佐々木秀臣◆3(完)◇

 会長たちの写真を撮ったあと、どんなふうに帰路についたのか、よく覚えていない。

 会長は、スマホを受け取ったら、勝手に挨拶して、勝手に鴨田さんの手を引いて、勝手に遠ざかっていった。鴨田さんは、「ありがとう」と微笑んで、会長に手を引かれて行った。

 クレープの屋台の前で、誰かにぶつかった。何度か一人でベンチにいるのを見た覚えがある、疲れた顔のおじさんだった。ろくに謝りもせずにふらふらとゲートを抜けた。

──自分も、いつかあのおじさんのようになるんだろうか。

 電車の中でもボーッとしていたら家の最寄りの駅を通り過ぎてしまって、向かいのホームにいかないとなあ、なんて考えていたはずなのに、気がついたら目の前のベンチに前屈み気味に座っていた。

 恥ずかしいでもなくて、悔しいでもなくて、この気持ちはなんだろうと。

 ただ、通り過ぎる靴の群れを眺めていたら、ローファーを履いた足が、自分の前に止まった。

「佐々木くん?」

 耳に刺さるほど聞き覚えのある声に、反射的に顔を上げる。背にラケットのようなものを背負った、ショートヘアに背の高い女子がそこにいた。

「あ、やっぱ佐々木くんだよね。大丈夫? 気分悪いの?」「あ、覚えてるかな? 同中のしいゆき!」

 自分を指差しながらニコニコと声をかけてくるシイナさんを見て、白目を剥きそうだった。今日はどんな厄日なんだ。

「え。ほんと顔色悪いじゃん。ちょっと待っててね。ここにいてね」

 背負っていたラケットを秀臣の前に置くと、シイナさんはどこかへ走って行った。これが屋外だったら、きっと砂埃が立つほど早かった。

 これ以上自分に打撃を与えないためには本当は移動した方がいいんだろうと頭では思っていた。けれど、もう気力がなかったし、目の前に置かれたものを放置する気にもなれなくて、ベンチにもたれて目を閉じた。


 ヒヤリ、と手の甲に冷たさを感じてびくりと跳ね起きる。

「あ、ごめん。驚かせようと思ったんだけど、気分が悪い人にすることじゃなかったかも」

 声のした方に顔をやると、シイナさんが両手に小さなペットボトルを持っていた。片方は水で、片方は微炭酸のジュースだった。

「疲れてる時は、炭酸が入っている方が良かったりするんだって。あんまり合わなかったら水もあげる」

「あ……えっと、お金……」

「別にいーよ! 体調悪い時はお互い様でしょ」

「いや、そういうわけには……」

「んー……佐々木くんは相変わらず真面目だね。 じゃあ百円! で」

 おそらく駅構内の自販機なら百円では足りないと思ったが、それ以上の問答をする気にもならず素直に百円玉を渡した。

 シイナさんは持ち上げたカバンをベンチにおき、その隣に座る。彼女が足を組み、ペットボトルを傾けて飲む様子を横目に見る。秀臣も蓋を開けるとプシッという音と共に、ジュースが霧状になって手元にかかった。それには構わず、ゴクゴクと飲んだ。

「微炭酸だとゴクゴク飲めちゃえるのが良いよね」

 にかっと笑ってシイナさんは秀臣の方を見る。秀臣は、あの雨の日の恥ずかしさがフラッシュバックしそうで、しかし、それにまた現在進行形で恥を塗り重ねていることも自覚して──いや、やっぱりさっきの遊園地での出来事が間違いなく生恥ランキング一位だからそれに比べれば……と、頭の中がぐちゃぐちゃだった。

「……大丈夫だから、帰ってもらっても……」

 ぼそりと呟くと、シイナさんは「あは」と軽く笑った。

「佐々木くんさ、アタシのこと苦手でしょう」

 思いがけない言葉に、目が丸くなってしまう。

「苦手、って」

「やー、体育会系女子苦手なんかなって思ってたんだけど。まあ、良いじゃん、久しぶりだしたまにはさー。部活とか何してんの今。てか、なんか入ってる?」

「……園芸部、と、生徒会」

「生徒会!?」

 シイナさんは口をあんぐりと開けて、いかにもいかにも意外そうな顔で秀臣を見ていた。気まずくて、猫背のまま、ジュースを口に運んだ。

「……びっくりしすぎじゃない」

「ごめんごめん! 佐々木くんって、前に出るようなことしなそうだったからさ。あ、アタシはラクロスしてる。高校から始めたけど、結構楽しいよ」

 あの肩に担いでいたラケットのようなものは、ラクロスの道具だったらしい。「ふうん」なんて、気のないような返事をしてしまって、軽く頭を振った。

「バスケはやめたの?」

 何気なく聞いてしまってから、どくん、と胸が嫌な感じに鳴った。もし地雷だったらどうしよう。気軽すぎたかもしれない。

 シイナさんは、いつの間にかペットボトルを飲み切ってしまっていて、カラカラと振りながら「うん」と言った。

「バスケも好きなのは好きだったんだけど。ほら、せっかくだから新しいことしたいっていうか。高校デビュー……ってほどじゃないけどさ。あ、でも、アタシまだアレはたまにやるよ。シュートするゲーム」

 シュートするジェスチャーを見て、また心が変なふうにうずいた。

「ああ、あれ……ええと」

 もうあの遊園地に全部置いてきてしまいたかったのに、ここで話に乗れない方が、もっと惨めになるような気がして、ひどく慎重に続きを言う。

「……僕も、……やる」

「えっ、そうなの? 佐々木くんバスケ好きだったの?」

 またしても意外そうに目を見開いて、シイナさんは口をあんぐり開けた。それから、ぱちぱちと軽く手を叩く。

「えー! それめっちゃ見たいな。対戦したい。どこでやるの? ゲーセン? ショッピングモール?」

「あ、いやその……あそこの…遊園地……あの、年末なくなるとこ。ちょっとボロいけど、えーと、人が少なくて、その……独占できるっていうか……」

(人の目を気にしなくていいっていうか)

「知ってる! そういえば、年末なくなっちゃうんだったね。普段行かないからな遊園地。せっかくだから今度アタシも行ってみようかな。なくなる前にハイスコアチャレンジ? あはは」

「い」

 背中を変な汗がつたう。自分から奈落に飛び込むような気持ちだった。けれども、見ようによっては既に奈落の底にいるのかもしれない。もしまだ下があるのなら、落ち切ってしまってもいいか、と……ペットボトルを口に寄せて、乾いた唇を濡らした。

「いく? 今度」

 「く」で、少し声が裏返った。シイナさんの顔は見れなかった。

「……一緒に?」

 ほんの少し不安の色を滲ませた声が返ってくる。

「うん……まあ、えっと、記念…みたいな。でも部活とか忙しそうだし、僕も生徒会があるから都合が合えばっていうか、いや、なんか全然、気にしないでいいし」

 すぐに断られた場合の予防線を張ってしまうのは、自己防衛機能のような癖であったが、秀臣はそれがまたすぐに情けなくなった。

 シミュレートでは、こんなしどろもどろにならないのに。

 もう返事を待たずに帰ろうかと思って、自分の鞄をキュッと握った。けれど、なんとか、ベンチにもたれることができた。このまま帰っても、また情けなくて死にたくなる未来が、容易に見えたのだった。

 ぽんぽんと発言するシイナさんにしては珍しく、数秒の沈黙があった。油をさしていない機械のようなぎこちなさで、秀臣は隣を盗み見る。シイナさんは、膝の上で何か書いていた。すると、秀臣の視線に気がついたのか、ぱっと顔を上げると、小さな紙を秀臣に差し出してきた。

 シイナさんの学校の、生徒手帳の1ページに、電話番号と、アルファベットの文字列が書いてあった。

「連絡先。LINEしてる? それで検索してもらえば出るから! もしよかったら、また待ち合わせ決めよ」

 秀臣が呆然と連絡先を眺めている間に、シイナさんは弾みをつけて立ち上がり、ラケットとバッグを持って笑う。

「誘ってくれてありがと。嫌われてなくてよかったよ」

 その言葉に、中学の時、自分が彼女から逃げるように……いや、「ように」なんてものではなく、走って逃げた記憶がまざまざと思い出された。


 シイナさんは何も悪くなかった。

 自分の傘が大きいから、濡れたくないから必要とされたのに、何も気が付かずに、自分だけ濡れないようにしてしまったのが、恥ずかしくて、情けなかったのだ。

 シイナさんのぐっしょり濡れた肩を見ると、自分の濡れていない両肩が意識されて、たまらなくなって、視界に入らないように逃げたのだ。

 そして、あのとき自分が逃げたことで、彼女を傷つけてしまったのだということを、ようやく今になって理解した。

「き」

 秀臣が口を開いたときには、彼女はもう階段の方を向いていた。

「嫌いじゃなかったよ!!」

 思ったより大きい声が出て、自分でちょっと引いた。シイナさんは秀臣の大きな声にビクッとしたようだったけれど、軽く振り返って控えめにピースしてみせた。

「やったあ」

 そのゆるい笑顔を見て、秀臣は、自分の肩が下りるのを感じた。いつの間にか緊張で、両肩が上がっていたのだった。

 階段を上がるシイナさんの後ろ姿を見送って、もう一度ベンチに腰を下ろした。彼女に渡されたメモにある連絡先を、自分の携帯に登録する。

(これはデートじゃない)

 言い聞かせるように頭の中で呟く。

(デートじゃないけど、あそこのクレープは美味しいことくらいは、教えてもいい、よな)

 半ば無意識に、頭の中でいつものシミュレーションをしようとして……会長と鴨田さんの姿が浮かんだ。両手で顔を覆ってため息をつく。

「…………無理………」

 しばらく、いつものシミュレーションは出来そうにない。

 でも。相手がシイナさんなら、もしうまくいかなくても大丈夫なような気がしていた。シイナさんにはカッコ悪いところしか見せていないのだ。もう今更失敗したって評価が落ちようもないだろう。

(それに、何も始まっていないし、何も……)

 勢いをつけて立ち上がる。

「帰ろう」

 学校で会長と顔を合わせるのは、やっぱり憂鬱だけれど。あれもこれも、始まってから考えればいい。

 一年の最後の日、閉園の印の花火が上がる日には、行こう。そのとき、隣に誰かいるのか、一人なのかはわからないけれど。失敗したら、今度こそあの遊園地に全部置いて、花火と一緒に消してしまえばいいんだ。

 地下鉄の出口を上がりきって見上げた空はもう暗く、オリオン座を見つけて「ああ、冬だな」と、微笑んだ。

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僕の擬似青春【短編】 皐月あやめ @satsuki-ayame

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