見えないゴール
千石綾子
見えないゴール
「ゴールが見えない……」
僕は呟いた。それは比喩でも何でもない。本当にゴールが見えないのだ。
「頑張れ。きっともう少しだ」
マサルが振り向いて僕に声をかける。励まそうとしているのだろうか。
「こう真っ白だと何も見えないよ」
僕は弱音を吐いた。もう何回、何十回言ったか分からない言葉だ。
僕らは今、豪雪地帯の線路脇をひたすら歩いている。大雪のために在来線がストップして、最寄り駅まで歩いているのだ。僕らの前にも後ろにも同じ電車に乗り合わせた乗客がぞろぞろと列をなして歩いている。
降ってくる雪の量も半端ではないが、横殴りの風がその雪を舞い上がらせて視界はゼロ。所謂ホワイトアウトの状態だ。
こんな状態で歩かせるなんて危険じゃないのか。そんな声も多かったが、結局は駅員の指示通りに皆大人しく歩いている。
それにしても最寄り駅が一体どのくらい先にあるのか知るすべもない。スマホのGPSを使っても良いが、この後の事を考えると無駄にバッテリーを消費したくない。
こんな事なら電車に乗る前に夕飯を食べておけばよかった。寒さと空腹で今にも足が止まりそうだ。
そう思っていたら、本当に足が止まってしまった。急に立ち止まったために、後ろから来た他の乗客にぶつかった。
「すいません」
ぶつかった男は、チッと舌打ちしたが、それ以上は何も言わなかった。今どきはちょっとしたことで刺して来たりする危ない輩も多い。僕はドキドキしながらその男と少し距離を取った。
「どうした?」
「何でもない」
マサルは急に急ぎ足になった僕にまた声をかけた。面倒見のいい奴だから、こんな時でも僕を気遣ってくれる。
「ゴールが見えない……」
無意識にまた言ってしまった。風はさっきより強くなっている。僕らは皆全身を雪に覆われて真っ白になっていた。
「さっきからぶつぶつうるせぇな」
さっきの男が小さな声で言った。怖っ! 嫌な奴に目をつけられてしまった。僕はマサルに近付いて囁いた。
「もう少し早く行ける?」
できるだけ男と距離を取りたかった。マサルは何か察したようで、僕の腕を取り早足で先を急いでくれた。
「ああいう危ない奴には近付かない方が良いぞ。あと黙って歩けよ」
「分かった」
雪深い線路沿いの道なき道をどこまでもどこまでも歩いている。そろそろ先頭を歩いている乗客は最寄り駅に着いただろうか。
「もう疲れて歩けないよ……」
言ってからしまった、と思った。
「うるせぇって言ってるだろうが!」
後ろの男がいきなり襲ってきて、僕の顔を殴りつけた。目の前に星が飛ぶというのは本当だったのか。そんな呑気なことを言っている場合ではない。男は更に殴りかかってきた。怖い。怖い、怖い。そして、痛い。
「逃げるぞ、こっちだユウジ」
マサルが僕の手を引いて、走り出した。線路に足をとられて転びそうになる。
「君、戻って来なさい!」
遠く駅員さんの声がする。どこへ向かって走っているんだろう。こんなところを闇雲に走って、遭難でもしたら目も当てられない。
「着いたぞ」
マサルの声にはっとして目を凝らすと、そこは駅のホームだった。やっと着いた。ゴールだ。
「疲れただろ。ココアでも飲もうか」
自販機で買ったココアを投げてよこす。腹が減っていたので本当なら何か食べるものが良かったけれど、贅沢は言っていられない。僕は熱々のココアを目の前に、じっと湯気を見つめていた。僕は極度の猫舌なのだ。
「飲まないのか? 冷めちまうぞ」
マサルは僕の顔を覗き込む。僕は何故だか眠くなってきて、そのまま眠ってしまいそうになった。
「おい、寝るなよ」
ぺちぺちと顔を叩かれた。寒い中、必死で歩き続けて疲れたんだ。少し眠らせてくれ。
「君、起きなさい。君!」
そんな声に、僕ははっとして起きた。僕の顔を叩いているのは駅員さんだった。次に感じたのは顔面に強い痛み。鼻にはティッシュが詰められている。さっき男に殴られた時に鼻血が出たんだろうか。
「一人で勝手に走って行ってしまったから驚いたじゃないか」
駅員さんは結構怒っているようだ。そういえばマサルは……マサルは。
そうだ、マサルは去年交通事故で──。
僕は最初から一人でこの雪の中を歩いていたんだっけ。
「こいつずっと一人でぶつぶつうるせぇから軽くどついただけだ。俺は悪くない!」
僕を殴った男は警官みたいな人に押さえつけられながら怒鳴っていた。
マサルは面倒見のいい奴だったから、僕の事を励まそうとしてくれたのかもしれない。
でも、「そこ」に行ったら食べたり飲んだりしちゃいけない、とか言うじゃないか。
あのままココアを飲んでいたら、あそこが僕の人生のゴール地点になっていただろう。マサルは寂しかったんだろうか。
天気が良くなったら墓参りに行ってやろうと僕は思った。
了
(お題:ゴール)
見えないゴール 千石綾子 @sengoku1111
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