消えない肉沁み㉔
「ランゼルさん、ありがとう。あなたがいなければ俺たちは、きっと喰われていたに違いない」
「へいへい、そう言われてもこちとら何とお返しすればいいか分からんちんですよう」
運転席と助手席で会話するエディとランゼル。
ランゼルが横目で盗み見たエディの左手には、人差し指と中指が欠けていた。その汚れ具合からして明らかに今しがたの交戦で生まれた欠損だろう——ランゼルはその痛みを想像してしまい背筋をぶるりと震わせた。
荷台では休眠モードに入り動かないノヱルと泣き疲れて今は落ち着いているシシ、そして周囲の警戒を行う天がいる。
ノヱル同様休眠モードとなっている山犬は後部座席だ。皆、一様に満身創痍とも言えた。
天は一見無傷に見えるが、彼の
山犬の
対して天の
その状態を続ければ天はいづれ自らを失い、ただただ気の赴くままに斬殺を繰り返す兇刃の化身が完成してしまうのだ。
しかも困ったことに、
天はあの時の自分が嫌いだ。やむを得なかったとは言え、自由気ままに他者の自由を奪い、剰えそれこそが、死こそが真の自由だと言い放つあの自分が。
「あんた!」
「ゾーイ、逃げるぞ! 準備は出来てるか!?」
アリメンテの街もまた混乱に包まれていた。先ほどから慌ただしく衛兵が駆け回り、市民に避難の指示を出している。
しかし幸いまだ混乱しきっていない——これ以上騒がれては、とてもじゃないが車での移動は困難になるだろうと思われた。
アパートメントから運び出した最低限の荷物を載せて
シシはまだ、亡き人の右腕を抱き締めて虚空をただ見つめていた。
◆
街道はやがて交易路へと移ろい、舗装のされない荒野を
途中二度ほどの休憩を取ったものの、夜通し運転し続けたランゼルには疲労が色濃く蓄積しており、エディもまた失った指の断面が持ち始めた熱に
後部座席ではランゼルの妻、ゾーイが代わる代わるに労いの言葉をかけながらエディの額に濡らしたタオルをあてがったり、傷口の消毒を器用にも行っている。
その隣で山犬は未だ眠りから醒めない。
眠りから醒めないのはノヱルも一緒だ。荷台の
それを真っ直ぐに見詰める、涸れた目のシシ。時折ふっと暮れる日の照らす荒野に視線を泳がせるが、それはやはりノヱルの寝顔へと戻り、その度に表情は形相となる。
天はその視線の意味に気付いていたが、何も言わなかった。単純だ、彼にとって彼女がそう選んだのなら自分には何も言うべきことはない――天はそのように考えており、そしてそのように考える彼女とそして自分とを善しとするからだ。
「……ランゼルさん、一度休憩しましょう。燃料も追加しないといけませんし……」
「お、おう……」
荒野のど真ん中。日は暮れ、朱色と紫色の混じる空の下だ。
逃げた街があれからどうなったかは知らない。ランゼルの話によればアリメンテの街はおろか、ヴェストーフェン自体が天使によって直轄運営されていた国だ。
その頂点に君臨していたのがあの二人の天使なのだから、それを滅した今、国中は混乱と混沌の渦に飲まれてしまっているだろう――そう、エディは熱持つ頭で予測した。
「国境付近までは燃料は持つでしょうが……」
ぶひんと豚鼻を鳴らしてランゼルは疲れた声で嘆く。本来積荷の運搬で成り立つ輸送業だが、こんな風に荷台に人を乗せて走るならば確実に関門で止められる。
せめて
「いえ、関門まで行けるなら、それで大丈夫です」
とろんとした微睡みに冒されながらエディが告げる。
「関門には、仲間がいますから」
そして、丸一日にも及ぶ長い眠りからノヱル及び山犬が醒めたことで一行の行軍速度は倍となる。
本来休眠を必要としない
後部座席で妻の膝枕にありつけたランゼルの顔はひどく安らかだ。
「ノヱルさん、そこの岩を通り過ぎたら少し右へ」
エディの容体も次第に安定してきた。もしも溶断ではなくただの切断だったのなら、病状は悪化していたかもしれない。断たれた際に周囲の菌も焼却した溶断だったからこそ、だ。
「こんな感じか?」
「あんた本当に運転初めてなのか?」
「機能としては有している。実践は初めてだ」
「……本当に機械なのか?」
「剥いて見てみるか?」
にやりとした横目にぞわりとしたエディはすぐに首を横に振った。
それから休憩を取ることもなく丸二日を東へと移動してきた一行だったが、やがて国境となる大河が遠くに見え始め、巨大な鉄橋が現れたことで俄かに安堵の吐息を漏らした。
ランゼルとゾーイは
しかし鉄橋を目前に控えた荒地で、
「故障ですかねぇ……見てみます」
すっかりしおらしくなったランゼルが車体のあちこちを開けては閉め、
ノヱルもまた運転席から砂地に降り立つと、紫紺の空に雲を運ぶ風の流れを見上げた。
その佇まいを、
元より不眠症気味だった彼女はすでに三日余り一切の休眠を取っておらず――取らなかったのではなく、取れなかったのだ――その腫れぼった双眸は色濃く
「シシ。食事を摂りなさい」
天に言われてもシシは無言をしか返さず、差し出された何もかもを口に入れようとしない。
自らの一部であるかのようにただ亡き人の右腕を抱き締めたまま、ノヱルをただ見詰めている。ノヱルが運転で自分の視界に入らない間は、俯き気味に切り取られた乱雑な腕の断面を眺めていた。
「――死にたいのですか?」
シシは答えない。いや、答えられないのだ。
ここまで来ても、一向に自分がどうしたいのかの答えは見つからなかった。いや、判らなかった、と言った方が正しい。
今自分が抱いているこの感情すらも、どんな名前なのか判別できない。ただただ身体に纏わりついて束縛する重油のような鎖。そうとしか表現できない。
「……答えを出さないまま死ぬことは許しません」
ノヱルの方に向けていた目を泳がせて、首を回して天を振り返る。
「
きっとその言葉は、天自身に告げられていた。
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