消えない肉沁み⑤
「おはようございます、シュヴァイン殿」
宿舎の掃除をするため日が昇る前から起きてダイニングへと足を運んだシュヴァインを出迎えたのは、焦げた琥珀色のテーブルを布巾で磨き上げる天だった。
その碧い髪を揺らしてお辞儀をする姿に面食らったシュヴァインだったが、気を取り直して彼に歩み寄る。
「おはよう、天さん」
「そんな、さん付では無く、
「……分かったよ、天。しかしいやに早い時間に起きているじゃないか。ベッドが固かったのか?」
「いえ」
にこりと微笑んで、碧髪の美青年は
「
唖然と佇むシュヴァインは「そうか」とだけ短く呟くと、ぼりぼりと薄くなった後頭部を掻いた。
天の二つの眼は、片方を長い前髪に半ば隠しながらもその薬指に光る指輪を映し出す。
「時に、シュヴァイン殿」
「うん?」
「夜、屋上にてシシさんと語らいました。彼女のことについて、そして
「それは――今じゃなければならないのか?」
その眼光に、自らが何を訊ねられるかを予感したシュヴァインははぐらかそうと試みる。その返答に対してもにこりと微笑んだ天は、「勿論」と首肯した。
「お時間がある時、そして貴方のお心が、よろしい時に」
「……分かった」
「シュヴァイン殿」
「何だ」
「
シュヴァインは蓄えた白い髭の真上にある大きく上を向いた鼻頭をぽりぽりと掻くと、細かく何度も頷いた。
「ちょうど、今日は解体の仕事がある。ついて来るといい」
「その間、シシさんは?」
「運動に勉強、それに生活技術の訓練のメニューを課している。儂が仕事をしている間、留守番だ」
「分かりました――それにしても、いつか食べられるだけの存在なのに、生活技術の訓練ですか」
「……何が言いたい」
「いえ、気に留まっただけです。ご安心を」
「……そうか」
「ええ、そうです」
沈んだ表情でシュヴァインがカーテンを開くと、東の空が明らんでいた。
小鳥の
「食事の準備をする。手伝ってくれるかい?」
「ええ、喜んで――と、言いたいところですが。
怪訝な顔をしてシュヴァインが天の腰元に視線を落とす。そこには、白く長い鞘。
「お前さん、
「
「性分?」
「はい――主君のために命を懸ける、それも美徳でしょう。ですが今の
「自由……か……」
「それに」
「それに?」
「刃物は――――一度握ると、変わってしまうので」
自らの内側を覗いて告げたその表情は、妖しく、そして禍々しく歪んでいた。
◆
「んぅ……おはよ……」
「おはようございます、シシ。あらあら、目の下に隈が張り付いてますよ?あまり寝つきが良くなかったのでしょうか」
寝ぼけ眼を擦りながらダイニングへとやってきたシシは、目の前の青い人物が誰か直ぐには判断できなかった。しかし声を聴く脳が覚醒を続けるうちに、昨晩の屋上で悩みを聴いてくれた天だと理解する。
「わっ、天……そっか。天も、昨日から一緒なんだった」
にこりと微笑み、キッチンの鍋から深皿によそった紫色のポタージュと、そして香ばしく焼かれたバゲットをコトリとテーブルに載せる。
シシが座る椅子を引き、まるで召使のような振舞いを見せる天の顔は穏やかで、やはり美しい。シシは何故だかはっとして視線を食卓へと移した。
「召し上がれ」
「うん、いただきます……これ、天が作ったの?」
「いえ――シュヴァイン殿との共作です」
感嘆しながら摘まみ引き千切ったバゲットはバターが
「美味しい……」
スプーンでポタージュを掬って飲んだシシは舌鼓を打った。それは素直な感想で――紅芋の優しい甘味が絶妙な塩加減で程よく際立っており、またバゲットの塩味と交互に食べることで相乗効果が生まれる。
「うん、見た目は美味しそうじゃないけど、これ本当に美味しいよ!」
「そうですか。
そして自らも食卓についた天は、両手を合わせて合掌のポーズを取ると目を瞑って小さく何かを呟き、そしてバゲットを一口に千切って口に運んだ。
「ふむ……本音を言えば、
「そう?このままでも美味しいよ?」
「スープも……乳で溶いていればもっと濃厚な味わいになったと思います」
「……無いものねだりだ」
「ああ、すみません」
奥から現れたシュヴァインがぼやき、食卓につく。入れ替わるように天が立ち上がり、キッチンからシュヴァインの分のバゲットとポタージュを持って来る。
「殆ど、天が作ったよ」
「え?そうなの?」
「いえ。シュヴァイン殿にもちゃんと手伝ってもらいましたから、これはれっきとした二人の共作です」
「儂は材料を切っただけだ。焼くのから味付けから、後は全部天任せだ」
「天って、料理も出来るんだ」
「
シシには天の話の半分しか理解できない。取り敢えず“天は料理が出来る”とだけ納得し、深く考えずに次のバゲットの一口を咀嚼した。
「シシ。午後は解体の仕事があるから、プログラムに従って留守番をするように」
「はぁい。あ、天は?宿舎にいるの?」
「
「そうなんだ……帰りは?遅い?」
「どうなんでしょう?」
微笑みをシュヴァインへと向ける。寡黙な彼は、小さく首を横に振った。
「夕暮れ時には戻るさ」
「うん、分かった」
◆
宿舎から数分も歩けば、
昨晩上った宿舎の屋上とほぼ同じほどの高さを持つ細かい格子を見上げ、天は顎に手を当てる。
「厳重、と言った様相ですね。逃げ出さないようにですか?」
「逆だ。迂闊に入り込めないようにだ」
格子戸をキィ、と開け、シュヴァインは天に手招きをする。
にこりと微笑んだ天は彼の背に続き、芝生の地面を軽やかに歩く。
「ちなみに、シシにご友人は?」
「いない。食肉に誰かとの繋がりなんて不要だよ」
「そうでしょうね。別れを悲しい・寂しいだなんて思われては解体に支障が出るでしょうし」
「……何が、言いたい?」
昨日の邂逅からとは打って変わって、シュヴァインの言動はまるでぶっきらぼうだった。
それは、信用の置けぬ相手に対する牽制の振舞いだ。それを十分に承知している天は、だからこそ笑みを深める。
「単なる知的好奇心です。全てを、暴きたいという――それだけです」
「……知らぬ方が幸せなこともある」
「
「例えば、どんな幸せだ」
「――“自由”」
道行くシュヴァインは振り向き、しかし天のその微笑みに怖気付いた。
柔らかい天使のような微笑みは、背にした通用口から差し込む逆光の陰に悪魔めいて映る。
いや――それはきっと、悪魔の微笑みだった。少なくともシュヴァインは、天使がそのような笑みを湛えているところを見たことが無い。あの天使たちよりも怖ろしく、そして
「少し急ぎましょう、シュヴァイン殿。貴方の仕事に遅れが出ては、
「あ、ああ……」
再び前を向いたシュヴァインは、鉄に囲まれた廊下をついて来るヒトガタに戦慄していた。
きっと天は、いずれこの工場を壊すだろう――そんな予感を、覚えながら。
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