エゴ2

蓋井天を失い、セカイは歩みを止めてしまった。

 多くの人に見送られ、作家蓋井天は過去の人になりつつある。誰から漏れたのか、五月に発売されるルミナリアの十七巻が彼女の遺作であるということが皮肉にもルミナリアの第三次ブームの火付け役となった。再びのアニメ化と映画化の企画が持ち込まれ、原作の完結と共に大いに盛り上げていこうという声が五百川のもとに寄せられていた。

もちろん、原作の完結するアテはなく、返事を濁しているうちに、季節は新緑へと移っていった。昴は本業の医療に悩殺され、悲しむ暇などなかった。慧はといえば順調に大学三年生へと進級しており、一時期は蓋井天の知り合いだとからかわれていたが、もう誰もそれについて触れはしなかった。

 あの時ふしぎな格好で印象に残っていた西月文佳とは、あれから話すこともなく年度を跨ぎ、接することがなくなってしまっていた。慧自身、文佳のことを思い出したのは五月の二十五日になってからだ。

 この日は、ルミナリア十七巻の発売日である。

 昴と五百川はこの日ばかりは早く仕事を切り上げ、黒井家に集まっていたのだった。

「それじゃあ、先生を偲んで」

五百川がグラスを掲げ、昴がそれに続く。

「献杯」

唇を濡らす程度の五百川に対し、昴は一気に煽った。再び赤ワインをグラスへ注ぐ。

「そんな、一気になんて駄目ですよ」

「飲みたくもあるさ。遺稿が出版されたんだから」

テーブルの上にはルミナリアの十七巻が置かれていた。既刊同様のシックな表紙の単行本。帯には、「蓋井天の残したセカイ」と謳われている。

「先生はそんな飲み方喜びません」

「五百川さんに何がわかる。いつも奏佳は浴びるように酒を飲んでは本を書いていたんだ」

「浴びるように飲んで、二日酔いになって、何度も何度も出版社の会議室で吐かれているんです。だいたいこのワイン、ルミナリアが書けた時にかったやつじゃないですか」

もう半分以上中身の無いボトルを五百川は持ち上げる。奏佳がはじめてルミナリアを書き上げた時、二本のワインを買った。その一本目は、奏佳と昴が二人で飲んだのだった。そしてもう一本は、ルミナリアが完結したら、三人で飲もうねと約束したワインだった。

すなわち、これ。

「今じゃなきゃ飲む機会もないだろう。もう、三人で完結を祝うことはないんだから」

「ですが……」

「奏佳の書いた小説はもう終わりなんだ。誰かが続けたとしても、それは奏佳が終わらせたものじゃない。だから、今飲むのがいいだろう」

死んだ蓋井天の希望で誰かがルミナリアの続きを書く。これは出版業界で広まりに広まった。三ヶ月間、あらゆる出版社が多くの作家に打診をし、五百川がオファーを続けていた。しかし、未だに一人も受けようというものは現れていない。バトンがあまりにも重すぎるのだ。

「それに、もう会う機会も減るだろう?」

昴はそう言うと、発してしまった言葉を後悔するように淋しげな顔をする。あくまで五百川との付き合いは奏佳の担当編集。つなぎとめる結び目が解けてしまったのだから、関わりはないだろう。

「そうなるでしょうね。先生の作品を今後出す際はお会いすることになると思いますが」

「ブログ、書評、学生時代の落書き、ツイッター、フェイスブック、あんたらはすでに根こそぎ出版したんだ。出す機会なんてあるものか」

今回、ルミナリアの十七巻と同時に【蓋井天雑記録】なる本を刊行した。ウェブ上のログ管理権を生前奏佳は昴に譲渡しており、一部の自主削除されたもの以外はすべて玲瓏出版で本にされたのだった。


 沈黙を破ったのは、野暮なノックの音だった。

「開けてよ! 兄さん!」

外は嵐。暖かな部屋から昴は動きたくはなかった。

「自分で開けろ!」

「こっちは両手塞がってんの! 外は寒いしさっさと開けて!」

五百川が玄関戸を開けると、コートをびしょ濡れにした慧が立っていた。

「五百川さん! ……、こんばんは」

「おじゃましています、慧くん」

荷物を玄関に置くやいなや、慧は冷たいコートを脱ぎ出す。

「言われていた本、どこに置けばいい?」

「部屋に持ってきてくれ」

心配するそぶりもなく、昴はワインを再び煽った。

「どこの本屋も、十七巻は売り切れていたよ。刷った数少ないの?」

「いいえ、十六巻よりも十万部増刷しました。それに、一巻も急遽二万部増刷したし……」

重そうな紙袋を半分五百川が持ってくれる。

「おかえり。さすがに売れてるな」

「そうですね。特に、遺作とか、最後の~とかつけると今まで読んでいない層も手をのばすんです」

そういったあと、すみませんと五百川は謝る。

「どんな大御所作家が死んだってそうやるんだ。編集者としてあたりまえのことをしたまでだろう」

情をかけすぎてはビジネスは成り立たない。五百川は最後まで奏佳に対して蓋井先生として接していたのだ。奏佳もわかってくれる、昴もそれはわかっていた。

慧は紙袋からどさどさと本の山を出し始めていた。

「雑誌にも大きく取り上げられていたよ。五百川さんのことも書いてある」

「私のことが?」

書籍専門雑誌なるものに、蓋井天の追悼特集が出ていた。

「夭折の天才作家、蓋井天を支えたのは大学時代から付き合いのある編集者の存在だった……ってこれ、ゴシップ記事じゃないのか?」

一番驚いているのは五百川だ。仕事とプライベートはきちんと切り替えていたはずなのに、どうして奏佳とのつきあいが雑誌に出ているのだろうか。

「悪い、俺が取材を受けた」

「兄さん!?」

「昴くん!?」

「電話インタビューだ」

もともと昴はそういうことを好む人間ではなかったはずなのに。慧は疑問に思った。

「俺が受けたのを信じられない、って思ったんだろう?」

「うん」

「一時の気の迷いだ。だが、奏佳についてほとんど話しちゃいないさ。記事にあることだけだ」

五百川が奏佳を見出し、蓋井天として世に送り出したこと、非常に有能な編集だということ。そして、入院後の奏佳を献身的に見舞っていたことが書かれている。

「だとしても、こんな大げさな」

「……いいじゃないか、少しは想い出に浸ったって」

そう言われると、二人は何も言えない。

「それよりも、蓋井天の新作、すごく評判がいいですよ! ほら」

慧はスマートホンを取り出し、書評サイトを表示させた。ビブリオカルテという本好きが利用するアプリだった。

「当然さ。蓋井天の新作だぞ。おお、トップページから既刊で一色だな」

今日は蓋井天の「最後のルミナリア」発売! と書かれていた。発売日の夜にもう、百人近くが感想を書き込んでいる。読んだ、のチェックを入れている数はその五倍を超えていた。

「ただ、ものすごく続きの気になる展開だ。どうして死んでしまったんだ! って」

「そんなのわかっていますよ!」

「しかし、せめて最終回のプロットくらいなあ」

慧も昴も既に十七巻を読んでいた。奏佳さんの生気をうばいながら書かれた原稿には怖いくらいの絶望が詰め込まれている。いわゆる絶対絶命の状況を作り出し、次巻へと続くと書き残していた。ここでお預けを食らわせるのは、非常に人が悪い。せめて、プロット、登場人物の結末、それくらい答えが出ているだけでも読者は救われるというのに。

「構想を聞いたりはなかったんですか? これまで結構私に教える前に昴くんに言っていたじゃないですか」

「闘病しながら構想を暖めていたんだ。そんな余裕あったわけないだろう?」

主治医だった昴は、生きることに専念しろと口を酸っぱく奏佳さんに言い続けていた。書くことを奪うのが、奏佳さんにとってどれだけ辛いことなのかをわかりつつも、そう言った。だから、言えなかったのだ。

「じゃあ、先に書いて保管していたとかないの?」

「保管?」

「だってさ、ハリーポッターの最終章は賢者の石が出た時点で出来上がっていたっていうじゃない?」

「奏佳はプロットをほとんど書かない。頭の中で一冊分作り上げて、衝動で一気にタイプするんだ」

「そうだったの」

望みは薄いと慧は理解した。蓋井天しかその結末を知り得ないのだから。

「金庫とかはなかったの?」

「ないだろう。原稿類はすべて鍵付きのUSBで保管していた。そんな昔の小説家と違うんだから」

やはり無理か、と思う。ルミナスとサイオンがどうなってしまうのか、まったく想像もできない。このもやもやを一度知ってしまった慧は、残念なことに死ぬまでルミナリアを思いながら生きていくことになるのだろう。グラスを一つ取ると、昴にワインをねだった。

「ありがとう。蓋井天を偲んで、献杯」

「未完に終わったルミナリアに乾杯」

兄弟がグラスを鳴らす。その様子を見ていると、何故か五百川は感極まってしまう。

「どうしたんです、五百川さん」

「ごめんなさい、二人を見てたら、はじめて昴くんに会った時のことを思い出しちゃって」

昴と五百川が初めて会ったのが十年前。まだ奏佳は入学もしていない頃だった。

「そんなに似てるか?」

「似てないよね?」

「顔が似ているとかじゃないんです」

昴は医学部で慧は文学部。顔は兄が母親に対し、弟は父親似だ。読書傾向だって、ルミナリア以外に共通するものは殆ど無いと言っていい。

しかし、本好きという点で二人は似ていた。学部は違えどふたりとも水都大の文芸サークルに入っており、東雲奏佳も五百川祥もそのOGになる。もちろん、西月文佳も慧と同期だ。蓋井天は実名を明かしてはおらず、水都大出身だということのみ知られているため、もしかすると在籍していたんじゃないか? とルミナリアのファンが少なからず在籍している。

昴と五百川は一年生の時に入部し出会い、もう一人の男子部員とよくつるんでいた。二年後、東雲奏佳が入部。この四人が小説家蓋井天の出発点である。

 慧がもう一杯、とワインに手をかけた時、チャイムがなる。誰だ、こんな時間に。昴が露骨に不機嫌になった。

「知らないよ」

「わたし出ます」

直接玄関に向かわず、インターホンを取った。直後、えっ? と五百川の声がする。

「慧くんのお友達だって。女の子」

誰だ? そもそも女の子の友達自体思い浮かばない。

「かわります」

五百川からインターホンを受け取る。画面には、大きく黒いコートが映った。

「お願い! 入れて!」

切羽詰まった声で西月文佳が叫ぶ。

「どうしてうちに?」

「理由は話すから、お願い」

困った慧は二人の方を向く。

「入れてあげたら? すごい焦っているみたい」

五百川の許可に、昴も頷いた。

「待ってて!」

大急ぎで玄関へ走る。インターホンを掛けるのも忘れて。ドアを開けると、風で髪がめちゃくちゃな西月文佳が立っていた。

「ありがとう黒井くん」

倒れそうになる文佳の肩を抱える。

「ひどい姿じゃないですか。さあ、中へ。温かいものを用意しますね」

気になって出てきた五百川も驚いた。とりあえずコートを脱がす。五百川がついてきて、と洗面所に文佳を連れて行ってしまった。慧は唖然とする。

「誰なんだ?」

昴がコートをかけるハンガーを持って来た。

「西月、文佳。文芸部の子」

「そうか。どこかで……」

昴の顔が曇る。似たような姿を見たことがあったような気がしたからだ。

「昴くん、奏佳の服を」

「いいよ。どうせ残しておいてもだから」

五百川は昴の返事で二階に上がっていった。もともと来客用の寝室によく奏佳さんが寝泊まりしていて、着替えも何日分も残っていたからである。

昴はほとんど触れたことはなく、五百川のほうが勝手を分かっていた。

いつの間にか風呂が湧いたようだ。おそらく文佳のために沸かしているのだろう。

五百川がせっせと動いている十数分間、慧は昴に文佳との付き合いを話さなければならなくなった。

「彼女とかじゃないんだって」

「本当に?」

「あんまり話したこともなかったし、たぶん、ぼくが蓋井天の知り合いだってわかっちゃったから」

「教えたのか!?」

昴は自分と蓋井天とのつながりをひたむきに隠そうとしていた。その箝口令は慧にも強いられていて、文芸部にいながらも蓋井天を読むと言ったことはほとんどなかったのだ。

何故、それを教えることになったのか、渋りながら話していると再びインターホンが鳴る。ここに来て、再びの興ざめだとばかりイライラしながら昴がいきなり玄関の戸を開けた。

「なんでしょうかね? 金庫破りの犯人が? 黒いコートの女の子? いや、知りませんね。何を盗んだんですか? それはわからない? どういうことです? はい? おたく、本当に警察ですか? さっさとお引き上げください。はい、ご苦労様」

乱暴に玄関戸を叩きつけると、そのまま階段に下に向かい、上に向かって怒鳴りつける。

「おい、ふたりとも降りてこい!」


 慧をリビングに座らせ、腕を組んで二人を待つ。昴の様子から、どうも先程来たのは警察の可能性があるみたいだ。二階でガタッ、と音がすると五百川の小さな悲鳴がした。バタバタと階段を降りる音が続く。慧は身構えた。金庫破りだとか、そんな物騒な言葉を聞いた気もする。

「お風呂先にいただきました。服もありがとうございます」

まだ髪を梳かしている最中だったのか、片手に櫛を握っていた。奏佳さんが着ていた水色の部屋着はサイズはぴったりだったようで、温かそうだ。

 しかし、その姿は兄弟の言葉を奪うに足るものだった。

「えっ……?」

「奏佳っ!」

昴は叫ぶ。必死に慧が抑え込む。まずい、非常に危険なことになる。

「奏佳、どういうことだ!」

「昴くんやめて!」

五百川も止めに入る。

「奏佳は、どうしてここにいるんだ! もどってきたのか! そうだよな!」

息を荒げる昴は混乱しているようで、目の前の少女を奏佳さんと勘違いしている。

「違います」

文佳は毅然と言う。

「私は文佳です」

「この際名前なんか気にしない」

慧と五百川の束縛すらはねのけ、文佳を抱きしめようとする。しかし、文佳はその手を正面から拒絶した。

「私は西月文佳です。あなたの亡くなった恋人の妹です」

昴を黙らすには十分すぎる一撃のようだ。その場に膝から崩れ落ちる。

「待って、妹ってどういうことです?」

「言葉通りです。最も姉とは直接会ったことは無いですが」

「でも、奏佳に妹なんて聞いたことないですよ?」

五百川は混乱している。本当に文佳の姿は生前の奏佳さんにそっくりだった。慧も何が起こっているのか理解できていない。

「私の母と奏佳の父は、私が生まれる前に離婚しています。だから、姉は長いこと父親と二人暮らしで生きて来た。そうですよね?」

「そうです。でもこれは蓋井天先生のファンだったらどこかで見たことのある記事でもあるでしょう? そうよ、あなた先生のファンかなにかなんじゃないの? 熱狂的なファン」

「そうだ。前から蓋井天のことが好きだったじゃないか」

「もちろん。でも、みなさん本当にそう思っていますか?」

そんなはずはなかった。三人とも目の前の文佳は奏佳さんの亡霊か何かに見えてしまう。

「わたしの母も若いうちに亡くなりました。父の旧姓は東雲だということだけを聞いていたので、姉が育った家のことはある程度聞くことができました。もっとも、父は姉と私を会わせたくは無かったみたいで、私は施設で育ちましたが。六年前から始まったルミナリアの著者が姉だということはすぐにぴんと来ました。自分で言うのもあれですが、とても似ているからです」

一挙手一投足、すべてに目が行く。そして奏佳さんと見比べてしまう。慧はなぜ、この子と二年以上同じサークルに居ながら気がつかなかったのか自分が不思議で仕方無かった。

「仮に、だけど文佳が東雲奏佳の妹だとして、じゃあどうして葬儀や告別式に来なかったの?」

「血縁的に姉は私のことを知りません。ですからよばれなくて当然です」

「その妹が今、どうしてここにいるのさ!」

おかしなことがいっぱいある。なぜ、今日なのか。ルミナリア十七巻の発売日だ。文佳ももちろんファンなのだから、買って読んでいるべきだろう。ルミナリアだけじゃない。蓋井天記録だって……。

「……金庫破り」

昴がぼそりと言う。

「さっき警察が来て、金庫破りをした少女を探していると言った。お前、何をしたんだ」

少し落ち着いたのか、目の前の相手が奏佳でないことを少しは理解できたのか。

「仰る通り、金庫破りをしてきました」

「この犯罪者め! 警察に突き出してやる!」

「おちついて、昴くん!」

淡々と答える文佳の姿に違和感を再び覚える。

「ここに逃げて来たのにも理由があるんでしょう?」

「その通りです。五百川編集さん」

「どうして、私の名前を?」

五百川は名乗ってはいないはずだ。

「どうしてですかね」

口を滑らせたわけでもなさそうだ。

「蓋井天の恋人と、蓋井天の担当編集さん。まさか、慧くんの身内とは思わなかったけれど」

「ぼくだって、文佳が奏佳さんの妹とは思わなかった」

「あなたたちに用があってきました。そのために、東雲の家に忍び込んで金庫を開けてしまったわけです」


忍び込んだ先が東雲の家となると、事情がありそうだ。そう思い昴と五百川は腰を下ろす。

「まず、五百川さんに質問をさせてください」

「答えられる範囲であるならば」

「出版社の方に、ルミナリアの最終作に関係するものはありますか? 原稿でもプロットでも」

「それはお答えしかねます。少なくとも、本日出版されたルミナリアが遺作としています」

それはノーだ、と文佳は理解したようだ。

「ならば、安心しました。どうやら、わたしの読んだルミナリア十八巻は正当な続編だったようです」

「十八巻だって?」

「恋人だったあなたも知らないのですか?」

そう言われてしまうと昴は何も言えなくなった。

「十七巻でなく、十八巻。そう言ったよね?」

「ええ。十八巻。というか、最終巻」

東雲の家は五百川も昴も何度も足を運んでいる。だが、金庫の存在は初めて聞いた。その中に最終巻の原稿が入っていたなんてことはなおさら聞いたことがない。

「家のどこにある! 俺たちは見たことがないぞ!」

「屋根裏部屋です」

せめて線香の一本でも、と上げてもらったらしい。そのまま屋根裏まで忍び込むとは、文佳はかなりアグレッシブだ。

「それより、原稿を! 草案でもプロットでもなんでもいいから、わたしたちに読ませて!」

「無理です」

無理って、何を言っているのか。

「俺たちに原稿をわたせ。今すぐだ。かくまっているんだぞ? なんなら見逃してやる」

「だから、無理です。私をひんむいたところで原稿はありませんよ。金庫の中に置いてきましたからね」

何を言っているんだ、と言いそうになったが、紙媒体らしきものも、記憶媒体も持っていなかったではないか。着の身着のままでこのうちにたどりついたのだから。

「持ってこなかったの?」

「はい。姉が金庫に入れていたのは、そこに入れたままにしようとしたからでしょうから。あなたたちが知らないっていうので確信できました」

ふざけやがって。昴が履き捨てた。

「読んだんでしょう?」

「読みました」

「聞かせなさい」

有無を言わせない五百川の表情は硬かった。

慧は思い出した。あの人は怒ると怖いことを。

「嫌です」

「嫌じゃない!」

「あの結末は、あなたたちは認めないでしょう。蓋井天の読者のうち、どれだけがあれを認めますかね?」

期待通りの結末じゃない。慧はそう思った。あれだけ大風呂敷を広げてしまった。解決は今更望めない。

「認めるのは読者だ。あんたに決める権利は無い!」

「話すつもりがないんだったら、どうしてここに来たの?」

「存在を伝えるため、です」

蓋井天はきちんと最終作の手がかりを遺して死んだことを、編集者に伝えるためだという。

「蓋井天の作るものがたりは、あなたの一存でどうこうできるものではないです。いいから、渡しなさい」

「あなたが決めていいものでもないです。急がなくても、あの金庫を開けることができれば読めますよ」

「回りくどいことを!」

五百川も昴も、今にも文佳を殴りつけそうな雰囲気だった。血縁だかなんだか知らないが、いきなり部外者が入り込んで来たことがあまりにも許せない。

「私の役目はここまでです。さあ、警察に突き出すならどうぞ」

素直に両腕をつきだした。

「そうは行くか。ルミナリアの内容を言え。あるいは金庫を開けろ!」

「どうして?」

「奏佳がそれを望むからだ」

昴の脳裏には、あの日撮影した、書き継いでほしい、という遺言が浮かんでいた。誰かの手に託してでも終わらせたかった物語だ。極限状態で、金庫に隠したメッセージにいったい何が書かれていたのかどうしても知りたかった。

「案外、姉に直接聞いてみるのもいいかもしれません」

一瞬の隙をついて、文佳はポケットからピルケースを取りだした。中身をすべて直接口に投げ入れる。

「まずい!」

慧が叫ぶ時には、昴がとびついていた。医者の本能が、その行動に駆り立てたのだろう。あのピルケース、二階にあった奴だ。そして、奏佳さんが服用していた睡眠薬。あれだけの数をかみ砕き、一気に飲み込むのにかかるのはいったいどれだけの時間かかるのだろうか?

昴が羽交い締めにし、慧がピルケースをもぎ取る。

「バカなことはやめろ!」

「あの遺書に絶望するのは私だけで……」

文佳は言い終わらないうちに意識を無くした。

「文佳! ねえ、文佳! 文佳!?」

慧が何度呼びかけても返事は無い。

「兄さん、死んじゃうの? ねえ!」

昴はピルケースを見る。十一錠すべて飲みこんでしまったようだ。

「いや、致死量には及ばない。アナフィラキシーさえなければ死にはしないが……」

五百川は慣れない救急車への通報にとまどっている。貸せ、と昴が携帯を奪い取ると、てきぱきと対応していた。五百川は文佳の背中を何度も叩いて、吐き出させようとしている。

 残忍なほどに冷静に慧は思っていた。目の前の光景こそがルミナリア最終巻に繋がる唯一の鍵ではないか、と。


 早々に救急車が駆け付け、文佳は水都中央病院に搬送された。奏佳が睡眠薬自殺を図らないために、と成分を半分以下に抑えていた睡眠薬のおかげで一命は取り留めたが、二日たっても意識を取りもどすことは無かった。

 金庫破り事件については、五百川と慧が正直に謝りに行った。東雲の家は普段奏佳さんが一人で住んでいたが、となりに住んでいる叔母夫婦が鍵を管理していた。叔母たちは文佳の存在も知っており、隣家で非常にやかましいドタバタとした音があったから念のために通報してしまったのだという。


 病院に戻ると、病室からちょうど昴が出るところだった。

「具合はどうですか?」

「全然駄目だ。植物状態になるかもしれない」

そんな、と慧は叫びそうになる。

「CT画像で脳を見る限りは正常だが、薬のショックだろうな」

こんこんと文佳は眠り続けている。五百川も慧もその事実に驚いていた。自殺未遂をしたことそして、未だ目覚めないこと。二人はベッド際に座り、文佳の寝顔を深刻に見つめている。

「……ぅぅん」

小さく唸る声がした。

「文佳! 文佳!?」

いち早く文佳の手を取ったのは慧だった。冷えた手が徐々に温まって行く。

「ここは……、えっと、あなたは?」

ゆっくりと目を開ける。二日ぶりに出した声はかすれ、状態を起すこともままならなかった。五百川は昴を呼びに病室をとび出した。

「忘れたのかい? ぼくは慧だ」

「慧くん? ごめんなさい」

「じゃあ、君は誰なのか覚えているか?」

記憶喪失、という言葉が脳裏に浮かんだ。事前に昴から言われていた可能性の一つだ。

「わたしは……文佳。東雲、文佳」

「そうだ、文佳だよ」

慧はそう言うが、文佳は東雲と言った。

「違う、君は」

「兄さん!」

慧は昴を制止する。これ以上こんがらがらないためにも。

「この人は黒井昴。君の主治医だ」

「主治医? わたしなにかの病気なんですか?」

昴は時折嘘を交えながら記憶喪失のことを語った。少なくとも、蓋井天のことは話さずに。

「自殺未遂……」

「もうそんなことはしないように」

きつく釘をさす。昴は文佳の記憶がもどるまで、主治医として監視をしなくてはならない。そして、五百川も。

「わたし、ひとつ思い出せそうなんです。慧くん、でしたっけ」

ずい、っと慧の襟首をつかみ、顔を引きよせる。じっとその表情を見て、文佳は何かを言いたそうになる。

「どうしたんだい、文佳。やめてほしいな」

「わたし、前に会ったことない?」

あるに決まっている。大学でもサークルでも一緒なのだから。しかし、いきなりの情報過多は良くないと昴に言われていた。

「ゴールデンウィークに、ナンパしてきたでしょう! そうだ、そうだわ」

「ナンパ?」

間抜けな声が出た。ゴールデンウィークはそもそも文佳と会っていない。誰かにナンパをされたというのか?

「知進堂、覚えてない? SF棚の前、紺のシャツも、それにその時計」

昴のお下がりの電波時計を指さした。これは慧が大学に入った時にもらったものである。やっぱり文佳はなにか勘違いをしている。

「ちょっと来い」

「は?」

昴がいきなり立ち上がると慧を引っ張り出す。病室の外に出ると、ベンチに座らせられた。

「何なんだよいきなり!」

「その時計、奏佳をナンパした時は買ったばかりだったんだ」

「兄さんがナンパをしたっていうのか?」

昴から何度も奏佳さんとの経緯は聞かされていたが、ナンパというパターンは真新しい。だいたい、奏佳さんから告白されたのではなかったのか? 水都公園で告白されたパターンと、大学内で告白されたパターンがあったから、ある程度冗談とは思っていたのだが。しかし、今までのどの時よりも真剣だった。

「ああ、そうさ。俺からナンパした」

「だからって、どうして連れだしたんだ」

「医者として信じたくないんだが……」

昴の声から生気が感じられない。このような兄の声を聞くのは二度目だった。一度目は、奏佳さんの服を文佳が着てきた時である。

「何を信じたくないって」

「西月文佳はお前を俺だと勘違いしている」

なんだって?

「そして自分が東雲奏佳だと思っている」

バカなことを、と言おうとするが兄の顔は真剣そのものなのだ。それに慧もそうは言えないのだ。そう言えばとりあえず辻褄は合うのだから。

「厳密にはそうではないんだ。確かにあの子は文佳ではあるんだが、どうも色々と中身が奏佳になっちゃっている。思い込みだと思いたいが」

「思い込みでも、他人の人格なんて入るわけ無いでしょ?」

更に困ったことに、誰も文佳の人格をよくは知らないのだ。確かに同じサークルに居はしたが、そこまで深い関係ではない。そして、奏佳さんのことだけはみんな知っているのだ。

「とりあえず、俺のふりをしてくれ」

「えー?」

「いいから、その方が記憶が戻るかもしれないから!」

医者がそういうのであれば仕方ない。と言っても、昴のふりなんてできるかどうかは知らない。なんとなく、奏佳さんと一緒に居る時の兄の姿を思い返すが、いつもの横柄な兄の姿ばかりだ。

 昴が先にドアを開け、病室に戻る。五百川は器用にリンゴを剥いていた。

「あの……」

「なんだい西……文佳」

「私たちの関係、って覚えてますか?」

急に何を言い出すのか。もともとはサークル仲間だがそういうことではないんだろう? だいたい兄と奏佳さんの関係もさっきのナンパ発言で怪しくなっているため、うかつに恋人とも言えない。

「しがない同人作家、だろ?」

「先生はご存知でしたか?」

うれしそうに文佳が言う。どうやらそうらしい。兄と奏佳さんは大学時代にそう名乗っていたという。五百川もうなずいているので、慧だけが事情がわかっていないのだ。

「水都大学文芸サークルでちまちまと書いているらしいじゃない」

「そうなんです……、すみません、この方は?」

文佳はいちいち昴ではなく慧に聞いてくる。文佳の立場からすればそれは当然なのだが、慧はおっかなびっくりだ。知らないことが多すぎる。

「五百川祥さん。玲瓏出版の編集さん」

「編集さん!」

文佳がベッドから跳ね起きた。その勢いで姿勢を正し、正座している。五百川の目の前に着地し、キラキラした目で五百川を見ていた。

「わたし、東雲文佳です! 作家になりたくていろいろ書いています」

しののめ? 西月ではなく?

「今度小説賞へ応募しようって原稿があって、読んではもらえませんか!?」

五百川の腕をつかんでぶんぶんと振り回す文佳。五百川もたじたじだった。

「しょ、小説賞ってどの小説賞? 玲瓏文芸賞ですか?」

「それは……、×××です」

とたんに声が小さくなる。聞き直すと文佳はヒスイと答えた。

「ヒスイだって?」

昴が独り言のように言った。慧は尋ねる。

「何かあるの?」

「あとで説明する」

「うちに送ってくれるっていうのなら、読んであげてもいいかな」

五百川がからかうようにそう言うと、文佳は満面の笑みになって、そのまま後ろに倒れこんだ。すぐに寝息がする。体力を考えてほしい、と昴は言った。


 ヒスイ小説大賞。杏和社のヒスイ文庫レーベルが開催する小説家への登竜門だ。

「しかし、奏佳がルミナリアを書いた直後、レーベルはなくなった。五年近く前だぞ。どうしてヒスイの名前が出て来るんだよ」

五百川と昴は気が付いていた。初めて奏佳さんが応募しようとしたレーベルの名前である、と。

「間違いなくあいつは奏佳なんだ。クソッ!」

「でも自分は文佳だって言うし」

「東雲文佳だろう!? 名前は文佳でも、中身は大学一年の東雲奏佳そのままだ」

そんなことがあるわけない。昴はそう認めたいのだがしかし、記憶や仕草の端々に奏佳を感じてしまうのだ。そりゃあ姉妹だから、といえばそこまでだが、それでもなお混乱してしまう。

「普通じゃ考えられないさ。でも、現に俺と奏佳しか知らないことを知っていた」

「もしかしたら生前につながっていたかもしれないじゃない。離れ離れでも姉妹なんだし」

「だからって、どうして小説家になる前の奏佳になる必要がある? 意味がわからない」

文佳は、ルミナリアが生まれるよりも前の時間に生きているといってもいい。そうであるのならば、奏佳さんの家に忍び込んで最終章を読んだことを覚えているわけがない。もっとも、まだルミナリアのことも、蓋井天のことも話してはいないが、下手に話すわけにもいかないのがつらいところだ。

「せめて金庫が開くのならばアクティブな治療ができるんだけどな」

「兄さん、それどういうこと?」

「ルミナリアの最終章がかかわっている。俺たちの一存だけで動けないだろう?」

金庫のことについては、後々じっくり話す必要がありそうだった。


 少し席を外させてくれ、と五百川は病室を出た。文佳も眠ったことだし、ひとまず落ち着いて現状を考えたいのだ。スマートホンを取り出すと、編集長の名前をタップする。

「お疲れ様です。五百川です。いま、大丈夫ですか? 会議ですか? いえ、大丈夫じゃなくても聞いてください。ルミナリアの最終巻のめどが立ったんです」

最後まで伝え終わらないうちに通話が中断された。リダイヤル。大きく息を吸って、一気に言いたいことをまくしたてた。

「ですから、蓋井天はルミナリアの最終巻を残していたんです! 本当です。原稿はいま手元にないですが、実家の金庫の中に入っているんです。どんな形かって思われるでしょう? それは私もまだ見ていませんが。確かに十七巻は最終巻って銘打ちましたけど、ほら、よくあるじゃないですか二百年ぶりにモーツァルトの直筆譜が発見された、とか。そういうことですよ。真偽は、そりゃあ限りなく……黒い……ですけど、来月……、いや三ヶ月後に出せるように動いてくれませんか? 延期の可能性? 知りませんよ! だって代わりに書いてくれる人いまだにいないんですから。でも、それでもあなたはオッケーって言うでしょう? ルミナリアの最終巻ですよ! だって、私もそれを望んでいますから。それでは、お疲れ様です。……ふぅーっ」

大きく意を吸って吐く。どうやら通じてくれたようだ。無理やりルミナリア最終巻のことをねじ込んだが、たぶん何かしらの本を出すことはできるだろう。西月文佳、いや東雲文佳? ここではどちらでも構わないが、文佳が証言したことが嘘とは思えない。あの子をうまいことたぶらかしていけば、少なくとも奏佳の残した何かにたどり着けるはずだろう。


 タクシーを捕まえて、先ほどまでいた昴の家に向かった。いろいろと置きっぱなしだったのだ。時計はすでに日付をまたいでいる。

「いらっしゃい」

慧がドアを開ける。

「思ったよりも編集長とは早く話がついてね。うまくいけば数か月もしないうちにルミナリアの最終巻ができることになるでしょう」

スーツの上着を脱ぐと、ソファに身を投げ出した。

「どういうことですか?」

「文佳さんが大変なことになっているけれど、彼女がルミナリアの最終回のことを教えてくれました。だから、発行できる日も近いってこと」

「文佳に聞き出すつもりですか?」

 睡眠薬騒ぎでうやむやになっていたが、文佳が忍び込んでルミナリアの最終回を読んできたのがことの発端なのだ。そしてそれに絶望したことも。

「わくわくしてきませんか?」

「わくわく、ですか?」

疲れているはずなのに、五百川はとても楽しそうだった。慧自身もその気持ちがわかる。新刊の可能性がゼロでなくなったら、ファンとは待ちきれなくなるのだ。近いうちにルミナリアの最終巻発売告知がされたのであれば、すべてのファンが同じ気持ちになるだろう。


明くる日。慧と昴、そして五百川は霊園に向かった。本来は一日早く向かうはずだったが、強い雨だったことが災いした。

三人とも黒いスーツ。昴が真っ先に墓石の掃除をし、五百川と慧がそのまわりを綺麗にする。十五分も立たずに汚れはほとんど見えなくなった。ろうそくを立て、線香に火をつける。そして、花束を手向け、ハンカチを敷いた上に昨日発売されたルミナリアの十七巻を供えた。

「一日遅くなってしまってすまない」

昴が手を合わせる。奏佳さんが亡くなってもう三か月、ようやく墓前で兄は声をかけることができるようになった。

「最終巻のヒントをお前が残しているのならば、俺たちはそれを世に出したい。いいな?」

独り言のように語りかける。兄の思いは供養なのか恋人への願いなのか、慧はどこまでも傍観者でしかないのだ。

「天国の先生はなんて?」

「やれるものならやってみなさい、って」

先生ならそう言いそうね、と五百川は言うとその場を後にする。本が傷むのも悪いので、慧はルミナリアを墓前から取り上げた。奏佳さん、この続きは本当に存在するんですか? その疑問だけ残し、兄弟は東雲の実家へと向かう。

 目的はもちろん、金庫をどうにかするためだった。奏佳さんの実家には何度も足を運んでいるため、隣家から鍵はあっさりと借りることができた。一人暮らしには十分すぎるほどの一軒家。一階にはリビングとダイニング、二階に寝室と執筆部屋の家で、あの売れっ子作家蓋井天の家にしてはつつましいものだった。リビングやダイニングは普段からきれいにしてあるため、人が住まなくなってから時間が経っているようには見えない。荷物を置くと、例の金庫のある屋根裏を探しに二階へ向かった。

 奏佳さんの書斎に入るのは初めてだった。書斎といっても、二十代の女性の部屋だ。少し抵抗はある。仕事部屋だからとしっかり管理してあるみたいで、大きな机の上にパソコンのモニターとキーボード。文箱には資料が詰められている。部屋の半分は応接スペースになっていて、五百川も奏佳さんの生前によく詰めていた。

「あれだな?」

天井をよく見れば、屋根裏スペースの入り口がしっかりとわかる。だが、奏佳さんが使っているようなことを聞いたことはなく、家の高さを見てもほとんど空間はないのではないかと思っていた。天井のライトのスイッチなどとともに壁に昇降ボタンがある。五百川も昴も気に留めていなかったものだった。押すとゆっくりと梯子が下りてきた。

 踏み板にはうっすらとホコリが溜まり、さらにその足跡が残されている。文佳のものだろう。

「上がってこい。本当に金庫があるぞ!」

昴に次いで慧と五百川も上がる。思ったよりも広く、天井高さは百五十センチ程度だろうか。三畳ばかりの広さに鈍色の冷蔵庫のようなものが鎮座していた。ドアにはキーボード配列の入力ボタンが並んでいる。金庫だ。

「なんかすごそうな金庫だね」

「数字だけでなく、アルファベットも必要なんですね、これ」

扉にメモ用紙が張り付けてあり、「二十ケタ!」と書いてある。奏佳さんが書いたのだろう。

「二十桁だって」

「パスワードの文字数だろう。五百川さんなにか聞いている?」

「いいえ、何も」

「だろうなあ」

しかし二人が落胆した様子はなかった。本当に金庫はあったし、中に何かが入っているのもほぼ確実だろう。

「文佳くんが何か知っていたはずだ。そして奏佳も」

「とりあえず今日はどうするの?」

「金庫が存在することがわかっただけでも十分さ。帰るぞ」

書斎に下り、梯子を上に片づける。鍵を返しに行くときに昴は、また誰かが来たら真っ先に知らせてくれと言っていた。文佳を含めて。

 慧はさっきの金庫の写真を撮って、型番を控えていた。案外メーカーが開ける術を持っているかもしれないと思ったからである。

 しかし、面倒なことが次々と判明する。ふつうの中型金庫に見えるが、高さ百メートル程度の落下では傷一つつかず、ロケットランチャーでの攻撃程度なら中身に被害は及ばない。鍵となるのは二十桁の英数字で、ミス・スペルは二回以上繰り返すと内部に設置された電熱ヒーターでしまったものが燃やされる使用だという。値段は一千万円は下らない。

 ふつうの貴重品であればここまでのセキュリティは必要ない。それは、ルミナリアの最終章ですらだ。五百川でも昴でも、信頼できる人間に直接託せばいい。だいたい、パソコンに二重のパスでもかければよかったのだ。なのに、どうしてあのような回りくどい手を残したのか慧には分らなかった。

 それを言うと、昴はなおさら期待を膨らます。

「文佳くんの治療が最優先事項になるな。さっさと記憶がもとにもどってくれないと、あの金庫を開けることができないのだから」

「金庫関係なく治療に専念しろよ」

あんた医者だろう。

「そのために、お前の助けがいるんだ」

「なんでぼくが」

慧が反論しようとすると、玄関のチャイムが鳴った。

「こんばんは! 編集さんいらっしゃいますか?」

文佳だった。着の身着のまま、病院で見たままの恰好だ。

「どうしてここに?」

「退屈なので、抜けてきちゃいました」

「ダメじゃないか! 勝手に外出しちゃあ。どうやって抜け出せたんだ」

「黒井先生が外泊許可をくれた、と言ったので」

ちゃっかりしているな、と昴がため息をつく。

「その恰好じゃ惨めだから、上から奏佳の服を取ってくる」

「私に用事って何かしら?」

「そうでした! 編集さん、玲瓏に出すなら読んでくれると言っていたので、書いてきました!」

じゃじゃあーん、と手に持っていた大判の茶封筒を突き出す。

「これは?」

「小説です。暇だったので書きました。手書きなので読みにくいと思うんですが……」

今時珍しい原稿用紙だった。五百川は手書きの原稿を見るのは編集者になって初めてだ。

「暇だったので、って五十枚はあるじゃない」

「ずっと頭の中で空想していた物語なんです」

文佳は楽しそうに物語の概要をなぞっていく。

「少しふしぎな話なんです。ツキのある少年が主人公。これがすべて。雨の日も濡れないし、運動も万能で、体がすごく軽いんです。ちょっと浮いている感じもするんですけれど、彼の周囲はいつも明るく照らされていて」

「まさか、彼の頭上にもう一つ月があって、引力やら月明りの関係で濡れないとか光があたっているなんてくだらない落ちじゃないですよね?」

 文佳の笑顔が消えた。

「どうしてわかったんですか?」

「へ、編集者をなめちゃあダメですよ。一次審査でそんな小説落とされますって。もっと、ぐっとひきつけるものを用意してください」

開けもしない封筒を文佳に返す五百川。あ、そうだとパスワードのことを尋ねた。

「突然だけど、文佳さん、いま何か二十文字の英数字って思いつきますか?」

「二十字の英数字ですか? 単語ではなくて? 思いつかないです」

「わかった。ありがとう」

「でも何に使うんですか?」

五百川の聞き方が下手で、ごまかしもできていない。昴が下りてきてくれてよかったと慧は安堵した。

「文佳くん、その恰好はひどすぎるから、好きな服を持って行ってくれ」

「この服、編集さんのですか?」

「わたしには大きいですよ?」

「でもこの家ほかに女のひといないですよね?」

もしかして、慧君が? という。ひどい話だ。

「これは、兄さんの彼女の服だよ」

「先生の?」

「でももう必要ないからな。置いていても意味ないし、よかったら」

春物を何着か文佳は物色しだした。過度に遠慮のないところは奏佳さんに似たのかもしれない。

「文佳くん、退院したらの話なんだけどな」

「退院ですか? わたしいつ退院できます?」

数日中にはできるだろう、という。そして、そのあとの治療の話だと昴は言う。

「家に戻りますよ?」

「東雲の実家に?」

「……変な言い方ですね。わたしの家ですよ」

住所は? と五百川が聞くと、やはり金庫の鎮座するあの家の住所が飛び出した。

「言い難いんだが、いま文佳くんのおじさんたちが改築工事をしているんだ。しばらく戻らないほうが向こうとしては楽らしい」

「そうなんですか?」

自分を大学時代の奏佳と同一視している文佳があの家に近づくのはよくない。ショック療法の一つの方法になるが、昴はその方法を良しとはしていない。あくまでも医療行為だ。そう判断したのだった。決して、戻ってほしくないとは考えていない。決して。

「日中に聞いてきた。しばらくはここで暮らさないか?」

「この家で、ですか?」

「俺の見える範疇ならどこでも構わないが……」

昴もどう説明すればいいのか迷っている。

「お兄さんもナンパですか? わかりました。ゆっくりと治療させてもらいます」

よろしくお願いします、と頭を下げると、文佳は着替えに行った。この家はもともと黒井の祖父の家で、高齢の祖父を両親が引き取る代わりに兄弟二人を住まわせている。空き部屋ならいくつかあるために、文佳一人住まわすことに何の問題もなかった。

「わたし、あの子に奏佳が憑依しているんじゃないかって思いました」

五百川が言う。

「ツキの男の子のはなし、奏佳が冗談で言っていた話に似ているんです」

「そうなんですか?」

「ルミナリアを書く前のことですが」

「だから、姉妹だからだろう?」

しかし、生前の奏佳さんと文佳のあいだにつながりはなかったはずだ。

「誰にでも考え付く単純な話かもしれないです。でも姉妹で似たことを考えるのであれば将来性があるのかな、って。慧くん、文佳さんも文芸サークルにいるのよね?」

「はい。どんな本を書くのかは見たこともないですが」

「そうですか。それなら……。」

憑依、と聞いて昴は何か考えているようだった。


文佳がニットのワンピースに着替えてくると、昴は文佳に部屋のこと、この家のことをあれこれ話し始めた。その流れで、文芸サークルのことにも飛び火する。

「読むのも好きです。わりとたくさん読んでいると思ってますが」

「誰の本を読む?」

「小説に限りますけど、雑食ですね。太宰とか芥川、ホームズとかモンテ・クリスト伯とかそういうのから、ミステリーも好きだし、恋愛もの、古典、SF、ライトノベルや携帯小説まで本当に雑食」

これは事実だ。文芸サークルの部室にあるあらゆる小説類を文佳は片っ端から読んでいたのだから。

「蓋井天は読む?」

「不退転? すみません、存じなくて」

「そうか。いや、気にしなくていいよ」

そういうと、最寄りのコンビニとスーパーの話を振った。夜の八時半、昴が簡単に作った夕食を食べ終ったころ、五百川が尋ねる。

「ねえ、小説家になれるならなってみたい?」

「はい。もちろん、ぜひ!」

ガタッ、と勢いよく立ち上がって慧はびっくりする。

「私たちが特別にトレーニングしてあげようか?」

「おい、それはどういうことだ?」

「昴くんはいいから聞いて。今の文佳さんにはまず記憶喪失を直してもらうことが最優先です」

はやく思い出さないと、思い出すタイミングがどんどん失われるという。

「はい。でも、それと小説家へのトレーニングって」

「記憶喪失って、記憶をなくすというよりも、記憶を入れた引き出しのカギを亡くした状態に近いんです。そのカギを取り戻す方法が、様々な体験をするってことです。そうよね、昴くん?」

勢いよく五百川が振り返った。目が笑っていない。曖昧に肯くしかなかった。

「だから、いまから二か月たくさんの経験をしてください。そして、一つ一つの経験から五本の作品を書いてください。これが小説家へのトレーニングです」

無理やりこじつけたようにも聞こえる。そう言いたいが、兄弟は何も言えなかった。

「書くんですか? いきなり小説を?」

「小説家になりたい人はとにかく、たくさん書いてください。唯一の近道はこれなんです。私が百冊選定しますから、それを読んで、その他にも多くのものに触れて、インプットします。文佳さんがどう感じてきたか、どう生きてきたかを取り戻すきっかけを多く提供したいんです。そこで、そのインプットから小説という形でアウトプットしてみてください。その過程で考えをまとめることになると思うから、これもきっかけになります。もちろん、小説家になるかどうかはおまけ。あなたが一刻も早く戻れることが最優先よ」

「面白そう!」

「でしょ? 退院したらトレーニングに入りましょう。頑張れるかな?」

「やってみたいです。わたし記憶喪失だって聞かされてからずっと不安でした。でも今はすこしうれしい」

患者が前向きに進もうとする姿を見せられたら昴は何も言えなかった。五百川があまりに勝手なことを言っているのに、それでも文佳の治療に間違いはないからだ。

「おい、もう九時だ。病院にもどりなさい」

「私が送ってきますよ」

ぼくも行く、と慧が言おうとすると、昴がテーブルの食器をしまえと促してきた。二人が帰ると、これから文佳と同居なんて考えられないと思い返す。

「慧、お前には文佳くんとのトレーニングの相手をしてもらいたい」

「ぼくが?」

「お前のことを同志のように思っているんだ。俺でも五百川さんでもできないことだ」

「でも」

「できないならできない、といっても良い。お前は医者でもなんでもないのだから」

その言い方はずるい。断るなら人でなしだと言っているようなものじゃないか。

「五百川さんはとんでもない策士だ。危ない橋をわたろうとしている。気付いたか?」

「トレーニングとやらがそんなに危ないことなの?」

「確かに、記憶喪失改善の一つのやりかただが、そんな気はあの人にはないみたいだ。あの人は、奏佳が憑依しているなんてバカなことまで考えているんだ」

ダイニングを片づけていると、昴が本棚から一冊のムックを出してきてこれを見てくれという。【追悼・蓋井天】。ルミナリア十七巻と同時に出た蓋井天関連書籍の一つで、これは五百川さんも編集に入っている最も公式的なものだ。

「蓋井天の百冊……?」

「去年の記事だ。奏佳が小説家蓋井天になるまでの養分とかなんとかを百冊。五百川さんはこれを選ぶ。確実に持ってくると思う」

古今東西、多岐にわたる本のリストだった。超有名な作品から、どこの国の作家なのかわからない名前までもが並んでいる。

「これを文佳くんに追体験させるつもりだろうな」

「これすべてを、読ませる気なのか!?」

「本だけじゃない。奏佳が小説家になろうと決めてから、ルミナリアを書き上げるまでのおよそ三か月。たくさんの映画や舞台を吸収し続けたんだ。それらを詰め込むつもりなんだろう」

ムックには、過去のインタビューが再掲載されていて、好きな映画や趣味などもそれなりに詳しく書いてある。「蓋井天のルーツ作品」という章には、奏佳さん自身のコメントがそれられていた。しかし、好みかどうかもわからない本や映画を次々に押し込もうというのか?

「そんなのフォアグラを取るためのガチョウと変わらないじゃないか! だいたい、詰め込んで小説家になれるのであれば、本好きはみんな小説家になれるさ」

「今の文佳くんは奏佳に似た文を書いている。だから可能性があるってことだろう? 俺やお前じゃ小説家になんてなれないさ」

 かつて昴も文芸サークルで駄文をたくさん書き散らした。一時は医療作家になろうと思った時もある。だが、あくまで自分は受け手。発信者にはなれないと思ったのはいったいどのくらい前だっただろう。

「でもさ、文佳にその百冊を読ませて追体験させたらさ、奏佳さんみたいになっちゃうんじゃない?」

「みたいに、じゃない。文佳くんを蓋井天にするつもりだ。」

あの人は小説家になんて興味はないのだ。蓋井天にしか。

「はあ!? あのひとは何をしたいんだ?」

「五百川さんは、あくまで編集の仕事に忠実さ。蓋井天の担当編集として、生前の意志を汲んで、世に最終巻を送り出したいだけなんだから」

ルミナリアの最終章。その言葉は魔性のワードだった。

命を賭してまで残されたルミナリア十七巻は大団円へホップ・ステップからの超ジャンプだったのだから。

サイオンのセカイとルミナスのセカイはついに決別。互いが血で血を洗う恒星間戦争が始まってしまう。二人はそれを望みはしないのに、セカイの歯車はどんどん狂っていった。アンティもフィーも死んでしまった。その死を乗り越えて、二人はセカイを守ろうとしたのに。

あのセカイが滅んでしまえば、自分たちの世界そのものが失われる。サイオンがそう気が付き、残酷なまでの幕引きで筆は止まっていた。

「そりゃあ、ぼくだって読みたいけれど、金庫が開かないんじゃね」

その続きを求めるために、五百川があれこれ画策する気持ちもわからないでもないのだった。

「彼女の考えるルミナリア完結のための一つ目の方法は文佳くんの完治による金庫を開ける方法だ。西月文佳が金庫を開ける。記憶が戻ったらあの人は拷問でもなんでもするだろうね」

 マジで?

慧は思う。いつも温厚柔和な笑顔なのに。もっとも、目が笑っていないことが多いが。

「マジらしい。奏佳が言っていた」

 経験者がいたようだ。怒らせないようにしなければ。

「一つ目って、二つ目は?」

「二つ目は、記憶を失っている文佳くんが金庫を開ける方法さ。東雲文佳が金庫を開ける。自力でな」

自力でって、二十桁のパスワードだろう? 無理に決まっている。

「いや、無理じゃない。文佳くんは奏佳ににている。もっと本人に似せれば、案外思いつくかもしれないからな。そうすれば最終回を読むことができる」

「難しいでしょ。まったく同じ考え方をするようになんて、ありえない」

「人は食べたものでできているんだ。作家は読んだ本でできているといってもいいだろう」

そういうものだろうか。

「特に、奏佳の読書修行はルミナリアに直結しているんだ。百冊あまさず養分になっているんだからな」

しかし、ひどい話である。パスワードを思いつくまで文佳を奏佳さんに近づけるなんて、それはもう奏佳さんなんじゃないか? ん? それって?

「兄さんたちさ、背格好が似ているからって二人を混同しているんじゃないのか? 文佳は文佳だ。死んだ人間がよみがえるわけない」

「そんなことは俺にもわかっている! だが、せめてルミナリアができあがる可能性を試すまではやってみたいんだ」

「それは狂気の沙汰だよ、兄さん」

そういいながらも、慧はもしかしたら、と思っていた。あそこまで不思議な物語を書いてきた人だ。魔法の一つでも使えて当然じゃないだろうか。

「おそらく、お前には当時の俺をまねて行動してもらうことになると思う」

「当時って、兄さんどんな行動していたのさ」

もう慧が手伝う前提だ。もう仕方がない。やってやるさ。

「すでに恋人同士だった」

「もう信ぴょう性ないよ? このナンパ野郎」

「だああ、うるさい。おこがましいかもしれないけどな、ルミナリアの恋愛観は俺と奏佳そのものの箇所が少なくない。文佳くんの追体験にはお前が必要なんだ」

 具体的に何をすればいいのか、何もわからない。しかし、ボーイフレンドがいてはじめてかける小説は確かにあることはわかっていた。蓋井天のエッセイにそう書いてあったから。

「なんだよ、いやなのか?」

「いやじゃないけどさ」

「本当は俺がやりたかったが、俺は文佳くんにとってはただの主治医だ」

おい、あんた今自分でやりたいとか言ったよな?

「頼む。なにより、文佳くんかわいいじゃないか。奏佳に似て。恋人ごっこだとしても悪い気分はしないだろう?」

今度は奏佳さんに似ているとか。慧は自分でよかったと思った。兄さんだったら確実に手を出して取り換えしのつかないことになりかねないのだから。

「わかった。ぼくがやる。任せてくれよ」

「よく言った! あと、俺と奏佳が一線を超えたのは読書修行開始から八十日目だったからな。忘れるなよ? ルミナリアに重要なことなんだから」

「うるせえ、このバカ兄貴!」

追体験にかこつけてセクハラじゃないかそれは。

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