第8話

……8


 その夜もまた悪夢を見た。

 俺は何故か掃除道具を持って資料倉庫に立っている。資料を並べた棚と棚の隙間から事務所内が見えた。そこでは中瀬や見慣れた面々が、こちらにはまるで気付かぬ様子で歩き回ったりキーボードを叩いたりしている。室内は照明が壊れたように薄気味悪い暗さだった。

 ふと気になって俺のいた座席を見ると、誰もいない。しばらく見ていると中瀬に怒鳴られていた男が悄然と肩を落として俺の座席に戻った。

 どうやらあいつが俺の代りにこのポストに就いたのか、と夢のなかの俺は思った。いかにも疲れていると言いたげな顔の男は俺より少し年老いて見える。傍から見れば俺もあんな具合だったのだろうか。

 ふと男がこっちを見た。俺は男と目が合った。

 馬鹿な。あれは俺だ。髪に白いものが混じり、頬肉も削げ落ちているから分からなかったが、確かにあれは俺自身の顔だ。正確には数年後の俺の顔。なぜ? 俺は俺の目を見たまま目を逸らせなくなった。男の、俺の口が動いた。何かを語りかけている。俺に何かを訴えかけている。

 何してる。早く、早く寝ろ。

 奴の唇はそう動いたような気がした。だが実際には動いているのは俺自身の唇だった。

 突然恐怖が押し寄せてきて、俺は走ってその場から逃げようとした。だが資料棚が四方を囲んでいて逃げ場がない。ここはどこだ。俺はどこにいるんだ。ここは俺の居場所じゃない。これは夢だ。こっちが夢なんだ。早く、早く起きなければ。

 布団から身を起こしたとき、俺は不快な汗で全身を濡らしていた。自分がどこにいるのかを確認して安堵に胸を撫で下ろす。

 外からはずっと雨の音が響いている。

 キッチンまで歩いて煙草を吸おうとしたが、見つからなかった。そういえば買っていなかっただろうか。抑々俺は煙草なんて吸っていただろうか。暗闇のなかで手を動かし続けると、不意に生暖かい感触が指先に触れた。俺が握りしめると、向こうから彼女が握り返してくれた。俺はその温もりを感じながら涙が溢れてくるのを止められなかった。

「どうしたの?」

 彼女が優しく問いかけてくれた。

「夢を見るんだ」

 俺は涙に滲んだ声を出した。

「夢?」

「ああ。ずっと夢を見てる。いつもいつも夢のなかじゃ俺は惨めだ。何一ついいことは起こらないし、何をやってもうまく行かない。きっとこのまま望まない人生を送って行くんだろうなって思ってる。だから早くこんな夢から覚めたいと思って必死で目を覚ます……ここなら、俺をそんな惨めな気分にさせるものはないから」

 彼女は黙って俺の話を聞いてくれている。鼓膜には俺のすすり泣く声と、静かな雨音だけが響いていた。

「分かってる。だけど分かってる。いつからかは分からないけど、そんなのは嘘だって。そんなはずがないって」

 俺は彼女の手を握りしめたままの手にちからを込めた。

「これは俺自身が望んだ結果なんだ。俺は逃げたんだ。だけど、俺だって最初から諦めて逃げたわけじゃなかった。戦い続けたんだ。それでもうまく行かなくって、気が付くと逃げていた。俺は、きっと子供の頃のあの日から何も変わってない。逃げて逃げて、現実から目を背けて……」

 しばらくして彼女は、そう、と優しく呟いた。

「もう、夢から覚めたい?」

 母親が我が子に諭すような優しい声色だった。

 だが俺はその問いかけに答えられなかった。俯いたまま、じっと自分の涙の行方を見ていた。

 普通なら、きっと大勢の人ならそれでも夢から覚める道を選ぶだろう。どれほど惨めでも現実と向き合うのが正解だと言えるのだろう。だが俺にはその勇気がなかった。

 羊には目が覚めても、いずれ屠殺される現実しか待ち受けていない。ならばせめて夢のなかだけでも幸福でいようとするものじゃないだろうか。

 俺は黙って彼女から手を離した。冷たい壁の感触がそこにあった。

 俺はゆっくり瞼を閉じて暗闇のなかに身を沈めて行った。


*****


 けたたましい目覚ましのベルが俺の鼓膜を叩く。

 俺は布団から伸ばした腕をやみくもに振り回し、枕元に転がる目覚まし時計を掴んだ。ベルが止まる。静寂のなかで、朝の日射しを称えるような雀の鳴き声が鼓膜を心地よくくすぐった。

 ずいぶんと長い、長い夢を見ていた気がする。しかしどんな夢だったかはどうしても思い出せなかった。きっとろくな夢じゃなかったに違いない。

 カーテンの隙間からは早くも初夏の日射しが射し込もうとしている。今年の梅雨は何だかとても長かった気がした。

 今日も暑くなりそうだ。


                                 完

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羊の悪夢 余生 @ngtkak32

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