わたしにはゴールテープが見える

くれは

わたしにはゴールテープが見える

 ゴールテープには二種類ある。

 一つは、例えば人生の目標だとか、夢だとか。それはとても壮大なものもあるし、逆にとてもささやかなものだってある。例えば、隣の席の高橋くんは、今日の学食のメニューがカツ丼で、カツ丼はいつも販売数が少なくて、それを今日の昼休みに食べることを楽しみにしている。さっきの休み時間にそんなお喋りをしていた。それも、彼にとってはゴールテープだ。

 人は、そういうゴールテープを切ることで、達成感だとか幸福感だとか、なんだかそういう気持ちを得ることができる。そうやってゴールした人たちは、また新しいゴールを見付けて、そこに向かって走り始める。

 もう一つのゴールテープは、もっと明確で、それは人生の終わりだ。そのゴールテープを切ってしまったら、人は死んでしまう。原因は様々だけど、訪れるものは変わらない。

 この話は、比喩じゃない。わたしには見えるのだ、人のゴールテープが。


 二つのゴールテープの見分け方はとても簡単で、死のゴールテープはお葬式の幕のような色をしている。

 そのゴールテープが自分にしか見えないものだと気付いたのは、随分と小さい頃だった。優しかったお祖父ちゃんが死ぬ前の日にその白黒のテープが見えて、お祖父ちゃんが歩いてそれを切ったのを見て、でもその時には、それは言ってはいけないものだと思っていたので誰にも何も言わなかった。


 そのゴールテープに干渉できると知ったのは、小学生のとき。仲の良かったユミちゃんと一緒の帰り道、ユミちゃんの前に白黒のゴールテープが現れた。わたしは咄嗟にユミちゃんを呼び止めて、でもどうして良いかわからなくて、ハサミで切れたら良いのにと思った。それで、わたしは右手の人差し指と中指でハサミの形を作って、試しにそれをちょきんとしてみた。そしたら、テープがはらりと落ちて、消えてしまった。

 ユミちゃんは不思議そうにわたしを見ていた。変な子だって思われたかもしれないとどきどきしながら、わたしは「おまじない」と言った。ユミちゃんが訝しそうに首を傾けたとき、エンジンの音と、それから何か大きくて硬いものが潰れる音が響いて、わたしたちの進行方向で車が電信柱に突っ込んでいるのが見えた。ちょうど、あのままわたしたちが進んでいたら、きっと巻き込まれていたくらいの距離だ。


 死のゴールテープが見えてしまったとき、どうするかはいつも悩む。ユミちゃんのときみたいに、助けられるときもあった。助けられないときだって、あった。

 例えば、あのお祖父ちゃんのテープを切っていたとして、それでもしかしたらお祖父ちゃんは死ぬのが少し先になったかもしれないけど、でもまたすぐにゴールテープは現れたんだろうなと思う。それがお祖父ちゃんの寿命だったんだと思ってる。

 それでも、屋上に出ていく同じクラスの佐々木くんの、その前に漂う白黒のゴールテープを見なかったことにできるほど、わたしは心が強くない。昼休み、わたしは慌てて佐々木くんを追いかけた。




 佐々木くんに続いて屋上に出る。佐々木くんはまだゴールテープを切ってはいなくて、ゴールテープはゆらゆらと、佐々木くんの体から離れたり、近付いたりしていた。こういう、不安定なゴールテープには覚えがある。自殺だ。

 それでわたしは少しためらってしまう。事故は、その一回を防げば良い。でも自殺は、原因が有る限りまたゴールテープが現れてしまう。これまでは、そうだった。人が死ぬのを放っておくのも、死のうとしている人の心のうちに踏み込むのも、どちらもとても怖いことだった。

 勢いで追いかけてきたけど、わたしはあのゴールテープにハサミを入れることができるだろうか、そう思って立ち止まってしまった。

 佐々木くんが振り向いて、わたしの姿を見る。ゴールテープは消えてくれない。そして、わたしも今更戻れない。

「佐々木くん、なんで屋上にいるの?」

「いや、それ、こっちのセリフ。伊藤こそ、なんの用?」

 温度の低い声で、佐々木くんはそう言った。ただの、普通の、クラスメイトだと思っていた。特に何か問題がある様子もないし、目立ったこともしないし、何人かで集まってお喋りだってしてた。今日だって、学食のメニューがカツ丼だって話をして笑ってたのに。なのに、なんで、と思う。

「あ、えっと……その……」

 わたしは言葉に詰まったまま、佐々木くんの向こうにあるゴールテープを見る。それはゆらゆらと、少し遠ざかってはいたけれど、まだ確かにそこにあった。

「えっと、ごめんね、意味わからないと思うけど、そのまま動かないでいて」

 早口でそう言うと、わたしは駆け出した。訝しげに眉を寄せる佐々木くんの脇を通り過ぎて、その少し向こう、フェンスの手前でゆらゆらしていたゴールテープを人差し指と中指でちょきんと切り落とす。それがはらりと落ちて、消えてゆくのを見届けて、それからそっと佐々木くんを振り返る。

 佐々木くんの周りには、新しいゴールテープはもう現れてなくて、わたしは少しほっとした。

「ごめん、用事は終わり。ほんと、意味わからないと思うけど、おまじないなの」

 そう言って、佐々木くんの脇を通り過ぎようとして、腕を掴まれた。

「待って……今、何したの」

 わたしの腕を掴む佐々木くんの力は強くて、それ以上にとても真剣な目で真っ直ぐに見てくるものだから、わたしは逃げられないと思ってしまった。


 かと言って、ゴールテープが見えるなんて話はとてもできなかった。

「だから、佐々木くんが屋上に行くのが見えて、なんだかそのまま飛び降りるような気がして、止めなきゃって思ったんだけど、いざ来てみたら勘違いかもしれないし、どうして良いかもわからなくなって」

 佐々木くんは、それで誤魔化されてくれなかった。人差し指と中指を立てて、それをちょきちょきと動かしてみせる。

「さっきの、あれ、何」

「ええっと……よくわかんない。とにかく何か邪魔したら、飛び降りとか諦めてくれるかなって」

 ちっとも納得してない顔で、佐々木くんがわたしを見る。

「飛び降りなんて、わたしの勘違いだよね。変なこと言ってごめん。もう行くから離して」

 佐々木くんはわたしの腕を離さないまま、ちょっと溜息をついた。

「いや、勘違いじゃない。さっきはもう少しで飛び降りるところだった。でも、俺が聞きたいのはそんなことじゃなくて」

 佐々木くんがわたしの顔を覗き込む。わたしは逃げることもできずに、佐々木くんの言葉を真正面から受け止めるしかできなかった。

「伊藤、さっきの、見えてたんだろ。だから、それに何かしたんだろ」




 逃げない、話をするから。そう言って、わたしの腕はようやく解放された。二人で並んで座って、フェンス越しに空を見る。


「人のゴールテープが見えるんだ。別に問題ないものの方が多いんだよ。例えばさ、テストで良い点とりたい! みたいなのがほとんどで。だから、普段は気にしないようにしてる。でも、たまに白黒のやつがあって、それは人生が終わるゴールテープだから、見ると気になっちゃって」

「ああ、じゃあ、あれはテープをハサミで切ってたのか」

「切ると消えてくれるんだ。一時しのぎにしかならないこともあるし、いつも助けられるってわけじゃないし、本当はやっちゃいけないのかもしれない。でも、知らんぷりするのは怖くて」

 こんな風に、自分のことを話すのは初めてだった。佐々木くんは、わたしの話を否定することもなく、茶化すこともなく、聞いてくれた。そうやって話して初めて、わたしは自分が今まですごく重い空気を吸っていたんだと気付くことができた。

「俺は、自分のしか見えないんだ」

「ゴールテープ?」

 わたしの声に、佐々木くんは首を振る。

「俺の前に出てくるのは、いろいろ。人の姿だったり、そうじゃなかったり。目の前に出てきて『死んでしまえ』って言ってくる。それを聞いてると、死にたくなるんだ」

「……これまでは、死なずに済んでたんだね」

 佐々木くんは、じっとわたしを見た。踏み込み過ぎたのかもしれない、と不安になる頃、ようやく口を開く。

「初めては、小学校のとき。橋の上で、急に『飛び降りてしまえ』って呼びかけられた。カラスだった。俺は、言われるままに欄干に手を掛けた。その時、隣のクラスの女子がやってきて、欄干に止まっていたそのカラスに、こう」

 佐々木くんは右手をチョキの形にして、前に突き出した。

「そしたらそのカラスは消えて、俺は死なずに済んだ。それから、いつも、ぎりぎりのところでそれを思い出して、それを真似して、こう。いつもそれで、目の前のそれは消えてくれて、それで死なずに済んだ」

「ひょっとして、それ、わたし?」

 恐る恐る聞いたら、佐々木くんは呆れたような顔をした。

「人のゴールテープを切るとか言うやつが、伊藤以外にもいると思うか?」

「ゴールテープいっぱい見えてたから、できるだけ忘れるようにしてた、怖くて。だから、あんまり覚えてないんだ、ごめん」

 佐々木くんはゆるゆると首を振った。そして、静かに微笑んでわたしを見る。

「いや、伊藤が覚えてても覚えてなくても……俺は伊藤がいたから、あの時、伊藤が助けてくれたから、今も死なずに済んでる。今だって、こうやって助けにきてくれて……ありがとう」

 わたしは……何も言葉が出てこなくて、口を開けたり閉じたりしてるうちに、涙が出てきて……佐々木くんは、わたしが泣き止むのを静かに待っていてくれた。

「良かった」

 泣きながら、ようやくその言葉だけ自分の中から零れ出てきた。きっとその言葉は、すごく自分勝手な言葉だったと思う。だというのに、佐々木くんはもう一度「ありがとう」って言ってくれた。

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