エゴ4

 わたしが不思議。

この舞台の準備は突貫で進められた。練習期間は一月もない。台本こそ文佳の書いたものを使うが、そこから先はすべて水戸、劇団ストリングスに任せることとなった。七月の十九、二十日そして二十一日。この前公演を行った公民館でその劇は上演される。

 奏佳さんの六年前の日記にはこう記されていた。

『七月二十一日、水戸くんの舞台の千秋楽。カーテンコールに呼ばれる。あそこまで冷たい視線があるとは思わなかった。私の脚本がすべての元凶である。妄想のダダ流し、時間が長く感じたといった言葉を賜った。彼らそしてストリングスには申し訳なく思う。忘れることのない後悔、今後私は不退転の覚悟で筆を進めるだろう。 三島:【潮騒】、手塚治虫:【鳥人大系】』

 いったいどのような挫折を経験したのか想像することは難しい。その時の台本はすべて失われ、映像も消去したというから、うろ覚えにしか内容も伝わっていない。文佳は何も知らないまま、千秋楽に招待されていたのだった。大学から帰ると、誰も居ない。

「ただいま、慧くん」

文佳が外から帰ってくるのは珍しい。

「どこ行っていたの?」

文佳は軟禁状態なのだ。強いたくはないが、何をしたかは把握しておかないとまずいことになる。だが、わざわざ聞かなくとも何しにいったかはわかった。その手に七つの小さなブーケを持っている。

「役者の皆さんと水戸さんに感謝のお花」

「なるほど」

本当はもっと早く戻れるつもりだったが、どの花にするか迷ったらしい。赤い、バラ。偶然にも、前に文佳が持っていた花束と同じものだった。花屋ならすぐ近くだし、余計な情報が入ることもないだろう。

「そろそろ出かける準備をしましょう」

「オッケー。まさか呼ばれるなんてね。作家として何か言わなくてはならないかも」

冗談はやめてよ、と言いながら、なるべくセミフォーマルな服を物色する文佳。


会場は、この前と同じ。そして、開演時間もまた十八時半からだった。

伊達に十四本も劇を作っていない。固定ファンが結構な人数来ていて、招待客でなければ最前列で劇を見ることはできなかった。

 あれから五百川さんがあれこれ手直しをする、と聞いていたのに、ストーリーは文佳の書いた台本に忠実に進んでいった。ところどころで笑いが起き、かと思えば手に汗握る展開の連続。役者の人たちは流石に上手で、文佳が彼らの一挙手一投足すべてを嬉しそうに見ている。

 つい涙腺が緩んでしまうクライマックスを迎え、三度のカーテンコールの後に、水戸が前に現れた。

「本日は、劇団ストリングス特別公演【わたしが不思議】にご来場くださいまして、誠にありがとうございます。ここで突然ではありますが、重大発表をさせてください。本公演を持ちまして、劇団ストリングスは無期限凍結にする運びとなりました。今回、東雲文佳嬢に脚本を依頼し、それを上演したわけですが、劇団そのもののコンセプトや空気、役者の好みと多くのすれ違いがありまして、すこし時間をいただけないと次回の公演を送り出せる状態ではありません。無論、脚本が悪いわけではありません。いい脚本だと私たちも思っていますが、団員皆で決めたことなのです。詳しくはホームページやツイッターでの確認をお願いします。カーテンコールに入る前に、短くではありますが、東雲文佳嬢より挨拶をしていただこうと思います。さあ、前へ」

 ざわざわと開場がどよめいた。いきなりの劇団解散宣言である。文佳は壇上に上がっていいのか戸惑っている。慧の方に助けを求める視線を送るが、慧もその判断ができない。水戸の二度目の紹介でもう上がらざるを得なくなってしまう。

「ど、どうも、東雲です……、っていうか、終わっちゃうんですか? 劇団」

「終わりじゃなくて、無期限休止です」

それは……、と文佳はいい、言葉に詰まる。観客は四十人はいる。好奇な目で文佳を見ていた。

「それは、わたしの脚本の責任でしょうか?」

「違います。あなたは悪く無い」

水戸は文佳だけでなく、観客を諭すように言った。慧には自分自身に行ったように聞こえたが。

「そうですか……。この脚本は私がはじめて書いた脚本です。楽しんでいただければ、幸いです」

お辞儀が上がり切らないうちに、文佳はそこからかけ出した。客席には、花束が置きっぱなしになっている。慧はそれを水戸に押し付けると、逃げるようにホールを後にする。


「待って!」

 文佳には公民館裏の公園で追いついた。

「どうして出て行ったの?」

「なんだか、お客さんの視線が冷たくて」

「ストリングスの休止、聞いてた?」

首を横に降る。劇団員だけがこのことを知っていたのだろう。

「わたしの脚本のせいだ」

文佳の声に嗚咽が交じる。なんと言えばいいのかわからない。

「ぼくも……、五百川さんも、水戸さんも、面白い脚本だと思った。限られた条件の演劇脚本であそこまで面白く書けたじゃない。見たでしょ、お客さんの反応。みんな楽しんで劇を見ていたじゃないか」

「けど、解散なんて」

「気にしている場合じゃないでしょ?」

水戸は、劇の良し悪しにかかわらず休止するつもりでいた、と信じたい。そうでなくとも、文佳に非はない。お客の反応を見れば、誰でもわかることだ。

「気にするわ!」

「そんなことを気にしている場合か?」

「そんなこと、って何?」

渾身の戯曲、それにかけた情熱は並ではない。普通だったらこの扱いに対して、今から水戸を殴りに行くところだ。だが、文佳にとって【わたしが不思議】は通過点でしかない。どんなに醜い結果でも、鮮やかに振り払っていかなければならない。

「小説を書くための習作だろ? よく考えて。文佳の目的は小説家になること。それだけを見て進まなきゃ駄目だ。公演は五回あった。一度に三十人が喜んでくれたら百五十人が喜んでくれたんだよ? これが小説だったらどう? きちんと本になればその百倍も千倍もの人が喜んでくれるんだ」

慧の慰めは支離滅裂だった。慰めながら、自分でも何を言っているのかわからない。

「みんなの楽しみを奪ったんだ」

「文佳!」

思ったよりも大きな声に、文佳はびくっとする。

「奪ったんじゃない。みんなの未来を少し変えただけだ。演劇はどこでもできる。一人でもやれる。環境を変えるきっかけになっただけだ!」

ハンカチを取り出して、自分で涙を拭う。かばんから取り出したのは、「わたしが不思議」の台本。それを思いっきり破る。二つに裂いて、四つに裂いて。

「ありがと。小説なら沢山の人を喜ばせるって」

「そうだよ。文佳が書かなきゃ、未来の読者が悲しむ。そうだってぼくは思うから」

文佳はすっくと立ち上がると、直立の姿勢で背筋をピンと伸ばした。

「宣言するよ、慧くん。これからわたしは背水の陣の覚悟で小説を書く。小説だけを書くよ。脚本はもう書かない」

この失敗を糧に貪欲に書きたい。その燃える炎で高揚する文佳の姿は、文芸サークルの文佳でも、昴の患者でもなかった。どこかで似たものを見た気がする。

 そう、蓋井天お別れ会の文佳だ。

 ルミナスの格好をして、花束を持ってきた、あの時の文佳。

「教えて。わたしは何をすればいい。どうすれば、小説家に近づける?」

「のこり十二冊。そして四本の小説を書くんだ」

「十二冊?」

読書修行が始まってから一月半。文佳は毎日毎日読み続け、百四十冊以上、八十八作品を読破していた。限られたインプットでいい。それで必要十分なのだから。

「心配だから、これから本屋さんに行きましょう? 長いこと買い物なんて行っていないから」

「それは駄目なんだ」

「どうして?」

今の文佳にルミナリアを見せてはいけない。そのきっかけを与えてはならない。

「関係ない本に目移りさせちゃ駄目っていわれているからさ」

「関係ない本なんてないと思うんだけれど」

たった一冊の本が、とても大きな成長を与えることは慧も重々承知だ。だかこそ、今の文佳が蓋井天の百冊以外を読むことは許されない。決められた本をきっちり読んで、書く。そうすれば、蓋井天という高い高い頂きに挑めるようになるのだから。

「……わかったわ。次の本は何?」

そう来るだろう。と慧はカバンから一冊の単行本を取り出す。

「満を持して、伊藤計劃の【ハーモニー】だ」

二〇〇九年当時は出たばかりの本。病床の作家が残したSFのひとつの金字塔。ルミナリアのセカイ構成にやはり組み込まれていたかと、リストを見た時納得した本だ。表紙を見た文佳はあまり釈然とした顔をしてはいなかったが。たった三冊の長編を残し、四冊目を盟友が書き継いだ。蓋井天を継承するには避けて通れない本になる。


 家に戻ると、昴が戻ってきていた。早番だったらしい。

「やあ。千秋楽おつかれさま」

「こんにちは、先生。おや、何かいいことでもあったのかい?」

「残り十二冊です」

もうここまで来たのか、と昴も感慨深いようだ。

「そうか。……ストリングスの解散は驚いた。揉めたらしいな」

既に昴の耳に入っていたことが驚きである。

「すべてわたしの責任です」

「いや、文佳くんが気にやむことはないさ」

「だから、これからは背水の陣の覚悟で執筆に打ち込みます。そうすれば記憶も戻りますよね? ね?」

ここまで積極的な文佳は珍しく、昴は生返事しか返さない。

「ああ。不退転の覚悟があれば記憶だって……、いま背水の陣と?」

「はい。一歩も引かない姿勢で書いていきます。そうだ! さんずいの瀬に水、仁義の仁で瀬水仁ってペンネームはどうでしょう?」

慧と昴は同時にコーヒーを吹き出した。せみずじん?

「それは、すごいネーミングセンスだな」

「男の人みたいな名前だね」

「そう? ジェイムズ・ディプトリーJrも、荒川弘も有川浩も尼子騒兵衛も、はじめ見たら男と見間違える名前だよ? ペンネームなんて記号的なものだから大丈夫」

昴はものすごく何かを言いたそうだった。不退転とか、不退転とか。

「どうでしょう、先生?」

「デビュー作で使ってみたらいいんじゃないかな? 君がこれだ、ってものが書けたなら、すぐにデビューできるだろう」

「本当ですか?」

昴は昨日の公演を見に行ったらしい。奏佳さんの書いたつまらない劇を見に行ったつもりが、あまりに良かったのでそれを伝えに戻ってきたという。

「きみは奏佳よりもずっと才能がある。劇を見ればわかるさ」

「あの……、みなさんがたまに言っているカナカって誰ですか?」

しまった。

文佳の前では奏佳さんの話題は避けよう避けようとしていたはずだが、どうにも名前が出てしまっていたようだ。

「兄さん!」

「誰なんですか? 隠さなきゃいけないような人なんですか?」

「え? 誰が?」

「取り繕うあたり、余計に怪しい!」

「えーっと、奏佳は……」

昴は嘘の下手な人だ。よくも今まで隠し通せてきたものである。えーっと、ではない。そういった時点で昴がどう言おうと文佳は信じることはないだろう。

「奏佳さんは、兄さんの恋人だった人」

「だった人?」

文佳はすぐに食いつく。やはり女子はこういう話が好きなのだろうか。

「おい!」

「五ヶ月前に亡くなったんだ。何十万人に一人の難病でね」

「それは……、ごめんなさい」

「いや、いい。俺たちは知っていたのに隠しておいたのが悪い」

「兄さんと奏佳さんは七年前から付きあっていたんだ。奏佳さんは兄さんたちの二つ下ね」

昴と五百川と水戸の三人は同い年。奏佳さんだけ後輩だ。本当のことのを言って、蓋井天のことを隠せばなにも問題はない。少なくとも、今は誤魔化せる。

「奏佳さんが大学に入った頃、兄さんがナンパしたのがきっかけなんだて」

「先生もナンパを? 兄弟よく似ているんですね」

いや、ナンパをしたのは兄だけだ。そう弁明したい。

「こいつは俺の背中を見て育ったからな」

「どんな方だったんですか? 水戸さんとも五百川さんとも仲よかったみたいですし」

仕方ない、と昴は言う。

「文佳くん、今日読む本のノルマは終わっているか?」

「はい」

それならば、と昴は話し始めた。なるべく失言がでないように慧にフォローを頼んでから。


 奏佳さんは小説を沢山読む人だった。そして、小説を、すべての芸術を愛していた。音楽も美術も書道も、そして舞台も。マンガも詩も分け隔てない。美しいものが好きな人だった。沢山そういうものに触れ、彼女のそれらへの愛情がルミナリアのセカイというものに詰まっているのだろう。つかみどころの無い性格で、自由気ままに夢を語る世間知らずだという。

「何をしていた人なんですか?」

「何を、ねえ。大学では書道をしていた」

昴は大学の開催する高校生の書道展で、奏佳さんの書いた字を見た。名前を覚えていたみたいで、翌年春。文芸サークルに東雲奏佳が入部した時は運命を感じたという。実は、ルミナリアの表紙の文字も奏佳さんが書いたものを加工している。かなりの腕前だったと昴は言う。

「文字に、一目惚れしたんですか?」

「文字のとおり、美しく真っ直ぐな人だったよ」

「それで、ナンパですか」

「恥ずかしながら、ってなんでお前が笑っているんだ」

兄の惚気話は笑わずに聞いている方が無理というものだ。素面では聞けたものではない。

「サークルに入ってきた奏佳に声をかけるまで、何度もためらいがあったよ。でも、彼女が電車に乗っている時、学食に居る時、いつも本を読んでいた。ちらちらと見える題名がいつも、俺が読みたいと思っている本だったんだ。だから、声を掛けるに至った」

それ、ストーカーじゃん!

そう言おうとするのをなんとか抑えるのが必死だった。文佳は映画のヒロインに憧れる少女のように聞き惚れている。

「ナンパして笑われて、そのあと少しずつ話すようになって、いつの間にか仲良くなったんだ。半年くらいあと、俺は告白した。付き合って欲しいと。そしたら、奏佳は言ったんだ。付き合ってもいいけれど、条件があると」

「あれでしょ? 医者になってから収入の八割」

「慧、お前どっかいけよ。文佳くん、きみが同じ立場だったらなんて言った?」

いきなりの質問に文佳は真面目に考えこむ。

「ヒントを下さい」

「ヒント、ねえ」

「その告白をしたとき、奏佳さんは小説家を目指していましたか? その……、文芸サークルで一緒だったんですから」

昴は頷いた。サークルが同じだから、小説家を目指す。文佳もなかなか五百川たちに毒されてきたようだ。しかし、慧の知る限りの水都大文芸サークル出身の小説家は蓋井天だけだ。三十歳以上離れたOBに一人居たと聞くが、有名とは言いがたい人だ。蓋井天がとにかく規格外というだけで、サークルの数だけ作家が生まれるわけではない。

「では、私なら、

   わたしの書く物語の、はじめての読者になってくれるなら。

   そして、物語が完結するまで、一緒にいてくれるなら

 でしょうか。……恥ずかしいな。……、あれ昴さん?」

 昴は呼吸をすることを忘れていた。瞳孔は開ききっていて、立ったまま気絶しているように見える。思考のオーバーフローだ。

「兄さん? おーい? あのね文佳、「図書館に一緒に行ってくれるなら」だよ確か。そんな臭いセリフ兄さんじゃないんだから」

「な、なんだとこのやろう!」

どうやら、確信をつかれたようだ。

「なーんだ。考えすぎ? 恥ずかしい」

「まったく。慧はそんなことを覚えているんじゃない!」

と言いながらも、慧だけに見えるように親指を立てる。小さく慧は頷いた。

「それで、先生。カナカさんは小説家になれたんですか? 五百川さんとの付き合いもありそうだし、もしかして五百川さんが編集者とか?」

「そう簡単に小説家にはなれないさ。五百川さんも奏佳がなれるように協力はしてくれたようだが……、病気になってしまった」

昔話はここまで。そう言うと昴は部屋に戻っていった。ルミナリアのこと、蓋井天のことを話せないと、昴と奏佳さんのロマンスはほとんど無いと言っても良い。

「なんだか悲しい話ね」

「兄さんとは婚約の話まで出たんだ。未だに引きずっているよ」

「カナカさんの書くお話も読んでみたいなあ。残っていないの?」

そんなものは存在しない。と慧はいう。そんなものは見せられない。

「断片とか何かしら……、もしかして大学に?」

「見たこと無いなあ。前に僕も探してみたことは会ったんだけど。五百川さんに聞いてみたらどうだろう?」

「今から電話しましょう? すごく読んでみたいもの」

「駄目だよ。課題を渡してから。そのご褒美にしてもらおうじゃない」

そうね、と文佳はハーモニーを手にとった。冷めてしまったので新しいコーヒーを入れに行く。


 二階に上がった昴は、水戸に電話を掛けた。慧は文佳といるから話しかけにくい。五百川よりも、男友達のほうが良いこともある。

「おお、昴」

「昨日良かったぞ。奏佳のとはまるで違ったが」

「なんだよ、あのやり方はまずかったのか?」

昨日は終演後再び病院に戻らなくてはならず、水戸に感想を伝えることができなかった。ストリングスの舞台は一応毎回見に行っているが、その中でも特に今回の出来は良かったと思っている。しかし、水戸の声がやけに大きい。打ち上げで酒でも飲んでいるのだろう。まあ、そちらのほうが昴としてもやりやすい。

「いや、あれでいい。文佳くんの作品はとても良くできていたんだからな。劇団の解散はさすがに大げさだと思うが、作品の良し悪し関係なくトラウマを植え付けるとは大したものだ」

「お前の弟のおかげさ」

「慧が?」

いや、こっちの話だ。そうつぶやく。

「で、劇団どうすんの? 解散させちゃったらさ」

「構うものかっ! ここ一年くらい内部分裂しかけていたんだ。解散すれば二つにわかれて好きにやるだろうよ。どのみち、あいつらは演劇を続けるさ」

「お前はどうする」

「なんだよ。俺の心配か?」

だって、そんなこと聞いたことなかったじゃないか! 内部分裂だって?

「言えるかよ。東雲が大変だったんだから。お前は東雲のことだけを考えていればよかったんだ」

「……わるい」

奏佳の入院から亡くなるまでの数ヶ月、昴は彼女のこと以外何も手につかなかった。他のことを考える余裕などなく、これ以上の負担をかけられはしないと水戸は何もいえなかった。

「新しく仲間を探してもいい。よその劇団に客演で回してもらおうかとも考えている」

「悔しくないのか? お前の劇団はなくなるんだ」

「悔しいに決まってんだろ! そりゃあ悔しいさ。本当は「夢の人」と「世界はグーチョキパー」の二本立てをやる予定だったんだ。しかも、世界はグーチョキパーはルミナリアを完結させた後の東雲に書いてもらうつもりだったんだぞ」

相変わらず、ドラえもんが好きな奴である。

「それは、奏佳がいいって言ったのか?」

知るか、と吐き捨てる。

「セカイの話を書いていたんだから、一本くらい書いてもらってもバチはあたらねえ」

五百川の許可を取るのがとんでもなく面倒だろうがな。

「いつまでもF先生の御好意に頼ってもいけないとわかっていたからな。銀河超特急(エクスプレス)までやってひとまず解散するつもりだった。しかし、だ。このタイミングでよかったかもしれない。すっきりした」

「無理をさせてしまったかもしれん。ごめん」

「謝るな。ちっぽけな劇団だぞ。これで飯なんて食えないし」

「それなら俺がスポンサーになる。金なら貸す。いや、タダでやる」

一回の公演は五十万ほどかかる。大道具などを外注すればケタが跳ね上がるが、劇団ストリングスの相場はいつもこのくらいだ。

「いい加減にしてくれ。お前と五百川さんの頼みを引き受けたのは俺だ。解散以外の方法があったとしても、俺が勝手にやったことだ」

「しかし」

「俺はなあ、いや、うちの連中はみんなルミナリアのファンだ。あのときトラウマを持っちゃった東雲のことをみんな気にしていて、デビューから全員がファンなんだ」

ルミナリアだぞ、なあ! と受話器の向こうで水戸が叫ぶと大勢がおう、と応える。やはり飲んでいる。

「二つのセカイを残して、恋に走るのかセカイを守るのか、一番いいところで終わったんだ。お前たちがどう完結させるかは知らないけど、お預けなんて無理だ! 待てるのか、お前は?」

「待てない。俺も待てない」

「だろう? お前は東雲の一番近くにいた。葬式であれだけ泣いた。普通の感情ではいられないんだよ。みんな、ルミナリアの前ではさ」

少しずつ正気でなくなってきていることに自覚は在る。しかし、水戸でここまで狂っているのだ。客観的に昴がどこまでおかしくなったのか知りたいと思った。

「なあ、水戸」

「なんだよ」

「文佳くんはたぶん、ルミナリアを書くぞ」

「いきなりなんだよ」

「奏佳の存在がバレちまってな」

「なんだと!」

受話器口で叫ぶな。耳がイカれそうだ。

「大丈夫、俺の恋人が死んだってところだけ。それで、プロポーズの言葉は? って聞かれたから、何だと思う? って聞いたんだ。そうしたらさ、一字一句違わず当てちゃうの。抑揚もイントネーションもそっくりなんだ」

あれほどやかましかった水戸が少し黙る。

「お前……、妹に東雲を重ねていないか?」

「そうだ。悪いということはわかっている」

「誰もお前を責められやしないさ。お前もそうだが、俺もエゴなんだから」

水戸の言葉に、肩の荷が降りたように思えた。

「俺たち、死んだら地獄に行くだろうな」

「それはこまる。奏佳に会えないじゃないか」

「俺も困るな。ルミナリアの続きが読めないじゃないか」

水戸に負けないくらいの大きな声で笑ってやる。そうだ。これはエゴなんだから。

「だから、生きているうちに読んで、一緒に地獄に落ちようや」

「だな。ただ、欲情だけはするんじゃないぞ。じゃあな」

しねーよ、と言おうとする。しかし、本来の用事をいま思い出した。

「待て、少し時間取れるか? 大学近くにいるんだろ」

「ああ。何だ? また蓋井天関係か?」

今日は奏佳の月命日だ、そう伝えると、今からすぐに出ると言ってくれた。まだ日付は変わっていない。奏佳を失ってもう五ヶ月が経つのかと、しみじみ思う。

三十分もしないうちに、水戸がやってきた。墓地は日本海を望む高台にある。意外なことに、水戸は大きな百合の花束を持ってきた。

「公演祝いでもらったんだ。みなとホールの支配人からだ」

「すごいじゃないか。でもどうして白百合?」

みなとホールは水都市最大の文化施設。演劇だけでなくクラシックコンサートホール、能楽堂、バレエ、ダンス。あらゆる舞台芸術を上演できる場所だ。

「支配人は、東雲が蓋井天だということを知っていてな、追悼公演だから、とチケットを送っておいた。で、見に来てこれを置いて行った」

「なるほどね」

「相変わらずバラなのな」

墓前に手向ける花として、普通バラはふさわしくない。しかし、奏佳はいつもそれを望んでいた。だから、ルミナリアの中でも同様のシーンを書いたのだ。本当はガーネットが良かったのかもしれないが、時価数千万の花束は流石に勘弁してほしい。

「おや?」

 二人が墓前に行くと、クリップ留めされた【わたしが不思議】の台本が置いてあった。既に赤いバラのブーケも置いてある。慧だろうか。それとも五百川だろうか。二人は花束を供え、手を合わせる。奏佳を失ってからの五ヶ月を思い返す。

 涙を振り払って前に進む。

昴はルミナスのようには、まだなれそうにない。


 背水の陣の覚悟は本当だった。あれから更に文佳の読書のペースが上がり、日中の半分はキーボードを叩くようになっていった。いつ寝ているのかと心配になるが、だいたいいつも気絶するようにソファで寝息を立てている。

「あー! またちがう! どう書いてもチープになっちゃう!」

「また消してやり直す?」

パソコンの周りにはコピー用紙の山が散らばっていた。捨てようとすると文佳は全部駄目というので、ゴミが増える一方なのだ。

「いいえ、習作だから、とにかく気持ち悪いゴテゴテ三題噺を収束させなきゃ」

このペース、とんでもないなと思いながら日記を見ると、文佳に勝るとも劣らないペースで奏佳さんも書いているのだ。

「三つ目の習作を思い出してさ。あれだけ五百川さんが絶賛していたんだから。自分のアイデアを信じればいけるって」

課題は戦前の十代学生向け健全なラブコメ。ふざけた題目だ。どうしてこんな題目になったかというと、奏佳さんがくじで当てたのがこのテーマだったからである。

「そうだ、慧くん。一昨日来てくれた人たち、わたしと仲よかったの?」

 背水の陣宣言移行、慧も大学を休んでいた。心配した雨宮と松田がいきなり訪ねてきたのだった。間の悪いことに、文佳が玄関に出てしまった。二人は勝手に勘違いをし、慧によろしくといって帰って行きやがった事件。

「あいつらが? ……まあ、良かったんじゃないか? ただ、記憶喪失になる前の文佳はどこかの女子グループに入るような人じゃなかったからね」

「文芸サークルかあ。そうだ、慧くんは小説を書いていたの?」

ほとんどサークルで文佳と接点はなかったのだ。話題が出るのはこれがはじめてだったりする。

「まあ、ね」

「どんな話?」

「それは修行が終わってから」

また、そういう反応を。と言いながらも楽しみだという。いや、文佳に見せられる小説なんて無い。慧は何度も書こうとしてはきちんと書き上げたことがほとんどないのだから。

 どうせそんな機会はないのだから、からかってやることにした。

「ぼくたちは、互いの書いた小説を交換して評価するような仲だったんだ。なにせナンパしたくらいだからね」

「そうだったんだ。その時、わたしはどんな小説を書いたの?」

「それも秘密。それに短編も短編、というかショートショートだから」

まずい、墓穴を掘ってしまったかもしれない。

「いつもずるい。慧くんは小説をぜんぜん書かないのに、わたしに書かせるだけだからね」

ずるい、って言われても。

「そうだ、昴先生に言ったプロポーズ覚えている?」

兄さんにプロポーズしたの?

「そうじゃなくて、カナカさんに告白したって話」

「ははは、やっぱり? うん、覚えてる」

「なんだかロマンティックすぎた気がするんだけどね」

慧は文佳の真似をわざとらしくしてみせた。「わたしの書く物語の、はじめての読者になってくれるならば」「わたしの書く物語が完結するまで、一緒にいてくれるなら」と。

「よくもそんな恥ずかしいことが言えたわね」

自分が言ったんだろう。

「なんだかカナカさんが羨ましくて。カナカさんになったつもりで言葉を考えてみたの」

「雰囲気とか似てたよ……、って兄さんも言ってた」

「いいなあ」

「え?」

「そんあロマンティックな告白されてみたい」

あんな恥ずかしい告白なのに。

「あの、ね、記憶を失う前のわたしってどんな恋をしていたの?」

「いきなりだな。どんな恋ねえ」

「誰かと付きあってた? 恋人は」

慧の知るかぎりでは、いなかった、筈。

「なあんだ」

「だって、本が恋人だって感じだったよ?」

「そうなの? そこまで読書家だったのかしら」

といっても、今のほうがよほど読書家だし、文芸活動に勤しんでいる。

「記憶をなくす前のわたしをどう思っていたの? 前にきいたらはぐらかしたでしょう?」

やっぱり墓穴だったか!

「それは……」

「どう。好きだった? だって別の人のことだよ?」

「どうしてそんなことを聞くのさ」

「答えられない、って怪しいな。だってさ、慧くんはわたしを知っている。それがずるい。わたしはわたしを知らないのに」

「好き……、だった。ずっとね。片思いだった。でも今の文佳じゃないよ記憶喪失になる前の」

文佳は笑顔になると、休めてたタイプを再開する。

「傷つくわあ。なにそれ」

「ともかく! 記憶が戻るようにがんばろう?」

「戻ったら、どうするの? 告白するの?」

じゃあ、そうしようか。今はそう答えておくのが楽だ。どうせ別人だと文佳自身思っているのだから。

「じゃあ、ってどういうこと?」

「言い方が悪かった。ごめん。告白するよ。約束しよう」

「もっとも、オーケーするかどうかはわからないけれどね。頑張って」

全くである。接点がなかったんだから、告白もなにもないのだ。

「そっちの私の気が向けばカナカさんみたいな言葉をあげるよ」

「ロマンティックすぎるでしょ、それ」

でも、悪い気はしない。作家を目指すのだから。


「記憶を失う前の慧くん?」

「厳密にはわたしが記憶を失う前の慧くんと私の関係です」

五百川は、文佳が原稿ができたというとその日の昼過ぎから深夜に掛けて添削にやってきてくれる。ありがたいとは思うが、仕事に支障は出ないのだろうか? ウィークデイにもかかわらず。

「そのうちに話してあげますよ。それよりも……」

「わかっています。四作目です。お願いします。でも、本当に何なんですか、このいやらしいテーマ。書いていて苦痛でした。キモチワルイんですもん」

今回は三題噺。横恋慕、権力、芸術論。書くのが辛くてたまらなかった。奏佳がこれを書いたとき、当時の文芸サークル内で略奪恋愛騒動があったため、このテーマにしたはずだ。五百川は作品自体に目を通す前に、文字数行数、そして枚数をきっちり数える。レギュレーションを守って、はじめて一文字目を書くことが許される。【わたしは不思議】の時はまったく自由に書かせたが、二作目、三作目ともに文字数、行数、枚数を厳しく強いていた。三枚目では自己分析も課した。起承転結、序破急。新人向けのストーリー教本を用いて、伏線やら売れる話の作り方やら、とにかくルールを叩き込んだ。小説は好きに書けばいい。しかし、文芸サークルの大学生が書くような自慰小説など求めていない。そのための修行であり、プロの編集者である五百川のできる最大のことでもある。ギャグの解説まで分析させて心を一度叩き折る寸前までしごいた。そして期待通り文佳は折れず立ち上がり、四作目を書いてきたのだ。


「規定枚数は、クリアです」

主人公は法曹界エリートの昂一。ヒロインは昂一の彼女和佳奈。そして、昂一のことが好きな、和佳奈の仕事パートナーである美和。文佳の書いてくる話はどこか奏佳の書くものに似ていたものだが、今回は奏佳の芸術論とはまるでかすりもしない内容だ。瀬水仁宣言の時もそうだが、たまに発生する乖離に不安が生まれてしまう。

「どこかで聞いたことのある設定ね」

「カナカさんと、五百川さんをモデルにしました。ごめんなさい」

なるほど。文佳には、彼女たちがいる。しかし奏佳がモデルにしたのは部活の恋愛だ。相違が生まれるにも原因がはっきりしている。

「いーのいーの。おもしろそうじゃない。ある意味あの子と同じことで書いているのだから」

「え?」

「なんでもないです。読んでも?」

「よろしくお願いします」

 五百川が文佳の書いた原稿を読むとき、これまではだいたい一時間半から二時間で読んできた。しかし今回の分量はその二倍近くある。枚数だけ言えば、ルミナリアの一巻よりも分厚いのだ。これまでの三冊は常に向かいに座って、五百川の読む反応を逐一見ていたが、今回ばかりは席を外してもらうことにした。自分の中身までモデルにされていたとしたら、大人げない姿を見せることになるかもしれないから。

 五百川にはこの話が何となく見えていた。奏佳の書いたものは、サークル内部の恋愛模様を揶揄したもの。そして最終的には美談に持って行った。どうせ、美和が和佳奈から昂一を取り戻そうとする話だろう。奏佳の書いたものは最終的には美和と和佳奈は和解して、和佳奈がパリに留学した。

 しかしどうやら違う話になっている。

 物語は、和佳奈が事故に遭ったところから始まる。彼女は将来を期待されるチェリスト。後遺症は皆無だが、ゼロではなかった。昂一はあらゆる国家権力を総動員するが、それでも和佳奈が再び弓を取ることはなかった。文体は全てを見透かす一人称で書かれている。

「もう一度、和佳奈のチェロを聞きたい」

その一心で、昂一は必死に前に進む。その衝動はしかし彼女への愛ではなかった。和佳奈の奏でる音への、歪んだものなのだ。それを知った美和は必死にチェロを練習する。和佳奈の音が失われ、幾十日。突然降って湧いた横恋慕の孔を必死にくぐり抜けようとする恋愛小説だ。

 五百川は美和が気に喰わない。だって、彼女がいくら昂一を籠絡しても、消えた音が戻るわけではないのだから。美和も昂一も意固地になる。勝手に二人は和佳奈の音を神格化しているだけなのに。

 そして、歪んだ愛情は禁忌に手を染めることを選んだ。チェリストへの道を閉ざされた和佳奈の代わりに、新しい和佳奈を育てることにしたのだ。昂一は美和との間に子を作る。和佳奈にはもちろん内緒だ。紫の上と似たようなものである。理想の女性を長い時間かけてつくろうというのだ。完全に昂一のエゴの赴くままに、である。

 十五年の時が流れる。二代目和佳奈が颯爽とデビューするのだ。和佳奈と同じチェリストとして。その見た目は、将来を有望された和佳奈の生き写し。そのコンサートを、昂一は和佳奈と二人で観ていた。この演奏の後、初めて隠し子の存在を打ち明ける。和佳奈の発したのは侮蔑の言葉ではなく、安堵の溜息だった。昂一からの重圧があまりにも重く、その呪縛からの開放は、彼の愛を失ってもなお喜ばしく思えた。

 しかし、一つ気になることがある。なぜ美和との娘が和佳奈そっくりになるのか。才気も美貌も、美和とではなく、和佳奈に瓜二つなんて。なんとなく想像はついていた。エピローグ、やはりその回答が待っていた。和佳奈と美和は一つ違いの姉妹だったのだ。だから、姉妹ともに昂一のことをよく知っているし、仕事上のパートナーであることも合点がいく。使い古された叙述トリックも盛り込んでおり、なかなか読ませる展開だ。


「いかがですか?」

文佳が下りてくると、二時間半ほどが過ぎていた。

「ああ、文佳さん。いま、読み終わりました」

五百川は一番の疑問を投げかける。

「文佳さん、どうしてハッピーエンドにならなかったんですか?」

「ハッピーエンド、ですか?」

文佳がこれまでに書いたものは、多かれ少なかれ主要人物は誰もが幸せになって終わる展開だった。しかし、この小説はまったく違う。和佳奈も美和も、そして昂一も不幸な未来を想起させたところでまくぎれとなるからだ。

「それじゃあ、芸術論にはならないでしょう?」

「芸術論?」

「三題噺の肝ですよ? 五百川さんが指定されたのに」

それは、と言葉に詰まる。芸術論だとハッピーエンドにはならないというのか? いや、それは違うかもしれない。和佳奈の、音。これも登場人物に考えたのであれば、登場人物それぞれが音を愛し、そのために奔走し、再びそれをよみがえらせるという恋愛小説ではないだろうか?

芸術論をこのような解釈でみれば、当然のことのように思う。

「描写がいちいち生々しいんですよ」

「良いでしょう? 美和視点で体験談のように書きました。特に妹が姉に対する嫉妬のようなものでしょうか?」

叙述トリックを用いるアイデアも、そこから思いついたらしい。

「昂一がかりそめの恋人になってくれても、一言も愛の言葉はないんです。そこが辛いんですよねー」

「文佳さん、これを書いてる時辛かった?」

「はい。不眠不休だったんで」

「はぐらかさないで。あなた自身の感情です。一応あなたは病人だから、無理をさせてしまっているんじゃないかなって思ったんです」

辛かったといって欲しかった。こんな話を平常心で書いてほしくはなかった。それに、彼女自身のことを書いているように見える。それは、奏佳と、文佳と、慧そしてルミナリアだ。すべてを知った上で、これを揶揄しているようにどうしても思えてしまう。

「まさか。そんなこと、あるわけないじゃないですか。五百川さん、もしかして妬いてます?」

「妬いてる?」

「昴さんとのことを言い当てられたような、ひどい顔をしていますよ?」

「わたしが? 奏佳と昴くんとのあいだに入り込む隙なんてないですよ」

「本当に? 昴さんは、いま私に執心です。あなたを選ばずに、ね」

「それはあなたが患者で、昴くんが医者だからです」

「本当に? もしかしたらわたしが、娘のほうの和佳奈だとわかっているんじゃないですか? でも安心してください。二代目の和佳奈だって、昂一の眼中にはないんですから」

そうか、文佳はそのつもりで書いたのだな。昂一は慧くんではなく、昴くんなのだ。

「ない……んですか?」

「言ったでしょう? 昂一は和佳奈の音にしか興味が無いんです」

五百川は手を振りあげる、そして、何もできないままにそれを下ろす。

「叩きませんか?」

「叩きません。これはあなたの小説のなかの物語。暴力じゃなにも変わらないですから。ごめんなさい、感情的になって」

文佳は一度たりとも五百川を睨むことも悪意を向けることもなかったのだ。文佳は悪く無い。

「五百川さん、ともかくこれでおしまいです。習作ですから。次の指示を。もう百冊読んだんですし」

ほら、と百冊目を取り出した。

新書サイズの濃紺の本。どうしてこれを奏佳が百冊目に選んだのかはわからない。タイトルに惹かれたのか、それとももともと内容を知っていたのか。

ジェイムズ・ディプトリー・Jr作 【たったひとつの冴えたやりかた(The Only Neat Thing to Do)】。

二ヶ月半で文佳はあれだけの本を全部読んだのだ。それだけでもひとつの偉業だ。期限の三ヶ月はまもなく終わってしまう。

「わたしが小説家になれるかの登竜門なんです」

「そうですね。次が最後です。文学賞に出せる原稿を書きなさい。ジャンルは問いません」

「はい。楽しみです」

「とか言っていて、もうアイディアが在るんじゃないですか? もとから書きたい書きたいって言ってましたし」

これまで文佳は書きながら、添削をうけながらあれこれ書きたいジャンルや形式を話してきた。ラブストーリーや歴史小説まで。彼女の読書傾向が多岐にわたるために、いったい何を書くのか想像もつかない。

「もう構想は出来上がってます。百冊読んで、沢山の映画を見たから。少年少女が世界をつくる話を考えています」

「世界をつくる……!」

「はい。創世日記です。ルミって女の子のつくる、光の世界のファンタジー」

来た。ついに来た。鳥肌が立つ。声が上ずるのも、身体の震えも抑えることはできない

「た、タイトルは?」

「じゃじゃじゃーんっ! 【ルミナリア】」

「ありがとう、文佳さんっ」

思わず抱きしめてしまう。文佳はどうしてそうなっているのかわけもわからず、恥ずかしそうにやめてくださいと言ったのだった。


 執筆に疲れた文佳は自室で寝るといった。五百川は帰らずに、昴の帰りと水戸の来訪を待った。

「ついにルミナリアが始まるのか」

「ここまで来てしまうとは……」

「兄さんのやり方が正しいなんて……」

水戸と昴は一足早く祝杯をあげている。

「わたしも、ここまでうまくいくとは思いませんでした」

「それで、五百川はどうするつもりだ?」

「どうするつもり?」

「そう。ルミナリアの一巻が出来上がったら出版する気なんだろ?」

水戸がそう言うと、注目が五百川に集まる。

「それは、なんとも言えないですね」

「どうして? お前立ち……、俺たちの目的はルミナリアだろう?」

ルミナリアは既に二度のアニメ、実写映画化、コミカライズほか、いわゆるメディアミックスを多岐に繰り広げている。第一巻の上梓から五年、そのすべてを隠し通すのは出版業界では不可能だろう。文佳が蓋井天のことを知っていいのは、彼女がルミナリアの最終巻を書き上げてからでなければ意味は無い。

「もう二週間もすれば、ルミナリアが書き上がるだろう。そこで、俺たちは賭けに出ようかと考えている」

「兄さん、掛けってどういうことさ」

「忘れましたか? 金庫です。遺稿が入っているという、金庫」

あの金庫のパスワードを知っていたのは、記憶を無くす前の文佳と、蓋井天だけだ。

「その金庫の中に本当に最終回が入っているの?」

「知らん。しかし、この方法が最も現実的だ。」

「文佳がパスを思い出さなければ駄目でしょ!」

二十ケタのパスワード。ミスは一回限り。ルミナリアの一巻が書けたところで、文佳がその金庫を開けることができるのか、分の悪いかけである。

「こっちは劇団潰されたんだからな」

「それは、水戸くんが勝手に潰したんでしょう?」

「だから、わざわざ潰す必要はなかっただろうと」

うるせえ、と水戸はグラスを煽った。劇団のことを気にしていないわけないのだ。

「もし、ですよ。文佳が金庫を開けることができなかったらどうするつもりなんですか? 今度はルミナリアの冊数だけ騙し続けるんですか?」

「無理でしょうね」

もう蓋井天の遺稿出版スケジュールは進んでいる。発売がいつになろうとも、それは世に出されるつもりなのだ。

「まあ、方法はありますよ? 小説家志望なんて日本中にいる。その中に一人くらい蓋井天もルミナリアも知らないひとがいるでしょう?」

「また同じことをやる、というんですか?」

「そうだ。文佳くんは奏佳の妹だが、血が作家を創るわけじゃない。何を読み何を見たか。その一連のやり方はこっちにあるからな」

「文佳はどうするのさ」

明日目が覚めたその時から、ルミナリア執筆に入るだろう。今までの二ヶ月半、いや執筆終了までの三ヶ月がムダになると言うのだ。

「じゃあ、一冊くらい出してやればいい。それなりには面白いんだろう?」

「一冊くらいなら、まあいいかもしれませんね。奏佳の妹っていうのを全面に出したら売れると思います」

どうしてそんなに投げやりなのだろうか。文佳が何を書こうとどうでもいい、そんな感じに聞こえてくる。

「でも、妹だからって別居していたし、ほとんど面識はないんです。エッセイのひとつも書けないなんて……、そうだ、慧くん。義理の弟からみた蓋井天でエッセイ書きませんか?」

「書きません」

「こっちは潰す劇団ないんだが」

「知るか。もう借金の肩代わりはしてやらないからな」

水戸が勝手に潰したくせに。だいたい、劇団のメンバーがルミナリアのファンなら、それ専用に集まってくれるだろうから心配は杞憂に終わるだろう。ルミナリアの読者にいったいどれだけ演劇関係者がいると思っているのか。

「五百川さん、一つ質問いいですか?」

「なんですか?」

「ずっと気になっていたんです。あの日、記憶を失う前のずぶ濡れの文佳は、遺稿にはぼくたちが認めることのできない内容が書いてあると言いました。金庫の中から本当にあなたたちの認めることのできないものが出てきたらどうします?」

駄作と呼ばれるものかもしれない。もしかしたら、夢オチ、バッドエンド、その可能性を十七巻は含んでいたのだから、十分にありえるのだ。

「どんな内容でも、奏佳の遺志なら」

「遺志なら、ですか」

「見てみるまではわからないさ。でも、何かしらが出てくればいい。プロットでも歯抜けでも出てくることが大事だ」

欠けた何かが出てくれば、そこで文佳の出番だと昴は考えていた。なにせ、今もっとも蓋井天に近い作家なのだから。ノベライズにぴったり合致できるのは文佳だろう。

「本当に読めるのか心配になってきた」

「それは大丈夫」

「五百川、すごい自信だな」

文佳自信の口からルミナリアというタイトルを聞いた時、五百川は確信していた。ルミナリアの完成を、である。タイトなスケジュールを文佳は奏佳さんと同様にこなしてきたという。ルミナリアの執筆期間は一週間。奏佳さんはそれに耐えたのだから、文佳も耐えられるだろう、とのことだ。

「だから、どうしてそう言える? 結局妹は東雲じゃないんだぞ」

「ルミナリアのプロットを聞くに私達のルミナリアに違わないものなんです。それならば」

「プロットはプロットだ。お前もわかるだろう? 演出や順番の微妙な差異で物語は崩れ落ちる。味付け次第でカレーも肉じゃがにもシチューになるぞ」

三人の目は慧に向けられた。万全を持したいのだ。ずっと文佳についていた慧に視線が向けられるのは当然だろう。本当に百冊、奏佳さんとおなじペースで読んだのか? 映画は? 舞台は? BGMは? あらゆる条件をなるべく近づけたのだろうか? 食べ物はどうだ。ジャンクフードで蓋井天は出来上がらないぞ?

 なにせ、ルミナリアがここまで進んでいても一番の心配がある。瀬水仁という名前。蓋井天と由来はほとんど一緒だ。背水の陣、不退転の覚悟。なぜ文佳は不退転という言葉を選ばなかったのだろう。

「日記以外で、昴くんが言ったことはないの?」

「あ……、いや、なんでもない」

 昴は冗談で言ったことを、慧も思い出していた。

「それをやってください。奏佳がやって文佳さんがやっていないことを」

「待て、あれは」

「ダメです。何かは知らないけど、ルミナリアに必要なんでしょう?」

ルミナリアに必要な行為かどうか、といえばものすごく必要だ。ルミナリアはファンタジーであり、ラブ・ストーリーなのだ。その源泉になろうであろう蜜月が、文佳には足りないのだから。

「一線を超えた経験がルミナリアに影響を与えたこと。わたしも思い出しました。あのとき電話をくれましたよね?」

「おい、五百川。バカなことを」

「いいえ、そう。ルミナスとサイオンの、セカイと恋を天秤にかける描写のきっかけは昴くんとのセックスよ、って奏佳も言っていた」

そんな強要あるだろうか。昴と文佳は八つ違いだ。恋人同士ならともかくも、そうでないのに身体を重ねる意味があるのだろうか。しかし慧は思った。昴の立場はいまの自分だ。

「慧くん、さっさと押し倒しなさい」

「やめろ、慧」

「わたしが許可します」

「バカを言え。レイプを強要したところでルミナリアができるものか!」

「ふたりとも待って。まだ文佳は書いてないんだから、起きてから相談すればいいのに」

じゃあ、最後のチャンスね。夜這いにいけという五百川を無視して、ルミナリアの該当箇所を思い出す。ルミナスは初め、セカイよりもサイオンを選んでしまう。そして、一人では抱えきれないルミナスのセカイの危機を、サイオンとふたりで乗り越えるのだ。一巻の山場である。

「同意の上なら、いいんですか?」

「バカ、慧何を」

「僕が文佳と恋人同士になって、その、やったら別にいいってことですか?」

「無理をするんじゃない。お前は俺の代わりを演じているだけなんだ。文佳くんだって奏佳の」

「無理なんかしていない!」

慧は叫ぶ。そして、大人三人を思いっきり睨みつけた。

「ぼくは、記憶を無くす前の文佳が大好きだった。そして、今の、奏佳さんの代わりになっている文佳も好きだ。だから、ルミナリアができたら告白しようと思ってた」

順番が逆になっても構うものか。ルミナリアがどうなろうと知ったこっちゃない。

「あんたたちは知っているか? 文佳は蓋井天のお別れ会に来たんだ。奏佳さんの葬式には来れなかったからなんでしょうけど」

文佳は一番、姉の遺志を継いでいた。涙を見せず、フィーを失ったルミナスのように生きていた。その姿に慧は心打たれたのだ。

「今すぐ記憶が戻せるなら、それでも構わないですよ? あるいは記憶が戻ったら教えてくれるかもしれないんだから」

でも、二ヶ月半、彼女の記憶は戻らない。昴も治療は続けていたが、どうにもならないと考え始めていた。

「それは難しいんでしょう兄さん。ルミナリアの最終巻は、文佳自信も望んでいました。まず、ルミナリアを文佳が書き上げるまで待ちましょう。いや、そのためにやれることならやってやろうじゃないですか」

「やめろ慧。五百川さんのエゴに付き合うことはない」

「エゴですって?」

あんたの口からその言葉が出るとはね。自分の芸術を潰してまでルミナリアを求める水戸のエゴ。自分の担当作が何よりもな五百川のエゴ。亡くなった恋人を求め続ける昴のエゴ。その犠牲者が慧と文佳じゃないか。ただ素直に従っている文佳という人間のことを少しでも考えたことがあるのか?

「それはお前だってそうだ。ルミナリアが読みたいんじゃないのか?」

「読みたいですよ。でも、文佳を犯してまで読みたいって変でしょ。文佳の金庫破りの罪を考えたことはありますか? なぜ文佳が奏佳さんの家に忍び込んだのかわかりますか? どうして文佳だけが金庫を開けることができたか考えたことは在るんですか?」

「それは、生前姉妹のつながりがあれば」

あったのであれば、昴や五百川が知っていたはずだ。だが、その話を二人は一切知らなかった。

「直接会うことも許されなかった姉妹ですよ。偉大な作家と分かっていたのに、姉妹じゃなくて一読者としてしか振る舞えなかったんです。その不憫な妹に姉の重圧を押し付けるあんたたちのエゴが、気に食わない」

「不憫と決めつけているのはあんたのエゴだろ? 少なくとも、今の妹はその重厚を受けてないんだから」

そうだよ。ぼくだってエゴなんだ。もう好きにさせてくれ、と思う。

「ああ、じゃあ、もう押し倒してやります。それでいいじゃないですか」

「慧!」

「兄さん、教えてくれ。文佳が記憶を取り戻したら、記憶をなくしていた間の文佳の記憶はどうなる?」

 記憶喪失障害には様々なパターンがある。それが解消された時、セーブポイントに戻されたような現象が起きるのだ。つまり、睡眠薬を飲んだ直後の文佳に戻される。

「じゃあ何をしてもいいと?」

「仮にだよ、兄さん。【火の鳥】の【現代編】が読めるならいくら出す?」

「現代編か? 少なくない金でも出すだろうね」

「兄さんの知らない人が十人死ぬとしたら?」

「それは、いや、駄目だ」

一瞬昴の倫理観が由来だ。じゃあ、死ぬのが一人だったら? あるいは死ぬのが死刑囚だったら? 問いかけるたびに昴の重心がぐらぐらするのが手に取るようにわかる。

「優れた芸術のためなら個人なんて気にしなくていいんでしょ? 文佳は小説家になれる。僕らはルミナリアが読める。僕は多少なりともいい思いができる。それでいいでしょ?」

「よく決断した。最終巻の後付に名前くらいなら載せてあげますよ」

そりゃあ、大変な名誉です。昴からグラスを奪い取ると、ワインを一気にあおる。渋さに慣れないが、このクラクラがないとエゴに押しつぶされそうだ。

「お前、勝手がすぎるぞ」

「好きなだけ言ってください。でもルミナリアの最終巻が出たら、私達は正しかったって思うでしょう」

「なあ、五百川、水戸よ。おれたちは何をしてきたんだろうな。金庫の中身、奏佳からの答えが入っているように思うよ。ルミナリアの答えも」

五百川と水戸は数分黙ると、帰り支度を始めた。

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