第4章

 夏祭りの翌朝は、無事に電気も復旧し、抜ける様な青空が広がっていた。

「一晩、ありがとうございました」

「ううん、それよりも、浴衣……、どうしよう」

 雨に濡れていた浴衣が二着、物干し竿にかかっている。強い日差しが出てきたら部屋の中に引っ込めるくらいは知っているけど、洋服と違ってどうやって綺麗に戻せばいいのかわからなかった。

「とりあえず、僕が二着持って帰るよ」

「お母さんから変に思われない?」

「あー……」

 父さんがうまくごまかしてくれるとしたら、僕はずっと市役所にとどまっていることになる。僕が浅葱色の浴衣を持って帰るのは不自然と思われてしまうのではないだろうか。

「僕は今から帰るから、今日か明日のうちに浴衣を持ってきてくれないかな?」

「わかった。道、大丈夫?」

「大丈夫。僕、水都の子だからね?」

「それもそうだね。じゃあ」

 浴衣を着直すと、ハルナの家を出た。そういえば、僕もお情けで譲ってもらった金魚は、一緒に玄関にあった金魚鉢に入れたので、連れて帰ることができなそうだ。

 気恥ずかしくて、目が覚めたらすぐに帰途についたので、水都駅行きのバスに乗るまでスマホを見ていないことに気がついた。今朝六時から父さんと母さんそれぞれから電話が何本も入っている。

 どう言って弁明しよう……。困った時の智も、昨晩連絡をしなかったので、頼れるかわからなかった。


 うちは水都駅から電車で二十分。下車すると、改札のところに智と実佳子が立っていた。

「おはよう、環」

「おはよう、環くん」

「おはよう、ふたりとも、どうして」

 今だに水都まつりから醒めない僕と比べ、二人はTシャツとハーフパンツという気の抜けた夏休みスタイルだ。

「ハルナちゃんから、電話を貰ったんだ。口裏合わせお願い出来ないかって」

「俺たちも昨晩大変だったから、一緒にいた事にする」

 水都駅までたどり着くことはできたけど、停電のせいで電車は動かず、二人とも駅で麻まですごしたのだという。

「じゃあ、寝ていないんだ?」

「寝てないね。環は、玉置さんの家でぐっすりだったらしいけど」

「それは……、ハルナから聞いたの?」

 二人はこくこくと頷いた。


 智のシナリオどおり、僕とハルナは市役所から抜け出して、智と実佳子と合流、なんとか朝まで耐えたということで母さんには説明を付けた。

「大変だったわね」

「これも、高校生らしくって良い思い出になりました」

「そうねえ。智くんはナンパ、うまくいった?」

「へっ?」

 まさかのカウンターをくらって、智は唖然とする。実佳子も顔をそらした。

「あと一年半でSHarPを使ってきちんとした相手を見つけられるようになるんだから、それが幸せなんだから。ナンパなんて無駄なことよしなさいな」

「お言葉ですが、」

「母さん、この二人の相性八割だよ」

「まあ」

 あとでハルナが浴衣を返しに来る、という話も、すぐに母さんは了承した。智と実佳子には申し訳ないと思うけど、実佳子はぜんぜん気にしていないみたいだった。

「環と玉置さんは相性一億分の一だけど、すっげー仲がいいんだからSHarPなんて信用しなくていいと俺は思います」

「人それぞれだよ! それでいいよね!」

 智が昨夜の僕のことを言ってしまわないうちに、じゃあ寝るからと二人を追い返した。


 色々と大変な夏祭りは、誰一人目標を達成できないままに終わり、そのまま僕たちの活動はお盆に突入した。そこで何かをするなんてことはなく、それぞれに文化祭のクラスの出し物で忙しくなってきたので、クラブ活動は自主練である。自主練といっても、ただ恋愛小説を読むだけだ。失恋、悲恋で終わる作品ばかり読んでいると、どうしてもハルナのことを思い出してしまう。来月の終わりには、ハルナは東京へ帰ってしまう。もしかしたら、それきりで二度と会うこともないかもしれない。

「意識しすぎてるな、僕」

 今しかできない運命的な恋愛。そのためには、晶を吹っ切る必要があった。それはどうやら、ハルナの家で見た夢のようなもので、乗り越えられたような気がする。

 自分でそう思うのは、ハルナが浴衣を返しに来たときのことだった。

 浅葱色の浴衣を見ても、なぜか晶のことが頭に浮かばなかったのだ。

「いつでも着ていいからね」

「ありがとうございます。でも、あと一月半でいなくなるから」

「一月半もあるでしょ?」

 まだ、時間はたっぷりあるんだと母さんは言った。僕も、ハルナも意外に思う。夏の終わりはもうすぐそこで、この水都まつりがメインイベントだと思っていたから。

「文化祭もあるんだし、忙しいのもいいことよね」

「そうだ、わたし、占いの巫女やるんです」

「占いの巫女?」

 ハルナは母さんにはよく喋っていた。僕たちや、糸川先生相手とまた違う表情のハルナを見ることができる。母さんの前では、ハルナは子供だった。

「なにか小道具はあったほうがいいかな?」

「小道具ねえ。水晶玉?」

「それだとありきたりだよ」

 文化祭の相談と称してハルナはそのままうちに上がりこんで、残された少なくない時間を楽しみたいと言い出した。

「じゃあ、神主が持ってるあのフサフサのやつ」

 幣(ぬさ)と呼ばれるやつだ。

「智に借りれるかな。でも、なんか罰当たりみたいで怖い」

「聞いてみよう」

 ボイスチャットはすぐに繋がった。

「売ってるから使うのはいいと思うけど、イタコっぽくなるから、巫女じゃないかな」

「巫女っぽい小道具ってなんかあるか?」

「どうして環が乗り気なんだ?」

「どうしてって、僕たち四人には文化祭もあるじゃん? そこで活躍してモテようよ」

「なるほど……、環。お前、成長したな。俺はうれしいよ。九組の出し物、頑張ろうな」

 ほどなくして、智は社務所から一本の鈴を持ってきた。

「巫女さんが神楽を舞う時とかに使う鈴だよ。玉置さん、どうだ」

「いいね! 鳴らしてみて?」

「はい」

 しゃん、しゃん、と涼しい音が聞こえてきた。持ち手となる軸にクリスマスツリーのようにぶら下げられた鈴は、どこか神秘的な音がする。

「あと、巫女服あるか?」

「あるぞ。抜かりはない」

 正月や例大祭でアルバイトの高校生に貸し出すようの、緋袴があるという。

「ありがとう、御崎くん」

「いや。玉置さんはともかく、俺の衣装も真面目に考えないとな」

 智は失恋大明神役である。それを前面に押し出すのだから、インパクトも必要だ。

「普通の神主の服だとつまらないよね」

「オネエのキャラで行くなら女装?」

 それも、ギャップが出るほどの面白さはなかった。ピンクのトレーナーに、ピンクのパンツ。それにピンクのウィッグでどうだ、という意見がハルナから出る。

「ハート型レンズのメガネをかけるっていうのはどう?」

「それで行こう!」

 どう見てもやばい人である。恋愛のことばかり考えている、恋愛の申し子。そして、その業を一身に背負った失恋の請負人だ。

「一気に進めていこう……、なあ環。委員長に言って、お盆の間にボイスチャットで色々決めていかないか? 部活も休みだからみんな割と暇でしょ」

「そうだね。聞いてみようって、ちょっと!」

「どうした?」

 ハルナがどこかに電話をかけた。「もしもし、委員長?」

 そして、十分後。急遽失恋クラブの働きかけでクラス会議が開かれた。智のド派手な失恋大明神の案に、衣装調達の係がおおいに盛り上がる。

「占いの方向として、褒めるとかヨイショって結論はどう思う?」

 僕が担当する、占いのパターン化も結論はどうにかする必要がある。お客さんを不快にするのは論外だけど、綺麗ごとばかりも嘘くさいのだ。

「背中を押してあげるアドバイス、くらいがいいと思う」「だいたい、私たちに見えるわけないし」「下手なこと言っても責任はとれないから」

 どうも、出し物として面白いから占い喫茶になったけど、やってみると占い師も裏方も大変だった。

「ボイスチャットじゃ、なかなか決まらないよなあ……。来れる人だけでいいから、先生の店で相談しようぜ」

 智の提案で、お盆だと言うのにほとんど客のいない先生の店でミーティングが開かれた。

「あのなあ、別に良いけど、そういう情熱は俺はいいと思うぜ。でもさあ」

 カウンターに頬杖をついて、今までになく議論に花を咲かせる僕たちに、先生はサービスで麦茶を入れてくれた。


「この方針で行こう!」

 ボイスチャットをつなぎっぱなしでもう夜の十時だ。僕たちクラブの四人、文化祭委員とクラスの委員長と、他にも店に十六人、チャットに七人参加となったクラス会議で、占い喫茶の基本方針が決定した。

 というよりも、一学期のうちにこれを決めていなかったことが恐怖である。結局、先生のアドバイスを多分に貰って、


 ・喫茶スペースにお客さんを案内する。

 ・飲み物と軽食メニューに「占い」を載せておく。

 ・占いは、注文をしたお客さんは無料サービス。

 ・五人の占い師は「部活」「勉強」「趣味」「恋愛(失恋)」「聞き流し」とする。

 ・プライバシーに配慮はするが、話が外に聞こえる可能性があると注意喚起。

 ・占い師は決定はせず、最終的な意志確認はお客さんに委ねる。

 

と、当たり障りのない、それでも筋のとおった計画とした。占いは一人十分まで。この聞き流し、というのは、巫女の姿をしたハルナが愚痴を聞いてくれるありがたいブースである。

「ハルナは相槌と、最後に鈴をしゃんしゃん言わせてくれればいいから」

「楽勝ね」

 学校内の部活や人間関係に関する相談を受けても、それを知らないハルナができることはない。でも、ミステリアスな巫女が話を聞いてくれるだけで、お客さんは望めそうだ。

「俺も、そういう相手がいるって安心すると思うんだよね。悩みってのは聞いてくれる相手がいて、口に出して言葉にするだけで、半分くらい解決しているんだから」

「それで、先生のタイプなのが玉置さんなんですかー?」

「ち、違うぞ。先生はもっと大人っぽい……。こらっ!」

 長時間店を占拠しても、僕たちのホームルームに先生は熱心に参加してくれた。どうせなら先生も占い師として出て欲しいと言ったが、

「公民の成績が振るわない生徒が、点を上げろとかテストの内容教えろとか言ってきたら困るので却下」

「そんなっ!」

「みっこ相談するつもりだったの?」

 けらけらと、笑い声に包まれてホームルームは解散した。この時間は危ないから、と店に着ていた全員の家に先生は予め連絡をしていて、何人かのお家の車が、店の外にならんでいる。先生は一人ひとりの親に挨拶をしながら、怒らないであげてくださいと頭を下げていた。

 ハルナだけは先生が親に連絡をしておらず、一人小寄町への坂を上がっていったが、遅くまで議論をして疲れているだろうに、跳ねるような後ろ姿だった。

「玉置も文化祭楽しんでくれれば良いんだけどな」

「楽しんでますよ」

「俺にもそう見えるよ」

 父さんが電話で、自分で帰ってこいと言ったので、バスの時間まで店内で待たせてもらった。

「恋愛にかまけるのは俺はとめない。俺もそうだったから。それでも、もっと楽しいこともあるんだって、水都にいる間に気がついてくれたら嬉しい」

「先生……」

「許嫁がいるって、高校生には重い、あるいはくだらない悩みだ。俺はそう思う。榛名、そうは思わないか?」

 僕は。文化祭の大変さと楽しさをわかった上で。

「僕は、そうは思いません」

「そうか。気をつけて帰れよ」

 お盆に新町まで出てくることは稀で、普段の高校生活では眺めることのない景色の中。文化祭までのカウントダウンが待ち遠しいものに思えてくる。ハルナは……、

 ハルナは。

 どうして、僕はハルナのことばかり考えているんだろう。もう、自分をごまかせないのだろうか。これが、運命なのだろうか。僕の望んでいた、運命的な。失恋なのだろうか。


 衝動が、どくんと、僕の中で破れとんだ。


 あの夏祭りの日に、夢で僕は失恋を自覚したんだ。そしたら、ハルナに対する視線が変わった、ような気がする。今すぐに伝えたい、でも今じゃない。やり場がない。身体が叫べと熱く訴えてくるのがわかる。

 酔っぱらいややかましい大学生が広がるアーケードを、僕は弾のように駆け抜ける。信号機の色なんてわからない。いくつかの小路を駆け抜けて、永代橋が見えてくると、河川敷に下りる階段を三段も飛ばして駆け下りて、人もまばらの、水面に町のあかりが反射する川岸を走りながら、そうやって叫びだしそうになることを押し留めて。御代橋も国体大橋もくぐり抜け、疲れ果てて、もつれた足に身体を任せ、芝生に転がった。

 身体を大の字にして、空を見上げると半分の月が霞む夏の空を煌々と照らしあげていた。

「ハルナ、僕は。恋をしたんだ」

 夏の目標とか、智のレクチャーとか、SHarPとか。そういうシステムすべてが邪魔でうっとおしくて、僕はようやく恋っていったいどんなことなのか。わかったような気がする。

「相性なんて……、きっと僕はハルナと」

 誰も聞いていない、僕の独り言はこの川の風にのってハルナに届いてくれたらいいのに。

 きっと、高校生は恋のパワーを怖がって、部活や勉強に打ち込むのだ。同じ人間以外を好きになるために。なんて、勝手な理屈を付けようとしたけど、他の人がどうかなんてわからない。恋をしている誰かなら、この気持ちを少しはわかってくれるかもしれない。

 シャツに染み込んだ草の匂いをかぎながら、電車の中で僕は同士に相談すればいいと気がついた。


「夜中に何? 私にだけって珍しいね」

「みっこ、折り入って頼みがある」

「私にできることなら、いいけど」

「助かる! それで」

「私にできることなんて、ハルナちゃんについて、くらいだよ?」

 電話越しに、実佳子がにい、っと笑うのがわかった。

「そうなの? 違うの?」

「…………そう、です」

「文化祭のこと?」

「いや……」

 こうやって、友達の女子にハルナのことを改めて相談、というのはなぜか緊張する。

「恥ずかしいんだけど、僕、ハルナが」

「きゃああ! マジで? まって、長くなるよね。歯磨きしてすぐに眠れる準備するね。長くなるよね!」

 一旦切ると実佳子は言った。僕もその間に寝るだけの準備を整える。しゃこしゃことブラシで葉を磨きながら、嘘の恋人ごっこをした水都まつりの縁日を思い出した。

 もし、ハルナと毎日あんな仲になったら。と考えると、手が止まってしまう。いけないいけない。一億分の一、日本でいちばん相性の悪い、僕とハルナなんだから。

 明日はお盆の墓参りの日で、昼まで寝ていても何も言われない日だ。今が十一時でも気にせず実佳子に電話をした。

「智には相談したの?」

「していないよ」

「どうして私に相談してくれるの?」

「それはみっこが、智に恋してるから」

「……そうだね」

 面と向かって(向かってないけど)言われてしまうと、実佳子も正直に答えた。

「私は智が好きだよ。環くんが見てすぐにわかるくらいに」

「僕も、ハルナが、……好き、になった、みたいだ」

「よく言えたね。環くん」

 これで、僕と実佳子は恋するもの同士。言葉に出して、気持ちを確かめあったのだ。

「でも、どうして今日? ハルナちゃんの家にお泊りした時に好きになっちゃった?」

「わからないんだ。でも、今日のクラスの相談、ハルナが水都で過ごす時間をめいいっぱい楽しんでほしくって、僕はそれだけでいっぱい意見を出したよ」

 クラスのみんなのためにもなったのかもしれない。でも、ハルナが喜んでくれるなら、とどこかでずっと感じていた。

「ハルナがこの町を去るまでに、僕はハルナに好きだって伝えたい」

「ハルナちゃんは許嫁がいるよ。九四パーセントの。それでも?」

「それでも」

「環くんは一億分の一パーセントだよ。わかっていて?」

「だから、どうすればいいのかみっこに助けてほしいんだ」

 ふむ、と少し実佳子は考えている。ぶつぶつと文化祭で、宿題が、と言っていたが、受話器のマイクに向けて「デートだね」と言った。

「デートだよ。きちんと、MAIパートナーで結婚に向けてやるデートを、環くんとハルナちゃんでやるんだ」

「デートって恋人同士がやるものでしょ?」

「やかましい!」

 つべこべ言うなと、一喝された。

「水都まつりのときだって、二人はデートをしたんでしょ? それと一緒だよ。ただ違うのは、なあなあでデートになった、じゃなくて、それを楽しむのが目的で、二人で出かけるの」

 それが、デート。

「でも、恋人でもない僕がハルナを誘うなんて、無理だよ」

「無理なもんですか。昔の人は、きちんとできていたんだよ。智が、結婚詐欺師を目指せって言ったよね。あんな感じで」

「あんな感じで……」


「十六日なら暇よ」

「それなら僕と水都観光しないか?」

「なに、デートのお誘い?」

 二秒で結婚詐欺は終了だ。

「で、デート?」

「なんだ、違うの」

 図星とは言えず、僕は御託を並べる。

「水都に長いこと住んでいるけど、水族館も水都タワーも行ったことないし、僕もハルナと、そう、友達との思い出づくりだよ! 思い出づくり。ほら、青春っぽいでしょ」

「ふふふっ、良いよ。行こう」

 誠意は通じたかどうかはわからないが、ハルナに熱意は届いてくれたらしい。

「お昼もおいしいところに行こうよ。何か食べたいものある?」

「先生のお店のからあげ」

「……そこはやめようよ」

「冗談よ。しっかり環くんがエスコートしてね」

 つまり、僕がセンスの良いデートプランを立てろというのか。

「わたしは、デートでもいいよ? 許嫁とデートする前に、練習しておきたかったし」

「本当に? 僕で良いの?」

「環くんで良いの? って。自分で誘っておいて、おかしいの」

「とにかく、デートしよう。ハルナ」

「はい」

 じゃあ、当日の朝十時に水都駅で、と約束を取り付けると、ハルナが電話を完全に切るまで僕は息を止めて、やっぱ辞め! みたいにハルナに笑われないか心配で、彼女の吐息一つさえ聞き逃さないように耳を潜めていた。音が完全に切れる。

「……ぃやったあああああああ! でえとだああああああああ!」

 僕の叫んだ声に、あとから母さんが何を行っていたのと聞いてきたが、上の空すぎて、どう答えたのかすら思い出せなかった。


 デートだ。

 デートについて、僕は智に何も言わずに当日を迎えた。ただし、実佳子にはしつこく身だしなみについてレクチャーを受けた。デートに着ていく服を買いにいった行為そのものがデートだったような気もするが、ふたりとも見ている相手が別々なのでデートでは、ない。決して。

 買い物のあとに、晩ごはんくらいはごちそうすると言ったけど、このあとに自分の買い物があると言って断られた。確かに智が通る可能性もあるから、二人でご飯を食べるのは良くないのだろう。

 実佳子の選んでくれた、自分では買うことが無いであろう明るい茶色のチノパンと、トリコロールカラーのテニスシャツを着て、約束の時間の一時間も前に水都駅に到着した僕は、今からそわそわして一分ごとに腕時計を確認するも、全然時間が進まない。

 それでも、頑張って三十分が経った。ハルナに連絡をするのがはばかられる。もう到着しただなんて、がっついているようで情けないから。一時間も前に行っても、それを悟られてはダメだと実佳子も言っていた。

「おはよう」

「あ、おはよう」

 九時半を回った頃。思いもよらぬ方向からハルナは僕に声をかけてきた。どっちから来たんだ……? バス停は正面なのに。

「環くん、いつ来たの? まだ三〇分前だよ?」

「今きたとこ」

「うっそだあ」

 微笑んだハルナは、僕が知っているハルナよりも更にかわいかった。紺色のワンピースは、袖が童話に出てくるお姫様のように膨らんでいて、しゅっとしたラインのスカートまでハルナのスマートさを際立たせている。肩からはレザーのショルダーバッグを斜めにかけている。よく見れば海外の、高そうなブランド品だがひと目ではわからない地味なもの。手にはつばの大きな白い帽子に赤いリボンが巻いてあった。結構ヒールの高いサンダルなので、僕との目線は十センチくらいしか違わない。

「わたしも緊張しちゃって、すっごく早く目が覚めたの。だから、駅をうろうろとしてた」

「へえ……、それなら連絡くれたらよかったのに」

「それだと、環くんも早く来ていたってことにならない?」

「あっ」

 行こう、とハルナは僕の手を掴んで歩き出した。永代口改札前を集合としたのは、バスターミナルから目的地に向かうためだ。一泊や二泊できるなら、水都フェリーターミナルから籐岐(とき)島に渡って、金山や朱鷺や伝統の能舞台を見たりできるんだけど、水都市内でまともにデートができる場所は限られている。観光地が、まるで無いもんだから……。

「マリンリュート?」

「うん、マリンリュート。水族館、行ってない……よね?」

「まだ行ってないんだ。水都の水族館って、ペンギンがいるんだよね!」

「いる……、みたいだね」

 バスに揺られながら、僕たちは日本海に向かう。水都中央高校の裏側には松林が広がっていて、その向こうはもう砂浜が広がっているのだ。幸いにも今日も晴天で、籐岐島がよく見える。

「籐岐島も行きたかったんだけど、日帰りだと難しいから」

「そうなんだ」

「籐岐には、智とみっこと四人で行こうよ。それなら外泊もオッケーでしょ」

 そうだね、と二人の名前が出るとハルナはぷいと車窓から顔をそらしたのだった。ああ、失敗した。実佳子はデートの時はほかの人間の名前は出さないように、と言っていたっけ。再び松林の中にバスは曲がると、大きなガラス張りのエントランスに、水都市水族館マリンリュートと書かれた建物が見えてきた。一つ目の目的地だ。

「東京で水族館は行ったことある?」

「ちっちっち、わたし結構行ってるよ? 葛西臨海、新江ノ島、池袋」

「池袋? 内陸じゃん」

「海の隣じゃなくても水族館はあるの。沖縄も行ってみたいな」

 入館する前にハルナが話してくれてよかった。インターネットの付け焼き刃な知識を披露しなくて済んだのだから。

「あ、チケット」

「大丈夫、今日は僕が払うからね」

「ありがとう」

 にっこりとハルナは笑うと、僕一人で窓口に並ぶ。普通の高校生なら、券売機にパスポートをかざせば割引がきくのだけれど、わざわざ僕は有人の窓口に並んだのである。

「大人のペアチケットをお願いします」

「はい。五千円です」

 ごせんえん? とうっかり言いそうになったけど、躊躇せずにお札を取り出した。まだ朝十時過ぎなのに虎の子の津田梅子を失うのは辛い。

「学生さんなら、一人千五百円ですけど……」

「いえ、ペアでお願いします」

「はい。行ってらっしゃいませ」

 窓口のおばさんは、おおきなチケットを僕に渡してくれた。日本海の夕日をバックに、マリンリュートの海産物……、魚たちのイラストが描かれていて、下に小さく二枚の入館券が並んでいる。

「行こうか」

「はい」

「はいっ?」

 入り口のゲートを潜る前に、ハルナは僕の左腕に抱きついて来た。夫婦みたいに。


「悪人面よね」

「悪人面だ」

 日本海に住む魚の水槽の真ん中を、偉そうに泳ぐ大きなコブダイは推定二十歳だという。魚ってそんなに長生きしていたっけ。顔よりもかなり前に突き出ているリーゼントの部分は小さな傷が無数についていて、流れの早く、冬は冷たい日本海で生き延びてきた歴戦の勇姿だ。

「ブリもサケも遠慮しまくってるじゃない。もう、あなたは高級魚で食べられないから庶民のお魚に譲りなさい」

ハルナは不思議な説教をすると、コブダイに通じたのか水槽の真ん中から移動していって、無重力を飛んでいるようなアカエイやイワシの群れが次第に集まって来た。冬に美味しいブリもサケも、すいすいと泳いでいく。

「まもなく、フンボルトペンギンのお散歩の時間です。よろしければ、ペンギン公園にお集まりください」

「ペンギン公園?」

「行こうハルナ。マリンリュートはペンギンの行列が見れるから!」

「えっ!? あっ、環くん!」

 痛くないように、そぉっと腕を引っ張った。ハルナはそれに答えて僕についてくる。

 いくつかの展示室を通り過ぎて、出た中庭にははまなすの赤い花がたくさん咲いている。中央の通路の両側にはたくさんの親子連れや若い夫婦が並んでカメラを構えていた。

「ペンギンのみんなが、今からゆっくりと行進します。一生懸命行進するので、びっくりさせないようにしてくださいね」

 と、学芸員のアナウンスののち。ケージの扉が開いて、飼育員さんが後ろ向きに歩いてきた。大柄な彼の影で足元のペンギンがすぐには見えないが、沿道の人たちがささっ、と動き始めたのでペンギン登場だということがよくわかる。

「うわあっ! 来たよ、来たよ!」

 ハルナが僕の腕を掴んで、しゃがもうとした。飼育員さんの後ろをよたよたと一列で歩くペンギンたちの体長はだいたい三〇センチくらい。しゃがんでもなお見下ろす小ささだ。両手の翼をぱたぱたとさせながら、僕たちの前を脇目も振らず歩いて行く。一匹、二匹、三匹……、全部で三十匹以上ペンギンが通り過ぎるまで結構な時間がかかる。しゃがんで近づいてみると、一匹一匹がまるで違う顔をしているところまで、見ることができた。ハルナは飽きもせずに手を振っている。最後のペンギンがお尻を振りながらプールの方に曲がるのを見送ると、ハルナは満足げにため息をついた。

「ハルナはペンギンが好きなんだ。意外」

「そう? わたしは何が好きに見える?」

「豹とかシャチとか?」

 かわいいものよりもかっこいいものが好きなんだ、と勝手に思っていたから。

「ぜんぜん違うって。もしかして、見かけによらない、って思った?」

「うん」

 次はイルカショーだ、と親子連れがはしゃいでいたので、僕はハルナにどうする? と聞いてみた。

「イルカは、いいかな?」

「そう?」

「わたしはペンギンで満足だから。ゆっくりとあちこちを見て回りたいし」

 日本海の大きな水槽には、ゆうゆうと泳ぐイタチザメから、身体をくねらせて回るイワシまで多数の魚が見られた。なんだか魚たちの生き生きとした姿を見ながら、ハルナは黙り込んでしまう。

「どうしたの? 飽きた?」

「飽きたっていうか、この魚たち、自由でいいなって」

「自由かな」

 水族館で泳ぐ魚が自由だなんて、僕は思わないけれど。

「人間よりも、ずっと自由だよ」

「人よりも?」

「自分に正直に生きられるんだから」

 すると、ハルナは自らに嘘をついている、ということだろうか。

「みんな、それで良いのかな……?」

 大空を自由に舞う翼をもがれた水族館ペンギンみたいだ、と、僕は変なことを考えてしまった。

 イルカショーで盛況なさなか、水都のあちこちに広がる潟や沼に生息する魚の水槽を見たり、川を遡上するサケの展示を見たりして、いつの間にか一時間以上が過ぎていた。出口脇のお土産物屋さんをハルナはなぜか素通りする。

「ぬいぐるみとか、恥ずかしいから……」

「それなら、恥ずかしくない奴を」

 レジ横に並んだ、ストラップを二つ僕は購入する。

「フンボルトとイワトビ、どっちがいい?」

 しゅっとしたフォルムのフンボルトに対して、金髪のトサカの部分にワックスを付けたような派手なイワトビ。ペンギンのチャームがついたシンプルなデザインだ。

「いいの?」

「プレゼントだよ」

 じゃあ、こっち、とハルナはやっぱりフンボルトペンギンを手にとった。

「ありがとう。大事にする」

「僕はこのイワトビペンギンのをつかっていい?」

「えっ?」

 それを想定していなかったのか。「まあ、いいよ」と一応の許可が出たので、筆箱に後で結ぼうと思った。そろそろマリンリュートを出て、次の場所に向かう。と、出口のエントランスがなんだかにぎやかだった。

「どうしたのかな?」

「さあ……、何かイベントがあるのかな?」

 僕とハルナは不思議そうに出口を見ると、テレビ局のカメラも一眼レフを持った記者のような人もそこには立っていた。

「おめでとうございます!」

「えっ?」

 誰か有名人が来ているのかと思いきや、僕たちの真上でくす玉が割れて、ファンファーレがスピーカーから鳴り響いた。

「お二人でちょうど、マリンリュート来場八百万人めとなりました」

「ええっ?」

 カメラはばっちりと、僕とハルナの驚く顔を映しだしていたに違いない。集音部分に緑色のスポンジをはめたマイクを、リポーターの女の人が僕とハルナのちょうどまんなかくらいに向けられる。

「ご存知でしたか?」

「い、いえ。びっくりしました」

「マリンリュートに来たのは初めてですか?」

「わたしは初めてで、環くんは……」

「僕は二度目です」

 開園以来、何度も危機や改装を経て、ようやく八百万になったという。

「よろしければ教えて下さい。お二人はカップルですか?」

 よろしくねえよ! と思わず言いそうになったが、僕たちはいまデート中である。お互い顔を見つめ合って、アイコンタクトで僕がリップサービスをすることになった。

「大学生のか、カップルです」

「SHarPで九四パーセントの相性なんだよねー」

 調子にのったハルナが、腕にしがみついて来た。

「九四パーセントですか!? すごいですね!」

「運命の相手だと思います。マリンリュートは、わたしが行ってみたいって前から言ってて、やっと来ることができました」

 ハルナはペンギンがかわいいと本音をだだ漏れに、スタッフに水族館への思いをぶちまけていた。

「ありがとうございます。以上、マリンリュートからでした」

 リポーターがカメラの前で手を振ると、僕たちに向かって深くお辞儀をする。

「取材、ありがとうございます。マリンリュートさんから、ペアで年間パスと、ペアのぬいぐるみのプレゼントです」

 エントランスの上に置かれた、抱えるのでせいいっぱいのイルカとペンギンのぬいぐるみ。ハルナは抱きつきたそうにウズウズしていたが、これ、どうやって持って帰るんだろう。

「あ、郵送できますよ」

「お願いします」

 その場で抱きしめられなかったハルナは少しかわいそうだったけど、あれを二つもったままでのデート続行は困難だったので仕方ない。二つとも、大きなダンボールに入れて、ハルナの家に送ることにした。そして、記念にいかがですか? とハルナの携帯でツーショットの写真を撮ってもらう。

「年パス、貰っちゃた」

「また来よう。イルカとか、クラゲとか。見るところたくさんあるからね」

「また、ね。そうだね」

 オーバーに僕とハルナの相性九四パーセントなんてよくも言ってくれたが、言われたら言われたで嬉しかった。ハルナの許嫁には、そっと心の中で頭を下げて、アカンベーもした。


 マリンリュートから僕たちは、松林を歩いて新町方面へと向かう。お昼は、水都ご自慢の海産物を使ったイタリアンだ。シチリア軒という地元では有名なお店を予め予約してある。僕とハルナは、マルガリータとボンゴレ・ビアンコを頼んでシェアすることにした。

「お飲み物はどういたしましょうか?」

 店員さんはビールやワインの載っているページを広げてくれたが、ハルナは未成年なんで、とオレンジジュースを二つ注文した。

「わたし達、高校生に見えないのかな」

「そうだと思うよ。だって、高校生のカップルなんていないものね」

「そうね」

 他愛もないことを話しているうちに、とっても大きなピザとスパゲッティが運ばれてきた。水都の魚介もたっぷり使ったスパゲッティは、ハルナはたいそう気に入ってくれたようだ。信濃川河口近くの市場「オーシャン」のお寿司屋さんと迷ったけど、ここに来て良かった。

 午後も天気が良いので、バスに乗って今度は内陸の、豪農の館に行った。江戸時代や明治・大正時代に小作人をたくさん抱えていたとんでもなく規模の大きかったかつての農家の屋敷が今は博物館になっている。社会の教科書に出てくる農機具や食器がたくさん展示してある。地味ではあるけれど、日本いちの米どころ、水都らしさを楽しんでくれたようだ。

「もう、夕方だね」

「あっという間だったなあ」

「このあとの予定は?」

「そうだなあ」

「ってことは、無いんだね?」

 僕はわざととぼけたふりをして、水都駅にたどり着くまでの時間を名残惜しく過ごした。だって、密かに予定した最後の場所は、天気が良くないと行けないから。

「今日は一日、ありがと」

 バスを降りると、ハルナはそう言った。空は夕焼け色が雲を淡いオレンジへと染め上げる最中だ。

「ねえ、今から夕日を見に行かない?」

「夕日?」

「ハルナが良かったら、だけど。この天気なら、きっと綺麗な夕日が見れると思うんだ」

 日本海に沈む夕日は、水都の超おすすめスポットだ。みなとタワーに登らなくても、ハルナの家近くの砂浜からとてもきれいで、神秘的な光景を眺めることができる。

「……いく」

 どのバス乗り場がいちばん早いか、と時刻の確認をしようとしたそのときだった。

 マナーモードにしてあったハルナの携帯が、ぶるぶると震える。

「…………」

「どうしたの? 出ていいよ?」

「……いいの」

 ちらりと見えた電話の相手は、「ママ」だった。


 電話は、三分以上振動を続けて、そして止まった。

「ごめんね、デートに水を差しちゃった。いこ?」

 ハルナの方から、僕に手をつないでくる。震えているのを隠すように、ぎゅっと握りしめているのがわかった。

「でも、」

「晴波」

 雑踏の中に、声はよく通って聞こえてきた。ハルナを呼ぶ、ハルナに似た涼しげな声は、すぐ真後ろからだった。聞こえなかったように、歩き出そうとする。

「晴波!」

 ハルナと一緒に駆け出せばよかった。そうすれば、僕の脇からハルナの肩に手をかける相手から逃げることだってできたのに。強引にハルナを振り向かせた姿は、雰囲気だけで僕を威圧していた。ハルナは、恐怖で表情が凍りつき、観念してしまったのか、小声で

「ママ……」

 と言った。


 水都駅間の喫茶店。僕とハルナの前に置かれたホットコーヒーはもう湯気もたたなくなるまで冷めきっていた。窓の外を、ヘッドライトの列が通り過ぎていく。

 テーブルの上には、最新式のタブレット型コンピュータが乗っていた。さっきまで、誰もが使ったことのあるSNSのトレンド用語一覧が表示されていた。

 今日の第一位、それは、九四パーセント。

 地方の小さなニュースで発言された、SHarPの相性九四パーセントなんて、そうそうお目にかかれる数字ではない。しかも、運の悪いことに、ハルナはかわいかった。

 またたく間にトレンド入りを果たした「九四パーセント」というワードを、よりにもよってハルナがもっとも知られたくない相手に見つかってしまった。それが、ハルナの母親である。家出をある程度黙認していた母親だが、よりにもよって彼女はSNS全盛期世代。中学生の頃から使っている習慣は大人になっても変わらずだ。投稿されたハルナの無垢な笑顔の映像に、散りばめられた大嘘。いてもたってもいられなくなり、わざわざ彼女は東京から水都にやってきたのだ。意外にも、連れ戻すとは一言も言わない。

「この人は誰?」

「榛名……、環くんです」

「偽名はやめて」

「偽名じゃないです。本名!」

 僕はパスポートをテーブルの上に提出した。

「……そう。偶然もあるのね。それで? あなたは晴波に許嫁がいることは聞いていないのかしら」

「知っています」

「じゃあ!」

 ばあん、とテーブルを強く叩きつけたのは、ハルナだった。

「ママは関係ないでしょ!」

「関係あるわよ。紅崎さんという人がいながら」

「許嫁なんてバカバカしい!」

 ハルナが成長して、すこし仕事で疲れが慢性的にのっている状態が、ハルナの母親だ。歳の離れた姉妹に見えないこともなかった。姉妹喧嘩みたいに、互いを屈服させようとしている。母が娘を諭そうという気配は見られない。

「わたしは環くんとデートをしていたの! 相性なんてどうでもいいでしょ!」

「じゃあ、この人との相性はどうなの? って、SHarPを使わないといけないのね」

 こういう痴話喧嘩は、大人の世界ではよくあることらしい。SHarPの診断精度があまりにも高いので、暴力に訴えることもなく、穏便に解決をするというが、ハルナの母親はまさにそういう人物だ。

「一億分の、一パーセントです。僕とハルナは父の勤める市役所で診断を行っています」

「なんだ、じゃあ確かめるまでも……、一億分の一? そんな数字聞いたことがないわ」

 九四パーセントよりもレアではないか、と言った。

「二人の相性は最悪ということね。すみませんけど、榛名さん、あなたこれ以上娘に」

「ママ、ふざけないで!」

「ふざけてなんかいないわ! 紅崎さんにこれがきっかけで結婚ができなかったらどうするの?」

「どうもしない」

 ハルナはハルナで意地になっていた。

「わたしはまだ、結婚をできる年齢じゃない。十八歳になって、その相性が変わっていることだってありえる。そうだよね」

「え、僕?」

 ハルナと、その母親が一緒になって僕を睨んでくる。輪郭も顔のパーツも似ているが、瞳の色は別のものだった。

「一億分の一が九四パーセントよりも大きくなるだなんて、ありえないわ」

 先に目をそらしたのは、ハルナの母親だった。僕はなるべく視線を避けるためにハルナを見ていたからだろうか。

「あの……、ハルナを連れ戻しに来たんですか? ほら、家出中だって言うから」

「それを知っているなら、どうして榛名さんは説得してくれなかったんですか? 好きだから?」

「僕は……」

まだ、きちんとハルナに伝えていない。目の前で、実の母親に向けて言うなんて嫌だ。

「私が晴波がこんな無茶をしているのを黙認しているのは、多少羽目を外したって、紅崎さんとの将来があるからです。晴波あなた、ママにバレていないなんて思っていないでしょうね」

 どうなのさ、と確認しようとするとぷいっ、とそっぽを向かれてしまった。

「いつまでも水都にいられるなんて、思わないこと」

「帰るよ! 夏が終わったら」

「夏が終わったら? 何それ」

「わたしが東京で、ママのいるところで出来なかったことを、こっちでやるの」

「何よ」

「クラスの出し物」

 文化祭の占い喫茶で、自分が大きな役割を担うことを、ハルナは楽しそうに語った。僕はまさか、ハルナがここまでやる気があったとは思っていなかったので、嬉しく思う。

「東京でやればいいのに」

「あそこに帰れって、本気で言っているの? わたしという人間を誰も見てくれなくて、許嫁だ、相性だってところに?」

「それが普通なのよ」

「じゃあ、普通じゃなくていい! ママは、おかしく思わなかったの? ただSHarPの相性が良かったってだけのパパと結婚して」

「よかったわよ? だから晴波がいるんじゃない」

「他に好きな人はいなかったの? 失恋はしなかったの?」

「ちょっと、店の中だから!」

 僕が止めても、親子の言い合いはとどまることを知らなかった。ちらちらとこっちを見る客の視線があるし、店員は止めに入るタイミングをはかっているようだ。今すぐに!

「ママがどんな結婚をしたか、別に聞きたいとは思わない。わたしは紅崎さんと結婚することになるかもしれないし、ならないかもしれない。いいでしょ? それくらい、いいでしょ……」

 ハルナは、力が付きたかのようにテーブルにうなだれてしまう。

「晴波?」

「失恋でもいいの……、最良じゃない、運命の恋がしてみたいの。人として生まれたんだから、自由に」

 涙声のハルナに、僕も、ハルナの母親も声をかけられはしなかった。そっと、財布から五千円札を取り出すと、ばつが悪い顔をして、それをテーブルに置いていった。僕に向かって睨むような、少し申し訳無さそうな表情を浮かべ、何も言わずに店を出ていく。

「ハルナ、ねえ、ハルナ」

「……ママは?」

「帰ったよ」

 紙ナプキンで、涙を拭うと黒いマスカラの痕が移っていた。

「ごめん、見苦しくって」

 まだ、嗚咽を漏らしそうになるハルナは、冷たくなっていたコーヒーをかっ、と一気に飲み干した。

「ママは、わたしが紅崎さんと結婚するってずっと願っているの。今更何を言ってもだめ」

「みたいだね。……ごめん、ハルナ。夕日、見に行けなかった」

 そして、僕がきちんと母親に言い返さなかったから、こうして悲しませてしまったんだ。

「今日は帰る……。ごめん、わたしも」

 そう言うと、かばんと帽子を鷲掴みのまま歩道で、ハルナはタクシーを拾う。

 僕は。

 追いかけることもできやしなかった。


「榛名、環さんですか?」

 僕も、なんとか家に帰らなきゃと残されたコーヒーに手を伸ばしたとき。朗々とした声が僕を呼んだ。

「紅崎恭一です。どうも」

 明るい色の髪に、柔和な眼差し、理知的なメガネ。ファションテナントの店員のような、渋い色と派手な原色の着こなし。紅崎って、どっかで……。

「玉置ハルナの許嫁……、って言い方。あんまり気に入らないんですが、その許嫁です」

 向かい、良いですかと僕の許可も得ずに紅崎は腰をおろした。

「いたんですか?」

「はい?」

 僕はぶっきらぼうにそう聞いた。なぜ僕が、こいつの相手をしなくてはいけないのだろうか。

「さっきまで、親子で喧嘩していたのを、そっちの席から見ていたのかって聞いてるんです」

「ああ、それはですね」

 紅崎も、ハルナの母親と同じくSNSからハルナと僕がテレビに写ったことを知ったようだ。ハルナの母親よりも一時間遅い新幹線で到着したが、偶然入った喫茶店がここで、ちょうど言い合いがはじまったころらしい。

「僕が来ていることを知っていて名前が出ているんじゃないかってびくびくしていました」

「ハルナを追わなくていいんですか」

「いいんです。今いっても、僕は混乱させるか、悲しませるしかできないから」

 紅崎は、持っていたカバンから、見覚えのある冊子を取り出した。SHarPの相性判断のものだ。

「家出をしているとは聞いていたので、一応持ってきたんですが」

 開いた一ページ目に、九四パーセントと書いてある。他に相性が書かれているのは、四〇~三〇パーセントが二人だけだ。

「僕ね、晴波さん以外は結婚相手がいないんです」

「だから、女子高生でもいいって?」

「いえ、……その、別に結婚だけが幸せじゃないって思って」

 詭弁だと思った。この男は、綺麗事だけをハルナに見せているつもりだ。

「結果が出た時に、区役所の人がすっごく驚いて、すぐに結婚しろって言うんです。でも、僕は全然わからなくってね。周りが勧めるから何度もあったんだけど、良いのかなって」

「ハルナがですか?」

「そう。僕が、いいのかなって」

 いいんだよ。あんたは。とんでもなくハルナとの相性がいい相手なんだから。

 僕の九十四億倍も、ハルナを幸せにできる男なんだから!

「僕が、紅崎さんが、よくないって言ったら?」

「わからない」

「わからない? あんた、それだけの立場で」

「テレビで、」

 思わず襟を締め上げようとした僕の腕を、紅崎は見事に払いのけた。何か武術のたしなみでもあるように思える。

「テレビで。晴波さんと、君が写っていたのがとても楽しそうだった。にこやかに笑う晴波さんを僕は見たことがない」

「諦めるって言いたんですか?」

「いや……、僕もわからないんだけど、君の方がずっと相性がいいように、見えたんだ。すまない、本当に」

「いえ、僕も年上にむかってすみません」

 紅崎は、もう東京に戻るそうだ。何もできないまま。

「紅崎さん」

「なんだい?」

「紅崎さんは、恋したことありますか?」

「……誰だって、恋をしたことはあるさ。ただそれが、許されないこともある」

 また、僕がテーブルに一人のこされてしまった。時間は八時近くを回っている。

 帰らなきゃ。でも、おそらく母さんも父さんもテレビのこと、知っているんだろうな……。


 熱帯夜の熱気が、妙に歩みを鈍くしたのは気のせいではなかったのだろう。

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