神亡き世界の呱呱の聲⑱
「ごほっ、ごほっ――――――――ぜひぃ」
明らかに呼吸音がおかしかった。締め上げられた気道の涸れた粘膜に呼気が
「
呆然としながら、少女の視線は咳き込んだ際に吐き出された彼女の、黒く濁った体液が作る染みに注がれていた。
「ぜひ、ぜひぃ、ぜひゅう――」
「
少女の悲鳴じみた号を聞いた役人たちは何事かと室内に押し寄せる。退出を促された彼らではあったが、彼らもまた彼女の不調は把握している。だからこそ有事の際に備えて表の廊下で整列して待機していたのだ。
「
慌ただしく急拵えの治療が始まり、ただ何も出来ずに立ち尽くしながら泣き喚く少女はその場から連れ出された。
神ですら冒す黒い奇病が、この世界に
――いや。そもそも、その場においてただ泣き喚くしか出来ない者など不要だ。邪魔でしかなかった。
そして結局。
少女は自身の名を、この時においてもまた、聞きそびれてしまっていた。
◆
「天様!」
遠く離れた王都郊外で、天の耳にもその情報は入れられた。
病を恐れぬ、或いは病を上回る恐怖を抱える義勇兵を引き連れて赴いた先で、黒い魔獣たちの巣をまた一つ潰した直後のことだった。
しかしこのヒトガタは顔色を一切変えない。ただただ無感情に、それこそ先程まであの屈強な黒い魔獣たちを斬り屠った時と同じ表情で神の不調を聞き入れた。
そして、一言――ただ一言、呟いた。
「――ここか」
「今、何と?」
義勇兵の疑義に応じず、天は身を翻した。
進む先は次の目的地であるあの黒い魔獣の異なる棲み処――では無い。天の真剣な眼差しが向く先は王都であり、空を衝くあの鐘楼塔に注がれている。
「天様、どちらへ?」
「創造主様の一大事です。討伐は一度中断し、
「はっ!」
ビシっとした敬礼に見向きもせず、天はその健脚ぶりを遺憾なく発揮した。そうして義勇兵たちの目の届かないところまで離れたならば、彼らには見せなかった彼の“奥の手”を解き放つのだ。
「――
自身と目的地の狭間に存在する“隔絶”を排し、瞬間的な移動を果たした天は鐘楼塔の内の螺旋階段の中腹へと転移した。
自身に紐づけられたあらゆる事象・概念を切除することでそれと引き換えにありとあらゆるものを斬り棄てる“切断”を可能とする彼が、その時何を代償としたのか。
すでに彼はもうそれが何であったのかを知りはしない。元より、天という存在は自分自身以外に然程興味を持たない性質を持っていた。
だが今の彼がそうなのか、と問われれば。
それは“違う”と答えるのが適切だ。
彼は、――天は。
――天ではない。
天という
彼と彼とは二つで一つだ。かつてカエリだった天に牛という魂を秘めた刀が合わさることで彼らは天牛という
だが楽園での最終決戦に於いて、神の放った灼熱を遥かに凌駕する冥の“死”を前に、天は結局何も出来はしなかった。
全てを喰らう山犬の暴食すらも破り去ったあの黒い帯は一体を白く染める聖火すらも悉く殺し尽くし、やがて楽園そのものすらも滅ぼした。
再三放たれた天の“切断”は死すらも容易く斬り裂いたが、しかし冥の躯体から次々と溢れる死に比べ、彼がそれを繰り出すために切り捨てる代償は余りにも僅か過ぎた。
だから天の躯体はやがて動かなくなり、そして黒い死に塗れ死んでいく――筈だった。
間一髪。
刀から躯体に移った牛の魂は行使された
それは、かつて牛が牛飼七月だった時に異世界にて修得した魔術めいた技術の一つだ。
牛飼七月として、そのスキルを修得することに躊躇いや後悔はあったものの――それでも牛は牛として、かつての
最早天の躯体は全てを切り捨てたために自律性を損なっていた。その躯体を動かすためには牛が躯体に潜って直接制御権を握る必要があったのだ。
そして間一髪で繰り出した“切断”により滅びゆく楽園を逃れた彼は、刀を失いながら地面に墜落する。
それと同時に目にしたのは、黒い死によって蹂躙され滅びゆく楽園の最期だった。あの中に居れば、自分とて生き永らえることは出来なかっただろうと牛は絶句した。
その手に刀はありはしなかった。
また、墜落した際に天のヒトガタとしての性能は最早ガラクタ程度にしか残らなかった。そもそも“切断”を行使しすぎたことで彼は何もかもを切り捨て過ぎていた。
だからこそ牛は天の影となり、本来の実体と影という概念すら無理やり取り違えて躯体を動かした。
幸い、複製したことで牛の本来の魂は刀に宿ったままだった。だからどれだけ遠くにいようとも刀の在り処は常に把握できていた。
また、影である自己が再び躯体の内に潜ることで瞬間的に戦闘行為に及ぶことも出来た。歯痒かったのは、それを恒常化することが出来なかったことだ。
結局、天を動かしていたのは複製に過ぎない、影に過ぎない牛だ。それは牛の躯体では無く、だからこそ一瞬しか操れなかったのだ。
それでも彼は刀に辿り着き、そして天を欠いたまま再び天牛となることが出来た。
複製では無く本体なのだから、牛は今度こそ恒常的に天を動かすことが出来た。しかしその躯体がガラクタであることは変わらない。緩慢にも劣る速度に焦らされても、それをどうこうすることは牛には出来なかった。
それも邂逅を果たしたレヲンが
天牛という
だが、それは天だけを欠いていた。それは牛だった。天の振りをする、滑稽を演じ続ける牛でしか無かった。
天は。
自分自身をも切り捨てていた。あの、神との戦いの最中には。
だからここにいるのは、螺旋階段を静かに上るのは天では無く牛だ。天の格好をした、天の振りをする滑稽な牛だ。
躯体に残る天の記憶、記録を盗み見ながら、創造主の座を引き継いで現代の神となったレヲンにそうとは気付かれないように振舞う彼なのだ。
でも彼は、それがレヲンだと知って愕然とした。
刀を握れないのだ。
振ることが出来無いのだ。
躯体が、どうしてかそれを許さないのだ。
神を殺すことを――いつか狂人と交わした契りを、自身の命題を果たすことを赦さないのだ。
だから彼は鐘楼塔へと向かった。
あの少女のいる、その塔の中腹、その部屋へと。
あの少女が引き籠り、泣きじゃくっては何も出来ないでいる、その部屋へと。
名を知らぬ少女に、その命題の行方を問うために。
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