消えない肉沁み⑨

「迷える仔羊――いや、君らは仔豚だな。まぁいい」


 6日間に渡る蹂躙が終わり、焼野原となった街に再び天使が舞い降りたのは2年後のことで、8歳になったシュヴァインは孤児だった。


「しかしその仔豚の中に、仔羊が交ざり込んでいるな」


 神の息吹アナプノイエルは広場に集めたアリメンテの街人を一望すると、食べる人族ヴェントリアンの大柄な身体に隠れるように佇む真なる人族ヴェルミアンの残党を目ざとく見出した。


 美目麗しい金色の天使は、しかし冷徹を眼差しに宿していた。

 その双眸に見据えられた真なる人族ヴェルミアンは戦慄を覚え、しかし足は動いてくれなかった。蛇に睨まれた蛙の気持ちが彼らにはよく解った。


 シュヴァイン・ベハイテンも例に漏れず、“ああ、自分はこれから殺されるんだ”と覚悟した。生き残り、食べる人族ヴェントリアンに罵られながらどうにか耐えてきた2年間は辛かったが、それでも生き続けたいと願わずにはいられなかった。


「――だが、赦そう」


 神の息吹アナプノイエルの言葉は、彼らの恐怖を突き刺した。それどころかその素頸を掻き斬り、無残にも屠り去った。

 その後には困惑が生まれ、そして希望が追従した。それを助長するように、神の息吹アナプノイエルの表情は実に天使めいていた。


「我らが偉大にして尊大にして寛大なるエルは、赦すと仰られた。――しかし」


 ぴたりと喧騒が止む。誰しもが続く言葉を賜ろうとしていた。


「しかし、仔羊には肉となってもらう。仔豚よ、仔羊を育てよ。さすれば君らの頭に天より永遠たる繁栄、永劫たる福音は授けられよう」


 食肉の楽園ミートピアの創設が始まった。

 真なる人族ヴェルミアンの残党は一人残らず食べる人族ヴェントリアンに捕らえられ、天使に引き渡された。


 強制的につがいが決められ、理性を貶めて獣性を迸らせる滾る熱がもたらされた。

 老年者や年端のいかない子供たちは労働力に割り当てられた。

 急造の畜舎を管理し、熱に浮かされた真なる人族ヴェルミアンの番いから生まれた赤子を取り上げ、徹底的に飼育した。


 天使たちに管理された街はみるみるうちに復興していった。そうでなくても人が住める程度には元に戻っていたが、天使たちは以前よりもさらに住みやすくなるよう区画の整理を指示し、また街の配色にもこだわった。


 街路には花や木を植え、大通りメインストリートには季節ごとに色を変える並木道を設けた。

 また路面は細かい石のタイルを敷き詰め、雨水のけがよくなるよう、また滑らず歩けるように配慮がなされた。


 生まれ変わった街は、真なる人族ヴェルミアンが築き上げたそれよりも遥かに良いものだった。



「君」

「……はい、何でしょう」


 4年が過ぎ、12歳となったシュヴァイン・ベハイテンは傷だらけだった。

 老齢なはいつの間にかいなくなっていた。その穴を補充するように工場へとやってきた食べる人族ヴェントリアンはこれまでの鬱憤を晴らすようにたちを甚振いたぶった。


 いや。それは逆かもしれない――配属された食べる人族ヴェントリアンが憎悪の矛先を向けたからこそ、これ以上生き難い働力がいなくなっていったのだ。

 事実はどうあれ、少なくともシュヴァインはそう考えていた。


 だからこそ豚面の言うこと為すことに反さず、誠実が骨子になるほどシュヴァインは勤勉に働いた。

 子供ながらに鍛えられていった身体に蒼痣あおあざが無くなる日は無かったし、口の端は大体切れて赤く滲んでいたが、文句も溜息すらも漏らすことなくシュヴァインはただただ働いた。


 だからだろうか――天使が彼に、声をかけたのは。


「君、名前は何と言う?」

「え……シュヴァインです、シュヴァイン・ベハイテンです」


 それは神の息吹アナプイエルとは異なる天使だった。頭上に浮かぶ光輪の形状が仰々しかったため、恐らくより上位の天使だろうと思われた。だが実際はどうなのかをシュヴァインは知らない。ただただ問われるままに、自らのことを語って聞かせた。


「歳はいくつになるんだい?」

「おかげさまで、今年で12歳になりました。真なる人族ヴェルミアンの僕をここまで生かしていただいてありがとうございます」


食肉の楽園ミートピアで働いたのはいつからだい?」

「はい。僕はまだ8歳の頃からここで働かせてもらっています、今年で5年目になります」


「仕事には慣れたかい?」

「おかげさまで、畜舎を綺麗に、清潔に保つことが天命と教えていただきました」


「その痣はどうしたんだい?」

「はい。僕はどうしようも無い愚図ぐず鈍間のろまなので、しょっちゅう転びます。転んで、色んな所に……」


 言葉に詰まったのは、その天使が彼の顔に指先で触れたからだ。

 その撫ぜりも、その表情も、彼にとって全てが天使めいていた。


「……痛むかい?」

「……平気です。僕たちがしてきたことに比べれば、この程度の痛みは痛みではありません」

「そうか」


 腰を屈めて目線を合わせていた天使はすらりとした身体を真っ直ぐに起き上がらせると、腰元からひとつの指輪を取り出して差し出した。


「これを指に嵌めるといい」

「これは?」

「君の姿は食べる人族ヴェントリアンそのそれと同じに見えるだろう」

「え?」

「……その傷は、“報い”だろう?――君にいなくなられては困るんだ」


 ごくり、と喉が鳴った。

 少年の目は、彼と同じ指輪を嵌める天使の左の人差し指に留まった。


「私はたまにしかここには来ない。そうだね、一月に一度が精一杯だ。必ず、連絡するよ。だから、生き延びなさい。?」


 天使の姿を纏った彼の言葉に、力強く頷いた。

 シュヴァイン・ベハイテンの心は大きく揺れた。しかし今一度舞い降りた“希望”に、抗える術を彼は持ち得ていなかった。


「私のことは、そうだね――“神の償い”エジレオシェルと呼んでくれ給え。また会おう、シュヴァイン・ベハイテン」

「……はいっ!」


 食べる人族ヴェントリアンへと変貌を遂げた彼に気付く者はいなかった。その地方ではありふれた名だけに、誰もの彼がいなくなったことを気に留めず、偶々同じ名前の新人が配属されたのだと。


 彼はより一層、勤勉に働いた。

 畜舎の清掃は彼の得意分野だったし、天使からも賛辞を何度もいただいた。

 そのうちに、違う仕事を任されるようになった。食肉の解体だ。何度も嗚咽と吐瀉感が込み上げてきたが必死で押し殺し必死で飲み込んだ。


 生き延びるためには心を殺さなければならなかった。それ以上に、同じ命を殺すことが辛かった。厳しかった。


 しかし人というのは慣れる生き物である。それは別に真なる人族ヴェルミアンに限ったことでは無いが、段々と彼は無感情に食肉の解体をやってのけるようになった。


 そうなると今度は食肉の飼育も任されるようになる。

 その頃には畜舎は“宿舎”と呼ばれ出し、食肉人種にありつく人々は次第に肉の質に声を荒げるようになった。


 より脂の載った、とろけるような食感を。

 より芳醇な薫りを孕んだ、舌の唸る味を。


 取り上げた赤子を、調整されたプログラム通りに育て、出荷の日を待つ。

 愛情は食肉の表情や筋肉を軟化させ、また出荷の際もトラブルが少ないとされ評価された。


「シュヴァインさん、お世話になりました」

「ああ――美味しく食べられろよ」


 ぺこりと頭を下げて彼らが薬殺場へと旅立って行く日に流す涙を操れるようになったのは25歳の時だった。でもシュヴァインは心の中で血の涙を流すことを忘れなかった。


「やぁ――久し振り」

「お久しぶりです、神の償いエジレオシェル様」


 天使は毎月現れた。時折来ない月もあったが、色々と難しいこともあるらしい。


「今日は、買い付けに来たよ」

「そうですか――でしたら、一等品がございます」


 一年に一度、神の償いエジレオシェルは生まれて間もない食肉を買った。

 食肉人種が広く食べられる世の中では仔羊ラム肉のような扱いではあったが、摂れる肉の量が希少であるため民衆に広まるには高価過ぎた。

 しかし神の償いエジレオシェルはいつだって、春先に生まれたばかりの赤子肉を求めた。


 天使の主材料は“炎”だ。彼らはヒトガタ同様に、休眠も補給も必要ない。ただし、人間同様に何かを食べたり、飲んだりすることは出来るし、味を感じることも出来る。

 毎年買い付けに来る神の償いエジレオシェルは食道楽の天使として有名だった。あくまでも、食肉の楽園ミートピアのスタッフの間でだが。


 しかしシュヴァインは知っている――神の償いエジレオシェルは別に赤子の肉に舌鼓を打っているわけでは無いことを。

 彼の、唯一の協力者であるシュヴァインだけが知っているのだ。神の償いエジレオシェルが、神の軍勢に忍び込んで真なる人族ヴェルミアンを密かに救済していることを。

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