死屍を抱いて獅子となる⑥
「……ノヱル」
だからだろうか――シシが、誰もが寝静まった深夜にノヱルを訪ねたのは。
きっと自分は、その夢を繰り返し見ているうちに胸の中に湧き上がって
「……何だよ。
あまりにもぶっきらぼうな物言いだった。彼は最初からそうだったが、今思えば、その言葉の裏には彼の感情が隠れていると、今なら気付ける。
でもシシは、それを素直に受け入れられるほど単純じゃなかった。例えばシュヴァインが生きていて、今も彼女の庇護を続けているのならノヱルの言葉とて受け入れられただろう。
だが現実は違う。シュヴァインはもう亡き人であり、そしてその原因はノヱルではない。確かに彼はシュヴァインに群がる
答えは単純――彼自身が、そう仕向けたからだ。
実に割り切った言動だった。もう助からないのだから切り捨て、まだ助かるものだけを取り溢さず、自ら死なぬように“憎悪”という強い感情を植え付ける。
エーデルに導かれ、強くなろうとしている今だからこそ解った、彼の真意。しかし、だからと言ってシシの中に根付く彼への憎悪が無くなるわけではなく、しかしその純粋さは失われてしまった。
だから一瞥し、答えないままシシはノヱルに宛がわれたベッドにぼすりと腰かけた。ベッドは、一度たりとも使われることなくシーツが張り詰めていた。その上に掛けられた毛布も、全く真新しい状態だった。
「……年頃のうら若い乙女がこんな時間に野郎の部屋に入ってくんなよ」
「そんな機能なんか無いくせに」
「あるから言ってんだろ」
「あるの!?」
「使われたことは無いけどな」
確かに、不要な機能は幾つもあった。そもそも、補給が必要ないのに彼らは食事が出来るのだ。それがあるとすると、シシは途端に身体が硬くなることを感じた。
「不潔っ」
「お前に欲情するかよ、馬鹿」
ノヱルは言い捨てると、がしがしと右の側頭部を掻きながら再び机に向かった。そこには造船が盛んだった時代の設計図や設備についての
しかし夜灯さえ点いていない、剰え雨降らす雲に月や星の明かりすら遮られている暗い部屋だ。闇に慣れた目を凝らしてさえその詳細の見えないシシがその書類に興味を持つことは無かった。
「……お前、本当に何しに来たんだ?」
背中越しに問われた言葉に、シシは今一度自分と向き合った。
言われてみればそうだ、何をしに来たのだろう――ああ、そうだった。自分の中にある感情が一体どうなってしまっているのか、訊ねに来たんだった。
思い出して、途端にやる気が無くなるシシ。やはりそのような質問を当の本人に切り出す、というのは馬鹿げていた。だからシシの口は咄嗟に、夢のことを語っていた。
「愛していたの?」
「誰が? んで、誰を?」
「ノヱルが、……あの、十人の子たち」
ぴたり、とノヱルの動きが止まった。そして振り返ると、張り付いた無表情の奥で瞳を揺るがせながら、「何で知っている」と小さく訊ねた。
「……お前が見せたんだろ」
「……魔術紋か」
しかし、見られてしまってはしょうがない。だからノヱルは、シシの質問に答えるために
「愛……という感情がよく解らない。だからその質問には答えようが無い」
「でも、傍目には愛していたように見えたよ」
「そもそも、彼は己れとは違う個体だ。姿かたちは一緒でも、核が違う」
「じゃあ何であの記憶を何度も見たの?」
「何度も……参ったな、それも伝わってんのか」
再び溜息を散らし、ノヱルは一度差し出した魔術式を返却してもらうことについて思考を巡らせた。しかし彼の持つ知識の中にはその答えは存在せず、諦めなければならない事実に再三溜息を吐いた。
「……羨ましかったんじゃないの?」
「羨ましい……確かにそう言われれば、一番近い感情な気もするな」
「何で? 何で羨ましいの?」
顎に手を当て、唸って考えるノヱル。その答えを、黙ってじっと待つシシ。
「……多分、二度と手に入らないからだ」
「死んじゃったから?」
「それは勿論そうだ。ただ己れは彼じゃない。己れが羨ましいと思うのは、あそこまで感情を燃やせる他者との関係性を築くことが出来た、それそのものに対してだと思う」
「……ノヱルは、そういう誰かを作らないの?」
「作らないだろうな」
「何で?」
「誰かを守りたいって感情が無いからだろうな。若しくはただ単に、面倒臭いかのどっちかだ」
「面倒臭い……ボクのことも、面倒臭い?」
月明りは無いが、彼女の目はやや潤んでいるように思えた。だがそれを直視せず、ノヱルは雨の雫がしとしとと打ち付ける窓硝子を眺めて告げる。
「……面倒臭いな」
そう答えるだろうことは予測していた。しかし予想通りだとて、安堵に胸を撫で下ろすことは無い。何となく、こう、もやもやとした、としか言いようのない複雑怪奇な淀みが、ただただそこに泥濘のように照り返っているだけだ。
そんな気持ち悪さを隠しながら、シシはまたも訊ね、シシのそんな胸の内など知らないノヱルもまた淡々と返していく。
「天さんや、山犬さんは……? 守りたい人たちじゃないの?」
「守りたいって言ったら話は別だ。あいつらは己れより強い。自分より強い奴を守ろうなんて思わないだろ」
「じゃあ逆に、守られたい?」
「それも違うな。特に天の奴は別だ、あいつには例え死ぬとしても守られたいとは思わない」
「何で天さんをそんなに毛嫌いするの?」
「……知らない。ただ、元々己れは、と言うより、己れの元々が、あまり良くない感情を抱いていたんだろうな」
「何で?」
「……それもまた、羨ましいって感情なのかも知れない。己れの元々は、
「だから、殆どいつも一緒にいる天さんが羨ましかったの?」
「多分、そうだと思う」
「……じゃあ何で、天さんはノヱルのことが嫌いなの?」
「あいつはあいつで、あまりいないくせして孤児たちが己れに好感情を抱いているのが憎かったのさ。天のことはよく知らないけど、多分そうだと思う」
「……山犬さんが、ノヱルのことを好きなのは?」
「それこそ本人に聞け、って感じだな。生前何かがあったのかも知れないが、今となっちゃ知り様も無い記憶だ。何たって、己れは彼とは違うんだからな」
こうやって蘇ったとて、過去に遡ることは出来ず、また過去の自分とは違う自分として過去を振り返っても大した感慨が湧くわけでもない――そんなノヱルのことをシシは単純に“不憫だ”とだけ思った。
そう思った自分に気付くと、自分の内側の深くで渦巻き絡み合う感情が、さらに複雑怪奇に雁字搦めになった気がして頭が痛くなりそうだった。胸はもうすでに、痛くて気持ち悪かった。
「……また、お話ししてもいい?」
「はぁ? ……暇な時にしろよ」
ぶっきらぼうな物言いだが、許可を得られたことに胸の内側の痛みが幾分か消えた。それに満足したシシは、腰かけていたベッドから立ち上がると、特に何も言わずに部屋を出て行く。
その背中を見送ったノヱルは、面倒臭そうに嘆息しながら、やはりがしがしと右の側頭部を掻き毟るのだった。
そして――雨が、晴れた。
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