神亡き世界の呱呱の聲⑮
◆
少女が息を切らして走ったのは、死に向かうこの世界に絶えたと思っていた命を見付けた喜びを一早く共有したかったからだ。
もしも少女の背に本来天使が有している筈の翼がちゃんと備わっていたのなら、もっと早く駆け付けられた筈だった。
それがどうにももどかしく、必死で両脚を掻いて罅割れた地を蹴り進むも、少女の身体性能は平均的な人間にもやや劣る――更に少女は赤い仔犬を抱きかかえているのだ。そのために両手を前後に振ることも出来ず、それが更に少女の走破速度を緩めていた。
「
「どうしたの――――それ」
彼女は余りにも大仰な少女の駆け込みに振り向きざまに笑みを零したが、直ぐに少女が抱きかかえているそれに気付いて表情を凍り付かせた。
彼女自身、自分と少女以外に命が存在していたことなど全く想像だにしていなかったのだ。何せ世界は殆ど死んでいるのだから。
「裏の山で、出逢ったのです」
「そう……」
だが彼女にはそれが普通の命では無いことは直ぐに理解できた。
何せ、その仔犬は赤い。まるで引き摺り出された臓物のように濡れた赤色をしているのだ。
彼女はその色を眺め、懐かしい何かを思い返すように目を伏せた。
少女は彼女のその表情が――何処か悔むような焦点のぼかし方が、自分がしてはいけないことをしたのでは無いかと不安でならなかった。
しかし彼女は直ぐにまたにこりと笑み、少女が抱く仔犬に向けて両腕を伸ばす。
「私にも、抱き締めさせて?」
「……、はい」
その声に呼応するように仔犬は彼女へと振り向き、「きゃんっ」と一つ鳴いた。
目を丸く綻ばせた彼女の笑みは深まり、優しく抱き上げられた仔犬はぺろりと彼女の頬を舐めた。
二人だけの世界に、一匹が増えた。
そしてそれを皮切りに、死んでいく世界に赤い色彩がどんどんと灯っていく。
まるでその代償とでも言うように、波打つあの赤い膿は減っていき、気が付けば覆っていた膿は海に戻った。
◆
漸く――――漸く、だった。
漸く、その蒼い影はその地に辿り着いた。
その道程は長く、そして永いものだった。
何せ蒼い影は遠い道のりを旅し続けていたのだから。
彼らに破滅が降り注いだあの日――――影と形とが切り離され、影はただ自らの
ぼろぼろのガラクタに成り果てた
だからこそ“影が先んじて動き、それに
自らの依り代である刀を取り戻してからは、それが本来のそれに合致するようになった。
その蒼い
そうして失ったひとつひとつを取り戻していく旅路は、まるで果ての無いように思えた。
だが、彼は遂に辿り着いたのだ。
まだ、全てには程遠い。だが、確かに一つずつを取り戻していった。
後は――――
――ザリ。
(-・・-・ ・・- ---・- ・・・- ・・ -・ ・・)
それが何処にいるかは、既に知っている。
それと戦う術ならばもう既に取り戻している。
失ったものが、切り捨てたものが。
二度と手に入らないことは無いと、影はそれを知っている。
◆
「
バルコニーで佇む彼女の前に少女が躍り出る。
彼女はその声に振り返り、朧げで虚ろな視線で少女の胸に抱える様々な農作物を見た。
それらはもう殆ど本来の姿を取り戻した裏山で採れたものだ。
色は赤ばかりだが、少女の脳に記録されているかつてこの世界に流通していた野菜たちと味や栄養価は殆ど変わりない。
「ここ最近は日差しも良く、お野菜たちも丸々肥えてます。豊作です」
彼女は少女がはきはきと笑顔で話すのを見て自らもにこりと微笑んだ。
だが、言葉は無かった。
彼女の傍に付き従う赤髪の側近たちは彼女の意思を汲んで両脇に歩むと、彼女の身体を支えながら起き上がらせた。
「天使様、創造主様は部屋へ戻られます」
「……わかりました。それでは私は、昼食の準備に取り掛かります」
「お願いします」
くるりと踵を返した少女はそのまま調理場へと向かった。息を切らせながら、胸を弾ませながら。
折れた廊下を曲がる先で城勤めの役人とぶつかりそうになった少女は慌てて床を蹴っては鋭く進路を変え、「ごめんなさいっ」と慌ただしくその役人に告げる。
彼もまた、赤い髪をしていた。血溜まりに浸したような鮮烈の赤だ。
街は当時、まだ半ば瓦礫に埋もれていたが彼らは彼女や少女に倣って寡黙にそれらを片付けた。その中で、襲い掛かって来る獣もいれば歯牙にかけられ命を落とす者もいた。
彼らのために祈りを捧げるという文化が取り戻され。
悲しみを遠ざけるため戦いという文明が取り戻され。
農耕も、狩猟も、畜産も、全てが次々に取り戻され。
国は国の様相を取り戻していった。
赤々と、まるで熟れた果実のように――或いは、命が赤子として生まれ落ちるように。
「天使様、今日は何を作るんですか?」
調理場には城勤めの
だが少女がこうして調理場に立てるのは、それが少女だからだ。
「煮込みハンバーグ、がいいな」
まだ
かつて大切な人に振舞ったことがあると教わったその料理は少女の初めてであり、そして少女が作るそれを彼女はとても喜んだ。
そうだからこそ、もう後輩たちに追い抜かれてしまった腕前にも関わらず少女はこの場に立つことが許されている。
赤髪の調理師たちも、溌剌と料理を楽しむ少女の姿に誰もが微笑みを表情に灯し、そんな風に食べる人のことを確りと考え・想像する少女に初心を思い出した。
「天使様、肉はこちらがよろしいのでは?」
「ありがとう」
赤髪の料理人が取り出したのは、つい先日少女が自ら解体した
料理同様に、食肉の解体もまた彼女が少女に手解きした技術の一つだ。これに関しては、少女は今でもこの国の誰よりも巧く解体をすることが出来る。
その理由は定かでは無いけれども、しかし少女はその作業が好きだった。
吊るした肉に刃を入れていると、どこか懐かしさに襲われ、言いようのない感情が胸の内に溢れていくのだ。
特にそれを、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます