第23話 鎌倉に朝廷が攻めてきた⁉ 承久の乱

【鎌倉時代スタート!】

 400年も続いた平安時代が終わり、いよいよサムライ中心の世の中になりました。


 ここで、少し今までの歴史を振り返りましょう。


『天皇VS貴族VS仏教』の派遣争いの構図は、いつの間にか『天皇VS貴族VS武士』へと変わり、そして『源家VS平家』という武士同士が争う時代がやってきました。


 鎌倉幕府は元々、源平合戦のために作られた軍事拠点でした。

 しかし、頼朝が守護・地頭を支配下においた事により、警察、軍事、徴税など様々な権限を朝廷から奪った事により、鎌倉が政治の中心となっていき、鎌倉幕府が成立します


 そして「いいくにつくろう鎌倉幕府!」で有名な1192年に、征夷大将軍になった事により全国の武士のトップに立ちます。


 しかし、征夷大将軍に着いてたったの数年で、頼朝は死亡してしまいました。

 なんと頼朝は、あっさり歴史の表舞台から消えしまいました。しかも死因はわかっていません。



【鎌倉時代の中心は、なぜ北条家なのか?】

 学校の授業では、鎌倉幕府は源家が開いたはずなのに、いざ鎌倉時代が始まったと思ったら、急に源家の名前が消え、北条家の人物ばかり出てきますね。


 北条家は源平合戦の序盤でも出てきました。

 地位も力もなかった頼朝を、サポートしたのは嫁の北条政子です。さらに政子の実家の北条家が頼朝の後ろ盾につき、兵士や武器を駆け出しサムライの頼朝に渡しました。


 源平合戦の時は脇役だった北条家ですが、鎌倉時代になると源家を差し置いて北条家が目立ってきます。


 ではなぜ、源家の名前が消え、頼朝の嫁の家である北条家の方が注目されるのか、見ていきましょう!

 


???「いらない将軍はしまっちゃうよ」


頼家「やめて! しまわないで! 時政ときまさおじいちゃん!」


時政「いらない将軍は、しまっちゃおうねー」


頼家「いやあああああ!」


 なんと、頼朝の息子である頼家が、将軍職を継いだのですが、数年でおじいちゃんの北条時政ほうじょうときまさの手によって、伊豆のお寺に幽閉(しまっちゃう)されてしまいます。

 

 さらにこの後、頼家は暗殺されてしまいます。


 その理由は頼家がお母さんである北条政子と、その実家の北条家と対立したからだと言われています。

 

 さて、頼家のあとは弟の源実朝みなもとのさねともが将軍につくのですが、頼家の息子で公暁くぎょうに暗殺されました。


 そして公暁もすぐに殺されてしまうので

す。


 こんな感じで頼朝の亡きあとの鎌倉幕府は、身内同士で内輪モメばかりしています。


 

【将軍の血が途絶えた⁉】

 鎌倉幕府の創始者である頼朝は、従兄弟の義仲だろうが、弟の義経だろうが、容赦なく殺してきたので身内はいません。

 唯一、頼朝の血を引く公暁が死んだので、幕府創立からたった30年で、将軍の直系が途絶えてしまったのです。


 さて、将軍がいなくなって、鎌倉幕府は大変な事になるでしょう……


時政「将軍がいなくなったから、俺が政治するよ」


 あらら? ちゃっかり北条時政が、政権を握りました。

 この将軍以外の人物が政務を行う役職を、執権しっけんと言います。平安時代の摂関や院生に似ていますね。


 また、執権というのは、鎌倉時代にはよく出てくる用語です。


 こんな感じで『将軍の血が途絶えたので、頼朝の嫁の家である、北条家が執権という形で実権を握ったため、鎌倉時代は北条家が中心となっていきます』


 さて、政権は北条家が握っていますが、幕府の中心となる将軍がいません。


「北条家が将軍になればいいんじゃないの?」という声も聞こえてきそうですが、北条家は戦で功績や実績を残していなかったので将軍になれなかったのです。


 しかし幕府を維持するのは征夷大将軍が必要です。どうする北条家!


 一方その頃、京都では内輪モメばかりでグダグダの鎌倉幕府を見て、不敵に笑っている男がいました。


後鳥羽上皇「くっくっく、鎌倉幕府め! 将軍もいないし弱っているのは明らかだ! 今こそ倒す時がきた!」


 なんと! 京都では朝廷が、幕府から政権を取り戻すために動いていたのです。


 鎌倉幕府はいったいどうなってしまうのでしょうか!?


【後鳥羽上皇VS尼将軍 承久じょうきゅうの乱が発生!】

 江戸時代ともなると、長く政権を奪われていた天皇は「政治は徳川にまかせるでおじゃる」といった感じですっかり丸くなっていてます。

 しかし、武家政権が始まったばかりの鎌倉時代の天皇はとてもパワフルで、幕府によって奪われた政権取り返そうとします。


『天皇VS仏教VS貴族』による覇権争いの構図は、鎌倉時代になると『仏教と貴族』が消え、『天皇VS武士』になっていきます。


 この新しい覇権争いの図は、しばらく続きます。


 さて、後鳥羽上皇は「打倒、鎌倉幕府」を掲げ、軍事強化を図り『西面の武士』という戦闘集団を創立したのです。


 そして将軍がいなくなり内輪モメばかりしている鎌倉幕府に対して……


後鳥羽上皇「北条君たちへ、君たちをやっつけにいくから、覚悟してね」


 こうように北条家を倒す宣言をしたのです。


 これは鎌倉および関東の武士たちに、大きな動揺を与えました。


武士A「ヤバイよ! ヤバイよ! 朝廷軍が攻めてくるよ……」


武士B「俺たち、日本の敵になっちゃったよ」


武士C「もう、鎌倉はおしまいだー!」


 こんな感じで多くの武士がうろたえる中……


政子「あなた達! 武士なんだから、落ち着きなさい!」

 

 なんと武士達の前に、颯爽と現れたのは頼朝の妻、北条政子でした。


政子「皆さんよく聞いてください。朝廷によって虐げられていた関東に、鎌倉幕府をつくって、皆さんの生活と地位を向上させたのは、今は亡き頼朝様のお陰じゃないですか! その恩は山よりも高く、海よりも深いのに、それを忘れたというのですか!? もし、この中に頼朝様への恩を忘れて、鎌倉を出ていこうする者がいるのなら、どうぞ出ていってください! その代わり、出ていく前に鎌倉を焼き付くし、私を殺してから行きなさい! さあ、私を斬れ!」


 うろたえていた武士達は、政子の演説を聞いて奮い立ちます。


武士A「そうだ。今の俺達がいるのは、頼朝様のお陰だ!」


武士B「俺、鎌倉のために戦うぞ!」


武士C「政子さん! 俺、一生ついていきます」


 政子の演説を聞いた武士達は一致団結し、朝廷と戦う決意を固めました。


 この演説によって、政子は『尼将軍』と言われるようになります。


 そして……


後鳥羽上皇「覚悟していろよ、鎌倉幕府め!」


政子「鎌倉幕府は私が守る!」


 なんと『尼将軍 北条政子』VS『後鳥羽上皇』による戦い、『承久の乱』が始まったのです!


後鳥羽上皇「武士の時代だって!? 笑わせるな! この日本は天皇家が支配するんだよぉぉぉぉ!」


政子「新しい時代は、サムライ達が切り開くのよ! 喰らえ、鎌倉アタック!」


後鳥羽上皇「な、なんだこの力は!? バカな!? 上皇であるこの私が、押されている、だと……ぐわあああああああ!」


(おもしろくすため、政子を中心に書いていますが、実際に出陣したのは政子の甥の北条泰時ほうじょうやすときです)


 政子に演説によって一致団結した鎌倉軍はとても強く、朝廷軍を倒したのです。


 そして京都の都は、幕府によって抑えられてしまいます。



【朝廷を見張る、六波羅探題ろくはらたんだいの設置】

 政子に敗北した後鳥羽上皇は、島流しの刑に処されてしまいました。


 天皇家を島流しにするなんて、とんでもない時代ですね。令和になった現代では、考えられませんね。


 さて、京都を抑えて鎌倉幕府は、六波羅探題ろくはらたんだいという、機関がつくります。


 この六波羅探題がどのようなものだったのかというと……


北条「天皇、変な事してないよね」


天皇「はい! してません!」


北条「反乱なんて起こさないよね。起こそうとしても、ちゃーんと見張ってるかね」


天皇「僕ちゃん! いい子にしてます! 幕府には逆らいません!」


 このように朝廷が反乱を起こさないように、監視するものでした。

 

 六波羅探題を京都に置いたことにより、朝廷をおさえつけたので、鎌倉幕府の支配は絶対的なものになりましたが、征夷大将軍は不在です。

 

 そこで北条家の人達はどうしたのかというと……


「貴族から、将軍の血を引いている人を、連れてこればいいんじゃない? そういえば頼朝の妹のひ孫が子供が産まれたらしいよ」


 この案に対して、北条家一同は「それだ!」という事で、満場一致。


 頼朝の妹のひ孫って、なんだか微妙ですが、ギリギリ源家の血を引いている藤原頼経ふじわらよりつねが鎌倉幕府に迎え入れられ、四代目将軍になるのです。


 しかし頼経ですが……


頼経「ハーイ、チャーン、バブー」


 なんとまだ赤ちゃんでした。どうみても形だけの将軍ですね。


 とはいえ新たな将軍を迎え入れた事により、将軍を中心とする鎌倉幕府はなんとか形を保つ事ができ、政権は北条家が運営するようになっていったのです。



【受け継がれる秘伝のタレ!? 御成敗式目ごせいばいしきもくとは?】

 鎌倉幕府を語る上で、、御成敗式目ごせいばいしきもくは外せません。


 この御成敗式目、日本史の授業でも出てくるので、歴史上重要なものだったというのはわかりますが、一体どのようなものだったのか見ていきましょう!


 御成敗式目を一言でいうなら「武士による、武士のための、武士の法律」という感じです。


 この法律を制定したのは、北条泰時です。そう承久の乱で活躍した、政子の甥ですね。


 され、御成敗式目がなぜ重要なのかというと、この法律はメチャクチャよく出来ていて、この後の時代でも続いていきます。


 室町時代には御成敗式目をベースに、法令を追加した『式目追加』が作られます。

 

 戦国時代にはさらに『分国法』へと変わり、最終的に江戸時代の『武家諸法度ぶけしょはっと』へと受け継がれていきます。


 武士の時代のルールの始まりが、御成敗式目なのです。

 まさに、受け継がれる秘伝のタレみたいなものですね!


 承久の乱に勝ち、朝廷を押さえ込んだ鎌倉幕府は、御成敗式目という優秀な法律もできたので、軌道にのる事ができました。


 国内に敵がいなくなったので、平和が訪れます。


 そして、世の中が安定すると、文化が発展していきます。次回は鎌倉時代に花開いた『鎌倉文化』を見ていきましょう!



 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る