愛美は怪訝な目でこちらを見上げていて、胸ポケットではため息を吐く気配がした。
「変なこと聞くのね。まるで、今以外の人生があるみたいな言い方」
「悪い、忘れてくれ」
まさしくその通り、他の人生があったのだが。まさか本当のことを言うわけにもいくまい。
失態を恥じる様に片手で頭を抱えていれば、隣の少女から小さな微笑みが聞こえた。
夜風に揺れる髪を耳に掛ける愛美。その左手の薬指に、見覚えのある指輪が。
「楽しいわよ、私は。バカな奴らだけど、大事な友達とか後輩とかがいるし。そいつらと一緒にいたら、退屈はしないもの」
「そうか」
その答えは、とても愛美らしいものだ。
そして同時に、あんなことを少しでも考えた自分を、思いっきり殴りたくなった。
今の愛美には、今の人生があり、幸せに暮らしているのだ。織の我儘で、こちらに引き戻すなんてことは許されない。
例え、その指輪を持ってくれているのだとしても。
「なによその生返事。言っとくけど、探偵さんも今日から、そのバカな奴らの仲間入りよ?」
「そんな言い方されたら、喜んでいいのかどうか迷うな」
込み上げる感情は全て押さえつけて、代わりに苦笑を浮かべてみせた。
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