第7話

……7


 どこかで救急車のサイレンが響いている。俺は闇のなかで音の方向を探った。背後の遠くで響いていたサイレンは停車したのか、闇のなかに溶けて聞こえなくなった。

「雨、やんだみたいですよ」

 女の声に俺はゆっくり目を開いた。隣には声の主である羽芝さんが笑っている。俺は傘を持ったまま空を見上げた。確かに雨が上がり雲間から夕日が射しこんできている。もしかするとやんでから結構経っていたのかもしれない。周囲を行き交うサラリーマンや学生はほとんど傘を畳んでいる。俺は何だか気恥ずかしい思いで、曖昧に笑いながら傘を下ろした。

 羽芝さんは俺と同期で入社した唯一の女性社員だ。齢は俺よりひとつ下で、同じく中途入社した人間として共感することが多く、仲良くなるのに時間は掛からなかった。そこまで美人ではないが、ぱっちりした目や笑顔は好みだった。もしかしたら、ということも考えてしまう。

 今日は会社帰りに傘がなくて困っていた彼女を見つけ、こうして俺の傘で駅まで送ってあげていたところだった。

「何か考えてたんですか?」

「え?」

 彼女の質問に間抜けな声を出してしまう。

「上の空って顔してましたよ。もしかしてお疲れ?」

 ああ、と言ったきり俺は次の言葉に詰まった。実際、さっきまで彼女と何を話していたかよく覚えていない。会社で俺から声を掛け、相合傘になった辺りまでは鮮明に覚えているし、そのあと互いに前の会社の悪口に花を咲かせたのも覚えているのに、不思議だ。

 どうも最近変な夢を見るんだよね、と俺は答えにならない答えを返した。

 実際昨夜見たのも悪夢だった。俺は礼服を着て実家の居間に座っている。周りを見渡せば父や母や親戚の面々もいた。誰が死んだのだろうと思いつつ葬儀に参列した。焼香の際に覗くと棺のなかには兄の顔があった。驚愕して固まる俺に向かって、兄が口元だけで不敵に笑う。そこで目が覚めた。

 こんな話をされても困るだろうが、俺はつい隣を歩く彼女に話していた。羽芝さんは雀のように小首を傾げた。

「お兄さん、いたんですか?」

「いるよ。話してなかったっけ?」

「でも、確か前は一人っ子だって……」

 そんなこと言ってないよと笑おうとして、不意に自信がなくなり言葉を飲み込んだ。雨上がりの夕日はやけに眩しい。その光が車道で信号を待つ車両のミラーに反射して、一瞬視界が白くぼやける。

 信じられないことだが、俺はその瞬間自分に兄弟がいたか自信がなくなってしまった。もうお互い成人して滅多に顔を合わせる機会がなくなったとはいえ、唯一の兄弟の存在を忘れるだろうか。

 そうだ。やはり兄はいた。前職を辞めて間もない頃、気晴らしに一度兄のアパートを訪ねたことがあった。兄は学生の頃とまるで変わらない様子で俺を迎え、俺たちは無心になってゲームをして遊んだ。母が夕食どきになっても帰ってこない俺たちを呼びに現れて、俺たちはやっと食卓に着いた……

 いや、それは夢だ。どう考えても俺も兄もそんな年齢じゃないし、母が出てくるはずがない。

「きっと枕が合ってないから悪夢を見るんですよ」

 と羽芝さんが話題を変えるように言った。

「枕が?」

「ええ、枕が合ってないと夢見も悪くなるのだ、ってテレビで言ってました」

 彼女が笑って言うので、俺もつられて笑った。その後は彼女におすすめの枕について講釈をしてもらっているうちに、駅に着いた。また明日、と言って彼女と別れた。

 彼女を見送ったあと、俺は駐輪場まで歩いてそこで自転車に乗る。走り出して間もなくまたサイレンが鳴り出すのが聞こえてきた。きっとさっきの救急車だろう。まるで俺を追い立てるかのようにその音は背後から迫ってくる。俺はいつもより強くペダルを漕いで走り続ける。

 大丈夫だ。何もかも順調に進んでいる。下水溝を這いずり回るような毎日は終わった。新しい仕事はやりがいがあるし、何より未来がある。

 俺にはまだまだやりたいことがある。引越して広く清潔な家に住みたい。折角だからペットが飼える部屋がいい。彼女を作って旅行なんてのもいい……

 どこかでけたたましく甲高い音が鳴っている。そういえばあの目覚まし時計はどこに行ったのだろう? 俺の部屋のどこかで鳴っている目覚まし時計。最後に部屋で見てから二年は経った気がする。いや、もしかするとそれ以上だろうか。

 何か、とても重要な何かがこころに引っかかった気がするが、俺は構わず走り続けた。

 夕日が俺の背中を睨んでいる。鬼の足音はすぐ背後まで近づいている。いつしか周囲に人も車両も見えなくなった。燃えるように赤い、赤い夕日。

 俺はひたすら闇に向かってペダルを漕ぎ続けた。

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