消えない肉沁み㉓
ブルブルと震える手は辛うじてハンドルを握れている。
ノヱルと山犬を下ろして兵に引き継いだ後、積荷を下ろすために
同じ
それで終わりの筈だった。あの青年は移動中、丁寧な忠告をしてくれてはいたが、それに従う道理は無い。それでもその時の言葉はやけに真剣で、真摯な重みを湛えていた。
『今夜、
やけに胸に引っかかるその言葉に何故か怯えながら、ランゼルは兵から伝票のサインを貰うと、その控えを渡して再び荷台に幌を被せる。
そうして、運転席に戻ろうとした時だった。
――!!
「な、何だってんだ!?」
突如鳴り響く警報音。いたるところに設置された警報灯もまた赤色を回転させ、そして少し離れた所から爆発のような轟音と叫び声が響き渡る。
(本当にやりやがった!)
ランゼルはしばし呆然としていたが、我に帰ると幌を縛るロープワークを焦る手でどうにかこなしては、急いで運転席に乗り込んだ。
タッチの差だった。
サイドミラー越しに垣間見た、赤い巨大な狼――咄嗟に目線を反らし、運転席で縮こまっては息を殺した。
そうしなければ確実に喰われる自身があった。まるで天啓の、神託のような本能に従って身動ぎひとつ彼は許さなかった。
窓ガラス越しに聞こえる戦闘音――いや、咀嚼音の方が遥かに割高だ。しかし気が付けば音は去っていて、サイドミラーにあの巨獣は映ってはいなかった。
しかし身体の震えは止まらない。
どうすればいい?
どうすればいい?
どうすればいい?
どうすればいい?
どうすればいい?
行動を起こせばあの巨獣が戻ってくる、そんな嫌すぎる予感が幻聴のように纏わりついて一向に動けずにいる彼は――やがて、施設の中央付近で盛大な戦闘音が聞こえなくなったあたりでハッとなった。
(そうだ、俺は帰らなければいけない……俺の帰りを待つ妻のためにも)
そうして未だ震える腕をブンブンと振り、辛うじて神経を通わせたなら。
力の入りきらない右手で差し込まれたキーを握り、脂汗の滲む唇を噛みながら右側へと捻る。
キュスココココココ……
キュスココココココ……
(点かない! こんな時に……っ!)
予感は次の段階へと
ここで逃げなければ、もはや命は無いも同然だ、と。
キュスココココココ……
キュスココココココ……
キュスココココココ……ドゥルンッ、ドゥッドゥッドゥッドゥッドゥッドゥッ……
「点いたぁっ!」
「おう、それは良かった。故障してたら洒落にならなかったところだ」
「うえええええ!?」
「しかし……定員オーバーか。どうしたもんかな」
「ノヱル、貴様は荷台です」
「はぁ!? 何でだよ!」
「貴様は馬鹿ですか? まだ追っ手が来ないとは言い切れません、遠隔攻撃が可能なのは貴様くらいなものです」
天の主張は最もだった。しかし納得できる正論とは言え、ノヱルにとっては天が言ったというその一点だけで棄却したい衝動に駆られる。しかし彼は馬鹿では無い。盛大に顔を顰めながらも、その意見を飲み込んで渋々と
「エディ殿、貴方は助手席へ。道案内をお願いすることになるでしょうから」
「ああ、判ったよ」
「シシとシュヴァイン殿は後部座席へ。山犬も詰め込みましょう、何、小柄だから入ります――くっ、
「自分で席決めしといてそれかよっ! 馬鹿はお前だっ!」
「よもや貴様と一緒になろうとは……しかしいいでしょう。
「まぁお前もちょっとは遠隔攻撃出来るしな」
「本当にちょっとですよ。
「結構十分じゃねぇかよ」
「……俺の意見は無いも同然なんですね、旦那ァ……へぇへぇ、従います従います、ここで断ったら命無いんでしょ、そうなんでしょ……」
泣きそうに顔を歪めた豚面の運転手を余所に各々が自身の指定席に身を落ち着ける。
しかし
いや、正確に言えばそれは――“墜ちてきた”、だ。
「――っ!?」
鉄板を
「な、何ですかっ!?」
「シュヴァインさんっ!」
運転席のランゼル、助手席のエディ、そして後部座席のシュヴァインとシシとは戦慄した。唯一山犬だけはそそくさと休眠モードに入ったため動じていないが。
「クソがっ、まだ現れんのかよっ――
「本当に……
ランゼルの
ほぼ同時に天が白刃を一閃し二体をほぼ同時に屠り去ると、格闘能力の上昇したノヱルの絵に描いたような見事な連続回し蹴りが絶命した二体を荷台から落とす。
しかし見上げると、さらに飛び降りてきそうな影が蠢き、また貯蔵棟の荷捌き場の奥からやはり丸い図体が犇めき合って寄って来ていた。
「ランゼル! 早く出せっ!」
「は、はいぃ、今やっていますぅっ!」
だが先ほどの衝撃が
「まだかっ!?」
「も、もう少しっ! ……かからないっ!? 何故ぇっ!?」
そうしているうちに新たな
「つ、点きまったっ!」
少し歪な駆動音が鳴り響き、エンジンが起動する。
しかし迫って来た
「邪魔なんだよっ!」
鋭い横蹴りで天面に立つ
しかし真横から強襲した異なる一体が後部座席のドアを乱暴に引き開けると、その横にいた一体が伸ばした手がシシの左手を取った。
「きゃあああああ!」
「シシっ!」
引きずり出されるシシ。取り囲むのは三体。
「止せえぇぇぇええっ!」
咄嗟に飛び出たシュヴァインが、その身に迫ろうとした一体を右肩で激しく衝き飛ばす。
「
目にも映らぬほどの閃撃が肉を散らし、血飛沫を舞わせる。
しかし“食欲”は止まらない。
衝き飛ばした際に勢い余って前方へと転がり込み、地に伏せるシュヴァインめがけて、縦に大きく開いた口が殺到し――――
「シュヴァインさんっ!」
「シシ、――生きろ」
叫ぶシシの、地面に着いた手の前に、投げ出された何かが放物線を描いてぼとりと落ちた。
喰い千切られた右腕だった。
「――――っ、――――っ!」
声にならない声、絶叫がこだまする。
その声を聞きつけてか、際限なく
「シシ! こっちへ!」
堪らず荷台から降りて手を差し伸べた天に目もくれず、ただ遺された右腕を両手に抱えて泣き喚くシシ。
「……くっ!」
天はその腕ごとシシを掬うように抱き上げると、迫り来る
「嫌だ、シュヴァインさんっ! シュヴァインさんっ!」
「あれはもう助かりません」
「嫌だ、嫌だ! 助けてよ、天助けてよ! シュヴァインさんを助けてよ!」
「申し訳無い。
「そんな!? 嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ! シュヴァインさん、シュヴァインさ――」
「
天に抱き留められる背中を劈く、ノヱルの怒号。
ごちゃまぜになった感情が目を見開かせ、シシを振り向かせた。
そこにいたのは、再び“白い悪魔”となり、
手にした
「折角“餌”になってくれたんだ、ありがたく頂戴しようぜ」
「――悪魔」
「はっ、だからどうした? ――
銃口を夜空へと向け放たれた黒い
それは上空で花火のように咲き誇ると、小さなひと粒ひと粒が黒い流星となって車体を取り囲む
そしてそれと引き換えに、一日に二度という限界を超えた行使で強制的に休眠モードへの
走り出した
この世で一番大好きだった人が最期にいた場所に新たに這い出た
その耳には。
彼らが何かを食い散らかすようなぐちゃぐちゃとした咀嚼音が、遠ざかっていくにも関わらずどうしてだかずっと聞こえ続けていた。
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