第5話

……5


 その日は朝から最低の気分だった。

 まず目を覚ましたのが遅刻ぎりぎりの時間だった。目覚まし時計の電池がとうとう切れたらしく、全くアラーム音が聞こえなかった。結局は壊れかけているのに放置していた自分の責任とは思うが、無性に腹が立つのは止められない。

 だが何より俺を最低の気分にさせたのは昨日の仕事で中瀬に暴言を吐かれたことだ。詳しく話せばキリがないが、俺がミスをしたわけでもないのにあることないことを言って俺を責めようとする。理不尽な物言いに俺は危うく怒りを爆発させそうだったが、何とかその場は堪えることができた。しかし内心の鬱憤は嚥下しがたく、今朝になってもまだ引き摺ったまま出社していた。

 思えば最悪の条件が重なっていた。だからあんなことが起きた。

 気付けば俺は駅のホームで立ち尽くしていた。さっきまで異常な怒りで熱くなっていた体がいまは信じられないくらいに冷たい。冷めたおかげで周囲の光景がようやく見えてくる。俺を取り囲む人たちはほとんど俺とその周囲を見ていた。

 俺の目の前には高校生の男と老婆が倒れていた。老婆は下半身を高校生に下敷きにされている。この位置から老婆の表情は見えないが、高校生は俺と同じように青褪めているように見えた。

 どうしてこんなことになってしまったんだろう、と思うと同時に脳裏にその経過が駆け抜けた。

 数分前、俺は最低の気分のまま満員電車に揺られ、ようやく目的の駅に着いた。だが電車を降りたいのに出入り口付近には高校生らしい男が何食わぬ顔で突っ立っていて邪魔になっている。見るとイヤホンで音楽でも聞いているらしく、軽くリズムを取っている。髪を軽く染めていて、いかにもふざけた感じのする学生だ。

 頭に来た俺は半ば肩をぶつけるようにして電車を降りた。後から思えば大人げない行為だったが、そのときは咄嗟に怒りに任せてしまった。そのまま電車を降りて歩き出そうとしたが、すぐに肩を掴まれた。振り返るとさっきの高校生がそこにいた。

「ちょっと待てよ、なあ」

 男は憮然とした声で言って俺に手を伸ばす。

 俺は怒りを、いやそれ以上に恐怖を感じた。確かに体をぶつけたが、そこまで怒らせるつもりはなかった。喧嘩になったらどうなる? 腕には自信がないし、仮に勝てたとしてもこんな公衆の面前で学生と喧嘩したことが会社にばれればただでは済まないだろう。どうなる? どうする?

 高校生は俺が肩をぶつけた拍子に俺の鞄に引っかかったイヤホンのコードを掴み取ろうとしていたと分かったのは、俺がほとんど無意識のうちに彼の胸を突き飛ばした後だった。高校生はよろめいてそのまま後ろに倒れこんだ。あっという高い悲鳴があがった。それは高校生のものでも、まして俺の喉から出たものでもなかった。更に混乱する俺の視界に、高校生の背後で倒れる老婆の姿が見えた。悲鳴はどうやら彼女から聞こえたものらしい。

 なんて最悪のタイミングだろう。高校生自身も自分が背後にいた老婆をまきぞえに倒れてしまったことに驚き目を見開いている。周囲にいたサラリーマン風の男が立ち止まって老婆に「大丈夫ですか?」と声を掛けた。他にも何人か立ち止まり人だかりが出来つつある。

 老婆は照れくさそうに笑って立ち上がろうとした。怪我はなさそうだ。安堵に息を吐き出したのも束の間、高校生が勢いよく立ち上がって俺に詰め寄ってきた。

「おいっ、何してくれんだよ。お前がやったんだぞ」

「は、あ?」

 俺は思わず乾いた声を返した。何か考えるより先に舌が動いていた。

「お前が、悪いんだろう。急に掴み掛かって。あんなところに突っ立って」

 素直に詫びてこの場を収めるべきだ。そう思っても、俺は恐怖と怒りにすっかり混乱していた。

「ふざけんなよ!」

 高校生が胸倉を掴んだ。今度こそ本気の腕力だ。俺は喉の詰まる思いに咄嗟に体を大きく捻り、そうして男の手を逃れた反動で倒れ、したたかに頬を地面に打ち付けた。血の臭いが口のなかに広がった。不意に上司の中瀬の顔が脳裏をちらついた。

 何もかもあの男の所為だ。こうなったのも全部あいつが悪い。

 俺は拳を握りしめて立ち上がった。驚いて目を見開く高校生の顔に中瀬の顔が重なる。

 激しい怒りに身を任せた瞬間、視界からすべてが消えるのを感じた。

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