消えない肉沁み⑧
「どういうことだ?天使が訪ねて来たのか?」
「う、うん……」
明らかにその表情は狼狽だ。シュヴァインにしては珍しく取り乱している――シシはだからこそ、そのことを告げた自分に後悔した。しかしその表情に気付いたシュヴァインは慌てて笑顔を取り繕った。
「シシ……済まない、本来なら儂がどうにかすべき問題だったのに」
「ううん」
複雑な感情はシシの中で渦巻いたままだ。
食肉として売り出されることは勿論嬉しい。しかしそれが天使の手によって直々に、ということに、つまりはシュヴァインの功績とはならないことに、シシは揺れ、後ろめたさを感じてしまっている。
恐らくそういうことだろうと心の中で独り言ちた天はにこやかな微笑みを絶やさない。しかしやはり彼もまた、“そこに自由が無いこと”に対する心地の悪さを多少なりとも感じていた。
だがそれは、天自身の問題だ。それは勿論天も判っているし、自身が口を挟んでいいものかどうかも弁えている。
だから天は何も言わない――ただ微笑みを灯して、祝福の言葉を放つだけだ。
「おめでとう、シシ。貴方を食べる誰かの頬がぽとりと落ちることを願うばかりです」
「あ、ありがとう……」
満面の笑みに程遠いはにかみに似たシシの表情。その影で、シュヴァインが奥歯を密かに噛み締めていたことを、天は見逃さなかった。
だが彼はやはり、何も言わない。
今この場で言うこと等、何一つ無いと決めているから。
◆
「シュヴァイン殿」
シシが寝床に就いた後、倉庫で手入れをするシュヴァインに声をかけた天。
振り向き、仰ぎ見るシュヴァインの顔にはやはり、色濃く影が落ちていた。
「今は、お忙しいですか?」
「……これが片付いたら、話す」
「分かりました。では
コツコツと靴音が響き、蝶番の音が聞こえた直後、その靴音は短い芝を踏むざりざりとした響きへと変わり、遠ざかっていく。
人知れず苦悶を表情にしたシュヴァインの脳内ではいくつもの打開策が生まれては巡り死んでは消えていく。どれもが空想の域を出ない、役に立たないアイデアだ。
溜息とともに綺麗になったスコップを壁に立てかけたシュヴァインは、意を決して
木板の扉を開くと、食卓に腰を落ち着けた天はにこやかな笑みを投げかけた。
「全て――全て、話そう」
「はい、全てを聞き届けます。ですがその前に」
「?」
「――真実を語るなら、真実の姿で」
「……ああ、そうだな。そうに違いない」
告げてシュヴァインは、左手の人差し指に嵌めていた銀色のリングを取る。
すると途端に、上を向いていた大きな鼻頭は筋張った鉤鼻へと変わり、頭頂部に外側を向いて開き立った大きな耳もまた、歪な二枚貝の計上へと変わり側頭部に移ろった。
でっぷりと出た腹も消え、
「それが貴方の、シュヴァイン・ベハイテンの姿ですね」
「ああ――騙して済まなかった」
「いえ、隠し事には事情があるものです。寧ろ、暴いてしまい、申し訳ございません」
「いい……ほんの少し、胸の
そして対面に座る天に、シュヴァインは重々しく口を開く。
その
天がもしも
◆
60年前――フリュドリィス
僅か6日間のうちに国土の八割以上を焼野原へと変貌させた夥しい数の天獣、そしてそれを率いる数々の天使たちは一度姿を
しかし現地に赴いた頃、神の軍勢の蹂躙が始まってから10日も過ぎていた。ほぼ同時刻に同じく到着したもう一つの隣国、南のスティヴァリ軍調査隊と協同で生存者の捜索を行ったが、30日間にも渡る調査を終えて成果は無し。
それぞれの国に帰って行った二つの調査隊は帰還すると被害状況のみを報告した。
そしてその一ヶ月後、神の軍勢はスティヴァリに襲来した。
スティヴァリは南に海洋を臨む、長細い国土を有している。地盤の緩さに悩まされ続けた歴史は“水没国家”という蔑称を、その特性を活かして国土全体に張り巡らせた運河と卓越した造船技術により“海洋国家”の異称にまで昇華させた。
スティヴァリは豊かな水という特徴から、
しかし襲来した天獣たちは
だから
そうしておよそ6日間の蹂躙はスティヴァリという国から
“海洋国家”スティヴァリの崩壊はすぐさま北に隣接するヴェストーフェンへと伝わった。
多くの
ヴェストーフェンは彼らを受け入れ、神の軍勢たちの襲来に備えて軍備を増強する。
それから二ヶ月後――空にたなびく雲が渦巻き、十字の巨大な裂け目が現れた。
空間の亀裂の向こうは燃えるように揺らめく七色の極彩、そこを突き抜けて舞い降りるのは何とも表現しがたい醜悪な――天獣の群れ。
火を噴いて石造りの街並みに降り立った群れは次々と建物を壊し、火を吹いて焼いていく。
戦線には板金の鎧や
神の軍勢の狙いが
しかし抗う者はやはり火に燃べられ、そして天使たちが戦場へと降り立ち指揮を執り、また戦線に立ち始めると、拮抗していたかに思えた戦況は一気に急転する。
そして神の軍勢がついにヴェストーフェンの中枢を叩き国家としての機能を失わせた頃。
シュヴァイン・ベハイテンは未だ6歳だった。
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