エゴ1
セカイを放ったままに蓋(ふた)井(い)天(てん)が死んだ。
黒井慧(さとし)がこれを知ったのは、昼下がりのワイドショーだった。番組が切り替わった瞬間、映し出されたのは書店に並べられるよく見知った小説。あまりにも有名な紺地に白抜きの箔押し文字。書影を眺めながらアナウンサーの声が重なる。
「【ルミナリア】シリーズで人気を博している女性作家、蓋井天さんが今日未明、水都市の病院で亡くなりました。二十七歳でした。蓋井さんは二〇一〇年、玲瓏小説大賞を受賞、ドラマ化もされた代表作の【ルミナリア】は全国で四百八十万部を売り上げるベストセラーとなっていました」
書影から切り替わって映されたのは、著者近影の写真。そして、テレビ局のコメンテーター連中の顔が拡大される。口を尖らせる者、眉をしかめる者、唖然とした司会者。それを見て、テレビを消した。
ぷつん、と画面が真っ暗になり、慧の顔が液晶に反射する。その表情はコメンテーターと最差なく、いきなりつきつけられた現実を受け入れられないようなものだった。
普通のファンであれば慌てたり泣きわめいたりするものだが、慧は違った。スマートホンを取り出すと、着信履歴の一番上をタッチする。
「兄さん? そう。いま、テレビで見た。早かったね……。今日は泊まりになるんだろう? うん、着替え、持って行くよ。うちのことなら、気にしないで」
淡々と兄へと話す慧。通話を切ると、ボストンバッグに兄の着替えを詰め始める。二日分を詰め込むと、着ていたジャージを脱ぎ捨ててジャケットを羽織る。なるべく色の暗いものだ。普段使いのデイバッグを担ぎ、急いで自宅を飛び出した。
慧の家から中央病院までは自転車で二十分ほどの距離がある。雑念を払い、国道脇をこいでいく。途中にいつも利用する書店、知進堂が見えてきた。顔なじみの店主がポスターを剥がしていた。奇しくも今日は、ルミナリアの十六巻発売日である。
「やあ、黒井君。十六巻入ってるよ」
「いえ、今は急いでいるので、帰りに寄りますね」
店主は自転車かごのボストンバッグを見て言う。
「病院だね。ご苦労様」
「そのポスター……」
「さっきのニュースで知ったよ。残念だ」
真新しい大きなポスター。まだ角に丸めていた跡が残っている。
「本当に残念です。一冊、取置してもらっていいですか?」
「構わないよ。じゃあ」
再びポスターを丸めて、店主は中へと戻っていった。詳しく文字を読んだわけではない。しかし、新刊案内の空間にでかでかと配置されたルミナリア新刊の書影はすぐにわかった。おそらく知進堂店主の一存で剥いだのだろう。今日発売になった新作の宣伝を辞めるというのは褒められたことではないが、せめてもの敬意と悼みが感じられる。
十分後、水都総合病院のロビーに入ると、今まで見たことのない数の人間が詰めかけていた。腕章をつけたスーツの男たちが、病棟への入り口を凝視しているのだ。新聞社、出版社の人間がほとんどだが、驚いたことに地元放送局のカメラも控えている。
「慧くん!」
ひとりの女性が手を上げて招いていた。小柄のセミロング、目の大きなスーツの女。慧を呼んでも堅い表情だ。
「昴くんの着替え?」
「はい。五百川(いおかわ)さんは付き添いで?」
頷くと、五百川と呼ばれた女性は病棟へと歩き出した。一度振り返ると報道陣を睨みつける。そして、かつかつと床を鳴らしながら歩いて行く。
「昼のニュースで聞きました。今朝だったんですか?」
「十時前です。先生は昴くんと二人にして欲しいと言って、私や他の友人を病室の外に出しました」
「それで、そのまま?」
「はい」
エレベーターで最上階へ。水都の街と遠くに日本海を望む絶好のロケーション。そのフロアはVIP個室が十室、並んでいた。二〇〇八号室、幾度も訪れた病室のドアを開ける。表札に書かれた名前は東雲(しののめ)奏佳(かなか)。夭折した作家蓋井天の、本名である。
「早かったな」
こちらに背を向けた医師がいた。椅子に座り、窓辺を向いている。オーディオからはどこかで聞いたことのあるクラシック。死者を悼む歌だ。
「これ、着替え」
「ありがとな、慧」
兄、黒井昴(すばる)はむりやり笑顔を作って笑いかけた。もっとわかりやすく悲しみにくれていると思ったので、寧ろ痛々しい。
「奏佳さんのお悔やみ……申し上げます」
「よく頑張ったよ」
五百川はベッドに置かれた花束を持つ。もうそこに誰もいなかった。
通夜と葬儀はしめやかに営まれた。親も既に亡く、兄弟の居ない東雲奏佳との別れには、婚約者とその近親者のみが参加を許された。義姉になるはずであった人の葬儀で慧は、終始兄の様子ばかりを気にしていた。最愛の人を無くしたのだ。いくら死に慣れている医師でも、並大抵の状態では居られないだろう。昴は喪主を務めると言い張ったが、五百川がそれを無理やり奪い取る形になった。葬儀の後、二次会は多くの出版関係者、作家が集まり昴と慧の兄弟がかなり場違いであることが目立ってしまっていた。
皆さま、と五百川の声が宴会場に響き渡る。
「本日は稀代の作家蓋井天、そして私たちの親友東雲奏佳の葬儀にお越しくださいまして、ありがとうございます。本来であれば、婚約者である黒井昴氏からも挨拶をいただければ、と思いましたが、この場を借りて玲瓏出版担当編集の私、五百川(いおかわ)祥(さち)より故人からのメッセージを伝えられればと、思います」
故人からのメッセージ? 会場がざわついた。
スクリーンが下りてきて、照明が落とされる。天井のプロジェクターから白い風景が映し出された。車椅子に座り、カメラを見ている女性。生前の蓋井天である。著者近影のものに比べ、線は細くなり、髪の艶は失われている。一回り小さくなったような印象があった。
みなさん。こんにちは。蓋井天こと、東雲奏佳です。玲瓏出版の、そして無二の友人五百川祥にお願いして、蓋井天として遺言を残すことにしました。
わたしは間もなく死にます。
死んだあと、この映像を見ていただいていることでしょう。わたしの余命はあと幾許。その余命をなにに使うのか、必死に考えました。両親が既に亡くなっているわたしにとって、遺して行く家族がいないことがせめてもの救い。自分の好きなように時間を使おうと考えました。
結婚生活を味わってみたい、とも思いました。しかし、黒井昴との長い蜜月の思い出がわたしをなぐさめてくれました。ですから、いまきちんと結婚をしたとして、彼を束縛することは嫌なのです。
そう考えると、おのずと答えは簡単に見つかりました。
わたしの娘同様の存在、ルミナリアをこの手で終わらせることです。十六巻を書きあげた後、この身体が既に手遅れだということが分かりました。それから三か月、まったく続きを書くことができません。ですが、それではいけないと思いました。わたしはこれから死力を尽くして、執筆にもどります。既に全編の九割は終わり、残りはせいぜい二冊です。これを書きあげたらわたしは死ぬことでしょう。
ですが、今死んでもおかしくない命です。残念ながら最後まで書き続けることのできる可能性は二割もないと言われました。
あと二冊、書けないまま逝ってしまったら、ルミナスもサイオンも行き所を無くしてしまいます。ですから、だれでもいい、わたしとお別れをしたら、彼らの結末を書き継いではもらえないでしょうか? 遺作を未完のままにはしたくないのです。
わたしの最後のわがままです。
そして、私が死んだら、泣かないで先へ進んでくれたら幸いです。
フィーを失ったルミナスのように。
二〇一五年二月二十日 蓋井天こと、東雲奏佳
ゆっくり話す蓋井天の声は途中から涙声になっており、半分も聞きとれないようなメッセージだった。
だが、その場にいた多くの作家たちは何かを感じ取ったようだ。命を賭して作品を残そうとする蓋井天の姿勢に。
「蓋井先生の遺した原稿はこれだけです」
涙声の五百川がざわめきを遮る。その手には紙束が握られていた。
「三ヶ月後、五月二十四日にルミナリア十七巻は刊行されます。蓋井天の遺作になります。ですが」
遺作が出る、この事実だけで会場は沸く。誰もがルミナリアの続きを切望しているからだ。
「十七巻のエピローグを書き上げて、蓋井先生は倒れられました。あと一冊、とメモも残っています。先生の遺言どおり、十八巻を世に送りたいのですが、どなたかお願いできる方はいらっしゃいますか?」
少しの間。互いを牽制するように、視線を交わしている。
「あの、仮にですが、僕が書いたら書いたものがルミナリアの正史になるのですか? 宇野版の最終回みたいになるんですか?」
「蓋井先生は書き継いでください、と言っています。栗本薫がなくなっても続いている【グイン・サーガ】のようなものです」
宇野と呼ばれた作家は更に質問を重ねた。
「伊藤計劃と円城塔の【屍者の帝国】みたいなことは?」
「そういう感じではないんです。それでよければ、書いていただけますか?」
「……辞退させてください」
五百川の指摘後、なかなか誰も声をあげようとしなかった。十七巻の内容がどうなっているのかもわからないのだ。あと一冊だけで長いシリーズを終わらせるとなると、よほど筆力のある作家でないと整合性すら取れなくなってしまう。
「急ぐことはありません。どなたか書けそうな方をご存知の作家の方、お気軽に紹介をおねがいしますね」
ため息一つ、五百川が降段する。慧には、何故かそのため息が諦めのものではなく安堵のものに見えた。
「五百川さん、ぼくに出来ることはありますか?」
「慧くんが? そうですね、書けるのであれば続きを」
「それは無理です」
「そうですか」
慧は素人だ。冗談でも書くなんて言ってはいけない。誰もが五百川を避けている。それを見かねて話しかけてみたが当然の対応が帰ってきた。
「書く以外で、ひとつ人出が足りないことがあるんです。バイトしませんか?」
蓋井天先生のお別れ会。
お別れ会とは名ばかりのファンとのイベントになるのだが、内々で密葬まで済ませてしまったためにこのような形で開かれるはこびとなった。
当日、二月二十八日の天気は悪く、ルミナリアゆかりの水都公園、いわゆる「聖地」でのお別れ会はひっそりと始まった。
遺族が叔父夫婦と昴しかいなかった蓋井天のせめてもの関係者として、慧が呼ばれたのも自然な運びだろう。他には出版社の担当編集、作家仲間と親しい人間が準備を行っていた。
お別れ会はインターネットと玲瓏出版の週刊誌で告知を行い、朝から二十一時まで献花台とノートを用意するだけの簡単のもの。商業的なものは一切抜きにして、読者にも現実を受け入れて欲しいという意図が合った。
ぼくに出来ることがあるから、と言った手前五百川を手伝うことにした慧だったが、ただのスタッフとしては頼りない限りだった。玲瓏出版の用意した献花台は大きなテーブル四つ分、ノート四冊分だったが、昼前にはもう追加をしなければならない人の出だった。
はじめは涙雨に濡れながら「二列に詰めて並んでくださーい!」と声を張り上げていたが、蓋井天に最後の別れをしたいと集った読者たちは誰もが沈んだ顔をしていた。本の作者を亡くした顔とは違う、愛する人を亡くした者の表情であった。昴や慧と変わらず辛そうな面持ちで、見ているうちにルミナリアと過ごした五年間が嫌でも思い出される。
昼過ぎになると遺影の周りは花束でいっぱいになり、ノートは新しく八冊用意しなくてはならなくなった。
やはり昴は結局一度も姿を現さず、五百川と慧、そして出版社のスタッフが忙しく動き回るうちに夕方になった。いかにルミナリアがそして蓋井天が愛されているか、それが弔問客の数でノートに書かれた文字で伝わってくる。
夕暮れ、霙混じりの雨になると流石に行列も減り、五百川と慧以外のスタッフが一人また一人と会社へと戻って行く。
「慧くん、そろそろ引き上げましょうか」
「でも、九時まではファンの方が来るんですから、そうも行きません」
「昴くんと代わってもらうとか」
昴は来ないとわかっていた。だから、聞かなかったふりをした。午後六時、午後七時。会社帰りのルミナリアを持った人たちが少しずつ立ち寄り、花を手向けて行く。八時も過ぎると花で埋め尽くされ、ノートは十五冊を越えた。
セカイを放ったまま逝ってしまった蓋井天を責める声はなく、多くのファンが彼女は新たなセカイへ行ったと言い残していく。
まもなく二十一時、しんしんと雪の降る中、一際大きな薔薇の花束が白い景色の中に浮かび上がる。花束の主はフードまで真っ暗なコートを着ており、ここまで目立つ弔問客は初めてだった。
「宜しければ、こちらのノートに記帳をお願いします」
「……黒井くん?」
花束を置くと、深いフードを捲りあげた。そこには慧の見知った顔が現れた。黒のボブカット、細い眉薄い唇。眼鏡の奥には大きな瞳が煌めいていた。
「……西月さん!?」
この日慧は多くの弔問客を見てきた。誰しもが小説家蓋井天の死を悲しみあるいは悔しがり、暗い表情を残していった。
だが。
西月さん、慧の友人である西月(にしつき)文佳(ふみか)のフードの向こう、瞳は何かを決心したような不思議な輝きをしていたのだ。
「どうして黒井くんが蓋井天のお見送り会にいるんです?」
慧は五百川に頭を下げ、ファミレスに連れ出した。
「最近大学にもサークルにも顔を出さない、雨宮くんも松田さんからも電話したのに出ないっていうから」
「たまたま五百川さん、蓋井天の担当編集さんと知り合いで」
「蓋井天とも面識あったの?」
こう聞かれては、ないとは言えない。昴が婚約者ということを誤魔化しながら、手伝いに至る経緯を説明した。
「そんな素振りなかったのに。わたしがファンだってことを知っていたでしょう?」
「本当にごめん。誰にも言うなって言われていて」
「まあ、いいわ。今日は弔問もできたしね」
そういうと千円札をテーブルに置き、コートを羽織って席を立った。
真っ暗なコートを羽織るその後ろ姿はどこかで見た光景に重なってきた。
何故だろう。吹雪、深紅の花束、真っ暗なコート。
「ルミナス……か?」
想起されたものは小説のヒロインの名前だった。
コスプレといえばあまりに稚拙な格好。ヒロインのルミナスが、親友フィーを失ったのち、それでも先に進むと墓所を訪ねるシーン。ガーネットを花束にして、ブリザードの中前に進む姿。脳裏に蓋井天からのビデオメッセージが蘇る。
今思えば、この時の文佳こそ蓋井天の遺志を最も汲んでいたのかもしれなかったのだ。
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