第6話

……6


 暗闇のなかで誰かの叫び声を聞いて、俺はがばと身を起こした。全身は雨に打たれたようだ。心臓は早鐘のように鳴り続けている。周囲を見渡し、そこが自分の部屋だと気付くまでしばらく時間が掛かった。

 叫んでいたのは自分らしい。

 喉がからからに乾いている。億劫だが、結局立ち上がってキッチンまで歩き、水道水を喉に流し込む。携帯電話を見るとまだ深夜三時だった。

 あの駅での揉め事から半年近く経つのにまだこんな夢を見る。よほど堪えたらしい。だがそのお陰とも言えるだろう、俺はあのあと転職を決意し、こうして新しい環境に身を置くことができた。

 あの日、結局俺は周囲の通行人に抑えられ、呼び出された警官によって事情を聴取された。高校生も冷静を取り戻し、お互いに非があったということを認め、警官を通じて詫びた。

 解放されたときには当然すっかり就業開始時刻を過ぎている。会社に連絡を入れた俺だが、予想に反して中瀬の対応は余所余所しかった。その理由は出社後に分かった。

 中瀬は遅刻を詫びる俺をちらりと見ると、別室へ誘い、そこで俺に事情を説明させた。その間もどこか俺の顔色を窺うようで、何だか気味が悪かった。

 その原因のひとつは中瀬との会話を終えてトイレに行ってから分かった。用を済ませ鏡を見た俺の顔には地面にぶつけたときの頬の青あざがくっきり浮かんでいたし、何より血の気の引いた表情はゾンビ映画にでも出てきそうだ。これなら中瀬が叱ろうにも出鼻を挫かれたというものだろう。

 だが原因はそれだけではなかった。一通り俺の話を聞き終えたとき、中瀬は真っ先に「疲れてるのか」と訊いてきた。

「まあきみも分かってると思うけどねえ、いくらうちがいま一番忙しい時期だからって、なあ、体を壊してまで働けって言ってるつもりはない。うちはブラック企業じゃないんだし。ストレスでも溜まってるなら相談していいんだぞ?」

 分かってると思うけど、というのはこの男の口癖だ。結局いつもその一言で片付けようとする。俺は黙って中瀬の言いたいままにした。

「きみがよく頑張ってくれてるのは分かってるけどな。根を詰め過ぎなんだよ。いまやってるあのプランだが、あれ、ちょっと調整しようと思うから」

「いえ、問題ありません」

「いや、元々そんな無理して急ぐ必要はないんだ。お客だって理想の納期を言ってるだけで交渉は出来るんだから」

 抑々仕事の納期を急かしたのは中瀬自身だ。その納期について事前に相談したが、こいつは何だかんだと言って客先の希望の納期で仕事をさせようとした。そのことを忘れているのか覚えていてこんなことを言っているのかは分からない。

「大体さあ、問題ありませんったって、既に問題を起こしたわけだろ。その上でそんなこと言って無理させたら、俺が問題視されるじゃないか、なあ?」

 中瀬は遂に本音を漏らした。俺はようやく中瀬の態度の理由を理解した。

 要するに部下が問題を起こすと自分が会社から責任を問われるから、丸く事を収めたがっているのだ。俺は急に目の前の男が小さくなったような思いに捕われた。それと同時に不意に声をあげて泣き出したい欲求に駆られた。

 俺は毎日一体何をしているのだろう。こんなつまらない小さな男に怒鳴られ、こき使われて、結局何があってもこいつは自分の保身しか頭にない。この男は俺の内心なんてこれっぽっちも理解してないし、まして心配なんて微塵もしないだろう。別に期待していたわけではないが、それでもその現実を目の前に突き付けられると、何だか全身のちからが抜けて行くようだった。

 もうこんなところにはいられない。ここは俺の居場所じゃない。

 その数か月後、俺は会社を辞めた。


 俺は暗闇のなかで煙草に火を点けた。

 この年齢での転職は予想通り簡単ではなかったが、思ったより条件のいい会社に入れたのは正直運が良かっただろう。まだ入社して日は経たないが、今のところ中瀬のような厄介な上司には捕まっていない。給与も仕事量も前よりは好条件で、むしろ何であんなひどい環境で何年も我慢していたのだろうと悔やまれるほどだ。

 すべてがいい方向に歯車が回り始めている。この流れを無駄にしてはいけない。努力して、我慢して、今度こそ夢を叶えるんだ。自分にそう言い聞かせた。

 夢、と言えばそれがいまの一番厭なことだ。どういうわけか近頃厭な夢を頻繁に見る。会社を辞めて生活リズムが変わった所為だろう。お陰でさっきのような悪夢に苛まれて目を覚ますことが多いのが、いまの最大の悩みか。だがこんなくらいは可愛い悩みだ。

 ぼんやりと煙草の煙を見るうちに眠気が襲ってきた。やはり少しでも眠ったほうがいいかもしれない。煙草の火を消し、もう一度水道水を汲んで喉に流し込んだ。外はしとしとと控えめな雨が窓を濡らしている。

 梅雨が明けるまでまだしばらくかかるらしい。

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