7章 その3 長い一日のはじまり③
教会の前へ戻ると、鶏舎の傍にウェルが立っていた。ミナに気付いた彼は朴訥とした笑顔で手を振ってくる。
「やあ、調査ご苦労様」
乱れる気持ちを落ち着かせながら、軽く頭を下げる。
「ウェルさんこそお疲れ様です」
少し考え、ミナは彼の元へ足を向けた。ノラの話の裏付けを取ろうと思ったのだ。
粗末な柵の中では、鶏たちが羽をばたつかせながら餌を食べ散らかしていた。ウェルは井戸から水を汲み、餌場に補充する。手伝いながら、ミナはさりげなくエリスについて訊ねた。
「あのお子はなあ、いるだけで騒がしい、けど周りを明るくしてくれるお子だったなあ。あのお子がいなくなって、ここも火が消えたように静かになっちまった」
「外に出たいと言って、司教とよく衝突していたとか」
「ああ、セラ嬢ちゃんにでも聞いたかね。ただ、衝突ってのは少し大げさだなあ。子どもはいつも親の手を焼かせたがるものさね」
母を思い出し、ちくりと胸が痛む。
「外に出て、何かしたかったことがあったんですかね?」
「いんや。ここから出たかっただけだろうなあ。ここには何にもねえからなあ、若い嬢ちゃんが退屈しちまうのは仕方ねえ」
「ウェルさんはどうなんですか?」
「ははあ、もうそんなこと気にする歳でねえよ。どこにいようと、神に感謝して自分の仕事をやるだけだ。まあ、こいつらと同じだな」
そう言って、ウェルは餌をつつく鶏の群れに顎をしゃくった。
その他エリスに関する証言は、これまでに得たものと大した違いはなかった。一息つくと、ミナは本題へと入った。
「事件前、エリスさんに変わった様子はありませんでしたか?」
途端、ウェルの表情が強張るのが分かった。ためらうように視線を彷徨わせる彼に、ノラから聞いた事々を伝えると、どこか観念したような表情で「ああ」と頷いた。
「一か月前ほど前からだなあ、おかしくなったんだあよ」
奥歯にものが挟まったような話し方。明らかに何かを知っている。
「何か心当たりがあるんですか?」
唸るばかりでなかなか話そうとしなかったが、ミナが再三促すと、ウェルはようやく重い口を開いた。
「もうあのお子は召されたから言うけどなあ、でも内緒にしておいてくれよお。実はなあ、厨房に置いといたチーズやら干し肉やらが、夜のうちになくなってることが何回かあったんだあよ。それも一か月前、あのお子がおかしくなってからだ」
「それって」
「ああ、多分なあ。あのお子が盗って行ったんだろうなあ」
「でも……どうして?」
「悪霊の仕業だろう」
迷いなくウェルは断言した。
「あのお子は、悪霊にそそのかされていたんだあよ。ほれ、罪を犯したのに裁きを受けなかったやつは、悪霊になってこの世を永遠に彷徨うだろう?」
死後について、聖篇は何も語っていない。だが、空白があれば埋めたくなるのが人間という生き物であり、死後についてもこれまで多くの想像が生み出されてきた。それらは時間とともに統合整理されていき、今では次のような考えが定着している。
教義を貫き通した者の魂には永遠の安らぎが与えられ、罪を犯した者の魂には未来永劫の苦しみが与えられる。
ただし、聖篇にもあるように、罪は身体を焼くことで浄化できるとされている。罪人への火刑は、罪の浄化という意味合いもあるのだ。
では、浄化されないまま死んだ者の魂には、どのような苦しみが与えられるのだろうか? これに関しては、現在も様々な流言が飛び交っており、ウェルが言ったのもそのうちの一つだった。
「きっと異教徒どもの悪霊に違いねえ。連中は聖篇を信じず、あのお子たちから親も奪った。おっ死んだら悪霊になるに決まってるだあろ? そんであのお子にとり憑いて怪我させて、それだけじゃ飽き足らず盗むよう誘惑しやがったんだ」
はあ、と彼の口からため息が漏れる。
「こんなこと、誰にも話せなかったさあ。エリス嬢ちゃんが火刑にされちまうからなあ。あのお子はそそのかされてただけで、悪いのは悪霊なのになあ」
その言葉にミナは息を呑む。罪は罪という、この国の不文律を彼は破っている。顔を見ると、本人はそのことに気付いていないようだった。
――それだけ、あの四人のことを愛しているんだ。
ウェルは悲しそうに首を振った。
「あたしは、神が救ってくれるのを待っていたんだあよ。そしたら……ああなっちまった」
「あれも悪霊の仕業、なんですか?」
「ほかに、あんなひどいことするやつがいるかね?」
そう吐き捨てると、ウェルは飼料桶を蹴り飛ばした。大きな音に驚きもせず、飛び散った餌へ我先にと鶏たちが群がった。
勝手口から厨房へと戻るウェルに別れを告げ、ミナは大きく息をついた。背筋にじわりと滲み出した汗は、ぎらつく陽光のせいだけではない。
エリスに関する、矛盾する二つの証言。単純に考えると、どちらか一方が偽証だということになる。だが、話を聞いた四人のいずれも嘘をついているようには見えなかった。
加えて、もしどちらかが偽証だとすると、分からないことがある。なぜそんな見え透いた嘘をついたのか、ということだ。この程度の偽証などすぐに露見するだろうことは、子どもでも分かるだろうに。
それを承知の上で偽証しなければならない理由があった? だとすると、どのような理由なのか? ミナには見当もつかなかった。
とにかく、もう一度セラたちに話を聞くことだ。どこかに勘違いがあったのかもしれない。
――そうだ、勘違いだ。
彼女たちが偽証していると考えるより、自分の勘違いだとした方がよっぽど理に適っている。
迷いを振り切るように、ミナは大股に修道院へ向かった。
「審察官様」
教会の入り口から声がした。見ると、一人の老婆が杖をついて近づいて来る。
顔には見覚えがあった。昨日の晩課にも今朝の朝課にも出席していた、住民の一人だ。
「どうなさいました?」
ミナが聞くと、彼女はしわくちゃの手を拝むようにすり合わせた。
「審察官様。どうかご加護で我々をお守りください。忍び込んだ人殺しをとっ捕まえてください」
侵入者はいないと司教があれだけ言ったのに、老婆には一つも響いていないようだった。
いや、彼女だけではない。教会の入口には、同じく不安を浮かべた顔がいくつも並んでおり、哀願に満ちた視線をミナへと送っていた。
朝課の後、聖堂に残って祈祷を続ける住民たちがいたことを彼女は思い出した。殺人現場とはいえ、聖堂は神聖な祈りの場でもある。そこで祈ることが、不安を和らげる一助になっているのだろう。そして今、祈祷を終えた彼らにちょうど鉢合わせしたわけだ。
集団恐慌、というハルの言葉が脳裏をよぎる。すでに一度騒動が起きたらしいが、火種はいまだくすぶったままらしい。
老婆の骨ばった肩に、ミナはそっと手を置いた。侵入者はいないのだと、どれだけ繰り返しても無駄だろう。ならば、相手の言葉をそのまま受け取って返すしかない。
「必ず、人殺しを捕まえます」
それがセラたちでないことを祈りつつ、ミナはなるべく穏やかに聞こえるよう言った。
「ああ、ありがとうございます!」
身体を震わせ、老婆が何度も頭を下げる。扉から窺っていた者たちも一斉に頭を下げた。その圧力にミナが狼狽えていると、
「そいつにいくら頭を下げても、無駄に終わる可能性が高いぜ」
彼らの背後から、皮肉めいた言葉が響く。それは、ミナがいま最も会いたくない人物の声だった。
住民たちはそちらへ一瞥すると、口をつぐみ足早に門の外へと出て行く。どの顔にも、侮蔑と嫌悪の色が浮かんでいた。
「やれやれ、どこでも黒いのは嫌われ者だな」
近づいて来るハルに、ミナは顔を逸らす。今の彼女の顔には、誰が見ても分かるだろう動揺が刻まれているはずだ。
「なんだ、まだ今朝のこと怒ってるのか」
呆れたようなハルの声。どうやら悟られることはなかったようだ。そっと息をつくと、ミナは顔を背けたまま言った。
「町に行ったんじゃないの?」
「気になることがあって戻って来たんだ。住民の審問はロンゾがやってくれてる」
執務室の扉に顎をしゃくるハル。
「聖堂の審問で追加の質問をしただろ? それを司教にもしなきゃって思ってね。で、さっきまで審問してたんだ」
結果は予想通りで、司教からの答えも他の関係者と同じだったという。
「そっちはどうだ?」
「まあ、ね」
そっけなく返事をする。感づかれる前に、一刻も早くこの場を去りたかった。これまでの経緯を話すのはまだ早すぎる。
ハルはしばらく彼女を見つめていたが、
「まあ、とろいミナには大変だろうな。とりあえずもうすぐ昼食だし、しっかり食べとけよ。腹が減ったら頭回らなくなるんだろ?」
ぽん、と彼女の肩を叩くと、足早に鉄柵門を出て行った。
彼の姿が完全に消えると、ミナはほっと息をついて傍の柱にもたれた。勘の鋭い彼の目を逃れたことに安堵しつつも、隠し事をした罪悪感に胸が疼く。
――ごめん、ちゃんと調べ終わったら報告するから。
声に出さず謝るミナの頭上で、正午を告げる鐘が鳴った。
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