第5章
三時間、説得と説教をくらった。
説得は父さんから、説教は母さんからだ。
「許嫁の人がいるのに、ハルナちゃんとデートなんて何のつもり? あなたは残酷な子」
「しかもSHarPの相性測定値で嘘までついて。いい? 環がそう言ったために、将来あなたが相性の高い相手と結婚できなくなるかもしれないの」
「自分が不幸になるのは、親としては悲しいけどまあいいわ。他所様のハルナちゃんを不幸に」
「もう、うるさいな」
母さんの一般論はもう聞き飽きた。
「自由恋愛だろ? いいじゃん」
「良くないわ。あなたたち、恋人でもないのに」
「恋人だったら母さんは良いっていうのか? 僕がハルナと遊んで、どうしてそんなに止められるんだ」
「環、座りなさい」
「途中から父さんは入ってこないで!」
「座りなさいっ!」
父さんが怒鳴ると、母さんはびくっ、と震え上がった。
「……怒鳴って悪かったな。父さんと母さんも、ニュースにお前たちがでなければ責めることもなかったんだ。水都中央高校の生徒がどれだけ見たか、考えたか? 不慮の事故と言えばそこまでだ。しかし、恋人同士のフリをして、SHarPの相性の数値を口に出したことで、クラスメイトからの視線は変わるぞ」
「変わったらどうなるのさ」
「気にしないつもりだろうが、知らないところで噂をされるのは気分がいいもんじゃないさ」
それを言ったら智はどうだ。実佳子だって。不誠実な変人、不誠実な変人が好きな子。そういう言われ方をしている。失恋大明神というあだなは、まだ親しみのある部類だ。そう呼ばれていたところで、智は気にしていない。少なくとも僕に向かって気にしている素振りを見せたことはない。実佳子も、自分がそうだとわかった上で好きにしているのだ。
「なにより、環お前は、ハルナちゃんとつきあっているのか?」
「えっ?」
母さんは一旦出てくれと、父さんは言った。僕が即答しなかった時点でもう母さんもわかっているのだろうけれど、せめてもの慈悲である。自分で自分の胸を突き刺そうというのだから。
「僕は、ハルナとは、まだ」
「……そうか」
本当は、夕日を見ながら付き合ってほしいと、好きだと告白するつもりだった。実佳子のアドバイスをたくさんもらって、SHarPの相性なんて乗り越えた運命の相手となるために。
「あれ?」
「どうした、環」
「いや、僕部屋に戻る」
すっくと立ち上がって部屋にかけ上がった。スマートホンを手に撮って、ハルナに電話をしようとし、でもその手は動かなかった。
「なんでだ……?」
なんでハルナが言ったんだ。僕とのSHarPの相性をわざわざ偽ったんだ。たかだか数字と言っていたのに。その数字でいじられるのがいやで家出までしてきたのに。逃げ出した相手である許嫁の紅崎とのつながりをもった九四パーセントをどうして、僕に使ったんだ。
ハルナは僕にまったく気がないのだろうか。名前がやっかいだし、相性も最悪だ。デートはあくまでも、それをしてみたいからで誰でも良かったんだろうか。
ネットで今現在のトレンドを調べて見ると、まだ九四パーセントという数字が出てきた。なんだか考えるのも億劫で、着替えもせずそのまま眠りに落ちた。
夢を見た。
純白のドレスを着たハルナが、ヴェールをかぶってブーケを持ち、赤い絨毯の上を歩いて行く。その左右には大勢が正装で並んでいて、僕もその中にいた。智も、実佳子もいた。
赤い絨毯の行く先には、祭壇がある。奥の壁にはステンドグラス。そう、どうみても結婚式だ。ハルナは振り返る。憂鬱そうな表情で、濡れた黒い瞳が僕を指した。薄く紅の引かれた唇が、僕に向かって何かをつぶやく。
「た す け て」
助けて? 何を? 誰を? 誰が? どうして。
ばたんっ、と式場入り口の大きなドアが開かれた。逆光を背負ったシルエットは、間違いなく紅崎恭一のものだ。モデルのように白いタキシードが良く似合っている。コツ、コツ、と革靴の音だけが高い天井に響いている。しゃんとのびた背筋、立ち姿。これが、ハルナの結婚する相手。相性が誰よりも高い非の打ち所のない男だ。
ハルナと紅崎が、向かいあう。そして、多分何かを誓うのだ。永遠の愛とかそんな感じのことを……。
助けないと。
ハルナからの僕へのメッセージだ。 人波をかき分けて、ヴァージンロードに飛び乗ると、ハルナに向かってダッシュする。今まさに、紅崎がハルナの左手を取って、薬指にはめようとする瞬間だった。リングが、指に触れようとした瞬間だ。
「行こう、ハルナ!」
左腕を掴んで、もと来たヴァージンロードを走り抜ける。悲鳴が上がる。紅崎は多分間抜けな顔をしている。ハルナは、嬉しそうに一粒涙を流した。
「はい」
閉じられていたはずの大扉はいつの間にか開いていて、光に包まれている。ハルナと手をつなぎ直して、その光の中へと飛び込んだ。
身体が落ちていく。そして、床に背中を打ち付ける前に僕は覚醒した。
ハルナをさらう夢を見た。他の誰もがあっけに取られる中、僕は自分の勝手で紅崎から彼女を奪還したのだ。
どうしてウェディングドレスを着た彼女を誘拐したのが、それは恋をした相手を結婚式開場から誘拐するという古い映画を、クラブで見たことがあるからその記憶によるものではないだろうか。二人は両思いで、笑顔のまま手をつなぎ式場から逃げ出したが、途端にこれからのことを考えてしまい不安に襲われる。そんなエンドロールだったはずだ。
時間は朝の四時半だった。日は昇っていないが、東の空がわずかにやわらかな青へと移り変わっている。もし……。今僕がハルナをさらって逃げたとしても、気づかれるのだろうか。逃避行をするなら夜中がほとんどというイメージがあるけれど、遠くに逃げるのであれば電車や飛行機が動いている日中ではないだろうか。
リュックにスマホとパスポート、財布をつっこんで、庭に停めているベスパのエンジンをかけた。少しのアイドリングの時間、後部シートにかけてある防水シートをじっと眺める、
「バイクを買うなら、二人乗りができるものにしろよな」
智の言う通りに取り付けたシートは、まだ誰も乗せたことのない真新しいものだ。運命の相手が見つかったら。もし、僕に恋人が出来たなら。と夢を見て取り付けたもの。逃げよう、と僕がハルナに迫ったら、これに乗ってくれるのだろうか。
……僕はいったい何を考えているんだろう。
小柄なスクーターは、頭を垂れ始める水田の中を、まっすぐ走り始めた。行き先は、ハルナの家。僕はとにかく伝えたかったのだ。ハルナに対する僕の思いを、気がかわらないうちに。
「おはようハルナ」
ヘルメットをかぶったまま、門の前に立つ僕をハルナは家に招き入れようとした。しかし、僕は返事をするかわりに後部のシートからヘルメットを一つ取り出して、ハルナにわたす。
「昨日の続きってこと?」
「そう」
ちょっと待っていて、とハルナは一度母屋に引っ込むと、五分で着替えを済ませてきた。もこもことしたピンクの部屋着から、ジーンズとカーキ色のシャツに着替え、背中にはリュックを背負っている。
「安全運転でお願いね」
「うん」
ハルナは、自分の安全を僕に委ねるように、背中から腕を回してきた。向かい風がごうごうと当たらないように、僕の身体に寄りかかってくる。
海沿いの道路は、水都島の外周に沿って走っている。ベスパを走らせること二十分ばかり。僕たちは日本海に突き出た公園に到着した。
「ここは、夕日がとってもよく見える場所なんだ」
朝日に照らされてさざなみに揺れる水面がきらきらと光った。水平線にフェリーが浮かんでいるのが良く見える。
「昨日も、ここに来るつもりだった。途中で終わっちゃったけど」
「ごめんなさい、わたし」
「ハルナ、君が好きだ。本当は昨日、こう言おうと思っていたんだ。でも、できなかった。半日遅くなっちゃったけど、伝えたかったんだ」
「わたし……、はい」
僕は、そしてハルナも、向かいあうこともなく、水平線を眺めながら。
「僕の身勝手だけど、相性が全然よくないけど、僕は君が好きになったんだ。昨日、夢を見たんだ。僕が、紅崎と結婚するハルナを拐う夢。取られたくない、って思った」
「環くん、エッチね」
「えっ、なんで!?」
「ふふっ、言ってみただけよ。わたしも、環くんが好きになった。わたしには許嫁がいるから、って自分の気持ちを自制して、恋人ごっこをしているつもりだったけど、それって変だと思う。そのまま恋人になれそうなのに、ダメだなんて、まわりが何をいっても理屈がわかっても、わたしは嫌だ。環くんがいい」
環くん、とハルナが耳元で僕を呼んだ。
「ハルナ?」
ハルナの方を振り向くと、両手で僕の肩を掴み、視線があう。そのまま小さくキスをした。
時間にして、一秒程度だろうか。いったい何が起こったのか、僕はすぐには理解できなかった。キス?
「うわあっ、これ恥ずかしい!」
口づけを終えたハルナは両手で頬を抑えて、勢いに任せた行動を言葉で発散しようとしている。
「紅崎にハルナを取られたくない。だから」
「だから、わたしもキスしたんだよ?」
僕は好きだ、と言った。そして、ハルナははい、と応えてくれた。
「紅崎さんよりも、環くんがいいの」
「それなら……」
「ね、あくまでも想像なんだけど、このバイク」「ベスパ」「ベスパ? でどこまでも逃げるってどうかな。ママもマスコミも紅崎さんも知らないところまで、ずっと二人で逃げるの」
僕が言い出す前に、ハルナがそう言った。
「逃げて、逃げて。わたしたちが十八歳になるまで逃げ続けるの。そしたら、結婚をする。どう? 滑稽だけど、面白いとおもわない?」
ああ、面白いさ。だって、同じことを考えていたんだから。
「学校はどうするの?」
「休学にすればいい。一年社会に出るのが遅いくらいなんてことない!」
「どこに隠れるっていうんだ?」
「ここからなるべく遠い、移民を受け入れている街に行こう。なるべくSHarP利用率も少ないところがいいよ」
「パスポートでバレない?」
「それじゃあ水都に置いていけばいい!」
このパスポートは渡航許可だけでなく、マイナンバーカードや保健証などさまざまな本人照明を兼ねている。パスポートがなければ今日び電車のきっぷも買えないのだ。
「病気になったらどうするのさ!」
「それでも! わたしは……」
「文化祭は? 占いの巫女は。クラスのみんなに迷惑をかけることになるかもしれない。それでもいいのか?」
「文化祭……」
相性がどうだというのは周りが勝手に騒いでいるだけのことで、でも文化祭を前に僕とハルナが消えたらクラスは混乱するだろう。多分、困る。そう信じたい。
「僕も、ここに来る途中に考えたんだ。ハルナと二人、どこまでも逃げたいって。紅崎よりもはやく好きだって行ってそのまま逃避行をしようって思った。でも」
そうだよね、とハルナがこぼした。悲しむ人の数がぜんぜん違う。
「でも……」
ハルナは僕にキスをしてくれた。
それだけの覚悟があったんだと思う。
一方の僕はどうだろう。ハルナに言いたいことを全部言われて、少しは自分の頭が冷めたのか、現実的じゃないなんてバカなことを言ってしまう。
「智にも、みっこにも相談できないよ。僕たち二人のことなんだよね」
「ええ……。よかった、環くんが冷静になってくれて。このままだとわたし、心中しかねなかったから」
「心中?」
「ここから二人で飛べば……、冗談だよ冗談。思ってないから」
でも、周りにバレてやかましく言われたら考えはするかもな、と僕は思った。
八時過ぎに、ハルナを家まで送っていくと、眠気が一気に襲ってきた。やけに早い時間に目が覚めて、今まで気づかれもしたのだろう。家に戻るよりも、学校の……学校に行ったらとてもからかわれそうだな。そしたら、どうしよう。
どこかで眠れるところがないか、あくびをしながら新町を走っていく。
「結局ここしかないのかな」
見慣れた看板、先生の店だ。でも、開店時間は昼の十一時。しかも、ここに先生が住んでいるわけではない。それに、寝不足な生徒を家に置いてくれるとはとうてい思えなかった。店の前にベスパを止めると、壁によりかかってやっと一息つくことができる。初めて、後ろにハルナを乗せて走ったので、思いのほかとても疲れた。マンガとかで書かれているハルナの身体の柔らかさが、みたいなことは一切感じる余裕がなかった。
ただ、唇の感触は、鮮明に思い出すことができた。
恋人のように、いや、もう恋人なのか。
そうか、僕はハルナの……。
「何をやってんの?」
壁に身体を預け、お尻から崩れ落ちそうな僕に先生が話しかけてきた。ジャージ姿で、発泡スチロールに入った何かを持っている。市場から仕入れてきた肉だろうか。
「せん……せい?」
「そこに座っていられると営業妨害だから、中に入ってくれ」
店の中はクーラーがきいていて涼しかった。
「なあ、榛名、おれもお前たちのニュース、知ってるぞ」
「そうですか」
「家にいるのがイヤになって、ベスパで走ってきたのか? そうかそうか」
僕は答えるのも億劫だったので、適当に相槌を打った。
「世間でどう言われているか、なんて気にしなくていい。法を犯すようなことをしたわけじゃないからな。この国では自由恋愛だから、なあ、榛名、変な気を起こすんじゃないぞ」
先生が注いでくれた冷えたコーラが、カーっとなった内蔵を冷やしてくれる。甘さがとても心地よかった。
「変な気?」
「心中とか」
「心中!?」
「なんだよ、そんなに驚かなくてもいいだろう! 太宰治なんて何度も……」
究極の恋愛は死にいきつくというのか? ハルナも心中なんて物騒なことを言っていたから。
「ねえ、先生はさあ」
「おう、どうした?」
「どうして、結婚しないんですか?」
野菜を洗う手が、一瞬止まったのを僕は見逃さなかった。今、この国で結婚は一つの選択肢でしかない。だから、先生が結婚をしていない理由を聞くのはマナー違反にあたる。MAIパートナーによって、結婚したい人は最良の相手と出会うことができるのだから、よほどの運が悪い人以外はその気があれば結婚する。なければしないのだ。
「榛名、それを聞くのはマナー違反だぞ」
「わかっています。でも知りたいんです」
「先生は……、先生はなあ、好きな人がいたんだよ。異性で一つ年上。同じ県内で出会ったんだ。向こうも社会の先生で、中学校だけどな。先生方の研修会とかでしょっちゅうあっているうちに、互いに好きになった」
「相性は測ってみた?」
「ああ。すっごく怖かったけど、やってみたよ。水都市の港南区には直接二人の相性を測ることのできるSHarPがあるからな」
「僕たちが使った奴だ」
「そうだったな。そして、俺とあの人との相性は、十三パーセントだった」
「十三パーセント? 二人とも好きだったのに?」
「そうだ。……お前と玉置だって、もっと低いだろうが」
そうだけど。
「相性なんて気にするな、と俺は教師としてお前に言うことはできる。しかし、俺とあの人はふたりとも先生だったんだ。悩んで、悩んで、その間にあの人はSHarPのはじき出した相性八十パーセントの相手と結婚したんだ」
「そんな……!」
「ずっと、それから俺はSHarPをやってない」
「結婚する気がなくなったってことですか?」
「なくなった、か。そうかもな。もう、どんな最良の相手がいたとしても、あの人にはとうてい敵わない。思い出がなおさらそう思わせるんだろうけどな」
「知らずに、そんなことを聞いてごめんなさい」
「いや、いいんだ。俺も、お前たちの映っているニュースを見たんだけどな、羨ましかったよ。玉置に許嫁がいても、お前たちの相性が悪くっても、楽しそうだった。
……でもな、お前たち。どこかに逃げるってつもりなら、先生は感化しない」
「どうして知っているんですか?」
先生は大きなため息をついた。そして、テーブルを挟んで僕の向かいに座り、腕をくみ出す。
「悲恋な男女は逃避行をするって相場が決まっているんだよ」
「悲恋、ですか?」
「そうだよ。高校生の恋愛は推奨されない、結ばれる理由のない二人。大恋愛が描かれる時代と違って、電車もフェリーも簡単には使えないんだ」
「静かに僕とハルナは分かれる日を待てって、そういうことですか?」
「お前たちは、まだ十七歳だ。しかも、文化祭の準備中じゃないか。……先生は学校に行かなくちゃいけない。奥のソファで勝手に寝ていて良いからな」
生徒は登校日ではないが、先生はどうもそうでもないらしい。お言葉に甘えてだいぶ古茶けたソファに横になった。
セミの音が聞こえる。
かすかに、カナカナとひぐらしの鳴き声も混じっていた。
「夕方かっ!?」
僕は跳ね起きて、壁にかかる時計を見た。午後四時半。太陽は傾きはじめ、アーケード街は石畳が茜色に染まっていった。
「夕方だぞばかものが」
「……智?」
店内では、智が誰かと一緒にテーブルを囲んでいた。
「おはよう、環くん」
「みっこ」
智の隣で、二人の距離はゼロ。肩を寄せ合うようにして座っていた。四人がけテーブルなんのに、実佳子の隣にはつめればもうひとり入れるくらいの隙間ができている。その隙間から、ハルナが真剣な面持ちでノートに何かを書き付けているのが見えた。
目があった。そして、目をそらされた。
「ハルナ!? 何してるの?」
「……部活」
見れば、テーブルの上にノートを広げ、三人が何かを話し合っているようだ。
「環も起きたなら参加しろ」
「うん」
まさか夕方まで寝てしまうとは思っていなくて、今日の午後から活動があることをすっかりすっぽかしてしまっていた。ハルナの隣に座ると、目を合わせないままハルナはかしこまる。
「今日のテーマは?」
「玉置さんと環が逃げる方法の相談」
「はぁ?」
「聞いたぞ。お前たちつきあったんだってな」
数秒の沈黙が降ってきた。
「……どうして」
「わたしが、全部話したの。運命の相手は環くんだって」
特に実佳子がにこにこしながら、僕をじいっと見つめてきた。
「あんなに話題になったら、もう隠さずにつきあうってこともあるかな、って聞いてみたの。ハルナちゃん全部言ってくれたよ、ねえ智」
「ああ。お前、すげえな」
智に言われるほどすごい自覚はないんだけど。店内には僕たち以外誰もいない。クーラーをつけたまま、先生もそのご両親もどこかにでかけているようだ。
「今、いろいろと考えていたんだ。俺たちは文化祭がある。玉置さんはそれが終わったら東京に帰ることになる。かといって、今いなくなれば大騒ぎになるだろう」
「お前、俺が逃げると?」
「思ってるよ。前にお前のいとこがやったように」
「え……」
晶のことを、そこまで智に話した覚えはない。
「わたしが教えた。環くんもそのつもりだろうって」
「どうなんだ、環。お前は、玉置さんと二人、結婚ができる年齢になるまで、逃げる気でいるのか?」
「そうだと、言ったら?」
いつになく真面目な顔をした智は、ぐいっと僕の襟を握って引き寄せた。顔が近い。
「協力する。俺も、みっこも。そして先生もな」
「先生も?」
「手助けはしない、助言だけと言っていた。止めないだけ味方さ」
「智……」
「ただし、文化祭の前に逃げたら、俺は黙っていられるか自信がないね。玉置さんが楽しみにしていた占いの巫女を見ないまま終わりたくはない」
わかった。と、僕はつぶやいた。ハルナも一緒にうなずく。
「玉置さんが水都にいるのは、あと二週間とちょっとだ。よく考えてみてくれ。どうしたいかを」
「わかったよ」
「わかった」
ハルナも続いて答えたのだった。
それからの二週間は、やっぱり文化祭準備のために毎日学校に行き、次第に組み上がっていく水都中央高校文化祭の雰囲気をずっとハルナの隣で見ていた。八月三十日には完成した衣装のお披露目会とリハーサルが行われた。緋色の袴に鈴を持って白いリボンで髪を結んだハルナはどっからどう見ても巫女さんで、上下ピンクに厚化粧をした智は誰がみても立派に失恋大明神だ。
「あと一週間か。よし、全員で写真撮るか」
まだ研鑽と改良の余地はあっても、とりあえずの完成を見た二年九組の占い喫茶の店内で糸川先生は嬉しそうに言った。学年主任がいつの間にかカメラを持ってスタンバイしている。
「全員ポーズはいいな?」
「はーい!」
「それじゃあ、占い喫茶にい?」
「悩みにきなっさーい!」
目まぐるしく過ぎた一週間を僕は二度と忘れることはないだろう。教室の装飾ほか、食べ物の買い出しや五人の占い師への特訓などやることはいくらでもあった。ハルナが乗り気だったので、ニュース映像を使って大々的に宣伝もした。
――――占いの巫女、さんですか?
「そうです。占って差し上げましょうか」
――――当たるのでしょうか?
「だいたい九四パーセント当たりますよ」
――――文化祭、どのクラスに行けばいいのでしょうか。
「むむっ、見えます。二年、二年生の……。失礼。今ならしたのは、運命の鈴です。二年九組です。間違いありません」
――――そうなんですか。
「……あなた、恋していませんか?」
――――恋?
「そうです。見えます。おーい、失恋大明神さん!」
「呼んだかしら?」
――――呼んでいないのですが。
「あっら、いい男ね。占ってア・ゲ・ル」
――――いえ、そんな。
「あなたの運命の相手は、すぐ目の前に……あら、アタシってことかしらあ?」
――――すみません、失礼します!
「二年九組ですからね!!」
しゃんしゃんと鈴を鳴らすハルナのシルエットで用意された三十秒の尺ぴったりだった。智は意外にも汗びっしょりだが、芯まで失恋大明神が憑依しているように見えて、誰もに戦慄が走る。
「俺、役者とか向いているのかもね」
「冗談はいいから。メイク落としにいくよ!」
実佳子と連れ添って洗面台に向かう姿は、失恋大明神ではなくただの夫婦のようだ。
「でも、前からあの二人あんな感じだよなあ」
カメラマンがぼそっと言うと、撮影を覗いていた三十余名が大笑いする。ハルナは着慣れない袴が楽しいのか、他の女子に鈴を預けてくるくると回っていた。裾がふわっと広がって、楽しそう。
「ほんとにあと三日だなんて」
ニュースに映った日から、ハルナのところに母親からの連絡は一切無かったという。連れ戻しに来る気は無くなって、もうハルナも水都にずっといるんじゃないかと思った文化祭当日は、どこに出しても恥ずかしくない秋晴れだった。
「来年はみんな受験だ。そして大学生だ。おそらく、人生最後の文化祭になると思う。おれも、高二の文化祭が最後だったからね」
「先生は毎年文化祭があるじゃないですか」
「あっ、そうだった!」
智のツッコミで、開店前のクラスの雰囲気は和やかになる。ウェイターの姿の生徒も、案内をする制服姿の生徒も、巫女姿のハルナも。
「玉置さんのためにも、みんな楽しもう!」
「おうっ!」
ハルナは、明日に迫った始業式で、東京に戻ると言っている。夏休みの間、文化祭の準備を通して、二年九組のかけがえのないクラスメイトになったのに。
「みんな、いい?」
ハルナが、やっぱり僕らの前とは違う落ち着いた感じで前に出た。
「みんな、今日までありがとう。明日わたしはいなくなる。だから、今、お礼を言わせてね。東京の高校では、ずっと九四パーセントってからかわれていた。SHarPの相性の話しよ。でも、みんなはそれを知っても、何も言わなかった。本当にありがとう。ずっとここにいたいって思ったけど、もういられないの。ごめんなさい……」
今にも泣きそうな声のハルナに励ましの声をかけることもできない。
「最初、御崎くんの失恋クラブに入る時、わたしは青春がしたかった。それには、運命の恋をすればいいと思ったから。でも、失恋クラブでなくてもよかったんだね。って思ったよ」
「ハルナちゃん!」
「みっこ!?」
実佳子がハルナを抱きしめる。ハルナも抱きしめ返した。
「やっぱり、水都にいようよ。寂しいよ」
「ありがと。でも、そういうわけにはいかないの。行かなくっちゃ」
今夜、ハルナは水都からいなくなるのだ。逃げられなくなる前に。
「とにかく今日は楽しもうねっ!」
「おおおおっ!!」
クラス最後の集合をまとめたのがハルナであれば、占い喫茶の中心もハルナだった。すでにそこそこの有名人だったが、PVを見て多くの客が並んでいる。効果てきめんだ。
「いらっしゃいませ、ご注文と、よろしければ占いの方も」
「占いの巫女」「占いの巫女」「九四パーセント」「占いの巫女」
「申し訳ないのですが、お客さま。当店に九四パーセントって占い師はいないです」
「ちっ……、占いの巫女だよ」
ハルナが絶対的に人気だったが、他の占い師も客が絶えることはなかった。
「ハルナさん、お昼休憩でーす!」
一旦教室からお客を全員出した状態で迎えたお昼は、飲み物が底を付きたため、買い出しの時間でもあった。まさか使うことにはならないだろうと思っていたが、念の為に作っておいた整理券がどんどんお客の予約を持っていく。
「人気すぎるわ!」
ソーセージパンをかじりながら、失恋大明神の智がつぶやいた。ちなみに失恋大明神は占いの巫女についでの人気コンテンツである。
「やっぱりPVがよかったのかしら。わたしもおこぼれもらっているし、ハルナちゃん様様ね!」
「お前、似合ってるな」
「何が似合ってるって」
「失恋大明神。これからも、僕らの希望を一身に背負い、失恋をし続けてくれ」
「それは……」
智は、いつもの威勢がどこにもなく、客対応で疲れたという様子もどこにも無い。
「運命の恋って何なんだろうな……」
「は? 運命の恋?」
「なんでも無い」
文化祭閉門の午後四時まで、僕たちの喫茶は満員御礼だった。さすがに三時もすぎれば客足は減ったけど、ハルナも智も休む余裕が一切ない。
あと十分で閉店というタイミングで、ついにお客は誰もいなくなった。おそらく、終了を前に自分のクラスへと戻ったのだろう。
「よく来たわねぇっ! って、あら、環じゃないの」
智扮する失恋大明神の列に僕は入って、智と向かい合って座る体勢となった。
「失恋大明神さま、失恋大明神さま。どうぞ僕の悩みを聞いてくださいませんか?」
「よかろう。何なりと言うがよい」
「僕とハルナが周囲に祝福されながら幸せになる方法はありますか」
智は口角をぴくりと揺らすと、「ええと」とか「それは、」とか唸った挙げ句、唸るように声を出した。
「二人の幸せをまわりが祝福するためには、SHarPによる高い数字が必要……ね。アナタと玉置さんの相性は一億分の一ってものすごく低いものだから、普通は惹かれ合わないのだけど、それが起こっているのだから不思議よね。でも、アタシは……。俺は、お前たちを祝福する。みっこもだ。そして、来年になれば、もう一度きちんとした結婚相手を見ることもできるじゃないか。今失恋したとしても、最良の相手に巡り会える。それでふたりとも別々に幸せになることもできる。それじゃ、駄目か? やっぱり、行くのか?」
占い師役ではない、一人の友人として、智は計画の決行を止めようとする。でも、僕は止まらないこともわかっていた。
「行くよ。大丈夫、また会えるから」
「当然だ。……無茶はするなよ、っていう忠告も馬鹿らしいか」
僕たちが占いブースから教室に出ると、みんなはもう体育館で行われている閉会式に向かったようだった。僕と智は階段を上がって、夕暮れに空が深い蒼とのグラデーションを描いている屋上へと出た。先程までの喧騒につつまれた校舎とはうって変わって、秋の始まった日本海の波濤の音すら聞こえてきそう。
「ほら、餞別だ」
「餞別?」
ポケットから取り出された封筒の膨らみは、明らかにお札が入っているものだった。
「いいよ、そんな」
「いいから、俺だけじゃない。クラスのみんなも、先生も、って先生がくれたことは内緒だった。俺もどうして環と玉置さんにこんなにお金を渡そうとしているのかわからない。でも、応援したくなったんだよ」
「どうして。社会的にはぐれたことをしようとしているのに。大人から見たら誘拐みたいなもんだぞ」
「違う、立派な駆け落ちだ。恋に落ちたから二人で走るんだよ。お前と、玉置さんと、これから二人なんだ。お金だっているだろう。ほら」
「……ありがとう」
正直、いきあたりばったりのつもりだった。お金はほとんどない。だから、最初に封筒を出された時は喉から手が出るほどほしいと思った。カンバなんだろう、ということも、見た瞬間にわかったが、申し訳無さが逸るのは本当だった。
「でも、アテはあるのか? 家出少年少女は本当に目立つぞ」
「アテならあるよ。虚勢でもない。でも、教えない」
「構わねえよ」
二人並んで、手すりによりかかった。まじまじと見上げると、雲がとても高くなった。僕たちの、二年九組の文化祭が終わり、僕たちの青春も今、終わりを迎えているんだなあ、と少しばかりセンチメンタルになる。
「青春が終わっていくな」
「ばーか。今から駆け落ちする奴が何いってんだ」
「智は……」
なんだか、一番青春っぽいことをしていた智が、今はとても遠いように見える。そういえば、長いこと告白をしていないようだった。
「やっぱりいい人見つけて結婚するのか?」
「……そんな恋に憧れてたよ。でも、もう無理なんだ。その気が起きないから」
「みっこ?」
「ああ。ずっと目を逸らしていたんだよ。でも、MAIパートナーを使ったところで、俺はそうなる運命だったのかもなぁ。環は、一億分の一でもくじけずにいるからすげえよ」
「すごくなんて……」
「羨ましいんだよ、俺は。お前がすごいなって」
どうして僕も、ここまで大それたことをしようとおもったのか、自分でもわからない。カッコつけて言うなれば「恋の力」だ。僕はともかく、ハルナが悲しい思いをを見たくないって思うから。
「じゃあ、俺戻るわ」
「ああ。ありがとな」
クラスの打ち上げは、やはり先生の店で行われた。
誰も、僕とハルナのことを知っていながら話しはしない。話題は九組が「ユニーク賞」という最優秀賞よりも取るのが難しいものを十数年ぶりに取ったことに尽きた。
「来年から占いをするところが増えるかもね」
「無理無理。失恋大明神がいないから真似できないって」
「あー」
そして、失恋大明神の名前が呼ばれるのも、おそらく今日が最後だ。夏を超えて大接近した智と実佳子は前と何らかわらないように見えるが、古女房と思えば納得の息の合い方。
「お前たち、これで受験に専念できるな?」
「えー? 青港祭(せいこうさい)までは良いでしょ?」
「いや、駄目だ!」
三年生の体育祭は本当に高校最後の大イベントだけど、八ヶ月も先のこと。フルスピードで勉強をしてもバテるだろうけど、今のうちから受験生のつもりでいろとどの先生も言っている。
「でも、まあ、今夜はいいぞ。唐揚げ、追加したい人!」
真っ先に、ハルナが手を高く掲げて、周りから笑いが起こった。
「えっ、どうして笑うの?」
「ハルナちゃん、ここのからあげ好きすぎ」
「おいしいじゃない! 当分食べれないんだし……」
誰もがそれを聞かなかったそぶりを見せた。
夜の九時を回ったところで、打ち上げはお開きとなった。最後にハルナが、ただ一言「ありがとう」というと、やたらしんみりとしてしまい、申し訳ない気分になる。
「じゃあ、元気で」
「またね」
智と実佳子は、最後まで笑顔で僕たちを見送ってくれた。また会えるから。
「じゃあ、明日」
「はい。よろしくね」
そう言ってハルナと別れる。とたんに、身体がぼうっと熱く思えてきた。もしかしたら、もう一生クラスメイトには会えないかもしれないのに。あんなに毎日の放課後とかわらない気楽な言い方で別れたことに妙にセンチメンタルを覚えてしまった。十時近くに家に帰ると、もう父さんは寝ていて、母さんも僕が帰ってきたらすぐに戸締まりをして自室に入っていった。少なくとも今日。僕は一生懸命クラス展示の裏方を頑張ったのだから、あなたたちが心配している間違いは起きていないのだ。
これから、僕は大いに二人を失望させるけど、ごめんなさい。
就寝する前に、声に出して言ってみた。
思ったよりも、罪悪感は無かった。
翌朝。普通の時間に起きた僕は、当たり前のように父さんと母さんと朝食を取って、先に出かける父さんを見送ったあと、制服に着替えて、母さんから弁当を受け取った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけて」
リュックを背負ってドアを閉める。少しのあいだ、この家に僕が帰ってこないと知られないように。
「そうだ、環」
「はいっ!?」
ドアがいきなり開いたので、僕は飛び上がりそうになった。
「どうしたの、そんなに驚いて。今日、ハルナちゃんが転校前最後でしょ? 帰り遅くなるの?」
「え、どうだろう。ご飯は食べると思うな」
「わかったわよ。いってらっしゃい」
その時の母さんの姿は、ずっと脳裏に残っている。この瞬間から、僕は大人になる。家出がはじまるのだから。いつもより入念にベスパの点検を行って、安全運転で走り始めた。通学とは違い駅には向かわず、まっすぐ水都市内のハルナの家へと走らせる。制服姿のハルナが、門の前でリュック一つで待っていた。
「おはよう」
「おはよ」
後部座席を跳ね上げて、二つのリュックを詰め込んだ。ハルナはしっかりとヘルメットをかぶって、僕の腰をしっかりと掴む。
「行こうか」
「はい」
言葉も少なに、高校から離れる方向に走り始めた。
時間は九時を過ぎた。
今頃、僕とハルナが二人とも登校していないことがバレて少し騒ぎになっているかもしれない。母さんに電話が行っているかもしれない。そんなことを考えないようにしながら、黄金色の絨毯となった稲穂の中に伸びる県道を、北へ北へと走っていく。時速四十キロでも、ベスパだとかなりのスピードに感じられる。風はもう暖かくはなくて、ハルナは徐々に僕につよくしがみつくようになってきた。
「木豆川(きずかわ)を超えたら休憩しよう」
「了解!」
走りっぱなしでハルナは怖かったのか、コンビニの駐車場にベスパを止めるとベンチに嬉しそうに腰をおろした。制服姿のままだとさすがに目立つので、大学生がよく着ているジャケットとTシャツに、水都市内で着替えている。
「今日はどこまで行くの?」
「山形に入ったら、日暮れ前にどこか宿に入らないとね。盛岡まで一日じゃ無理だけど、水都は出たい」
「無理、しないでね」
「してないよ」
している。水都市外に出るのだってはじめてなんだから。でも、ハルナの手前弱音を吐くのは絶対にしたくなかった。
「浦上まで行ったらお昼にしようか」
南北に長い水都でも、一番北にある大きな街・浦上。僕たちは国道脇にあるチェーンのうどん屋さんでおなじかき揚げうどんを二つ注文した。早速、智からもらったカンパを使わせてもらう。
「運転、変わろうか?」
「無免許じゃん」
「自転車と一緒でしょ?」
「駄目。ハルナと言えどもベスパの運転席には座らせられないよ」
「よっぽど環くんはベスパが好きなんだね」
「まあね」
天井から下げられたテレビでは、県内のニュースが流れている。天気のことや、選挙のこと。そして、二人分のお盆を下膳して、お茶を飲みながら晩ごはんには母さんのお弁当食べなきゃと思っていた時。
『水都中央高校の生徒二名が行方不明となっています』
アナウンサーが「ちゅ」と言った時点で、僕とハルナは反応した。もう県内のニュースになってしまったのか。幸いにも食べ終わっていたので、そのままベスパにまたがった。速歩きすぎて走るように店を出たが、気づかれてしまっただろうか。
「ああ、びっくりした」
国道に出てからハルナはいたずらをした子供のような声を出した。
「でも早すぎないか? 今朝のお昼だぞ?」
「ママよ」
「ハルナのお母さん?」
「ええ。たぶん、もう家に来たんじゃないかしら。それで、学校からの電話を受けたの」
偶然が重なれば、僕とハルナが学校に行っていないことから逃避行したと思ってもおかしくはない。それに、九組の誰か一人でも口を割ればバレてしまうのは間違いないのだ。
「どうするの?」
「どうもしない。まさかバイ……ベスパでこうやってずっと走っているなんて思わないでしょ」
「そうだといいけど」
水都を出るのに一番はやいのは新幹線。次が高速バスだ。飛行機やフェリーもあるけど、ハルナの母親や学校が疑うのは陸路だろう。しかも東京方面だと思っている。
「御崎くんにもみっこにも、行き先は言っていないんだよね?」
「言っていない。僕とハルナしか知らないから」
僕とハルナの逃避行。それは、ハルナが僕と、結婚できるようになる十八歳の誕生日まで。ちょっとばかし長い家出だ。たったの数ヶ月しか一緒にいない、告白してから数週間の僕たちがこんな大冒険をするなんて。マリンリュートにデートに行った日に、大勢がなんと言おうと僕はハルナがいい、と思ったから逃げようと誘ったことがはじまりだった。
「逃げる?」
「紅崎から、ハルナのお母さんから逃げよう。僕たち、そうじゃないと一緒にいれなくなっちゃう」
「逃げるって、……どこへ?」
「アテはある。僕たちを匿ってくれる人がいるよ」
「でも」
「駄目…………かな?」
逡巡するハルナの瞳は、それでもきらきらと光っていた。難しいけど、スマートではないけれど。僕たちにできる一番現実的な世界への抵抗の方法はこれだ。
「……………………いいよ」
そして今、水都から盛岡まで。三五〇キロの駆け落ち中なのだ。ハルナと二人、どこまでも一緒に行ける気がする。最高速度は四〇キロだが、所詮原付きだ。一日でたどり着けないことははじめからわかっていた。
水都と山形の県境を過ぎたのは、四時半だった。水平線まで、真っ赤な夕日が照らしあの日僕たちが見られなかった夕焼けが左手いっぱいに広がっていた。ベスパを止めてロマンチックにひたりたかったけど、そうしていると夜道を走る必要がある。僕は泣く泣く運転をし、ハルナは感激の声を上げていた。
「夕日ってきれい……!」
僕だって見えている。日本海に沈む夕日は本当に綺麗だ。当分見られないのだから、と、一瞬スロットルを緩めて夕日に目をやった。ハルナがぎゅう、と抱きついてきて、顔を寄せてくる。こつん、とヘルメットとヘルメットが当たった。
「当分、この夕日は見れないからね。ハルナと見れてよかった」
「環くんもキザなことを言う」
「良いよね!? 僕たち、その、恋人同士なんだから」
「……うん」
宿泊が一回だけだからといって、野宿というわけには行かない。僕一人だったらしていたかもしれないけど、ハルナと二人なのだ。普通のホテルや旅館では、パスポートを提示しなくてはいけないが、二人とも未成年だし、しかも駆け落ち中。大勢の顔を見る可能性のある、ネットカフェなんかも怖い。しかもこんな田舎にそんなものは無かった!
「というわけで、ラブホテルね」
「智にチェックイン方法を教わっておいてよかったよ」
法律的に駄目なところもそれなりに残っているというが、たしかにこのホテルは受付でパスポートの提示は求められなかったし、従業員の顔を全く見ずにエレベータに乗って、部屋に入ることができた。大きなキングサイズのベッドと、テレビにソファ。そして大きなバスルームだ。当然、用途が用途なので、気をつけないと入浴中の姿を見られてしまう。
「環くん先に風呂に入って」
「そうさせてもらうよ」
一日中ベスパに座っていたので、お尻と脚が痛かったし、後ろにハルナが座っている緊張から腕も攣りそうだ。家のものよりも倍近くある大きなお風呂は、浸かるだけで「ああぁ」と唸り声が出る。さっさと寝て、明日は早くでかけて、日の高いうちに盛岡に到着しないと行けない。強行軍だ。これがラブコメだったら、ハルナとのエッチな展開があるかもしれないが、それだけは、一度タガが外れたら戻れないようで。
「今頃、みんな心配しているのかな……」
果たして、逃亡先に到着したらハガキの一枚でも出したほうが良いのだろうか。はじめての家出だから、すごく心細いのを熱いお湯でバシャバシャと顔をあらって流そうとする。
「環くん、疲れた?」
僕もハルナもパジャマ姿で、二人並んでひとつのベッドで仰向けとなった。同じ浴室の同じシャンプーを使っているはずなのに、ハルナの結んだ黒髪からはいい匂いがしている、気がする。
「疲れた。ハルナは?」
「わたしも。すぐに眠れそう」
すぐ隣に大好きな女の子がいるだけでも、自分が普通の気持ちじゃないのに、一緒に旅をして、ひとつのベッドに並んでいるなんて、いくら疲れていても眠れそうにない。
「……環くん、寝た?」
「……寝た」
「嘘ばっかり」
「……わかる?」
くすくすと笑っているうちに、すーすーと寝息が聞こえたと思ったら、僕もそのまま意識を失うように眠りに落ちた。
「……くん、環くん」
誰だ、まだ朝じゃないんじゃないの?」
「もうチェックアウトの時間! 早く起きて!」
ハルナが頬を叩いたので僕はようやく目を覚ました。朝の十時。チェックアウトの時間を過ぎてしまうと、もう一泊分を支払わなくてはいけない。払えないわけではないけど、一箇所に長居をしていてもいいことは何もない。ハルナはもう着替えを終えていた。
「着替えて!」
ハルナが顔をそむけた原因は、僕のはだけた浴衣だった。あっ、と自分のだらしない姿を隠しながら、なるべく早く着替えをすます。そして、こそこそと、誰にも見られないように裏口から出て、駐車場で身体を大きく伸ばした。
「はじめてのラブホテルだったね」
「なんで環くんにやにやしてるの」
「してるかなあ」
頬を張って、ヘルメットをかぶる。ハルナももう慣れたのか、はじめにヘアゴムでポニーテールにしてからかぶっていた。けっこう蒸れたみたい。
「行こう。今日のうちに盛岡まで」
「何キロくらいあるの?」
「まだ二百キロはある」
昨日のうちに半分も走れなかったから。緊張と、事故にあってはいけないし、本当のところラブホテルに泊まることになるんじゃないかとずっとドキドキしていた。思ったよりも、本当に何も無かったんだけど。昨日とは違って曇り空の下、軽快にベスパは走り出した。昨日よりも自然にハルナが回してくる腕を受け入れられている、気がする。山形の酒田から東に方角を変えて、ただただ走り続けた。僕たちがどう報道されているのかは気になるけど、寝坊しちゃったから余計な休憩は取れない。国道は峠超えの坂道になって、自転車ぐらいのスピードに落ちていく。
「大丈夫? わたし降りようか?」
「心配しないで」
ここから先、いくつも峠を超える。今止まってしまっては、僕たちの旅はおしまいだ。幸い、ベスパは僕たちを峠の頂上まで押し上げてくれた。周りの木々をよく見ると、真夏の深緑がやや色づき初めていて夏もまもなく終わるんだな。信号のない国道なので、トラックや大型の乗用車が次々と飛ばしていって、道の両側にガードレールのある場所だとちょっと怖い。住宅がほとんどない道路なので、僕たちに誰かが声をかけませんように、と思っているうちに旅も半分を超えていた。
「今日は泊まらなくていいの?」
「うん。っていうか、今日行くって言ってあるから、なんとしても行かなきゃ」
昼食を食べに立ち寄ったドライブインの時点で残りは百キロとちょっと。時間は午後二時を回っていた。もう一日遅くなると連絡をするには、スマホの電源を入れ直さなければいけない。そうすると、GPSで僕たちの居場所が見つかってしまう可能性がある。はじめの約束は、今日の夜九時に盛岡駅だ。しっかりと逃げないと捕まってしまうかも、なんて逃亡者そのものである。
「いつになったら教えてくれるの?」
「……何を?」
「わたし達をかくまってくれる人。いったい誰なの?」
「それはついてからのお楽しみだよ」
そういえば、まだハルナには話していないんだって。ごまかしながらいつの間にか、岩手県との県境をまたいでいた。
水都から盛岡まで、約三五〇キロの旅もまもなく終わりを迎える。山道を抜け、ついに盛岡市街の明かりが見えた時。僕はベスパを一旦停止させた。
「もうすぐだ!」
夜の七時。ヘッドライト無しではもう走れない時間帯。後部座席はテールライトがついているけど、万が一後ろから追突されてはまずいと運転が慎重になる。水都よりもこじんまりとした中心街を走り抜け、ついに盛岡駅前ロータリーでベスパを降りた。
「ついた……ついたぁーっ!」
「やった、ついあ」
喜びよりもずっと安堵感の方が大きい。ついにやり遂げた。高校生二人で、ここまで来れたのだから。
「環くん」
「はい」
「一日、お疲れ様」
がばっ、とひとしきりハルナと抱き合うと、約束まで一時間以上ある。お腹もぺこぺこ、名物のわんこそばが今なら百杯くらい簡単に食べられそうだ。
「わんこそばにしようか。盛岡冷麺にする? それともジャージャー麺?」
「盛岡って麺しかないの?」
駅の看板を見ていると、ぐうと腹のなる音がした。ハルナも、どれでもいいからと言うので、盛岡冷麺を食べに行くことにした。
「麺の上にスイカが乗っているんだね」
「合うのかな。楽しみだね」
駅前にある店に行列はない。平日の、夕食のピーク時間は過ぎている頃だ。僕たちに誰も気が付かないことを祈りながら、繁華街に向かおうとしたときだ。
「おっ、九四パーセント」
耳障りな呼称に、僕もハルナもはっ、と振り返る。七分丈スキニーのハーフパンツにぴったりと身体のラインがわかるタンクトップ。知らぬ間にメガネもかけていた。視線があう。今までの僕だったら、どきりと胸が高鳴っていたかもしれない。でも、今は全然、幼い時のようにほほえみ返すことができる。
「久しぶり、環」
「晶ねえ……さん」
いつか駆け落ちをして姿をくらました晶が、僕たちを迎えに来ていた。
「晶ねえさん、って、駆け落ちしたいとこの?」
「そう、そのいとこ」
「環くんが好きだった人?」
ハルナが耳打ちした。僕は小さくうなずく。
「駆け落ちして行方不明じゃなかったの?」
「行方不明だったよ」
「二人とも、おーい、無視しないでー!」
こちらは世話になる身だ。急いで晶についていく。
「その原付は、また取りに来ればいいから、車に乗って」
晶の乗ってきたワゴン車の側面には『みなみ牧場』と書いてあった。
「牧場?」
「そう、牧場だよ。牛、豚、羊、鶏、それに馬。家族がものすごくたくさんいるから、二人増えても大丈夫。動物アレルギーはないよね?」
「たぶん、無いと思う。ハルナは?」
「わたしも」
駅からどんどんと離れた車は、いつの間にか郊外のバイパス道路に入っていた。車もまばらで、水都と大した違いのない風景になってくる。
「環くん、どうやって連絡が取れたの?」
音信不通の相手だ。以前、晶から葉書が届いたことがあったけど、住所は書かれていなかった。僕たちがいまここにいるのは、偶然と言ってもいい。
「環とハルナちゃんがテレビに映ったでしょ? 私もあれを見たんだよ。それで、通販の小包に偽装して環に手紙を送ったんだ。環だったらおじさんとおばさんに私の今の住所をバラすことも無いだろうって思ってね」
その文面には、僕たちがそんなに高い相性だということに驚いたこと、結婚するのであればおめでとうと言いたい、ということ。そして、できることがあれば、大事ないとこになんでもするよ。ということも書いてあった。
「環から手紙が届いたのはそれからすぐのことだったよ。九四パーセントは嘘だ、自分たちも駆け落ちするから助けてくれないか、って」
「それで、晶さんは良いって言ったんですか?」
「もちろん。……私もわかるんだよ。環の気持ちがね」
駅から三十分。広い草原ばかりで真っ暗な車窓の中にぽつりと灯りがあった。
「あそこ?」
「そう」
家というよりも、小さな会社だった。牧場の事務所の半分が、晶とその旦那さんが住むスペースとなっている。
「使っていない部屋があるから、そこを使って」
ふたりともリュックいが一つずつだ。荷物を置いたら、キッチンに向かう。そこには、焼き肉の準備がされていた。たっぷりの肉に、さらに山となっている野菜。いずれも牧場で取れたものだという。晶の旦那さんはキッチンで調理の最中だった。
「ふたりともいらっしゃい。相性一億分の一だなんて思えないくらい仲が良さそうだ」
「もう、そういうこと言わないの」
「失敬失敬」
日に焼けた、がっしりとした男の人だった。晶が選んだのはこの人なんだ、とどうしても見てしまう。
「おや、俺が気になる?」
「いえ、すみません、晶ねえさんの旦那さんだっていうと」
「ああ、そうだね。ってことは、俺と環くんもいとこになるのか」
「はい。よろしくおねがいします」
食べましょう、と晶が促した。ハルナはジンギスカン用の鉄板で跳ねる牛脂を見ながら、疲れて眠ってしまいそうな顔をしていた。
夕食を食べ終えると、晶と僕たち二人はテーブルに向かい合って座っていた。
「うちにいるのは構わないよ。結婚できる年齢まで、あと一年。牧場を手伝ってくれればご飯と寝るところは世話してあげる。でも、よく考えて。よく、考えて。私に言われたくないって思うだろうけど、二人はまだ高校生だ。私は大学生になってから駆け落ちをした。この違いはわかるね?」
穏やかに、優しげに。晶は説得しようとしているわけではない。ただ、その場の感情に任せて動いてしまった僕たちにきちんと考えてほしいと言っているのだ。
「下手に街に出たら二人は補導されてしまうかもしれない。その記録はずっと二人の人生につきまとう可能性だってある。特に環は、ハルナちゃんを誘拐したって捕まっても文句は言えないよ。高校生の駆け落ちって、そういうことなんだ」
「僕は、ハルナが無理やり結婚させられる、っていうのが嫌で」
「わたしも、だから一緒に逃げようって」
「ハルナちゃん、許嫁がいるって言ったけど、その人よりも環が良いっていうんだよね?」
「……はい」
面と向かって確認されると僕もハルナも恥ずかしかった。
「許嫁でもなんでも、結婚の相手は自分で選べる。SHarPの数字は高かろうと低かろうと、結婚とは何の関係もないってことはわかるよね?」
「わかります。でも、ママが環くんとの仲を認めてくれるわけないから」
「話し合った?」
「少しは」
水都駅前の喫茶店のあれを話し合いというのであれば、話し合いはあった。
「十八歳まで従順にしていて、それでも環が良いのであれば、環と結婚する、っていうのは?」
「外堀がどんどん埋められていくのが怖かったんです。紅崎さんへも悪いし」
「別の男と逃げたんだから不義理なことには変わりないよ。まあ言い過ぎたかな。私が何度も自問自答した話なんだよ。本当にこれで良かったのかなって、それまでの人間関係をすべて投げ捨ててまで、このひとと一緒に逃げて良かったのかって、ね」
晶は缶ビールを出してきて、一口飲んだ。
「辛気臭い話はおしまい。水都に戻るつもりがあるなら私は止めないし、ここにいたければ歓迎するよ。それだけ覚えておいてね」
「ねえ、ねえさん」
「どうしたの環。まさかあんたもビール飲みたいって?」
「いや、それはいいけど。ねえさんは、そこまで考えて駆け落ちを選んだんでしょ? やっぱり後悔があるの?」
「無いよ。私は今幸せだと思っているからね」
屈託のない表情は、僕が好きだった頃のねえさんそのものだった。
昨晩と同じく、ハルナと二人並んで眠る。しかし、布団は二つだった。
「ここで、一年かあ」
「半年くらいして、ほとぼりがさめたら別の街に行ってもいいよ」
「駄目でしょ。買い物もできないし部屋も借りれないって」
「ハルナには駆け落ちをしたいとこはいないの?」
「血縁に一人くらいいる、みたいに思っていない?」
それを言うならうちの血縁は二人だ。姪っ子だけでなく息子までSHarPを信用せず、駆け落ちまでしてしまったと聞けば市役所務めの父さんも、弁護士の母さんも、ひどく迷惑がるだろう。ごめんなさい。
「明日からどうしよう」
「駅までベスパを取りに行くよ」
「そうね。わたしも行く」
昨日よりもさらにずっと長い距離を走って、美味しい焼肉をたっぷり食べたので、僕たちは本当にすぐ眠ってしまった。
「これと、これ。はい、ここで着ていきたいんでタグ取ってください」
駅前までバスで四十分。ベスパが無事に昨日のままであることを確認すると、ハルナは洋服店に入った。さすがに毎日制服を着続けるわけには行かないし、二人とも着替えはほとんど持ってきていない。僕はパンツを一本、Tシャツを四枚買った。ハルナのはその三倍は買っていた。女性はどうしたって服をたくさん持っているイメージがあるが、本当に多かった。まあ、このくらいならベスパでも持って帰れるけどさ。
「おまたせ」
「うぉっ」
試着室から出てきたハルナは、白い長袖のTシャツに白いスカート。オレンジ色のカチューシャでいつもと雰囲気が違っていた。お嬢様、って感じ。
「ローマの休日ごっこ、しようと思って」
「ローマの休日……?」
どうやら、僕のベスパはローマの休日という映画で、デートに使われた原付きだったらしい。知らないままで乗っていたと告げると驚かれた。智にも言われた気もするが。
「じゃあどうしてこのバイクにしたの?」
「原付きならベスパだなって、父さんが言ったから」
「それ、たぶんお父さんが知っていたんじゃないかな」
市内を知るのはいいと思うけど、コロッセオも真実の口もない。宮沢賢治も関係している旧盛岡高等農林学校くらいしか見るものがなかった。平泉もイーハトーブも、半日で行ける場所じゃなかった。そこそこ近くに小岩井農場があるけど、わざわざ牧場に行くことはない。
ただ、市内をふらふらと二人乗りでツーリングだ。誰も僕たちを知らない街。潮風の吹かない街。僕にとってははじめて水都を離れて来た場所だ。異国といっても遜色はない。
「もっと頑張ってよ! ほら、男の子でしょ!」
「無理だよ、これ以上は……」
「お願い、百杯行って!」
先に九九杯で蓋を閉じたハルナは、多少苦しそうだったが僕ほどきつい表情ではなかった。あきらかにハルナの一杯と僕の一杯はそばが一本か二本違う。わんこそばって、こんなにつらいの……?
「九七……、九八……、九九……」
これはもう食事じゃなくて拷問だ。
「一〇〇!」
「ごちそうさま!」
一〇一杯目のそばが入れられる前に、目にも留まらぬ速度で僕は蓋を閉じる。それでも一杯分ハルナよりも食べることができたので、彼氏としての面目躍如だ。
「もうお腹いっぱい……」
「美味しかったね」
「美味しかったけどさ」
名物だから食べてみたけど、大変だったので多分次に食べることもないだろう。前々から思っていたけど、ハルナは結構大食いだ。
「東の方に行ってみようか」
まだお昼過ぎ。いつまでも二人でデートができると思うと、あてもなく一緒にいる時間が嬉しかった。
「白樺並木だ」
「北海道みたいだね」
道の両脇には、それだけで絵葉書の光景みたいな白樺林が続いている。
「水都にも白樺はあるよ。ハルナはまだ行ったことないと思うけど」
「飛川浜の方? 小高い丘になってるとこでしょ」
「そう、ってどうして知ってんの?」
「行ったことあるから」
水都に親戚がいるとはいえ、なかなかあの白樺並木を見に行こうとは思わないだろう。地元の知る人ぞ知る、水都らしくない景色だから。
「あれは、えっと、十年前(・・・)ね。よく覚えてる。真っ白いワンピースに麦わら帽子だったなあ。なんかすっごくベタだけど、そんな子供だったよ。夏っぽいでしょ。……環くん?」
「え、え、ああ」
まさか、でも、そんな運命的なこと。
僕とハルナが、十年前に一度出会っていた?
その少女を僕が一目惚れしていた? 晶よりも先に?
僕だってよく覚えているけど、そうそうどこにでも白いワンピースに麦わら帽子の女の子がいるわけがない。もし、それが本当だったとしたら、なんて素敵なんだろう。
「今度、僕たちがまた水都に戻ることができるようになったら、一緒に行こう」
「うん!」
盛岡駅のある中心を通らないでも、みなみ牧場に戻れるけど、ぼくの気まぐれで市役所に立ち寄った。転入届けを出すわけにはいかないけど、もらっておきたいものがあったから。
「あ、SHarP」
「本当だ」
盛岡の市役所でも、床の色が変わったブースがあった。平日でも関係なく、最良の相手とめぐりあいたい若い男女が入る準備をしていた。
「もう使うことは無いのかもね」
「多分」
目的のものは、SHarPの隣に置いてある。薄いピンク色の二つ折りの髪だ。ご自由にお持ちくださいとあるので、もらって帰るつもりである。港南区で書いた婚姻届は冗談だったけど、もう
「これが……婚姻届」
「やっぱり紙に書かなきゃなのね」
古くからの手書き書類の文化は全然かわらない。小学校入学時から毎年行進をするパスポートだって、手書きだし捺印と保護者のサインが必要だ。この用紙、証人のサインも必要なのか。晶に書いてもらえるかな。
記入台に婚姻届を広げると、ハルナは丸っこい文字で、玉置(タマキ) 晴波(ハルナ) と書いた。その隣に、上手とはいえない文字で僕も、榛名(ハルナ) 環(タマキ) と書き入れた。すべての問題の始まり。僕たちが惹かれ合った、そもそもの理由がこの名前だ。
「今書いても、全然使えないけどね」
「うん」
名前を入れた婚姻届はそのまま僕が持って、牧場へと戻る。夕暮れの中、昔ハルナと出会っていたかもしれないということばかり考えていた。晶はハルナがたくさん服を買ってきたのを見ると、自分のお下がりでよければたくさんあるよ、というので楽しそうに晶の部屋に向かっていった。この二人、仲良くできそうだと思う。
三日目。この日は朝四時に起こされた。
あくびをしながら、僕もハルナもジャージに着替える。僕が牧場の作業を見たいと言ったからだ。
「乳搾りなんかは全部自動化されているんだよ。だから、二人の手伝いは掃除」
「そのくらいですか?」
「業者の人と顔を合わせてもまずいでしょ?」
僕たちがここにいることが、どこからバレるかわからない。だから極力うかつなことはしないでおこう。
「掃除の手伝いと、馬のハリーとバートの担当になってもらおうかな」
「馬ですか?」
「そう。食べるとか労働力とかじゃなくて、うちの家族だよ。あとで紹介するね」
みなみ牧場は、とっても広かった。簡単な紹介だけで午前中が終わってしまった。最後に紹介してもらったハリーは栗毛、バートは青毛の中型馬で、毛並みがとても綺麗。馬に惚れ込む大人たちの気持ちが少しわかった気がする。僕個人的には、羊がこんなに大きい動物とは思わなかった。
「僕はバートがいいな」
「じゃあわたしはハリーね」
よく手入れされた栗毛を撫でながら、ハルナはよしよし、と話しかけていた。本当にのんびりとした場所だ。そのうち乗馬もできるようになるかな、と思う。馬糞の片付けとかもすることになるだろうけど、すごく嫌だ、という気持ちにはならなかった。
お昼に、今朝搾りたての牛乳を飲んだ。濃いと聞いてはいたけど、本当に濃い。
「牛乳って、おいしいですね」
「でしょう? おいしいものって、それだけでちょっとうれしい気分になるよね。牧場って毎日がこんなかんじだよ」
晶はうれしそうに、昼食を作っていた。その時だった。玄関のチャイムが鳴る。
「はい」
「すみません、市役所なのですが」
モニター越しに聞こえる、男の声。晶がちらりと僕たちを見た。
「なんでしょうか」
「こちらに、高校生が二人来ていますね?」
「どうしてですか?」
「その高校生二人には捜索願が出ています。表に止まっている水都ナンバーの原付き、あれは彼らのもので間違いないですね?」
「それは……」
僕とハルナは立ち上がる。裏口から逃げろ、と晶が目で言っていたことに気づくのが遅かった。晶はモニター越しに話していたことで、僕たちは油断をしていたのだ。キッチンの引き戸ががらっと開けられた、そこには、怒りの表情を浮かべたハルナの母親が立っていた。
「マ……マ……?」
無言でハルナの母親は、ハルナへの距離を詰めた。僕はそのあいだにたち塞がるが、勢いで突き飛ばされてしまう。躊躇なく、ハルナの右頬を叩いた。そして左頬も。
「晴波! 何をしているのあんたは!」
僕はそれでも二人の間に割り込む。
「ハルナは悪くない。僕が」
「榛名さん、どいてて」
「どかないっ! ハルナはあんたから、許嫁から逃げたかった。僕と一緒に」
「しみったれたこと言わないで! 誘拐犯って言いましょうか?」
「言えばいい! ハルナの自由を奪おうだなんてあんたはそれでも……」
それでも親か、と僕は言えなかった。ハルナをかばう後ろ手を、ハルナがそっと握ったから。
「ママ、わたしはどうすればいいの」
「東京に帰りましょう。紅崎さんに謝ります」
「それで、結婚しろっていうの」
「結婚しろって言うの。わかっているじゃない」
「わたしが環くんと逃げたことを、紅崎さんは知っているの?」
「当然。でも、それは不問にすると言っています。高校生の青春らしくっていいじゃないか、って」
あの男はっ! なにが青春だ。この夏の間、僕とハルナのしてきた大冒険をかけらも知らないで、そんなことをのうのうと言えるなんて。
「ハルナ、帰りますよ」
「嫌」
「いつまでも、こんな駆け落ち女のところに置いておけないじゃない」
「晶ねえちゃんを悪く言うなっ!」
僕の身体はいつの間にか動いていた。自分でも驚くくらいに身体が勝手に、ハルナの母親の襟を締め上げていた。
「ちょっと、やめて」
「僕は、ねえちゃんたちみたいになりたくて、駆け落ちをしたんだ。ハルナだってそうだったんだ。一年ここに置いてもらって、十八歳になったら結婚するつもりだったんだ。駆け落ち女ってバカにするんだったら、ハルナだって、僕だってそうだ!」
「そんな不名誉なこと」
「構うもんかっ!」
強くハルナの母親を睨みつけた。その一瞬で、例えばこの人を殺してしまおうとまで過激な考えが頭をめぐる。あるいは、この人の前で、ハルナと一緒に死のうとすら考える。
「やめて、ふたりとも。わたし、帰る」
「帰る?」
「東京へ、その前に水都へ。三日で見つかっちゃったんだ。仕方ないよ」
襟を掴む僕の腕を、ハルナが優しくほどいた。
「環くん、ごめんね」
「ハルナ……っ!?」
母親が、晶が見ているところで、ハルナは強く僕を抱きしめた。そして、僕も懐にハルナを抱き返す。僕たちはもう一度、はじめての時のように、短く、永遠のようなキスをした。
「晴波! 帰りますよ!」
見ていられなかったのか、顔を逸らしてハルナの母親が怒鳴り散らした。
「さよなら、環くん。好きだった。恋なんて、しなければよかった」
微笑みかけるハルナの目から、一筋の涙が流れていた。
リュック一つを持って、ハルナと母親が去っていくあいだ。僕はただ立ち尽くし、見ているしかなかった。見送ることもなく、市役所の職員と一緒に二人がいなくなると、ふらふらと椅子に崩れ落ちる。
「ねえさん……」
「環、大丈夫かい」
「僕……、どうすればよかったのかな」
「どうにもできなかったよ。高校生だからね、きっとどこかで見られていたんだ。そしてすぐにあの人が来た。ごめんね、私は何もしてあげられなかったよ」
俯いた僕の頭を優しく撫でる晶の声は、どこか無機質で何も感情は含まれていなかったように思う。
「環はどうする? このままうちにいてもいいよ」
「帰るよ、僕も」
「そうかい。おじさんかおばさんが迎えに来るかな?」
「わからない。でも、ベスパもあるし、一人で帰ろうかな……、今日はもう一晩、泊めてもらっていい……ですか?」
晶は何も答えなかった。でも、駄目とは言わなかった。
「環!」
夕方。牧場を父さんが訪ねてきた。スーツ姿だったが、シャツがよれよれだ。
「心配したぞ」
「父さん」「おじさん」
「晶、久しぶり」
「ご無沙汰しています」
父さんは、僕の身体が無事だということだけをしっかり聞いて、駆け落ちのことは何一つ聞きはしなかった。晶についても、久々に会った親戚としか思っていない。つまり晶の駆け落ちも音信不通もまったく気にはしていないということだった。
「さあ、帰ろう」
「帰る?」
「車で来ているから。環は寝ていていい。バイクはすまないけど、あとで運んでもらうことにする」
僕の荷物もリュック一つだ。三日ぶりに携帯電話の電源を入れると、数百件の着信があることに驚く。……数百件て。メールも、チャットも、様々な方法で僕に連絡を、あらゆる人が取ろうとしたみたいだ。その中の、最新のチャットにハルナの名前があった。つい数分前のことだ。
「水都に到着しました。明日、学校に行きます」
学校へ? 水都中央高校ということだろうか。
「父さん」
「なんだ?」
「明日、僕学校に行きたい。行けるかな?」
「……よし、水都に帰ろう」
今盛岡を出発して、夜通しの運転になるだろう。僕は何も手伝えないから、父さんに負担をかけるばかりだ。予約を入れてきたという盛岡駅前のホテルもキャンセルしてもらい、僕は助手席に乗り込んだ。
「おじさん、その、私」
「晶、昔のことはいい。久々に水都に遊びにおいで。俺も母さんも、君と旦那さんに会いたいんだ。晶が良ければ、だけど」
「はい! 近々、遊びに行きたいと思います。……三人で」
晶はお腹を押さえて、それじゃあと言った。そうか、晶も母親に……。
「またね環」
「うん、またね」
僕も父さんも、話しかけるタイミングをお互いに勘ぐっていたが、高速道路に乗った時僕が「どうしてわかったの?」と聞いた。
「お前たちが向かったのが晶のところだとはじめから思っていた。問題は晶がどこにいったかわからなかったってこと。昨日、お前たち盛岡市役所で名前を書いたよな。それでわかったんだ」
「あれがまずかったのか」
誰がどこで見ているかわからないってことか。今度があったら気をつけよう。でも、そんなにじろじろと利用者を見ないでいてほしい。
「今日、俺もハルナちゃんのお母さんも盛岡まで来て、晶の名前を探したらすぐに見つかった。だから訪ねたってわけ」
「……すっごく怒ってた。ハルナのお母さん」
「そりゃそうだろ。嫁入り前の娘だぞ。しかも許嫁がいるんだ。傷物にされたら頭に来るに決まってる」
「待って、僕はハルナに何もしてないって!」
ほう、と父さんはあざ笑う。誘導尋問か!
「別に父さんはどうってことないけどな。母さんには叱られるから覚悟しとけよ? 俺はなんていうか、お前すげえなって思ったから」
「すごい? 僕が?」
「晶もそうだったけど、人を好きになるパワーって言うかさ。お前、ハルナちゃんが転校して来てからかなり男前になった。それが嬉しいんだ。母さんはわからんだろうけど」
てっきり殴られると思っていたのに、父さんはまさか僕を称賛してくれた。
「高校生の家出って思い描いても実行できないもんだよ。バカだよな。バカだけど、そんなバカを俺もやりたかった」
「父さん?」
「お前、男になったな」
「え?」
「環……、ショックを受けるかもしれないが、教えておく」
父さんは、そう言ってから、十分以上無言で夜道を運転し続けた。
「いったい、何を教えるっていうのさ。何がショックなの?」
「本当にすまないと思ったんだが……、SHarPのことだ」
「SHarP? どうしてSHarPが出てくるの?」
「お前とハルナちゃんとのことだ。0.000……、一億分の一っていう数字、出たよな?」
「うん」
僕とハルナの相性の話だ。あまりにも低い、二人の相性があったから、僕とハルナは気兼ねなく恋人のフリをしたりして、そして本当に恋人になった。
そして、僕とハルナは互いに失恋をした。
「あれ……、間違いなんだ」
「……は?」
「お前とハルナちゃんが相性を測定する前に、智くんと実佳子ちゃんが相性を測っただろう?」
忘れもしない。二人の相性は八五パーセントだ。とても高い数字で、実佳子がショックで過呼吸になった。
「あの時、たぶんべたべたと画面をさわってモードが変更になってしまったらしい。マニュアルにも書いていなくってな。業者に聞いてみたら、隠しコマンドが、とか言っていた。とにかく、環とハルナちゃんの相性は一億分の一程度の小ささじゃない」
「どういうこと? 全然話しが見えない」
「一億人に一人の、運命の相手、って言えばいいか。本当にすまない、ごめん。俺がもっときちんと知っていれば。でも正確にわかったのはつい一昨日なんだ。間違いかもしれない、っていうのはもっと前からわかっていたんだけど、話すタイミングが無かった」
「一億人に一人の運命の相手だって? 僕とハルナが?」
「そうだ。二人は、この国でたった一組の最良のカップルだっていうことがSHarPでも判断されていた。おそらく、もう一度測定し直せば相性がほぼ百パーセントだって表示されると思う」
何を父さんは言っているんだ。
「待ってよ、それって」
「今までそんなに高い数字を見たこともなかった。ハルナちゃんと許嫁の男が九四パーセント、一方でお前とハルナちゃんが一パーセント以下だ、ってまわりが思っていたからこんなことになっているんだけど、実際はその数字よりもずっと高い相性だ」
「父さん……それは」
「父さんが悪い。いくら怒ってもいい。ハルナちゃんにもきちんと謝らなければいけないし、聞いた話ではハルナちゃんのお母さんも数字にこだわっているんだから、突きつければお前とハルナちゃんのことを許してくれるかもしれない。でも、もう遅いんだ……」
なんで、今になって、だって僕とハルナはさっき、別れたのに。
「僕はどうすれば………」
「明日、学校に行くんだろ。ハルナちゃんに会う機会があるんだろ。そこで、本当のことを話してくれ。俺が証人になってもいい」
そんなことを言われても、僕はどうすればいいのかわからない。車は岩手、宮城を過ぎて、いつの間にか福島に入っていた。水都まではもうすぐだ。
翌朝。
夜中に家につくなり倒れるように眠った父さんの代わりに、だいぶやつれたように見える母さんから朝まで怒られ続け、僕は眠い目をこすりながら登校する。玄関脇に止めているはずのベスパが無くて、はやく帰ってきてと思うばかりだ。
教室に向かうと、視線が一斉に僕に突き刺さった。
「環」
真っ先に話しかけてきたのは、智だった。
「おはよう智」
「おはよう、おかえり。残念だったな」
「ああ……。そうだな」
気の抜けた返事しかできなかった。僕とハルナの冒険を誰も聞いては来ない。
「世の中そんなに甘くないってことだなぁ」
ハルナは、その朝。教室に姿を現さなかった。二限も三限も、そして昼休みも。誰も僕に気を遣うこともなく、かといって無視することもなく。
「環、相談なんだけど」
「どうしたの」
智と実佳子と三人で弁当を食べながら、秋めいてきた空を眺めた。
「失恋クラブ、やめようと思うんだ」
「そう」
僕はもう、クラブ活動に興味がなくなっていた。糸川先生がもう受験生だとも言っていたし、まっとうな高校生らしくこれから頑張っていこうと思う。まっとうじゃない高校生はもう一生分やったから。
「二人にももう必要ないもんな」
そう言ってやると、二人は黙り込んで互いに距離を意識してしまった。
午後の授業にも、ハルナは現れなかった。ハルナの意思を母親は受け入れてくれなかったのだろうか。それも仕方ないくらいのことを僕たちはやったので、仕方なく納得しよう。と。
「みんな、よく聞けー。玉置さんが、今日東京に戻ることになった。今職員室に来ている。それで、このあとはホームルームにするから」
五時間目が始まって十分後。ちょうど公民の授業だった糸川先生に内線連絡が入った。ハルナが今学校に来ているという。その一報に教室はざわついた。
教室のドアがノックされ、ハルナが入ってきた。
「えっ」「ハルナちゃん?」「どうしたの?」
その姿にクラスメイトはざわついた。長くのばした黒髪が、耳までのショートボブになっている。ばっさりと切り落としてきたのだ。
「三日ぶりです。みんな。今日で東京に帰ることになりました」
「というわけだ。本当にお別れだな。それより玉置、その髪どうした?」
先生が聞きづらいことを率先して問うた。そのときクラスメイトは全員「このバカ担任」と思ったが、あとから思えば誰も責められることなく接することができるようにしてくれたのはありがたかった。
「これですか? 昔から失恋をしたら髪を切るって言うので」
一斉に視線が僕に突き刺さった。槍ぶすまになった気分だ。それじゃあまるで、僕がフったような言い方じゃないか!
「みなさんには、お世話になりました」
深々と、ハルナはお辞儀をする。そして、文化祭の準備期間のように、先生は椅子を持って教室の後ろに行って、ホームルームがはじまった。僕とハルナが、二人の大冒険を語って聞かせたのである。ちょうど持ってきた婚姻届を僕が取り出したときには、女子たちの悲鳴があがったが、隣のクラスはまだ授業中。先生が「シッ!」と黙るように言った。
「これが、わたしと環くんの冒険でした」
ハルナが僕とのSHarPの数字、一億分の一についてのことから牧場から連れられて別れたところまで話すと、自然と拍手が起こった。
いや、拍手をするところじゃないだろ。肝心なところはすべてごまかしたし、僕がハルナを振ったわけでも振られたわけでもなくSHarPの数字の差で仕方なくというところを何度も強調したので、誤解は無くなったが。
それでも、僕は本当のSHarPの数字についてはひとことも口にはしなかった。
名残は惜しいが、放課後の時間になった。教室に残ったのは、僕とハルナ、そして智と実佳子の四人だ。最後くらいはとみんな簡単にハルナに別れを告げると帰っていく。
「最後に、夕日がみたい」
「そうだね。屋上に行こうか」
智も実佳子も、階段を上がって来なかった。
屋上からは、日本海に沈む夕日がくっきりと見える。旅の途中でみた夕日よりもずっと大きな、僕が一緒に見たい夕焼けだ。
「ハルナ、その髪」
「ああ、これね。切ったんだよ、ここへ来る前に」
「失恋、だから?」
「そう」
雲の無い、秋の空だ。僕とハルナはしばし海を眺めている。僕がハルナの手を掴むと、指をからめてしっかりと握りあった。
「東京に戻っても元気でね」
「環くんも、受験がんばろうね」
「うん」
そんな、とつとつとしたことを言いながら、空も海も真っ赤に染まるまで手を離さなかった。
「環くん、別れよう。わたしたち、もう恋人じゃないんだよ」
「そうだね」
「いろいろ、ありがとう。楽しかった」
左手を握る手に重ね、僕も右手をその上に重ねた。涙がこぼれるのも気にせず、夕日が映って朱く染まる瞳を見た。
「さよなら、運命の人」
「さよなら……、ハルナ」
水平線に太陽が沈む瞬間、光の屈折で緑色になる。夏の生い茂る木々の色だ。
今、僕たちの夏は幕を下ろして、実りの秋へとうつりかわるだろう。つないだ手はいつの間にかほどかれて、ただ一人。長い長い影を率いた僕は群青色の中。失恋をかみしめる。
この美しい世界の光景を、僕は二度と忘れることはないだろう。
また、春が訪れるまで。
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