神亡き世界の呱呱の聲⑰
「ごほ、ごほっ――」
雨は止まず、やがて雪に変わった。
暗く染まった世界は暗く染まったまま、今度は白に包まれていく。
穏やかな気候のままの赤い世界は、その唐突な冬の訪れに戸惑ったが、しかし彼女は微笑みを絶やさなかった。
その理由の一つに、天という蒼いヒトガタの存在があった。
かつてレヲンであり、更にその前はシシだった彼女にとって、天は特別な存在だ。
彼こそは
そんな特別な彼は、彼女に修復を施されてからというもの、黒い魔獣の討伐に日がな赴いた。
体表に
五体を循環する血すらも黒く濁り、咳き込むと破れた喉や口蓋等の粘膜から飛び出た。
治療法は確立しなかった。
しかし郊外から徐々に国を蝕んでいくその流行り方は、病原はあの黒い魔獣だろうと推測された。
幸い、天はヒトガタだ。ヒトガタは病を知らない。
だが彼は唯一無二の存在だと言える。彼の他に、この地にはヒトガタはいない。
だから彼とともに黒い魔獣の討伐に向かう義勇兵は皆、英雄と持て囃された。同時に多額の恩賞が与えられ、だが日に日にその数は減っていった。
皆、黒くなって死んでいった。
「ごほっ、ごほっ――――」
彼女の指示の下、新たなヒトガタの製造が始まった。
黒い病を蔓延させる黒い魔獣たちを討伐するのに、天と同じようなヒトガタが必要だった。
彼同様にこの地において唯一無二の存在である、天使の少女もまた、天のように病とは無縁だった。しかし少女がそうすることを、彼女は拒んだ。
「どうして、私は行ってはいけないのですか」
少女は力強く追求した。自分には火を操る
「駄目。あなたがいなくなったら、私が悲しむもの」
そう言われてしまっては、もう何も言えなかった。
「ごほっ、ごほっ――――――」
自分に何が出来るのかを少女は見出せないまま、数世紀ぶりに訪れた冬はどんどんと世界を白く染めていく。
そんな様相に反して――まるで少女が目覚めた時のように――世界の内側はどんどんと黒ずんでいく。
「天使様」
「創造主様が……」
「え?」
辛うじて訃報では無かったものの、少女の顔はその透き通るような肌も相俟って全く真っ青に染まっていた。
病に伏せる彼女は、しかし少女が目覚めた時と変わらず、未だ青春の真っ只中にある可憐さを微塵も失っていない。
もう何世紀も生きた彼女は想像もつかない程に老齢であるのにも関わらず、それが神の座を継いだ代償なのか、それとも違う何かの所以なのか、外見上は全く老けていなかった。
だが、艶やかだった金色の髪は
「――――、」
「
重たそうにゆっくりと瞼を持ち上げた彼女は、傍らで床に両膝を着いて自分の身を案じる少女の愛らしい、しかし悲痛に歪んだ表情を見て絶句した。
どれくらい気を失っていたのだろう――見れば自室にいることから、運ばれたことにも気付かなかったのだ。
「
途端にぼろぼろと大粒の涙を零す少女の姿に、「もう大丈夫」と言いかけてそれをやめた彼女は、同じように自分を案じる赤い髪の役人たちに退出を促した。
無論、自らが神と崇める彼女にそう乞われれば聞かないことなどするつもりが無い彼らは一様にぞろぞろと部屋を出、彼女の寝室には彼女と少女との二人だけとなった。
「
どうして、彼女はそうしたのだろう――天が現れてから積もるばかりだった少女の不安はここに来て爆発しそうな程に膨れ上がった。
「ずっと、……ずっと、怖かったことがあるの」
「怖かったこと?」
「そうよ」
俄かに口を噤んだのは、それを語ることすらもやはり彼女にとっては恐ろしいのだろう。
だがそれが何なのかを少女は知らない。知らないからこそ、知りたいという欲求は芽生える。同時に、彼女がそこまで恐れるものを、自らもまた忌避したいという二律背反も。
「あのね、」
「……はい」
何度か、紡ごうとしてやはりその涸れた唇は噤まれた。
目頭に、
恐れの正体を。
それはまるで懺悔のようだった。
それはまるで償いのようだった。
「私、……あなたに、」
「私に?」
「あなたに……ずっと、名前を」
「――名前」
ずきり――――少女の脳を、その瞬間に激痛めいた衝撃が奔った。
そうだ。
そうだ、名前だ。
ずっと、ずっと求め続けていた。
何故なら少女は天使であり、彼女はその創造主だ。
天使は創造主たる神に仕えるために、その役割を意味する名を冠せられる。
名は、命題だ。
役割であり意味であり、無くてはならないものだ。
ずっとずっと、少女には名が無かった。
だがそれでも良かった。
はじめ、世界には少女と彼女しかいなかったのだから。
彼女の告げる全てが少女にとっては役割であり、意味だった。
それで、それだけで良かったのだ。
「名前をね? …………つけるのが怖かったの」
漸く吐き出した恐れの正体。
それを知って尚、少女は分からなかった。彼女が恐れることが分からないままだった。
だが少女もまた、彼女のように恐れに塗れた。
深い水底に墜とされたように冷たく、藻掻けない程にきつく縛られた激情が喉を絞める苦しさに呻きすらも上げられない――だからそのまま、彼女の言葉を聞き続けるしかなかった。
本当は、もう耳を塞いでしまいたい。だがそれは出来ないのだ。
創造主が、彼女がそれを吐き出そうとしているのだから。
その使いである少女は、それを聞くことしか出来ないのだ。
――――だが。
その言葉すらも、懺悔すらも、正しく紡がれるとは限らない。
「ごほっ、ごほっ――――――――ぜひぃ」
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