カッパッパー
yaasan
カッパッパー
朝、目が覚めるとぼくはカッパになっていた。緑色の皮膚に黄色の嘴。手には水掻き、頭頂部はご丁寧に皿のようなものまであった。
何でカッパになってしまったのだろうか。
鏡で自分の顔を見ながら考えてはみたものの、分かるはずもない。ぼくは大きな溜息を一つだけついた。誰だって目が覚めてカッパになっていたら、溜息の一つもつきたくなるはずだ。
「やれやれ」
ぼくはそう口にしてみた。どういう仕組みなのかはわからないが、どうやら以前と変わりなく声は出るようだった。
「やれやれ、参ったな」
もう一度、呟いてみた。だけれども、そうしたところで状況は変わるはずもなくて、ぼくの声は何をどうするでもないままに宙で霧散していく。
そうして途方に暮れていると、外で雨が降っていることにぼくは気がついた。
ぼくは雨音に耳を澄ませてみる。カッパになったから水に惹かれるのだろうか。そんな疑問が脳裏に浮かんだ。
そう。カッパになったから惹かれたのではなくて、昔から雨の降る音がぼくは好きだったのだ。ぼくはそれを思い出した。
小雨の音。
にわか雨の音。
土砂降りの音。
子供の頃はベッドに寝転んで一日中、雨が降り注ぐ音をよく聴いていた。
でも、いつからだろうか。あれだけ好きだった雨の降る音がぼくの耳に入ってこなくなったのは。耳に入ってきても、それが雨の降る音だと認識しなくなってしまったのは。
カッパになってから雨の降る音に、かつてはそれに耳を澄ませていたことを思い出すとは思わなかった。ぼくは雨が降る音を聞きながら、カッパになって困ることを考えてみた。
仕事に行けない?
失業中だし。
恋人に会えない?
恋人はいないし。
友達に会えない?
友達はいないし。
外出できない?
失業中で、ほぼ引きこもりだし。
家族に会えない?
両親は既に死んでいて天涯孤独だし。
……ざっくりと考えただけだが、今のところ決定的に困る事柄はないように思えた。長い目で考えればお金の問題が出てくるのだろう。でも二年や三年ぐらいであれば、このまま引きこもりを続けられるぐらいの蓄えはあった。
会社の元同僚たちは、ぼくがカッパになったと知ったらどう思うだろうかと考えてみた。
驚くのだろうか。それとも大変だなと同情してくれるのだろうか。そもそも、ぼくが一緒に働いていたことなどは、もう忘れてしまっているのだろうか。
恋人だった彼女はどうだろう。悲しんでくれるのだろうか。それとも、昔の恋人がカッパになっているのを見て、そんなことには関わりたくないと迷惑がるのだろうか。
そのどれもが当てはまるような気がするし、そのどれもが当てはまらない気もする。よく分からなくなって、ぼくは考えるのを止めてしまう。
取り敢えず食事にしようと思い、ぼくはキッチンへと向かった。
カッパは何を食べるのだろうか。御伽噺なんかに出てくるように、やっぱりきゅうりだったりするのだろうか。そんなことを考えながら、ぼくはトマトパスタを作ってみた。
そうして出来上がったトマトパスタをぼくは口に運ぶ。何の違和感もなくパスタは口の中に入り、嚥下することができる。トマトパスタを普通に食べられることにも驚いたが、何よりもこの黄色い嘴で不都合なく食事ができるごとにぼくは驚いていた。まるで生まれた時から、この嘴と共に生活してきたようだった。
ぼくはパスタを食べ終えて食器をシンクに置くと、リビングのソファに座った。それらの一連の動作も、カッパの姿で何も問題がなかった。
これまでの考えをまとめてみると、ぼく自身はカッパになってしまったことで、今すぐ困ることは特にないように思えた。カッパになったことで雨の降る音を聴くのが好きだったことを思い出したし、逆に恩恵があったぐらいに思えてきた。
かつてはぼくの周りにいた人たちも、ぼくがカッパになったことを知らなければ何も困らない。そしてぼく自身も困らないのであれば、カッパになったことなどは何の問題もないことのように思えた。それに、突然カッパになったのだから、突然人間に戻るのかもしれない。
いや、そもそもぼくはカッパだったのかもしれない。それが突然、人間になっていただけなのかもしれない。そしてその想像は、ぼくをとてもわくわくさせた。
ぼくはソファに座って静かに降る雨の音をただ黙って聴いていた。雨音がぼくを浸し包んでいく。このままたった一つの瞬間でなくなってしまう雨音になれればよいのにとぼくは強く思った。
所詮、現実も不確かなものなのかもしれない。
現実もネットも虚実が入り混じっている。両者には個人が認識できる域を超えて、溢れるほどに情報が存在している。
皆はそんな虚実が入り混じった中で、不思議と繋がりを求めてくる。
そして繋がった結果、そうではないと言ってまた離れていく。その時に繋がった者が虚なのか実なのかもわからないままで。
そう。
きっとぼくがカッパになったことさえも、虚なのか実なのか分からないことなのかもしれない。
そんな現実ではぼくがカッパになったとしても誰も興味はないし、きっと困りもしないのだろう。
そして、世の中が困らないのであれば、ぼく自身もきっと困りはしない。
「……カッパッパー」
ぼくは独りそう呟いてみた。
やがて訪れた静寂。
雨音がぼくを包み込む。
虚実の狭間で揺れるぼく。
でも、この音の中でぼくは確かに息をしている気がした。
カッパッパー yaasan @yaasan
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