第3話

……3


 吐瀉物のように満員電車から吐き出された群衆に混じって俺は歩き続け、駅から徒歩七分のところにある事務所に辿り着く。今日もここで戦いが始まる。ほとんど一日中パソコンのキーボードを叩く音だけがこだまし、時折上司の馬鹿みたいな笑い声やねちねちした説教だけが不快に鼓膜を震わせる、そんな一日の始まりだ。

 何も入社した当時はそこまでひどい社内環境じゃなかった。仕事は多くとも同僚と助け合い乗り越えるのは充足感があったし、辛くとも一緒に笑い合う楽しい仲間がいた。

 歯車が狂い始めたのは人事異動が起こり上司が中瀬になってからだ。すべては奴が現れてからおかしくなり出した。

 中瀬はそれまでの上司と違い気分屋の癖にやけに神経質だった。要するに典型的な扱いづらい上司だ。部下の俺たちのやることなすことにケチをつけ、身動きを取れなくしたうえで叱責を浴びせる。説教だか愚痴だか分からない話を延々と続ける。誰もが敬遠したくなるタチの人間だが、不思議と立ち回りのうまいところがあり、上の人間からは好かれているらしい。

 奴が現れてから俺の部署の空気が眼に見えて悪くなった。毎日のように叱責を浴び続けたせいで、体調不良を訴え休む先輩や、とうとう退職願いを出す同僚も出始めた。気付くと仲間はほとんど辞めてしまった。ときおり新入社員も入ってくるが、中瀬がどういう人間か分かると大概辞めて行く。残された俺を含む一部の社員もすっかりむかしの面影をなくし、一緒に談笑したり食事したりすることもなく、中瀬に目を付けられまいと息を潜めるように仕事をしている。

 俺自身、転職を考えたこともあった。だがこうも毎日仕事の量が多ければ、とても転職準備に力を入れる余裕なんてない。気付けば、転職しようと思って既に数年経つが何も出来ていない現実がある。

 そしてふと想像を巡らせて絶望する。今後十年、二十年と上司にあの中瀬が君臨するなかで、同じ会社の中で延々と仕事を続ける自分の姿。そこには何の希望の光もない。これでは会社というより牢獄ではないか。だが俺にはここを脱出するすべがない……

 俺たちはまるで羊だ。人間の都合で飼われ、殺されても何も出来ず、意のままに従うしかない弱い存在。同じ人間なのに、どうしてこうも違いが出てしまうのだろう。

 そんな無意味な空想に捕われながら今日もキーボードを打ち続ける。鼓膜には中瀬が同僚をねちねちと説教する不快な声が響き続けて俺の集中力を削いでいる。

 俺はひと際大きな音でキーボードを叩いた。

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