いつか

時雨

いつか

  突然彼女の訃報が入ったのは、昨日のよる7時のことだった。

  丁度僕は、近くのコンビニで買ったビールを片手に、やり残していた仕事をやってしまおうとしていたところで、 普段の何気ない生活を謳歌していた。それは本当に突然だった。

  それに、彼女はキラキラと輝く太陽みたいな人だったから、驚くべきことでもあった。

  とにかく僕は、その仕事を早々に終え、ほんの少しだけ泣いて、そして、寝た。本当に、突然だった。

  それで今日、僕は昔の仲間と連絡をとり、彼女の実家の近くの葬儀会場に来ている。

  中には、彼女が死んだことを知らない人がいるかもしれないと思っていたが、そんなことはなかった。抜け目ない彼女の母親は、きっちりと彼女の昔の手帳だか何だかを探り当て、全員に連絡を取ったらしかった。

  いつも気丈にふるまい、誰にでも朗らかに接していた彼女の母親が、やつれ、生気をなくしているさまは仲間も見ていて胸が痛むらしく、誰もがしきりに彼女の方を気にして、気をもんでいる。僕だってそうだ。実際何かできるわけではないのだろうけど。



  式は滞りなく進み、結局予定時間よりも30分ほど早く終わった。

  死んでいた彼女は、存外綺麗な顔をしていて、何も心配することはないと言っている風に見えた。強がりな彼女の、生きていたころの口癖だ。

  挨拶諸々を終え、仲間たちと、駅までの道を歩く。誰もが驚くほどゆっくりと歩いているのに、何も話さない。いや、話せないのかもしれない。実を言うと式の間もそうだった。 誰も話すことができず、そっと黙っていた。

  当然と言われれば当然のことなのかもしれないが、この重苦しい雰囲気をどうにかしようと、口を開きかけた時、聞きなれた低い声がふと響いた。

  彼女はこの声が自分から離れるのがいやだったのかもしれないと思うと、なんだか納得できた。


「俺ら久しぶりに会ったんだ。理由はよくないかもしれないけど、なんか話そうや。たとえばーーショウのことでも」


  久しぶりに聞くとどうも安心して、涙が出そうになる。

  ショウというのは、死んだ彼女のあだ名だ。ショウコ、だからショウ。男の子っぽくてかっこいいから、と彼女に初めて会ったときに言われた。

  ちなみに先ほど口を開いたのはデカで、それは昔の刑事ドラマに出てきそうな顔だからとショウが名付けたものだった。

  確かに大柄でこわもての彼が一心不乱にドラムをたたくさまはある種の迫力があったし、それにつられる女性客も多かったかもしれない。


「俺、今さ、パティシエやってんじゃん」


  そうだ。デカはあんななりをして、パティシエになりたいからとバンドをやめてしまったのだ。

  いつも荒々しい姿しか見てこなかった僕らは驚き、けれど1度きりの人生なんだから、とそのたくましい背中を押した。彼は照れ臭そうに笑った後、真剣な顔をして1つだけうなずき、いつも僕らがたむろっていたショウの家から姿を消した。

  物理的にも存在の大きかった彼がいなくなった部屋は無性に広く、寂しく見えた。

  あれから一度も連絡は取っていなかったので、彼の行方は知らなかったのだが、今回元気そうな姿をみて少しほっとした。人生は一度きり、というのを身をもって体現してしまった彼女のことを思うとやるせないけれど。


「実はさ、俺がパティシエになりたいと思ったのって、ショウが原因だったりするんだよな」


  は? とスイが声を上げた。

  スイはギターの担当で、テンポの速い曲を得意としていた。ソロで発揮される彼女の高度なギターテクニックは、いつもほかのバンドマンから高い評価を得ていた。


「なんで? ショウが? あの子最後まで行かないでって泣きわめいてたじゃん」


  確かにそうだ。ショウはデカがバンドを辞めるといった瞬間泣き喚き、全員を困惑させたのだった。しまいにはデカに縋り付いて泣き始めたので、みんなで苦労してひきはがした。それでもデカが家を出る直前には最高の笑顔で、いつでも帰って来いよ、と送り出した。そこから先ほどのシーンにつながる。


「いやまあ、そうなんだけどさ。でももとはといえば、ショウが読んでた雑誌のスイーツ特集のパティシエの言葉になんか、ぐっときて。そんでそんときいってみたんだよ。俺ちょっとパティシエしてみたいかもって」


「そんで? ショウがそれで納得できるとは思えないんだけど。あの子、わりに繊細だし」


  スイが尋ねる。僕も隣で深くうなずいた。あの泣き叫びようと普段のショウの性格からして、簡単に納得するのはほぼあり得ないことだったから。


「それがさ、あいつ、やってみたら? ていったんだよ。ていうか向いてるって。バンドのことは後でもいいからさって。だからまさかあんときあれ程泣かれると思わなかったわ。 ていうか、泣くか? 言い出しっぺなのに」


  ふふっと笑いながらデカが言う。隣でスイもまぁあの子変わってたからなあ、と呟いてそっと笑った。僕も一瞬驚いたが、確かにショウならやりかねないと納得する。

  それから 誰もがショウとの思い出ひとつひとつに決別するかのように押し黙った。


「あたしがさ」


  不意にスイが口を開いた。


「あたしがこのバンドに入る理由って話したことあったっけ?」


  スイは僕たちのように高校のつながりで入った仲間ではない。ある日突然ショウが連れてきたのだ。

  ショウがバンドに関して人をほめたり、バンドに入れたいと言い出したりすることはほとんどなかったから、僕たちはしばらく口も開けぬほど驚いた。

  あと、スイは今でこそモノトーンでまとめてかっこよくきめているけれど、出会った当初は、かなり奇抜な恰好をしていた。

  赤く染められた後に、赤いカラコン。メイクはまるで宝塚みたいにどぎつかったし、服も黄色いタンクトップに虎の刺繍が入ったスカジャンというなりだった。いわゆるギャルである。まぁ当時はそんな言葉でくくれないほど派手だったのだが。

  とにかく唖然としていた僕らにショウは、


「新しく入る子。ギタリスト」


  とあっさり言い、僕らを余計困らせた。スイもスイでなぜか人見知りを発動させ、俯いたまま


「峰川水歌です。よろしく」


  としか言わなかったため、余計な沈黙だけが流れた。とりあえずこの空気をどうにかしようと僕もデカも口をもごもごさせていると、ショウが


「ひいてみてよ。ギター」


 とスイに言ってから、僕らのほうを向いて不敵な笑みを浮かべた。見事なゲス顔だった。

  スイはしばらくもじもじした後、困ったような顔をして、ギターケースからギターを取り出した。

  意外にもそれはシンプルなつくりで、スイとは全然溶け合わず、不格好に見える。そっと手を下したときでさえ、そうだった。

  けれど、彼女の手にネイルなどは全く塗られておらず、やっぱりアーティストなんだ、とはっと気づかされる。

  しばらくしてジャン、と一音鳴った。

  それだけだった。

  たった一音だけなのに、僕らの間に戦慄が駆け抜けた。隣でデカが口をあんぐり開けたまま固まっている。かく言う僕もそうだ。

  スイの音は、荒々しく狩りをするライオンのようであり、草原を爽やかに走る馬のようであり......とにかく口では言い表せないほどのものだったから。

  最後の音を弾き終えると、スイは不安そうな顔をし、唇を噛んだまままた俯いた。

  静かな時間が流れた。

  最初に拍手をしたのは誰だったか。

  次の瞬間にはわっと歓声があがり、ショウが自慢げにいいでしょ、いいでしょと繰り返し興奮していた。デカが大きな声ですげー、と叫ぶと、スイはっびっくりした顔をして、そっと下を向いた。

  パーソナルスペースなんて知らないというふうにデカは、そんな様子も気にせず、どーしたのよ、超絶うまかったじゃん、と言ってスイと肩を組んだ。

  ショウがそれをみてあたしもー、と駆け寄る。

  僕もしばらく迷った後、彼らに続こうと、二人にもみくちゃにされているスイに近寄ろうとした瞬間、彼女はばっと顔を上げた。


「ありがとう」


  涙でぐちゃぐちゃの顔に、満面の笑みを浮かべているスイに、僕も飛びついた。


  僕らはきっとそのときひとつになった。


  いまではそう思う。誰かが抜けたりするたび、僕らは孤独にその日のことを思い出し、余韻に浸った。もしかしたらライブ以上に楽しかったかもしれない瞬間が、もう一生訪れないことを知り、悔しくなって、少し、泣きそうになる。


「あたしね。前のバンドにいたとき、いじめられてたんだよね」


  だからこそスイが突然そう言いだしたとき、僕もデカもあの日と同じように、固まった。


  「なんていうかさ。やっかみっていうの? 前のバンドが全員ギターを弾いて、歌うっていうコンセプトのバンドでさ。自慢したいわけじゃないんだけど、あたし、その中でずば抜けてうまかったんだよね」


  そりゃそうだろう。あの時僕らがうけた衝撃もしかり、バンドで弾いていたときの評判もしかり......僕らのなかでも、彼女が一番高い評価を受けたはずだ。


「毎日毎日、ほんとひどかったよ。暴力受けたり、水ぶっかけられたり。よく飽きないなと思ったわ、ほんと」


「でもね、それをショウは救ってくれたの。最初は単なるバンドに入らない? ていうお誘いだったんだけど、それがだんだんいじめられてるの知ってる、とか私の仲間はそんなことしない、とかになってきて、最初はうっとうしいなって思ったわけよ、やっぱり。でもね、だんだんそうじゃないのかもって思い始めて。やっぱりそういうとこはショウの魅力だったのかな。なんていうか、一生懸命なとこ」


「結局ショウにほだされて、そんでこのバンドに入って、初めてみんなと演奏することが楽しいと思えた。特に初めて会った日。拍手されたときなんか冗談抜きに泣きそうになった。ていうか、泣いた。それで今日まで、きたわけだけど」


  僕らはしばらく黙っていた。

  スイにそんな過去があるんだなんて知らなかったし、そんな気配を彼女は微塵も見せなかった。

  やっとショウが、彼女をバンドに招きいれた本当の意味が分かった気がした。

  そっとスイの横顔を盗み見る。気の強そうな、意志の強そうな、瞳。その色をショウが気に入ったから、きっと彼女は今、ここにいる。

  僕らはお互い感動を分かち合うようにして、また黙った。

  ショウの生きた人生は短かったが、その明るい光に照らされるようにして、救われた人も、もっといるんじゃないか。追いつけそうで追いつけない彼女は、最高の薬であると同時に、人々を魅了する甘美な毒だ。癖が強く、飲めそうにないと思ったとしても、気づけば口に含んでいて、中毒を起こしてしまう。


「俺はさ、単に高校の時ショウと席が隣でさ」


 デカが沈黙に耐えられなくなったかのように話始めた。


「突然ドラムやらない? てかバンド入らない? ていいだしてさ。たしか、高一の秋。メンバーは? て聞いたら二人だけっていうからほんとびっくりした」


  その話は何度か聞いたことある気がする。隣を見るとスイも頷いていた。


「それで、ドラムを必死で練習してさ。実際やってみたら結構しっくりくるし、意外に楽しいしで、びっくりしたよ。俺とショウの出会いはこんな感じなんだけどさ」


  突然デカがぐりん、とこちらの方を向いたから驚いた。


「チナツ、お前はどうなの」


  僕のことは誰にも話したことはない。自分のペースが崩れるようで嫌なのだ。

  だから言われた瞬間、僕は素直にこの二人にも話したくないと思った。けれど、心の奥底深く。のぞけば僕がどうしたいのか、僕は知っている。

  黙ったままでいると、いや、別に言いたくなかったらそれでいいし、きいたことないなあっておもっただけだし、と慌ててデカが付け加えた。

  スイとデカは五年間バンドを組んだ 仲間だ。黙ったままの方がいいか、話したほうがいいのか、しばらく逡巡する。

  ふと顔をあげたときに、スイと目があった。飲み込まれそうな黒目を見て、なんとなくもう逃げられ ないなと観念する。


「僕の、話をしようと思う」


  若干震える声でそういうと、優しげに微笑むスイとデカ。


「やっと自分のこと話してくれた」


 とスイが嬉しそうに言った。僕は決意をするように唾を飲み込んだ。


「僕がショウと出会ったのは、高一の夏。その日はほんとに暑くて、ショウは何を思ったのか知らないけれど、屋上からプールをのぞき込みに来てたらしくて。僕はっていうと、 こんなこと言ったらあれだけど......」


  スイとデカが同時に首を傾げた。ふふっと少し笑うと、スイもデカも不思議そうな顔をした。


「死のうとしてたんだ」


  デカが顔をひきつらせた。スイは黙ったままだ。自分のことでも思い出しているのかもしれない。


「なんでかはあんまり覚えてない。高校時代は家の事情とか、学校でのいじめとか......。そういうのがいろいろ重なってて......。多分衝動的なものだったと思う」




  あの日。ショウと出会った日。もうすぐ夏休みの始まるころ。昼休み、僕は気づいたら全力で走ってて、気づいたら屋上のフェンスを握りしめていた。何も思わなかった。僕はヘタレだし、たぶんこれからのこととか考えてたら、とてもそんな勇気は出なかったと思う。ドラマとかでよく見る、ああ、これでやっと楽になれる、なんてセリフも浮かばなかった。 ただひたすらにどうやって飛ぶかを考え、どうやってフェンスを乗り越えるかを考えていた。

  そんな時だった。屋上のドアが大きな音を立てて開くのが聞こえたのは。その瞬間頭に浮かんだのは、ああ、めんどくさいな、という言葉だった。きっとこれから僕は、ドアの前で驚いた顔をして立っている少女に先生を呼ばれ、まだ人生は長いんだ、なんてお門違いな、ただ人を励ますだけの中身のない言葉をぶつけられ、いい子ちゃんのクラスメイトとかに謝りながら泣かれたりするんだろう。それからいじめっ子たちはたいして意味もないように思える取り調べを受けたり、親に事情を話したり聞かれたりして、二か月も経 つころにはきっと何もかもなかったことになってるんだ。

  現実から逃げるように僕はそっぽを向いた。彼女は驚いたような顔をして突っ立たままだ。


「先生とかに言うなら早くしてくんない?」


  ついに痺れを切らして僕は言った。何の余裕もなかった。ただ何かやるせないような、いやな感覚だけがずっとおなかの中を巡っていた。だけど、彼女はその驚いた顔を崩さないまま言ったんだ。


「なんで?」


 それからようやく驚いた顔を崩して


「君もプール見に来たの?」


 と一言。僕が今までの人生の中で一番驚いた瞬間だったと思う。たぶん誰がそこにいてもそうだっただろう。たとえいくら臭いものにはふたをする精神で彼女が言ったんだとしても、明らか飛び降りようとしていた人にそんなことを言うとは思えないから。

  あと、彼女の口調とか、表情の感じから本気でプールを見たいだけ、というか同じくプールをみにきている同士がいることに驚いている、ということが伝わってきた。


「なんでプールなんか見たいの? そんな面白いもんじゃなくない?」


  遠慮なくずかずかと寄ってきた彼女に、思わずそう聞いた。


「面白いよ?」


  とついに僕の隣に立ち、首を傾げた彼女にいや、なんでだよ、と突っ込む。それでもなんとなく彼女のそばにいると、自分が自分の殻を破っていくような感じがして心地よかった。


「私ね、歌を書く」


「歌?」


  なんだかびっくり箱のような人だなぁと思いながら聞いた。


「次の歌詞が思いつかなくて、授業中いろいろ考えてたら、急にプールはどうだろう、と思って、それで来た」


  プール。一体それがどうやったら歌詞に結び付くのだろうか。僕には単なる水をため込んだ装置にしか見えない。

  そもそも歌を書くということは、どっかで歌ったりするのだろうか。聞いている限り、話し声は、なんだか真っすぐに透き通っていて、とてもきれいだ。

  たぶん僕はその時まだむしゃくしゃしていた。だから、普段なら、絶対踏み込まないような ところまで、聞いてしまおうと思ったのかもしれない。


「よくそんなこと思いつくね。プールなんて。ていうかバンドでもしてんの? 歌を書くって」


  完全に自分のパーソナルスペースを壊してしまったなぁと後悔したが、もう遅い。それに隣の少女は、人を素直にしてしまう何かを持っているようだった。


「バンドはそろそろ始めるつもり。メンバーはまだいない。これから探す」


  暑い夏の日差しが彼女を照らしていた。白く輝く整った横顔は、彼女がまだ高校生であるということを忘れさせられる。そのまま二人でなんとなくプールを眺めていると、唐突にそうだ! と彼女が手を叩いた。思わずびっくりしてびくっとなると彼女はごめん、と言って笑った。


「君が入ればいいんだよ」


  バンドに入る。それはどこかの映画や本の、青春の一ページのような素敵な響きに思えた。楽器など授業以外で触れたことのない僕には到底無理だろうけど。それから、彼女が君、といったのを聞いて、まだ彼女の名前も聞いていないのを思い出す。


「僕は楽器なんてやったことないから無理だよ。あと、君、じゃなくて前川千夏。一年で、クラスは三組。そっちは?」


  彼女は少し考えるような素振りをした。

  なにか事情があって答えられないのでは、と慌てる。


「永田翔子。一年ニ組。隣のクラスだったんだ。知らなかった。あと楽器はうちにあるし、連休スペースてきなのもあるし、練習すればできるようになると思うよ」


  結局昼休みが終わるまで僕はバンドへの勧誘を続けられ、お試しで、ということで翌日ショウのうちへ行くこととなった。

  別れ際、歌詞は思いついたかと尋ねると、あなたのお かげで、とショウは答えた。あの時から、ショウは子供っぽいのにどこか大人の香りがする不思議な子だったと記憶している。


「てなわけだったんだけど。あと、ショウの家が想像以上にでかくて、びっくりした」


  デカとスイはそっと微笑んだ。何も聞かないのは、二人の気遣いからか。

  確かにでかいよね、とスイが笑った。


「みんないろいろあったんだなぁ」


  デカが感慨深そうに言う。


「なんかすごい子だったよねぇ」


  スイも少し泣きそうな表情をしながら言った。

  結局ショウとの思い出話に花を咲かせているうちに、思っていたよりも早く駅に着いてしまった。

  誰もがショウとの別れを惜しむように、駅のホームに入るのをためらった。

  しばらくしたあと、ふう、と息を吐いてスイがさようなら、と呟いた。僕らに手を振ったまま、電車に乗る。

  デカもじゃあ、これで、とスイのあとを追った。

  二人と反対方向の僕は、これで お別れだ。二人と同じように、心のなかでさようなら、と彼女に手を振って電車に乗った。


  目が覚めると、自宅の最寄り駅に着いていた。いつの間にか、寝てしまっていたようだ。長いこと寝ていたせいでだるいからだを起こすと、ホームに降りた。

  夏の夜特有の、生暖かい風が、頬を撫でる。

  帰り道、煌々と輝く満月を眺めながら歩いていると、急に、考えること、というショウの言葉がよみがえった。

  たしか、高二の冬くらいだったかなあ、と思い出す。

  僕らはああやって出会ったあと、結局お互いあまり親しい友達がいなかったどうし、屋上でお弁当を食べていた。

  デカは友達が多いたちだったので、クラスメイトとたべていたはずだ。

  彼女は突拍子のない性格だったので、わりといろんな人から嫌われていた。僕も、あのバンド勧誘にしろなんにしろ、散々彼女に振り回されてきたから、わからないでもない。

  ショウは一応朗らかな性格ではあったから、面と向かって嫌われているという感じではなかったけど、陰口はよく聞いた。隣のクラスにも回っているくらいだったから、 そうとうだろう。彼女もそれに気づいていた。

  それでも、決して自分を崩さない彼女にどうしてそんなに平気なのかきいたことがあったのだ。一度死のうとした僕は、そんな噂に耐えられないような奴だったから。

  それに僕と彼女の関係はたぶんかなり変で、思ったことをすぐ口にだすから、お互いを傷つけるようなことも平気で言っていたけど、それに怒ったり、とくに喧嘩したりすることもなかった。


「真面目に生きていない奴のいうことなんて聞く必要ないよ」


  あの日僕が飛び降りようとしたフェンスの網目をなぞるようにして、彼女は言った。


「別にみんな真面目に生きてるんじゃない? 僕なんかより、よっぽど。ていうかそれどういう意味?」


  不思議だった。彼女の目にこの世界がどう映っているのかはわからないが、人は、いや、動物でさえ、全員平等に見えているように思っていた。なんとなくだけれど。彼女は 人と線引きをするような人ではなかったから。

  ショウはなんていうんだろう、としばらく考え込んだ後、ほんと手を打った。


「たぶん、考えること」


  彼女は呟くように言った。考える? とききかえすと、ひとつ頷いて、


「なんで自分は生まれたのか、何をするべきか、何をしたいのか、そういう答えのない問いをひたすら考え続けることだと思う。深く、考えて、考えて、考えること。人生に必要ではないけれど、自分なりの答えを出すことは、きっと素敵な人になるために、必要なことだと思う。それで......」


 また考え込むように黙った後、振り返って、白い歯を見せて悲しげに笑う彼女によくわからないなあ、と思いつつ、とりあえずふうん、とうなずいた。

 

  結局。ちかちかと揺らめく蛍光灯が目に写って、ぼんやりと現実に戻った頭で考える。結局、彼女はそうやって考え続けて生きていたのだろうか。何か、大切なものを探し続けたのだろうか。僕にはわからない。

  彼女は確かに素敵な人ではあったけれど、その実、何を考えていたのか、予想もつかない人でもあった。

  ふと彼女の白い歯が脳裏に蘇った。考えること、と紡いだその小さな口は、跡形もなく細い骨になった。

  でも。それでもまた、いつか会えたなら。

  彼女の薬を全身にいきわた らせるようにして、僕は願う。

  聞かせてくれるだろうか。その続きを。彼女なりに生きた、人生の答えを。

  僕は微笑むと、明日へ続く道を歩き始めた。

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いつか 時雨 @kunishigure

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