消えない肉沁み⑥
「着いたぞ」
扉を開けると、中央に作業台のあるキッチンのような白く狭い部屋に出た。
対面の両開きのスイングドアは大きく、シュヴァインは「あそこの奥でストレッチャーに載せた食肉を運んで来るんだ」と説明した。
「……綺麗に掃除、それから手入れされているんですね」
シンクの蛇口や壁に掛かった色々な道具、その隅々まで観察した天は素直な感想を漏らす。
「……命を奪う場所だ。穢れてちゃいけねぇ」
シュヴァインの返答もまた小さく、もしかすればそれは懺悔の類だったかもしれない。
天は振り向いて彼の口を結んだ横顔をしばし眺めたが、何も言わずに再び部屋の観察へと戻った。
シュヴァインはそんな天を置いて両開きのスイングドアの向こうへと渡る。天もそれに気付くと慌てて追従する。
「……今日の解体は二件だ」
およそ人一人分の大きさの麻袋が二つ、無機質な部屋に寝かされていた。
シュヴァインはそのうちの一つ、表面に記載された数字の若い方の口を大きく開くと、天を見上げて顎で示す。
察した天は麻袋を掴み、シュヴァインが引っ張ると中から真裸に剥かれた子供の身体が現れる。
「眠っているのですか?」
「いや……」
「そうですか……安らかですね」
まるでそれは心地の良い夢に浸っている様な顔だった。誰もが、その顔を見れば夢見のいい寝顔だと錯覚しただろう。それほどまでに、その少女の死顔は安らかだった。
「品質検査に合格し、担当者との別れを済ませた後で専用の部屋にて薬殺処理を行う」
「薬品を投与するのですか? 肉の品質に影響は?」
「投与部位は脳に限定される。食用部位への影響は無いし、念のため薬抜きの時間も設けられる」
「脳に……」
天は昨晩のシシの言葉を思い出していた。しかしこの場ではそのことについて何も触れなかった。
「こいつは儂がやる。次のはお前さん、頼めるか?」
「
「一度見れば覚えるだろう」
「それに、刃物は苦手と申し上げましたが?」
「……変わったあんたも、見たくなったんだ」
天は感じている。このシュヴァインが、自分と邂逅を果たしたことで少なからず何かを期待しているのだと。
だからその穏やかな表情に張り付いた笑みを深くさせ、安堵と堕落を齎す悪魔のような囁きで応えた。
「なら仕方が無いですね、これも仕事と割り切る他ありません。しかし易々とお見せできるほど、
「秘密?」
「ええ、秘密です。例えば――その指輪で施した、外見変貌の魔術の下にある素顔、ですとか」
目を見開いたシュヴァインは直ぐにその目を細め、左手の人差し指に嵌めた銀色の指輪を咄嗟に右手で覆う。
「恐らく視覚に働きかけるタイプの幻術を纏う類の魔術具ですか。ただ、よく見れば影の形と合致していないんですよね。宿舎に鏡が置いていないのもそのせいですよね?反射された光には、その魔術は効力を及ぼさない」
冷えた汗が首筋に落ちた。
苦悶を表情に宿したシュヴァインは奥歯を噛んで平静を取り戻すと、ぐるりと天に正対する。
「……今夜、話してもいいか?」
「そうですね、それがいいでしょう。後払いは本来好ましくありませんが、貴方と
シュヴァインは首肯する。にこりと微笑みで返した天は、「それでは手解きをお願いします」と頭を下げ、二人は少女の亡骸をストレッチャーに載せ、解体場へと運び込んだ。
◆
一方、宿舎に一人残ったシシはシュヴァインの作成したプログラムに従い今日の分の勉強を進める。
紙を纏め紐で綴ったノートはシュヴァインが彼女のために用意したものであり、細く削いだ木炭をチリ紙で巻いて作られた手製の鉛筆はシュヴァインから作り方を習ってシシ自身が製作したものだ。
これまで
しかし復興からまだ間もないために鉛筆や教科書は値高く、また工場勤務者であるシュヴァインの日当は、それらを十分に揃えられるような高給では無い。
「偶蹄目の動物を選べ……」
問題もまた、シュヴァインが考えたもの。すでに文字の読み書きを覚えたシシは、現在は金勘定の仕方と公用語の読み書き、そして生物に関する知識と大陸に存在する国家とその特徴、それから人と括られて呼ばれる種族について、そして神の軍勢についてを学んでいる。
「ライオンにはそもそも蹄は無いから違う。あれ、馬ってどうだったっけ? ロバが偶蹄目だっけ? 牛と羊はそうだよね、お乳取るやつは大体偶蹄目だったから……馬も偶蹄目だ!」
ぺらり、と
「馬は単蹄目かぁ……お乳取るのになぁ」
そんな折、来訪を告げるブザーが鳴り、ぱっと顔を上げたシシは訝しむ。
シュヴァインとシシの二人――昨晩からは天もいるが――しか住んでいないこの広い宿舎を訪ねる者は基本的にはいない。何故なら訪問の対象はシュヴァインであり、彼は大抵工場で捕まるからだ。
「あ、もしかして!」
シシはぱぁっと目を輝かせて椅子から降り立った。時折、解体の仕事が急に無くなったり減ったりして早く帰って来ることがある。今日もきっとそれだと、シシは玄関口へと駆けた。
「おかえり、シュヴァ――」
勢い余ってドアを開けたシシが迎えたのは、しかしシュヴァインでは無く、また天でも無かった――背なに白く美麗な翼を生やした長身痩躯の美男。それから従属する五人。
彼らは皆一様に、天使だった。
恐らく先頭に立つ男天使が最も偉いのだろう、翼は大きいし身なりも立派だ。
シシは途端に恥ずかしくなり、視線を泳がせてしまう。
「あの、ど、どちら、様……で、しょうか……?」
「038M44番、君に用があって来た。突然の来訪で驚かせてしまって済まない。私は神よりこの
「ボ、ボクに、用ですか?」
「ああ、その告げたのだが? いちいち確認しなければならない事項か?」
「いえ、あ、すみません……」
「ふん、まぁいい……担当飼育員のシュヴァインはいるか?」
「いえ……シュヴァインさんは解体場です」
「そうか、まぁいい。上がらせてもらうぞ」
「え?あ、はい……」
些かその振る舞いはシシの目に不躾に映ったが、そもそも
逆に言えばここでシシが苦心しなければならないのは自分の“食われなさ”への悪感情からシュヴァインをどう守るか考えることであり、若しくは天使に自分を売り出してシュヴァインの恩義に報いることだ。
天使たちの訪問の理由など知れたこと――自分が検査に合格しなさ過ぎたために直接その原因を究明に来たに違いない、そうシシは考えていた。
だからこそ拒むことは無く、明け渡し、それから必要であれば謝罪をし、シュヴァインに矛先が向かないよう説得するしか無い。
「ほぅ……宿舎は綺麗にしているんだな」
玄関から廊下を辿り、途中幾つかの部屋を覗き見て食堂へと赴いた
「肉の手入れが
「あの、実は昨晩からお客さんが来てまして」
「客?報告には上がっているのか?」
後方に控える下位の天使たちは互いに顔を見合わせ、また手に持つ書類の束を開いたり捲ったりしたが全員が揃って首を横に振る。
「まぁいい」
随分と「まぁいい」が多い天使だな、とシシは思ったが、きっと失礼に当たるだろうと言葉にはせず口を結ぶ。
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