第五章 鎌倉時代編

第22話 1192(いいくにつくろう)は嘘!? 本当の鎌倉幕府樹立とは!?

 学校の授業で「いいくにつろう! 鎌倉幕府!」と習ったと思います。これは『1192年に鎌倉幕府が樹立した』という語呂あわあせで、歴史が苦手な人でも知っているくらい有名です。


 しかし最近の研究では鎌倉幕府が樹立したのは「1192年じゃない!」という説も出ています。

「いいくにつろう」で覚えた、私の小学生時代はなんだったんでしょうか?


 過去を嘆くのはこれくらいにして、本当の鎌倉幕府が樹立した時期を見ていきましょう! と言いたいところですが、いつ樹立したのかは、曖昧なものが多く、ハッキリ断言できないようです。

 それでは鎌倉が国の中心となり、いつ幕府成立説を見ていきましょう! 



【説その① 1180年説、侍所設置説】

 今まで歴史を見てきたように、源平合戦の最中、頼朝は神奈川県の鎌倉を拠点にしましたよね。

 これは1180年の事なのですが、頼朝は鎌倉に『侍所さむらいどころ』という機関を作りました。

 

 この侍所というのは、戦闘発生時に武士や、頼朝の家来である御家人ごけにんに指示を出す機関です。

 つまり侍所というのはブライ○さんが、アム○・レイに指示を出しているホワイト○ベース。碇ゲ○ドウが、碇シ○ジに指示を出してるネル○本部みたいなものです。


 侍所が設置された事によって、関東武士は統率されたので、武家政権である鎌倉幕府が樹立したというのが、『1180年、侍所設置説』です。

 しかし、この時の鎌倉は軍事拠点として機能していますが、平清盛は健在だし全国制覇も果たしていないので、「鎌倉が国の中心」とは言いがたいですね。



【説その②1183年 頼朝東国支配説】

 1183年、朝廷は頼朝による東国(関東)の支配権を認めました。鎌倉が関東の中心となったわけですね。

 しかし、まだ平家は健在だし、支配権は関東限定なので「国の中心」とは言いがたいです。



【説その③1184年 公文所くもんじょ問注所もんちゅうじょ設置説】

 公文所くもんじょというのは、政務と財務を行う機関で、現代の国会議事堂みたいなものでしょうか。

 そして問注所もんちゅじょというのは、裁判所みたいなものです。

 

 公文所と問注所という2つが成立した事によって、鎌倉が政治を担うための機構は整ってきました。


 しかし、1184年まだ源平合戦の真っ最中ですし、頼朝の支配権は関東だけで全国には及んでいないので、やはり「鎌倉が国の中心だ!」と宣言するには、まだ早そうです。



【説その④ 1185年、頼朝が全国の守護・地頭の任命権を認められた説】

 1185年3月に壇之浦の戦いが起き、平家が滅んだので源平合戦は終了しました。

 そして、この後、頼朝と義経の仲が悪くなり、義経は姿を消しました。


頼朝「おい! 朝廷。いなくなった義経を探すから、守護・地頭の支配権を俺に渡せ」


朝廷「ひいいい! 頼朝怖いよぉ。なにすからわからないから、ここは従っておこう」


 このように頼朝は『義経捜索』を理由にして、朝廷から守護・地頭の支配権を奪うわけです。


 あ、そうそう! 守護というのは警察と軍事を担う機関です。そして地頭というのは土地管理、年貢の徴収を行う機関です。

 警察、軍事、土地、税金、これら国を運営するうえで、重要な機関を頼朝が支配しはじめたので、鎌倉が国の中心になってきたといえます。



【説その⑤ 1192年、頼朝、征夷大将軍になった説】

 さて、いよいよやってきまた、「いいくにつくろう」の1192年説ですね。 


 この年に頼朝が征夷大将軍に任命されたので、「鎌倉幕府が成立した!」と主張するのが、この説です。


 歴史を見てきたので知っていると思いますが、あらためて征夷大将軍についてお話します。

 征夷大将軍というのは元々、蝦夷(東北)を征服するための役職でしたが、平安末期になると全国のサムライのリーダーという位置付けになってきました。

 またサムライが中心となっていく、鎌倉~江戸の武家政権では征夷大将軍が、国のトップとして君臨する訳です。


 しかし、1192年より前、1185年の時点で頼朝の支配権は全国に及び、鎌倉はすでに国の中心となっていました。


 なので最近では1192年ではなく、1185年が本当の「鎌倉幕府が成立した年」として有力視されています。



【源氏ターン、終了のお知らせ】

 征夷大将軍になった頼朝は、全国のサムライのリーダーになりました。


また、朝廷から政権を奪ったので、初の武家政権である『鎌倉幕府』が頼朝によって、立ち上がりました!


 しかし、1199年に頼朝は死亡してしまいます。しかも頼朝の死因はハッキリとした記録が、残っていません。

 

 落馬が原因だったとか、病気で死んだとか、色々説はありますが、あれだけ目立っていた頼朝は忽然と歴史から消えるのです。


 そして、頼朝の子供である頼家よりいえが将軍を継ぐのですが、横暴な態度により周囲から反感をかいます。

 こうして鎌倉幕府は開始早々グダグダsてくるのです


 一方、京都の都では……


後鳥羽上皇「鎌倉幕府を倒して、政権を奪い返してやる!」


 なんと朝廷が倒幕のために、動き始めたのです!


 頼朝がいなくなった源家は頼りないし、京都からは朝廷軍が迫っています。


 いったい鎌倉幕府はどうなってしまうのでしょうか!?

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