パブリッシュ・エゴイズム

井守千尋

プロローグ

「ねぇ、モツレクって知っている?」

 とある港町。荒海を望む堤防に、二人の男女。女は車椅子に腰かけ、男がそれをゆっくりと支え、押している。ふたり共に若く、まだ二十代に見える。女の声はか細く、強い潮風に消えてゆく。

「モーツァルトのレクイエムのことだろう?」

「天才モーツァルトの代表作の一つよ」

 はらはらと風に舞う白雪は、曇天と荒波の視界でやけに光って見えた。この風景にBGMをつけるのであれば、さぞレクイエムの似合うことだろう。

「レクイエム、鎮魂歌。あんまり患者から聞きたい言葉じゃないねえ」

「彼は、依頼されたレクイエムを作曲している最中に病に伏して、涙の日ラクリモサの八小節目を絶筆にしたの」

「絶筆って、それじゃあレクイエムは未完成なのか?」

「多くのコンサートでは全曲演奏されるの」

強い風に女が少し震えた。男は自分のマフラーを外し、女の首に巻く。そう長くはここに居られないようだ。

Requiem æternam dōnā, eīs, Domine: et lūx perpetua lūceat eīs.

入祭唱、レクイエムの冒頭を女は口ずさんだ。

主よ、彼らに永き安息を。その燦めく光がいつまでも降り注ぎますように。

「バイヤー版とか、ジュスマイヤー版とかがあるんだけどね、アマデウスの弟子や彼を愛した人が残された楽譜から続きを書いたって話」

 それは完成されたものと言えるのだろうか? 結局モーツァルト自身では最後まで作曲できなかった曲だ。その人たちが書いたところで、モーツァルトが未完成に終わらした事実に変わりはない。

「続きなんて簡単に書けるものなのか?」

男が話を聞く姿はつらそうだった。マフラーがなくて寒いからではない。彼女が遺作とか絶筆とかそのような言葉を言うのが嫌だったのだ。特にクラシックに詳しい訳でもないのに、どういうわけかレクイエムは全部原曲を歌えるほどに好きだという。

「モーツァルト並みの発想ができればね、誰でも書けたかもしれないけれどそうもいかないわ。彼が今までに書いたオペラ、歌曲、交響曲協奏曲、そして食生活や女性遍歴まで関わったあらゆるものを調べて、彼ならどう書いたかってシミュレーションののちに書いたんでしょうね」

ジュスマイヤーはモーツァルトの弟子、バイヤーは音楽学者。並の考察では届かない領域まで踏み込んで、音の一つ一つを書き足していったのだ。

「俺の知っているモーツァルトならこう書くだろう! ってことなんだな」

「その通り」

死後二百年が経った今でも、多くの研究者たちがよりモーツァルトらしい楽譜を求めている。稀代の名曲を未完成にしておきたくない、と誰もが思うんだろう。

「もしわたしがモーツァルトだったら、いっそベートーヴェンが好き勝手に続きを書いてくれたら面白いのにね、って思うんだ。昴くん、どう思う?」

昴くん、と呼ばれた白衣の青年は少し考え答える。全く曲の規模もスタイルも、芸術論から違う天才に委ねてみたら、というのだ。

「医者の立場で考えたら、モーツァルトの脳を移植するかな。無理だとしても、モーツァツトに限りなく近い教育とキャリアの人間に書かせる。「こう書くだろう」じゃあ所詮願望だからね」

「おもしろいね、それ」

女は先程より声が明るくなっていた。

「わたしもそろそろ、必要かも」

今思えば、彼女がエゴを見せたのはこの時だけだったのだ。

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