本懐
濱口 佳和
本懐
なんともまあ、月のきれいな晩でござんすなあ。
こうして月を見あげていると、死んだ母を思い出しましょう。
幼心にも、大層うつくしいひとでございました。
亡くなったのはわっちが五歳。ところは江戸の裏長屋でございました。なんにもない暗くじめじめした、ひどく寒い処にございました。
父に連れられ生国を出たのは三つの時でございます。それからわずか二年。病の床についてそのまんま、あっけなく旅立ったのでございます。
わっちがお江戸へきた理由でござんすか。
お話してもようございますが、本当にこんな辛気くさい話をお聞きになりたいと、そうおっしゃいますのか。
ならば、どうぞお聞きくださいまし。女郎のたわごと、口先からの出まかせと一笑にふしてもようございます。
はい。
わっちの生国は、山国のさる小さな領国でございました。お殿さまは、先代の大殿さまのお妾さまのお子とかで、祖父はそのお子にお仕え申し上げていた侍のひとりだったそうでざいます。
驚いたお顔をされますなあ。
見る果てもございませんが、これでもわっちは武士の娘。侍の子でございます。
とはいうものの、国許を出たのは数えでわずか三つ。なあんにも覚えておりません。
国許を出た理由は、あれ、あれでございます。武家の因果な倣いでございます。名誉なこと。家名の誉れ、まあ、そんなところもございましょうが、確かに、武家に生まれたからには逃れられぬ、果たさねばならぬ務めでございました。
ひとは産まれ処を選べません。其処で精いっぱい生きるしかございません。
わっちの場合、それがたまたま仇討ちにさすらう、そんなさだめの家でございました。
討たれたのは祖父でございます。なぜ討たれたのか、その後仇がどうしたのか、父はなにも申しませんでした。母が亡くなり、兄は十の時に行方知れず。父は必死に働いたようでございましたが、なにせ侍の
知らぬうちにできた借金のかたに、女郎屋へ売られたのは十四の時でございます。
そこから流れ、流れて
父親は、とうに死んでおりましょう。女衒と行って以来、ゆくえを聞くこともございません。消えた兄も生きているのか死んでいるのか。いまのこの姿に、悲しむのか怒るのか。ときおり、そっと思ってみることがございます。眼裏に残る母の笑顔を思い浮かべ、のっぺらぼうのような顔は白くぼんやり細く痩せていて骸骨のような指をのばして、わっちのこの頬を撫でたのでございます。
──堪忍してね。
わっちは襤褸を着て、名ばかりの柱を背にして眺めておりました。父の背ごしに部屋の隅を見つめ、母が去るのを眺めておりましたのさ。
そのとき、さやとも吹かぬ風が抜けました。
命が吹き消える音は、なんともの悲しいものか。赤い細い糸でひとくくりにしたこの指を締め上げ締め上げ、一筋の跡が両の手のひらにくっきりと残っていくようでございました。つかんでいたものが、すいと手のなかから消えていくような、父のぜいぜいという悲鳴を聞きながら、四つ上の兄は母の枕元に立ち上がり、そうして──さあ、どうしたものか、そこでぷっつりあとはおぼえておらぬのでございました。
線香の一本もございません。
その夜、父は母の亡骸を背負い、どこぞへ行って葬ってまいったようでございます。
そういえば、月がきれいな晩でございました。竈の上のから夜空がのぞき、あそこに母はいるのだと闇のなかで思ったことを覚えております。
ああ、仇の名でございますか。
確かそう、確か、片倉とか、吉倉とか。祖父の務めの下役であったと聞いております。祖父が大層目をかけた若いお方だったそうで。孫ほどの年の、親の勤めを継いだばかりのお方だったそうにございます。
祖父との間になにがあったのか。
いま思うと、父はその男を探してはおりませんでした。幼い子を二人抱えて、日々の暮らしに追われていたのでございましょう。それともなにか仔細があったのか。
すべてはとうに終わったことでございます。
溷の女郎の身の上など、どうでもよいこと。
さあ、旦那さん。もう一本線香を立てましょうに。
なにを泣いておりますか。
わっちが哀れと思し召すならば、もう一本、線香を立ててくださいまし。
なにをお泣きになるのか。武門に生まれたからには逃れられぬ定めにございます。どうか、どうか、この哀れな女郎のために、あと一本線香を立ててくださいましな。
後生でございましょう。
本懐 濱口 佳和 @hamakawa
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