樋口のばあちゃん


 道端に落ちていた小さなそれは、落ちてからしばらく時間が経っているようで、泥が乾いたあとが残っていた。傷は付いていないから、洗えばまだ履けるだろう。なんとはなしに拾い上げてみる。


「みやさか……か、す、ず? な。みやさかかずな、か」


 かかとの内側に書かれた掠れたひらがなをどうにか解読して、フルネームを読み取る。みやさか、は宮坂だろう。かずなは、和奈か、一菜か……。どれにしろ、近所の知り合いに宮坂という苗字の家族はいない。サイズや形からしてまだ就学もしていないだろうし、だっこされていたそのかずなちゃんが落としたのだろう。捨て置くのもなんだし、と、二つ手前の交差点のところにある交番まで戻ることにする。幸い、時間には余裕がある。


「どうしたの?」

「えっ?」


 突然話しかけられて、素っ頓狂な声が出た。振り向けば、同じクラスの……誰だっけ。確か風紀委員だ。いつも順位表に乗ってた……、


「萩田。いい加減覚えてよ……」

「あぁ、萩田、萩田な。悪い、ド忘れした」

「別に良いけど。それ、どうしたの?」


 手に持った小さい靴を指されて、俄に焦る。高校生が幼稚園児サイズの靴を持っていたら、ロリコン扱いされてもおかしくない。


「あ、いや、違うぞ? 偶然拾っただけで、オレの趣味とかでは全然、」

「何を心配してるのよ。拾ったんでしょ? って言うか見てたから。持ち主、知ってた?」


 ここら辺は、昨今の風潮に反して、地域づきあいが濃厚な方だ。大概の家庭が隔月で行われるイベントに参加するし、すれ違えば挨拶もする。地域の子どもはみんなで見守るのがモットーで、オレも、小学生以上の子達なら大体名前と顔は一致する。萩田は隣の学区だったから小学校も中学校も一緒ではなかったが、地域としては同じだ。知っていてもおかしくないと踏んだんだろう。


「いや、オレは知らなかった。みやさかかずなちゃん、だと思うんだけど、心当たりある?」

「宮坂さん……、四丁目のコンビニの裏に住んでる樋口さん、旧姓が宮坂さんだった、かも。確か宮何とかさんだったはず」

「お、じゃあそこのお孫さんかな? 交番戻ろうと思ってたけど、直で渡してくるわ」

「私も行って良い? 最近会ってないから、挨拶したい」

「おう」


 なし崩し的に二人で道を歩く。いわゆる陰キャのオレと、スクールカーストほぼトップの萩田が並んで歩いている光景は、端から見ればかなりおかしい。すれ違った小学生達に冷やかされつつ、ドラッグストアの角を曲がれば四丁目だ。コンビニまでは直線距離は短いが、人通りも車通りも多い。後日いじられるんだろうな、と半ば諦めつつ、あまり会話もせずに歩いた。

 どこかのコンビニの入店音のようなインターホンの音がドア越しに響いてきた。しばらく待つが、中で人が動く気配はない。もう一度。応答はない。念のため、もう一度。……反応は、ない。


「出掛けてる、のか?」

「や、でも、樋口さん、足悪いから、あんまり……」


 よぎった不安に思わず周りを見回して、最悪なものを見つけてしまった。ドアの左側に設置された郵便受け。新聞やチラシ、手紙などが雑多に詰め込まれている。一番下の新聞は二週間前だ。


「これ……!!」

「萩田は管理人さん呼んでくれ。オレ交番行ってくる!」

「北条!」


 悲鳴のような萩田の声を尻目に、件の靴を持ち上げられた両手に押しつけて二人で歩いた道を全力で戻る。杞憂なら良い。ぐっすり昼寝していて、とか、旅行に行ってたとか。そしたら謝って、苦笑いすれば良い。だからどうか、そんな風な結末が訪れますように。ガラにもなくいるかも分からない神頼みをしながら、必死に交番まで駆け戻る。







 救急車のサイレンが、遠く聞こえた。

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