エゴ3

五日後、文佳は退院し、わが家へとやってきた。かつて奏佳さんが使っていた寝室を片づけて、文佳が暮らせるようにした。鍵はかけられるし、そこまで心配することもあるまい。

「これ、五百川さんからだ」

律儀にファイリングされた書類。そこには蓋井天の百冊がリストアップされている。

「本は今日知進堂に届くらしい。十冊くらい取りに行ってくれ」

「お金は?」

「もう五百川さんが払ったらしい」

百冊分、いったいいくらになるのだろう。シリーズものも一冊というカウントだから、かなり値は膨らむはずだ。あとで店のおじさんに聞いてみようと思う。

「このリスト通りにすれば?」

「いや、待ってくれ」

昴はカバンから大学ノートを取り出した。

「これは、奏佳がつけていた日記だ。読書修行の三か月分だけ抜き出してある。これに沿ってほしい」

ぱらぱらとめくると、かなり細かく書き込んである。一行目には、『まず、堕落することが作家への第一歩だと思った』と書いてあり、坂口安吾の【堕落論】を読んだことについて事細かに説明されている。

「一日一冊じゃ足りないからな、よろしく頼む」

「見張っていればいいんでしょう? わかったよ」

昴が出かけると、兄の本棚から安吾を取り出してくる。文佳はリビングのソファでコーヒーを飲みながら手帳にあれこれ書き込んでいた。

「五百川さんが、ここに予定を書き込んでくれたから」

新しい手帳を渡されたようだった。しかし、どうにも違和感を感じる。

「ちょっと、見せてもらってもいい?」

渡された手帳には慧がもらったノートと同じ内容がびっしり書いてあった。あらかじめの予定をこなすことが大切だと何度も言われたのか、それを実践する気でいるようだった。奏佳さんの日記のように、感想を書き込めるスペースも多く用意されている。

 しかし。この手帳がどうにもおかしいことに慧は気付いていなかった。その違和感の正体は、表紙を閉じたときにやってくる。

「二〇〇九年の手帳?」

「何? どうしたの?」

いや待て、今は二〇一五年だ。どうして六年も前の手帳を持たせた? 慧は五百川に電話をする。

「はい、五百川です。慧君ですね?」

待ってました、とばかり、ツーコールで電話を受けた。

「文佳に渡した手帳、二〇〇九年なのはわざとですか?」

「二〇一五年と曜日があっています。それに、三か月分だけなんだからそこまで気にしなくてもいいんじゃないですか」

 確かに曜日はあっている。どちらの年もうるう年ではないから、あまり影響もない。

「五百川さん、文佳に新聞やネット、テレビの類一切禁止にしたそうですね?」

「はい、そうですよ。余計な情報が入らないほうがインスピレーションには良いので」

いや、それは言い訳だろう。時事情報だけでなく、五百川はもっと大切な何かを隠すように指示しているのだから。

「二〇〇九年の今ごろ、奏佳さんは読書修行をしていたんですよね?」

「そうですよ。あの時とまるっきり環境を同じくしたかったので」

「もしかして、ですが、文佳には今が二〇〇九年だと言ったのではないですか?」

カレンダーの類は一切五百川が回収したし、いつの間にかスマートホンは折り畳み式の携帯電話に変わっていた。慧の携帯も古いものを一時的に使えと言われたし、おかしいことがいくつもある。

「そうだとして、何か不都合でもありますか? すべてはあの子の治療のためです」

素晴らしい大義名分だ。腹が立つのは、昴もそれに賛同していることである。

「仮にそうだとしても」

「三か月待ってみるくらいはダメなんですか?」

「三か月ですか?」

「実際、百シリーズ、二百冊近くを読んで、映画を見て展覧会に行ってコンサートを聴いていたら、今が何年何月かなんて気にならなくなるんですよ? だから、三か月隠してもいいのではないですか?」

ダメだとは言えず、電話を切った。一時間ほど外に出て来るといい、慧は知進堂に暇つぶしに出かけた。何度かに分ける必要はあるが、文佳の読む本を持って帰らなくてはならない。


黒井邸から自転車で十分ほど、知進堂は中規模な売り場面積を持つ町の本屋さんである。新幹線の終点の水都駅には超大型書店が入っていて、慧の生活圏内にそれがあっても知進堂に足を運んでしまう。必要十分な本屋が一番居心地がいいのだ。

「いらっしゃい、黒井くん。だいたいもうそろっているけど、持っていくかい?」

顔なじみの店主が店に入るなり声をかけてきた。

「あー、いきなり全部は無理ですから、少しずつ持って帰ろうかと思います」

「そう」

 帰りに持って帰れるだけというと、店主はレジに並ぶ客の対応にもどって行った。ここの店主は東雲奏佳が蓋井天であることを知る数少ない一人だ。地元作家だからと、彼女が亡くなってからも文芸コーナーの一角にはルミナリア専用の棚が設けられている。そのシリーズ第一巻だけは蓋井天のサインが入っている。五百川公認の、公式ショップみたいなものだ。そもそもこの知進堂書店をモデルにした本屋がルミナリアの中にも出て来るため、地元のファンはここが作品の舞台となる聖地のひとつであることを知っていた。

 慧は一通り新刊を物色すると、レジに立ち寄る。午前中のこの時間、かなり店内業務は暇みたいであった。

「どこまで持っていきます?」

「自転車ですから、せいぜい十五冊までかなあ」

「黒井さんがよければ家まで配達しますよ?」

店主はポケットから車のキーを取り出した。


「五百川さんからいきなりリストを渡されたときは驚きましたよ。百冊も、どうしていきなり、って」

「でしょうね。大変でしたか?」

配達に使うという商用のバンを二回に分ければ、百七十二冊すべて運べると聞いて、慧は積み込みの手伝いをしていた。

「でも、百七十二冊全部うちで買ってくれるというのだから、無理やりあちこちにお願いしましたよ。お得意様のお願いは聞かないと」

文庫本、単行本、新書、図鑑、絵本、雑誌のバックナンバー、ムック、愛蔵版コミックス。奏佳さんの読書傾向よろしく、雑多な本を一冊一冊車に積み込んでいく。

「これだけでいったいいくらになったんですか?」

店主の言った金額は、慧の思っていた価格よりも三十万円ばかり高いものだった。

「ひとつだけ変な指定があったんですよ。すべて、二〇〇九年の五月以前の版でお願いします、って。何かきいています?」

「ああ、それは……、えっと」

どう説明すればよいのかわからなかったので、話を濁すしかなかった。曰く、初版の必要がある本や雑誌類は時間がないためネットオークションを使わざるを得ないこともあり、必要経費として値段が跳ね上がってしまったらしい。

「これらすべて、蓋井先生の百冊ですよね。なにかの資料にするんですか?」

「そんな感じです」

百冊近くをバンに詰め込むと、自転車で先に家に戻ることにした。蓋井天の創作の原点になっているのであれば、自分も読んでみる価値があるかもしれない、と慧は思った。

本を文佳の部屋に移し終わると、もう日が暮れていた。これだけの量を三か月で読むとなると、改めて過酷であると思う。まったく、五百川も昴も少しは手伝ってほしい。

この一日で文佳は四冊目に突入した。


「お茶でも飲む?」

本を読み続ける相手に話しかけるのはタイミングが重要である。

「もうそんなに経ちましたか?」

今朝の読書開始からまだ一時間も経っていなかった。しかし黙々と本を読み続ける文佳と二人ではどうも何か落ち着かないのだ。

「コーヒーのほうがよかったかな?」

「お構いなく……。もしかして、そう五百川さんに言われていますか?」

適当にそうだよ、という。お言葉に甘えて、お願いします。そう返事が来るとこちらもすこし安心できた。

 慧がコーヒーを入れる時間を文佳は好んでいることをこの数日で学んでいた。手際よくミルで豆を挽き、ドリッパーにフィルターをセットしてお湯を沸かす。ちらちら、と視線がこちらにこぼれているのがわかるのだ。そして豆にお湯を注いだとき、決まって文佳は深く息を吸う。コーヒーの一番良い香りを彼女が楽しみにしているのだ。

「どうぞ」

「ありがとう」

「それ、おもしろい?」

この間、決してページを繰る手は止まらない。厚めの文庫本だった。慧は決して手に取ることのない本だ。

「面白いとかは、ないですね。これを読み終わったら次はどうすればいいんですか?」

奏佳さんの日記では、この本は奇書だとか呼ばれているから読んではみた。意味は分からない。と書いてある。似たような感想を姉妹で抱くものだと思ったが、これはそういう感想を皆抱くものなのかもしれない。

「えっとね、午後から演劇を見に行くことになってる……演劇に行くのか!?」

手帳を読み上げて驚いた。演劇? 今日!? 文佳と?

「先生が、慧君が連れて行ってくれるから、って言っていました。楽しみです」

あいつめ、また適当なことを言って。

「適当なこと?」

「いや、なんでもないよ。マイペースで読んで、終わったら出かけようか」

 急いでコーヒーを飲み下す。そのまま自室に向かい、兄に電話を掛けた。

 なかなか出てくれない。着信音はなっているのだが、気が付かないのだろうか?

「はい」

出た。その声から、不機嫌なことがうかがえる。

「もしもし、兄さん?」

「仕事中に電話してくるなと言っているだろうが!」

「もう文佳が十七冊目に入っている」

十七冊目が何なのか、昴はわかっていない。

「次は舞台を見に行くってなってるんだ」

舞台、と聞いてああ、と思い出したようで、

「もうそこまで行ったか。早いな」

「何も準備してないよ! どうすればいいの?」

日記に書いてあるだろう? とこともなげに言った。

「『五月二十八日、黒井君に誘われて演劇を見に行く。生の舞台をあそこまで近くで見たことはなく、呼吸と温度が不思議に感じられた。演技とはいえ、無機質さが印象的。鴎外:【ヰタ・セクスアリス】、藤子F:【カンビュセスの籤】』そんなこと言われてもさ。どうしろって!」

「懐かしいな。あの時奏佳は森鴎外なんて読んでたのか」

そんなことはどうでもいい。問題は見に行く演劇の情報がなさすぎることだ。

「何を見に行けばいいのさ。日記には書いてないし、ぼくが誘って見に行ける公演なんてないからね?」

みなと劇場、県民ホール、その他中小ホールなど、水都市内の公演を調べてみたがこの時間にでかけて、演劇もミュージカルもすぐに見れるものはなさそうだった。品川の劇団四季じゃないだろうし、プロの劇団をそこまで知っているわけでもない。

「プロじゃねえ。学内の演劇サークルのアマチュア公演だ」

「そうなの?」

水都大に演劇サークルなんてあったっけ。

「知り合いが主催でな。えらくカルチャーショックを受けたらしいから、どうにかこの公演は見せてやりたい。いや、見なければならない」

「それならもっと詳しく指示をちょうだいよ」

「お前たち、何時に家を出られる?」

このままだと十六時か、遅くても十七時になるだろう。慧はともかく文佳の外出には時間がかかるからだ。

「じゃあ十八時に、大学北の公民館だ。詳しくはメールしよう」

「わかった。けど、その劇大丈夫なの?」

昴の知り合いというだけで、少し心配になってきたのだ。

「五年前は学内でやったことなんだろ? 日記に書いてある」

「その時の主催がいまだに劇団を続けているんだ。メンバーも一緒で、その連中がやってくれる運びになっている。奏佳と同じ劇を文佳くんにみせることになるな」

それが心配なのだ。昴も五百川と同じことをしている自覚はあるのだろうか。

「あの劇は奏佳に、ルミナリアに影響を大きく与えている。だから頼むぞ」

「……わかったよ」

「劇が終わるくらいにはそっちにいけるから。じゃあな」

「まって、この劇を見ないとどうなるか、医者の立場で何かないの?」

「……バカ言え。切るぞ」

一方的に電話が切られる。演劇なんて、何年も見ていないが蓋井天にそこまで大きな影響を与える演劇なんてあるものか、と思う。しかも素人の公演なのだ。水都で有名な素人演劇があるなんて聞いたこともないし、その影響とやらが精神的でも肉体的でも、文佳に苦痛を与えるものだったとしたら、そこまでの価値なんてないんじゃないか?

「なんて、考えすぎかもしれない」

自分でそう決めつけるしかなかった。


 夕方十八時。指定通り地区公民館に二人はやってきた。なるべく大学の敷地の中を通ってきたので、今がいったい何年の何月何日なのか、それにまつわるものを避けてくることができた。外出一つでここまで面倒ならば演劇なんて見なければいいのに、と思う。

「ここみだいた」

「公民館で演劇なんてできるの……?」

昴はここに来れば見れるというのだ。半信半疑ではあった。受付も何もないのだから。

「劇を見に来られた方ですか?」

ホールのドアを開けて、大柄な男が出てきた。ジャージ姿で運動部の大学生に見える。

「はい。そうです。東雲といいます」

「よかった、いま開場したところなんです。ささ、中へ」

大男の態度はとても紳士的で、受付としては見た目以外百点の対応だった。劇場内案内は別のジャージの部員? が出てきて文佳を連れていく。

「連れの人」

慧が呼ばれる。声色が地声に変わっていた。さすが演劇部。

「はい?」

「黒井の弟だな? 話は黒井から聞いている。よくは知らないが、蓋井天に関することらしいな?」

兄がどこまで話したのか。この男はどこまで知っているのか。

「そうです。どこまでご存じなのですか?」

「俺はただ、あの時の【少年期】を見せろ、と言われただけでね」

少年期、とは劇のタイトルだろう。本当にそれだけかは知らないが、不機嫌そうだ。

「なんか、すみません」

「弟が誤ることはない。しかし、どうしても「あのときの少年期」じゃないとダメなのか?」

どういうことだろう。あの時と今では違うというのだろうか?

「六年も前の劇だ。一昨年再演もしていてな、当時は俺たちは素人の学生だったんだ。今も全然プロじゃなが、少しは上達している、と思っている。脚本もかなり手直ししているんだ。見てもらうなら、完成度の高いほうがいいだろう」

「ダメですね。兄もそういっていると思いますが」

「ああ、黒井もそういっていた」

「蓋井天先生は当時の少年期を見て影響を受けたそうです。同じ劇じゃないと。それに、ぼくもその内容には興味があります」

「せめてセリフ回しだけでも」

 ダメなんです、と言い放つ。大男の表情がさらに厳しくなった。

「それは、別の機会にさせていただけませんか?」

「……客はお前たち二人だけだ。まあ、楽しんでみてくれ」

そういうと大男は引っ込んだ。開演のブザーが鳴る。慧は急いで会場に飛び込んだ。座席は三十もないだろう。最前列中央に文佳は腰かけている。その隣に座ると同時、大男が前に出てきた。照明ががらりと雰囲気を変えていく。

「本日は水都大学演劇サークル「ストリングス」公演、【少年期】にご来場いただきましてありがとうございます。本公演はおよそ八十分の上演を予定しています。少し不思議なノスタルジーをどうぞ、お楽しみください。」

喜んで手をたたく文佳。慧もそれに倣った。

 幕が上がる……。


「どうだった?」

「演劇ってすごいね!」

「ぼくも驚いた」

本とはまるで違う。音、光、そして表情が見え、役者たちの熱が伝わってくる。慧と文佳の三十センチ目前で繰り広げられたファンタジーは八十分をあっというまに飛び越えたのだった。

「いかがでした?」

どや顔の大男がやってきた。この人は代表か? それとも脚本家だろうか?

「面白かった」

「なんというか、えーと、言葉の掛け合いが本とか、ドラマと違って感動しました!」

おもしろくなかったのだろうか? 慧にしてみればとても楽しめたのだが。

「もっとストーリーとか、そういう感想を聞きたいんですが」

「もちろん、よくできていたとは思います。とっても上手でたくさん笑いました。最後は泣いちゃったし」

前半、文佳は必死で笑いをこらえていた。しかし慧がつい笑ってしまうと、気にせずおなかをおさえて笑うようになった。そしてクライマックス、じっと舞台を見る文佳から慧は目を離せなかった。静かに涙を流す文佳は、この劇からいったい何を感じていたのだろう。

「でも、まだまだこのお話は洗練できると思うんです」

「そりゃそうだ」

大男がぼそっと言う。

「え?」

「いえ、なんでもないですよ。そういえば、自己紹介していませんでしたね」

水戸(みと)崇(たかし)と大男は名乗った。劇団の主宰で、脚本も書いているらしい。慧と文佳のことは昴から聞いているといった。

「わたし、今小説家になろうと特訓をしているんです」

「小説家。そりゃあすげえな。うちの脚本書いてみるか? なんてな」

水戸は簡単に言うが、小説家修行の邪魔になるのでやめてほしい。

「いいんですか!!」

「待って、そんな時間ないでしょ!?」

やはり、文佳は書いてみたいと言い出した。小説を書く人は戯曲、いわゆる台本を書きたがることが多い。文芸サークルでもそんな人間は何人もいた。しかし、読ませる文章と見せるたたき台に過ぎない戯曲では、性質はまったく違う。

「編集さんには五本書けって言われたでしょう? そのうちの一本を戯曲にしてもいいんじゃないかな?」

「それに、水戸さんにも迷惑じゃないか」

「駄目?」

文佳は水戸のほうを向いて尋ねた。ずるい聞き方をする。

「駄目じゃないが、採用するかは別だぜ?」

「お眼鏡にかなう作品を書けるよう頑張ってみます!」

 水戸さんがいいっていうなら……。水戸はたいして驚くこともなく、今日の劇の台本を参考に手渡した。さてはこの流れ、すべて仕組まれていたな? 慧はやっと気が付いた。

「でも、五百川さんと兄さんにはきちんというんだぞ?」

「わかってる。今日はありがとうございました。台本も。早速、あれこれ書いてみようと思います」

「連絡はパンフに書いてあるから、そこに」

何度もお辞儀をすると、先に帰ると言って、早く書きたいとばかりに速足で公民館を出た。

「蓋井天もこうだったんですか?」

慧は水戸に尋ねた。

「おどろいたな。生き写しだよ。会話そのものがデジャヴだった」

「西月、いや、東雲文佳。東雲奏佳の妹ですから」

文佳が台本を書くというまでの流れそのものをやはり水戸はわかっていたらしい。

「六年前には何があったんですか?」

「あのとき、黒井と東雲奏佳は未熟な、今日のとまったく同じ【少年期】を見た。そして感激した東雲は脚本を書きたいといった。数日で書いてきたさ」

蓋井天の速筆は有名だが、デビュー前からそうだったとは。

「脚本は現存しない。あれがたぶん、蓋井天デビューのきっかけだな」

「きっかけ? それってどういうことです」

水戸は少しだけ引っかかる言い方をした。

「あまりうれしいことじゃない。でもきっかけだ」

「うれしくないって、蓋井天の処女作でしょ?」

なぜそれが発表されていないのか、不思議でたまらない。ファンからしてみたら、幻の原稿。喉から手が出るほどにほしい人も多いはず。残っていないといっても、どこかに……。

「……あんたにはどのみち話すことになるだろうからな。六年前、東雲奏佳は戯曲を一本書いてきた。その物珍しさに俺たちは飛びついた。自分たちの行き詰まりを感じていたころだったんでな。半ばすがるようにその戯曲を劇として上演したんだ。そして、失敗した」

「失敗した?」

蓋井天の処女作は失敗だった?

「演出は俺がやった。劇団自体の力不足だ。内部分裂し、サークルから独立したきっかけでもあるんだ」

その失敗が蓋井天デビューのきっかけだという。上演された演劇は非難轟々、もう二度と戯曲には手を出さないとまで奏佳さんは言った。

「その二か月後、ルミナリアが書きあがったんだ」

知らなった。ルミナリアそのものが処女作だと思っていた。

「蓋井天のペンネームも、ここからきているんだぜ」

「ペンネームが?」

「失敗した公演の打ち上げで、東雲は言った。今後は脚本は書かない。そして不退転の覚悟で本を書く。世話になった、と」

不退転の覚悟だから、蓋井天。なんとまあ、単純な名前だろう。

「俺たちはそれでももう一本と頼もうとしたんだが、黒井に止められた。トラウマをえぐらないでくれ、って」

ルミナリアのルーツはここにあったのか、と驚いていた。そう考えると、ルミナリアは文章の読ませ方もうまいが、場面場面の見せ方が映画のようだと誰かが批評していたように思える。

「なるべくお客さんの楽しめるものを作ろうと今までやってきたんだが、今回はあえてその失敗の再現に協力することになったんだ」

「兄に頼まれて?」

「黒井と、五百川の二人にだ」

どうやら、五百川とも面識があるらしい。

「でもどうしてそんなバカなことに手を貸すんです?」

バカなこと、水戸もわかっているだろう。時間をかけて、自分のトラウマもえぐるのだから。

「なにせ、俺たちみんなルミナリアのファンでね。最終巻が読めるならなんでもするさ」


「次の本持ってきて!」

公民館から文佳はまっすぐ家にもどると、ほかのすべてを放棄して本を読み始めた。

「もう夜中の三時だよ? 四冊ぶっ通しで読んでいるんだからそろそろ寝たほうが……」

夕食には全く手を付けていない。コーヒーを何杯もがぶ飲みしていた。

「いいから次! いまのわたしには足りないの! 上質なファンタジーが!」

「ファンタジーって言っても次の本はSFだよ? しかも上下分冊の単行本だから……」

これをいま文佳が読み始めてしまうと、正午くらいまでは一気に読んでしまうだろう。

「SFなんてそれなりにファンタジーだからオッケー。はやく! はりー!」

この厚みと物々しさからは「それなり」を感じないが、仕方ない。

「ぼくは寝るから、ほどほどにね?」

文佳は大あくびをしながら返事をする。よかった。このままならあと三十分もしないで眠るだろう。その頃に毛布を掛けに来よう。慧は自室に戻ると日記を取り出した。

現在、百冊のうち二十二冊目である。思ったよりもかなりのハイペースだ。つきあうこっちも大変である。文佳もそうだが、奏佳さんはいったい何なのだろうか。このハイペースで本を読み映画を見て、演劇にも行っていた。そのとき奏佳さんは学生だったのだ。いつ学校に行っていたのだろうか。

 こんな時間に着信である。昼夜に無頓着な職業なんて医者か編集者くらいだろう。

「はい」

「劇はどうだった?」

医者のほうだった。

「行ったよ。貸し切りだった。どうせ兄さんが全部やったんでしょ?」

「そうだ。俺は行った当事者だからな。それで、台本を書くことになっただろう? 失敗するための台本」

やはり、昴もこれが狙いでやっていたのか。

「そう。ひどいじゃないか。失敗が分かっている公演なんて」

「失敗するとは限らないけどな」

いくら似ているとはいえ、文佳が何を書くのかはわからないからだ。

「文佳なら読んでるよ。一心不乱に」

「それでいい。とにかくインプットだ。BGMもかけてやっているか?」

BGM? 音楽が必要なのか?

「指示に書いてなかったか? あの日は忘れもしない、カルミナを聞いた日だ。【カルミナ・ブラーナ】を掛けろ」

「カルミナ……、何?」

「カルミナ・ブラーナだ。CDならリビングのコンポに入れてあるから、再生すればいい」

「流さなきゃダメなの?」

「ああ……、いや、朝になってからにしてくれ。うるさいから」

電話の向こうでサイレンが聞こえた。夜勤の最中なのだろう。慧はじゃあ、と一言言って電話を切った。

 リビングにもどる。案の定、文佳は寝息を立てていた。持って行った毛布を掛けると、手にした本にしおりを挟みテーブルに置いた。その寝顔は奏佳さんには似ても似つかなかった。

 慧も疲れていた。テーブルの上を片づけると、そのままガラスの天板に身を預ける。冷たくて、気もち……、良い……。


 音圧で目が覚めた。

 覚醒する意識の中、ああ、これがカルミナ・ブラーナかと理解した。

「おはよう、慧くん」

「文佳?」

「五百川さんが電話くれて、コンポの曲聞いてみてね、って」

壁の時計を見ると、十時を過ぎていた。文佳はやはり本を読み続けている。

「待って、朝ごはん作るから」

身体がだるい。荘厳な音楽が頭をガンガンと揺らしてくる。

「朝ごはんなら、そこに」

テーブルを文佳は指さした。皿の上に、焼いたウィンナーと、スクランブルエッグと、作り置きのポテトサラダ。トースターには食パンが入っていた。あとは焼くだけだ。

「これは?」

「わたしが」

文佳が作ったらしい。文佳の前にも同じ皿が置いてあった。手は、つけてない。

「慧君、コーヒー入れてくれるかな?」

 どうやら、慧のコーヒーがお気に入りになったようだ。


オペラのようにど派手な音楽のなかでの朝食は、なかなか乙なものだった。文佳は食べ終わるやいなや、再び本の世界に没頭し始める。慧は午後まで大学に行かなくてはならない。最低限の単位を落とすわけには行かなかったからだ。本来、文佳も行かなくてはならないはずなのだが、昴が半ば職権乱用でドクターストップをかけている。特に調べもせず、いうがままに文佳は休学扱いになっていた。

週に二日ばかり講義に顔を出すが、そこではおなじ文芸サークルの雨宮と顔を合わせる次第だ。

「おい慧」

いつになく上から目線で声をかけてくる。

「昨晩、お前何してた?」

「何って、特にこれといったことはしていないぞ」

「じゃあ、この写真を見てどう言い訳するんだ?」

差し出したスマートホンには、昨晩劇を見に行く時の慧と文佳がばっちり写っていた。

「なんでお前、西月さんと一緒にいたんだよ?」

「あー……、それは」

面倒な場面を見られてしまったものだ。絶対にデートなどと勘違いしている。

「急病で入院した西月文佳と何をしていた!」

慧が困る様子を見て、松田が加わってきた。更に面倒である。文芸サークルとはかくもこういう人間が集うものだ。

「あず……、西月文佳は兄さんの患者でな」

「お前の兄さん医者だっけ」

「そう。リハビリに付き合っていただけだ」

サークル内では、文佳は事故に会ったとだけ知らされている。慧がそれを伝えに言って、自分と文佳は当分休部すると言っておいた。連中がその後どのような尾ひれをつけたかは知らないが、蓋井天が絡んでいることだとは誰も察することはないだろう。

「リハビリねえ。リハビリってのはデートも含めるのか?」

「デートじゃない。放っておいてくれ」

終始二人がニヤニヤしながらからかってくるので、早く家に戻りたかった。そもそもこいつらの知っている西月文佳は今この世にいない。いるのは、東雲文佳なのだから。


 憂鬱な昼下がりの講義を終えて帰路につくと、五百川からメールが入っていた。「その後どうですか?」。文佳が脚本を書こうとしていることを聞いたのだろう。

「もしもし、今良いですか?」

早速電話をかける。すぐに五百川は受けてくれた。

「文佳さんはどうですか?」

「昨日劇を見に行ってから、一心不乱に読んでいました。たぶん、今頃書いているんじゃないか、と」

昼を食べている時に、自宅から電話が来た。わたし、部屋にこもりますとだけ言っていたので、おそらく台本を書き始めたのだろう。奏佳さんの日記によれば、あのSFを読み終えた直後から戯曲にとりかかっている。

「ついに書き始めたのね」

「奏佳さんの時もそうでしたか?」

「あの時は、十時間以上ぶっ通しで書き続けたらしいと聞いています」

十時間も! 兄は止めなかったのだろうか。それとも奏佳さんは自宅で書いていたのだろうか?

「今日明日中には台本が書き上がると思います。あの子がそれだけ書けるならば、ですが」

「やばくなったら止めるべきですか?」

部屋にこもってぶっ通しで十時間も書かれては、文佳の身体は大変なことになる。倒れるかもしれない。

「そこまでヤワじゃないと思いますよ? 慧くんは小説か何かを書いたことはありませんか?」

「無いわけではないですが」

ある。なにせ文芸サークルにいるのだ。いくつも書こうとして、途中で諦めているが……。

「それならわかるでしょう? 書くことを止めるのは自分自身でなきゃいけないってことを」

そう言うと五百川は電話を切った。慧にできることは、絶妙のタイミングで飲み物をもっていくこと。それで十分だろう。

 家に戻ると案の定文佳は部屋にこもり、キーボードの打鍵音が途切れることなく廊下にまで聞こえてきていた。


 翌朝は九時前から学校に行かなくてはならない。温めるだけの朝食をテーブルに用意して登校する。結局、昨晩文佳は慧の前に姿を現すことはなく、寝る前も起きてからもカタカタと台本を書いていたようだ。

 雨宮と松田のからかいを適当に振り払って帰宅すると、玄関の鍵が開いている。昴が帰宅しているものとばかり思っていたが、靴はなかった。代わりに、見覚えのあるパンプスが揃えてある。

「五百川さん、いらしてたんですか」

「慧くん、こんにちは」

「おかえりなさい」

一日半ぶりに文佳がリビングに降りてきていた。五百川の対応は文佳がしてくれたのだろう。

「すみません、前もって言ってくれたら大学抜けてきたのに」

「構いません。文佳さんのご招待ですから」

文佳が?

「はい。黒井先生はお仕事で抜けられないそうでしたけど、五百川さんはすぐに行きますって」

聞けば、慧が戻るつい数分前に五百川は立ち寄ったという。いまコーヒーを入れますから、と慧がキッチンに行く。

「文佳さん、進捗はいかがですか?」

慧がカップを運んでくと、五百川が本題を切り出した。

「そのことなんですが、書けました」

文佳は待っていましたとばかりにおおきな茶封筒を取り出した。先日の病院で書いた原稿と同じパターンだ。八十枚程度の紙の束。これを一晩で……、すごい集中力だ。

「もう書けちゃったんですか?」

「わたしのきちんとした処女作です。なんだかペースが上がってとても捗ったんです」

「すごいじゃないか」

この分量を書けることだけで、慧は感心する。

「でも、脚本なんて書いたことなくて。読めたものかはわかりません」

「そんなことは関係ないよ。文佳が書きたくて書いたものなんだから」

「そうですよ。書いたことが大事です。これ、読んでいいですか?」

五百川が封筒に手を伸ばすと、文佳ははにかんだような顔ではいと言った。

「慧くん、まだ読んでないよね?」

「はい。ぼくもいま初めて見たので」

「だよね。先に読んで」

さあ、というと文佳は笑顔になる。

「いいでしょう? 文佳さん」

「はい」

文佳は封筒を手に取り、慧に渡す。受け取った時、まだ少し封筒を強く握っていた。読まれることが嬉しいような、でも恥ずかしいような。その気持はなんとなくわかる。

「じゃあ、読むよ」

題名、【わたしが不思議】。わたしが不思議? 内容がまるで見えないタイトルである。

それを見ると、五百川がほう、と唸る。

「どうしてこの題名に?」

「ストリングスの劇の名前が【少年期】でした。少年期は【宇宙小戦争(リトルスターウォーズ)】のエンディング曲で、次回公演に向けての脚本なので、このタイトルしかないかなー、って」

リトルスターウォーズ? どこかで聞いたことがないでもない名前だ。

「ドラえもん映画ですよ。ストリングスの公演が、旗揚げが【ポケットの中に】で、二作目が【心をゆらして】。【だからみんなで】【海はぼくらと】【風のマジカル】って続いてきているんです。パンフレットにそう書いてありました。だから、次の公演も武田鉄矢御大の歌からタイトルを取るだろうね、っと思って」

 どこでそんなマニアックなことを知ったのだろう。もともとのマニアなのだろうか? あとから聞いたら、奏佳さんもドラえもんマニアらしい。

「そうなんだ。だからあのタイトルだったんだ」

「内容とタイトルとの乖離はけっこうあるみたいですね」

「面白い法則性ですよね。はやく【時の旅人】とか、【夢のゆくえ】とか見てみたい」

文佳が大あくびする。昨日の朝から寝てないのだ。無理もない。

「すみません、ぜんぜん寝ていなくて」

「ゆっくり休んでください。お疲れ様」

文佳は寝室にふらふらと向かった。慧は五百川に、ストリングスは本当はどこまでの公演を行っているのかを聞く。

「次の公演が夢の人、よ」

「どの映画なんですか?」

「【のび太の夢幻三剣士】。十五作目ね」

慧はようやく脚本を読み始めた。台本を読むことはほとんどないため、これはこれで新鮮だ。ただし、蓋井天の作品の魅力は地の文とキャラクターであり、セリフと小説では地の文にあたるト書き、しかも昨日演じたメンバーで上演する前提となるとその片鱗があるのかどうかはわからない。およそ一日で書いたとは思えない文章量で、内容はヒロインが自分のドッペルゲンガーを追い求める不思議な話。

 読み始めたら、小説だろうと戯曲だろうと関係ない。そう思った。ページをめくる手が止まらない。この先どうなるの? ドッペルゲンガーの正体はいったい何? 気になることが山積みになり、そしてそれが一つ一つ消えてゆく。


「どうだった? 慧くん一心不乱に読んでいたけど」

最後の行、終幕の二文字を読み終えるタイミングで五百川が声をかける。

「どのくらい経ちました?」

「一時間半」

「一時間半!?」

あまりに夢中になり、五百川がいるのを完全に忘れて読みふけってしまった。確か、ずっとそこに座っていたから暇にさせてしまったのではないだろうか。

「あまりに夢中だったから、声をかけないでいたの」

「これ、面白いです! 五百川さんもはやく読んでください」

「ええ。……えぇっ!?」

本を面白いと薦められての反応ではなかった。チャイムが鳴る。誰だろうか? 五百川が対応に出た。

「こんばんは」

「水戸さん!?」

五百川に呼ばれてな、とソファに座る。昨日同様ジャージ姿。普段この人は何をしている人なのだろう。

「台本が上がったと聞いてね。さっき五百川からメールがきたから」

「でも、ちょっと問題があるんですよ。ねえ? 慧くん?」

 問題とは何だろうか。

「面白かったですよ? 特に問題は」

「それ! それなんです」

「面白いのか?」

ふたりとも、面白くては困るという表情だった。

「もちろんです。早く二人も読んでください」

「題名……、【わたしが不思議】だと?」

「当たり前です。わたしが言ったとおりでしょ?」

「あれをもう一度読む気は起きないんだが」

水戸はあからさまに嫌な顔をする。

「そんなこと言わずに、内容はともかく文佳さんが頑張って書いたのですから」

いつの間にか五百川はもう一組台本を印刷してきていた。はじめから水戸と読むつもりだったのだろう。二人も慧と同様に、すぐに台本に没頭しだした。一時間半、それが続くのだろう思い慧は文佳がきちんと部屋で寝ているのかを確認しに二階へ上がる。少なくとも、階段で力尽きることはなかったようだ。さすがに部屋の中に入るのは気が引けたので、自室に戻って五百川たちが呼ぶまで待つことにした。

「どうしたの?」

「やあ、どうだった?」

慧の机に座って、文佳が本を読んでいた。指示通り、二十三冊目のハーレクインだ。

「【わたしが不思議】のこと?」

「そう」

「とてもおもしろかったよ。あれならすぐに上演できると思う」

「やった!」

慧はベッドに腰掛ける。わざわざ文佳が慧の部屋にいるということは、何かしら用事があったということだろう。なんだろう。文佳の読む本のページは全然進まず、慧としてもどう切り出して良いのかわからなかった。

「あの」

こういう時、ルミナリアでは必ずサイオンから聞いていた。それを思いだし、慧から声をかける。

「何か僕に話したい事があったんじゃない?」

文佳は立ち上がり、慧の横に座った。

「まず、読んでくれてありがとう。前に編集さんに話したのは結局誰も読んでないから、慧くんがわたしの最初の読者です」

 ツキと少年の話がどうとか、の原稿は廃棄したらしい。少し興味もあったが、文佳が嫌というから仕方がなかった。

「面白かったよ」

「わたし、記憶喪失の前のこと、ほとんど聞かないまま今本をたくさん読んでいるの。いったい何者なのかをわからないまま」

「焦ることはないよ。記憶をなくしたわけじゃあない。なくしたのはきっかけなだけだから」

「わかってる。だから慧くんに付き合ってもらって本をよんでいるわけだけど……」

文佳はどこまで聞いているのだろう。昴が何を話したのか、そこまでは知らないからだ。

「慧くんはわたしにナンパして、大学でも同じサークルに入っているんでしょう?」

「そう。水都大の文芸サークル。はやく帰っておいでよ」

「同じサークルで、わたしをナンパして、それだけ?」

「はい?」

ちら、ちらと慧を見る表情は恥ずかしそうだった。

「お兄さんがわたしの主治医で、同じ大学のサークルで、いったい慧くんとわたしは何があったの?」

 何があったの、と言われても特になにも思い浮かばない。奏佳さんを中心軸に、五百川も水戸もつながっているだけなのだから。

「文佳はどうだと思っているの?」

ずるい逃げ方をしてしまう。

「わからない。ただ、普通の友人関係ではないとは思っているんだ。もし、迷惑だとか少しでも思うのであれば私ひとりでなんとかやってみようって」

「それは駄目だよ!」

思わず叫んでしまう。それでは、ルミナリアが……、いや、そういう理由だっただろうか?

「ぼくと文佳はナンパした、された、そこから始まっただけの関係だ。兄の言うとおりね。それで、文佳のために、とボランティアで手伝っている。これでどう?」

「なんだか、今考えたみたいね」

「言葉をきちんとえらばないと、どう伝わるかわからないからな」

慧は申し訳なく思っているのだ。でもそれを表に出せはしない。それが辛い。大人たちのエゴに巻き込んでいるのだから。

「何を伝えたかったの?」

「自分でも整理できちゃいない。でも、僕は将来作家になる東雲文佳の大ファンだった」

「変な日本語ね」

「なんというか、記憶を無くす前の文佳と今の文佳とを考えるとね……」

言葉をうまく紡げない。それを見て文佳は吹き出した。

「なんだか面白い。よくわからないけど、伝わったよ」

「それじゃあ、これからも」

「最期まで、よろしくお願いします」

文佳はうなずき、そのままベッドに倒れこんだ。もう疲れ果てている。結局、何も本当のことを言えずにいる自分に腹が立つ。


 まもなく一時間半が経過しようとしていた。そろそろ二人も読み終えた頃だろう。

「面白いじゃないか!」

困惑した顔で水戸が迫ってきた。面白いならいいじゃないか。

「なんとなく奏佳のものと似ているが、まるで違う」

「でしょ?」

まるで自分の書いたもののように胸を張る。

「困りました」

何に困ったって? 慧はむすっとして言った。

「文佳さんが蓋井天になるためには、この作品で挫折しなくちゃならないんです。普通に面白い作品になってしまった」

「いいじゃないですか。より上の作家になるのであれば」

「何を言ってるの! 奏佳は酷評を受けて不退転の覚悟で小説を書くようになったんですよ? だから成功したらダメなの!」

水戸は興味深そうに台本を読み続けている。

「これなら、ストリングスのお客さんに上演しても耐えうるな」

「じゃあ、なぜ駄目なんですか!」

文佳があれだけ必死に書いた戯曲だ。ムキになるのは仕方がない。

「俺達に藤子不二雄Aは必要ない、そう言いたいんだ!」

水戸が力説を始めた。

「藤子不二雄が二人組の漫画家だっているのは知ってるか?」

「もちろん」

「聞いたことくらいは」

劇団の公演にドラえもんのエンディング曲名をつけるくらいにはこの人はマニアだったな。

「公式的にはドラえもんの最終回は存在しないが、仮にだ、A先生が今、最終回を書いたら君は認めるか? 五百川さんは認めるか?」

「A先生が? あの話のスタイルで書かれたドラえもんなんて駄目でしょ」

当然だ。マンガの方向性が少し違うのだから。

「生み出されたマンガのジャンルは結構かけ離れているがな、あの二人、若い頃はずっと一緒にマンガ家の修行をしたんだ。常に同じことをやり続けていても、結局別々になったけどな」

同じマンガを書いて、同じマンガを読んで、それぞれが世界に誇る漫画家になった。でも、だれもA先生にドラえもんは求めない。そんなのは当然だ。

「要するに、そういうことだ」

自身たっぷりに水戸がいうが、たとえがよくわからない。

「要するにどういうことです?」

わたしから説明します、と五百川がため息を吐く。

「同じ過程を歩いてきたA先生でもドラえもんの最終回は書かなかったんです。蓋井天を書き継ぐ文佳さんはA先生になってもらっても意味は無い。F先生にならなくてはいけないんです。そのためには、演劇を失敗して貰う必要がどうしてもある」

 要はそういうことなのだ。

「別の作家が最終回を書いたことも在るでしょう! 最近だって円城塔が伊藤計劃の【死者の帝国】を」

「あれは、読者の半分は円城塔の本だと思っています。わたしたちがほしいのは、限りなく蓋井天、奏佳が書いたであろう内容を文佳さんが書いてくれることなんです!」

「五百川さん、あんたおかしいよ!」

「何がおかしいんですか」

「なんで、じゃあ、文佳なんですか? 誰でもいいでしょ? プロの作家いっぱいいるんだから。書きたくないって言っても、名前を出さなければ、って人はいるでしょう!」

ルミナリアの依頼を断った理由は、自分のキャリアに大きな影響が出てしまうから嫌だ。あるいは、自分の手であのルミナリアに傷を付けたくない、その二つがほとんどだった。

「あんたらのエゴで文佳を縛って、それでルミナリアが完成するとでも思っているのか!」

「思います。そのためにやっているんですから」

慧だけではない。水戸も圧倒されていた。何を言っているのか、理解できない。

「落ち着け五百川。本当に誰もやるって言わないのか?」

「だから、わたしがここまでやっているんじゃないですか!」

あれだけ力のある作家を引き継ごうというのは気後れするというのはわかる。しかもそれだけではない。あれだけ大風呂敷を広げた作品をどう片付けるのか、それが敬遠されている原因なのだ。

「わかって、慧くん。きちんと文佳さんは挫折して、不退転の覚悟で作家を志すときはじめてルミナリアが誕生するんです。奏佳と同じ環境で文佳さんは生きている。同じものを吸収している。だから、このまま書いて、読んで、十七冊書いて、最終回のルミナリアが生まれるまで待ってほしい。それこそが蓋井天が自ら完結させたルミナリアなんだから」

「それは、文佳の書きたいものなんですか?」

「奏佳は好きにルミナリアを書きました。だから文佳さんも」

「あんたたちは文佳の文章をどう思っているんだ」

「悪いが、彼女には興味がない。脚本は上手いと思うが、所詮街の劇団程度だ。ドラマの脚本家が関の山で、作家として食えるとは思えない」

「そうですね、彼女の出版を玲瓏出版は支えますが、ルミナリアじゃなければ相手にもされません」

文佳を見ていない。それどころか、奏佳さんも見ていない。

見ているのは、ルミナリアなのだ。嬉しそうに微笑む五百川には狂気すら感じられる。

「わかりました。それで、この脚本どうするんです?」

「それは、私が責任持って指導します」

指導なんて、どうするんだ。よく出来ているじゃないか。

「表現、セリフ回し、場面場面の転換の並び替え。それだけで、印象はかなりかわりますから」

推して敲く。それを推敲というが、この人がやろうとしていることは押して叩くだけなのだろう。そして、プロならばこうするんだと、押しのけるつもりだ。

「上演にふさわしい内容にするんです」

「失敗が約束される脚本にすると?」

「まあ、仕方ないだろうな」

水戸はもう、慧の言葉が届かないようだ。

「ぼくが止めたらどうしますか? 上演してもらうのはやめろと言ったら?」

「それで文佳さんの欲求は止まりませんよ?」

そのとおりだ。文佳の歩みを止めることは慧にはできない。許されない。

「奥の手を使います」

「奥の手? まさか武力行使でもするんですか?」

五百川は一枚も二枚も上手だが、その重なりは薄氷にすぎない。何枚重なったところで。

「文佳にルミナリアを読ませます」

「バカな! タイムパラドックスがおき……、おきないのか?」

現在進行的で過去が進んでいる。そして本来定められた時間の流れを変えるのだから、タイムパラドックスと言えなくもない。

「やめなさい、慧くん」

「じゃあ、インターネット、新聞、テレビ。今が二〇〇九年じゃないことを知らせるのは? 文佳には亡くなった姉がいたことは? 自分自身はルミナリア百万の読者のエゴに利用されているだけだということは?」

「やめなさい……。やめて」

結局、かなり無理な場所に文佳を閉じ込めているのだ。いつ崩れ落ちるかわからない。ただまっすぐ進んでいても、それは奇跡的であっている脱落するかのチキンレースなのだ。

「それをやったらもうおしまいですよね。ええ、やりませんよ。ぼくだって、ルミナリアを読みたいですからね」

五百川の怖がる顔が見れて、慧は少し冷静になれた。こんなこと、慧自身のエゴだろう。客観的に自分を見る慧がそう言っている。

「でも、別の方法を取ることもできるんじゃないんですか? 飛行機でも新幹線でも、大阪にたどり着ければいいってF先生は言っていますよ」

「そうか。そういうことか!」

水戸にはどうやら伝わったようだ。

「何?」

「妹に責任を感じさせて、それでも脚本が正当な評価を受けるようにすればいい。別に脚本が悪くなくても挫折はできる!」

伝わってくれたのだろうか。戯曲を踏み台に飛躍できれば別になんでもいいことにこの二人は気づいていなかったのだから。そして慧も。

「……少し、頭を冷やします。言い過ぎました、ごめんなさい慧くん」

「こちらこそごめんなさい」

五百川は深く頭を下げる。あれこれ思索しているようだが、反論が見つからないのだろうか。

「送るよ。そろそろ我々は失礼するよ」

「ええ。おやすみなさい。明日からも、お望みの通り文佳のお相手を努めさせてもらいますよ」

最大級の皮肉を、せめて笑って言えて慧はしてやったりと思ったのだ。

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