カノン
少年期に染みついた。懐かしい香りを嗅いで、固く閉ざされていた目蓋が開く。アレキサンダーの声や、機械的なアナウンスもない。随分と見覚えのある天上だけが目の前にあった。
ゆっくりと身体が起き上がり、勝手に動き出していく様は不気味で、夢を見ているような錯覚に陥る。
それにしても背丈が低く、十代の初頭まで家族と暮らしていた。ニューヨークの行政区。マンハッタンの我が家であることなど、不可解な点を挙げればキリがない。
(まさか、
これから自室を出て、居間へ移動するらしい。
ぼくが一階に降りると、愛犬のシットウェルがケージの中で、可愛らしく尻尾を振って待っていた。すぐにそこから解き放ち、シットウェルを優しく抱き締める。
そして、美味しそうな匂いにつられ、両親が待つであろう居間へと向かった。
「おはよう、アーロン」
「おはよう、ママ」
これは夢でもなく、現実でもない。
既に亡くなったはずの両親が健在な上に、過去の日付を指すカレンダーを見て、確信した。
ぼくは今、回想している。幼い身体でありながら、成熟した精神を持ち合わせているのが証拠。それでいて、自由が効かないのだから、そうとしか考えられない。
「起きたか、寝坊助」
「うるさい、パパ」
父からはいつも寝坊助呼ばわりされていた。まだ朝の七時だけれど、父の職業は法務行官と言うこともあって、早朝の五時には出掛けるような人だった。だから揶揄っているが、実のところ寂しかったのだと思う。
「あんまりイジメないの。あなたと違って、子どもは眠るのも仕事です」
「そんな仕事があったとは」
「日本のことわざで、寝る子はよく育つ。なんて、言葉があるんですよ」
母は様々な人種の血に織り成され、そのルーツとなった国々を愛好する。ニューヨークの起源、人種のるつぼを代表するような性格をしていた。
ぼくの敬愛する人物。少なくとも他人から褒められる時は、殆どの場合が母の影響で培った感性に因るものだった。
「それならお勤めご苦労様だな」
当時のぼくにこういった冗談が理解できるだけの知能はなかった。今思えば、面白い話だ。
「ワン、ワン!」
「シットウェル。ちゃんと食べるんだぞ」
ぼくはシットウェルと朝食を摂る。こいつは何度も目配りを求めて、ひとりでに食事しない。甘えん坊なヤツだった。
「今日は休日だし、家族で映画を観るか」
この時刻になって父が家に居るのは、非番の休日ということ。母も乗り気で「じゃあ、急いで家事を済ませるわ」と張り切った。
「俺も手伝うよ」
「あなたは休んで」
「急ぐなら二人の方が効率いいだろう」
「もう、ありがとう」
本当に円満な夫婦だった。
ぼくも何不自由なく幸せな生活を送っていたし、こうして見ればあの出来事が起こるまで、どこにでもいるような少年だったんだ。
「よーし、着いたな」
ぼくらは上映作品を確認せずに、よく映画館へ足を運んだ。何事も先入観を持たずに地肌で感じるのが
アクション、コメディ、SF等々。沢山のジャンルがラインナップされており、その中から一つ選ぶという行為に苦悩する。
「この映画はどうかしら?」
そんなぼくの様子を見逃さず、母は館内のチラシを広げて、あらすじを語り始める。内容はヒーロー物で男の子が超能力を手に入れて、自らの正体を隠し、悪の組織と果敢に戦う物語。
大人から子どもまで幅広く楽しめて、分かりやすい
きっと父のことを気遣っているんだ。
その昔、自宅でテレビ版の放送を観た。幼いぼくの傍で酔った勢いの父がマスクを被るのは卑怯だとか、「俺たちをコケにしやがって」と画面越しに罵っていたのが衝撃的だった。
しかし、実際には刑事の仕事は過酷であり、今になれば痛いほど父の気持ちが理解できる。
個人の犯罪から組織犯罪に至るまで、素顔を隠すことなく現場へ出向くのは、相当な覚悟と決意が求められる。それを踏まえて考えてみると警察が引き立て役として利用され、世の中に無能な印象が浸透するのを気に入らないと思うのは至極当然のこと。
そんな訳で幼いぼくは、父を注視していた。
「俺はコレをみたいな」
「ぼくもそれがいい」
その映画のキャッチコピーを見るに、祖国愛を象徴するような、古い戦争の映画だった。
「そうね……。わかったわ」
ぼくと相反して母は気乗りしない様子だ。
歴史的な戦争を振り返れば、自らの体内に流れる血族同士で殺し合いが繰り広げられる。
酷く醜い争い事を、家族団欒の時に観たいとは思わないだろう。だが、当時のぼくはもちろんのこと。父までも気付く様子がない。
これは気付けないと言うべきか。
よく見れば父の瞳は血走っており、刺激を求めるような落ち着きのなさがあった。
ぼくも等しく、同じ経験をしたことがある。
例えばアダルトビデオを眺めて、あそこを奮い立たせ、自慰行為に臨むように。殺人的な映像を眺めることで、内なる戦士の成分を蓄え、命懸けの仕事へと臨んでいく
ぼくがテロリストを追っていたように、父も犯罪者を追っていた。しかもバベルのような便利な発明はなかったので、自らの思考を頼りに犯人を追跡し、顔を合わせたら身体と身体をぶつけて、手錠という鎖で繋がらなくてはならない。極めて個人的なお仕事だ。
父はそのような勇ましさを発揮するために、理想像となり得る人材を探していたのだろう。
「まさか祖国を裏切ってまで、自分の正義を貫くなんてね。映画のキャッチコピーを裏切るような物語には驚いたわ。もっと、古臭いタイプの映画だと思ったのに」
「だいたい映画のキャッチコピーなんて、広告代理店が頼まれて設けるような一文さ。バカにしてるわけじゃないが、作り手からしてみれば的外れなことも多々あるらしい」
その映画を観れなかったから、母が打って変わって、ご機嫌な理由がわからない。
過去の記憶を遡っているからなのか、ぼくにとって印象的な部分だけ鮮明に描かれ、残りはモヤがかかったように不明瞭なのだ。
「あの軍人さん! すごかったね!」
「パパだって、彼らに負けじと強いのさ」
当時のぼくに代わって、父に寄り添いたい。
「父さんの孤独な恐怖に、気付いてあげられなくてごめん。ずっとつらかったよね。今まで家族を守ってくれてありがとう」
それから父を目一杯に抱き締める。なぜならお別れは間もなくやって来るからだ。
あれは確か、十三歳になった時のこと。
いつもとは異なり、刺激的な臭いと犬の怒鳴りで眠りから目覚める。さらに悲痛な鳴き声が聴こえてきて、ぼくは漠然とした恐怖に陥った。
自室に近付く足音を恐れて、真っ先に扉の施錠を試みる。だが「私よ、アーロン。大丈夫だから」と言われ、室内に母を迎え入れた。
「落ち着いて聞いてちょうだい」
その言葉とは裏腹に、両手で拳銃を握り締めている。続けて、下の階で叫び声が聴こえた。
「家族もろとも、お前を殺してやる!」
「私を見て、アーロン!」
母は何者かによって、自分たちが襲撃されていることを説明する。
既に警察へ通報したから、間も無く助けが駆けつけるのだと言う。
しかし、ぼくは決して安堵しない。それどころか、敵がいるという事実を知って、父の元へ加勢しようと進言する。
「母さん、その銃を貸して」
あの時は恐怖で溺れそうだった。
ぼくは前向きに勇気を振り絞って、自らの混乱を戦うことで収めようとしたのだと思う。
「何を言ってるの?」
「ぼくは、父さんを助けたい」
「絶対にダメよ! あなたは子どもなの、そんなことは赦しません!」
まさに正論だろう。だからと言って、代わりに犯人を裁いたり、父の命を救ってくれるわけでもない。
現に数発の銃声が響き渡っていた。
ぼくは母の動揺した隙をつき、強引に拳銃を奪い取る。
「待って!」
母は腰を抜かして、ぼくに手を差し伸べた。
ぼくは背を向けて、戦士になろうと試みる。
この時の選択が人生を決めるとも知らずに、父親を救うという名目を掲げて、一目散に駆け出した。
「嘘だろ、シットウェル……」
ぼくの家族。弟のように溺愛していたシットウェルが殺されて、悔し涙が込み上がる。
「よくもやってくれたな……」
「なんだ犬の次は、ガキかよ」
犯人の一人と出会した。
片手で拳銃をぶら下げており、それだと構えて・狙い・撃つまでに時間を要することを知っていた。だから「お前たちを殺してやる!」と、執拗に自分を追い込んだ。
「このクソガキ!」
もう後には引き返せない。子どもながらに短い右腕を伸ばして、適度に左肘を曲げた。
アクション映画の俳優が演じる、一流のスパイ気分で、実弾を犯人へ撃ち連ねた。
「ッッ」
両手の甲から肩にかけて、鈍い痛みが響き渡る。何発も撃ったうちの二発の弾丸が、犯人の右腕と腹部に直撃したらしく、余りの痛みからのたうち回っていた。
そして凶器たる、拳銃も床に落ちている。
「嫌だ、死にたくない……!」
「だったら、なんでウチに来た!」
ぼくらだって、死にたくないさ。
シットウェルだって、死にたくなかったさ。
「最期までシットウェルは戦ったぞ! それなのに、お前は情けない!」
ぼくは犯人を仕留めようと、そのトリガーを引く。だが空の音が聴こえ、意気消沈する。
「なかなか、言うじゃないの……」
ぼくの罵声に感化され、最期まで戦おうと、犯人は戦士に様変わりした。大人と子どもという、決して覆すことのできない力量差を痛感する。
「おら、さっきの威勢はどうした!」
ぼくは痛めつけられていき、仕舞いには首を強く締められた。直に死の恐怖が差し迫り、惨めなシミがズボンに染み渡る。こうなったら死に物狂い。相手の両目に短い指先を差し向け、典型的だが有効とされる、目潰しで逆らった。
「お、俺の目が」
ぼくは暴力から解放され、健気に走り出す。どう
すぐに犯人の銃を拾い上げ、勇ましく言い放つ。
「これはシットウェルの仇だ……!」
初めての殺人。簡単に言語化できないような、激しい不快感に襲われ、ぼくは嘔吐する。
テレビでは教えてくれなかった。
本当の戦いは格好良くない。ひたすらに惨めでどうしようもなくって、哀れなものだと子どもながらに知ってしまった。
そして、真夜中の月明かりが窓辺から差し込み、床に転がっていた遺体を照らし出す。
ぼくはそれを見て、殺人を白日のもとに晒された気がして、精神的に錯乱する。
「うわぁあぁああああ!」
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