第2話

……2


 子供の頃から荒事は性分じゃない。掴み合いの喧嘩なんてしたのは小学生の頃が最後だったような気がする。何事も争いは避けて通る生き方を、自然と選ぶようになっていた。特別温和を愛する心掛けもないが、周囲からそういう人間のように見られているのも不思議じゃない。

 だがそれもいつまで続くか分からなかった。

 いま、俺は毎日満員電車に乗って通勤している。満員電車の中は俺の神経を逆撫ですることで犇めいている。周囲におかまいなしでケータイをいじっている若い男。馬鹿みたいな大声でおしゃべりに興じている女子高生。ちょっと肩がぶつかっただけで血走った眼を向けてくる中年男。そんな奴らを目の当たりにするたびに俺の怒りの導火線が短くなるのを感じる。いつか爆発したとしても不思議はない。

 こんなときふと思い出す情景がある。思い出すと言っても現実には経験していない。夢の中のはなしだ。

 俺は書店にいる。店を出ようとしたとき、店員らしい男が俺をいきなり捕まえて喚き出した。状況から言って万引きでも疑われたのだろう。俺は頭に血が上って店員に怒鳴り返した。すると近くにいた何故か軍人みたいな恰好の警官が飛び掛かってきた。俺は我慢の限界を超えて何故か持っていた包丁を取り出し、ありったけのちからを込めて警官の横腹を突き刺そうとして、そこで目が覚めた。真夜中の寝室で俺はびっしょりと全身に汗を掻き息を切らしていた。早鐘のような動悸が収まるまでしばらく掛かった。

 同じような夢は定期的に何度か見ている。夢の中で俺は激しく怒り、叫んだり人を殴ったりしようとする。そのまさに爆発の瞬間、必ず夢が破れて現実に引き戻される。

 これはつまり潜在願望という奴だろうか。俺は誰かを傷つけたがっているのだろうか。

 ふと思う。俺がもしこの今日、現実に、あの夢の中のように暴れようとしたらどうなるだろう。

 俺がナイフを掴んで誰かを刺そうとしたら。当然周囲は騒然となり警察が飛んできたりするだろう。けれど、もしかしたら? もしかしたら、ナイフが誰かの腹を突き刺すその瞬間、俺はがばりと真夜中の寝室でベッドから身を起こすのではないか。

 これはずっと見続けてきた夢ではないのか。いつから? きっと俺が生まれたと認識している約三十年前から。夢の中で目を覚ましたように、この現実という夢から目を覚ますのではないか。そのとき俺は何を見るのだろうか。どこにいるのだろうか……

 今日も満員電車に揺られながら俺はとりとめもない思いに捕われている。疲れているのか。それとも、それ以上の何かが自分の中で起こっているのか。

 俺には判断できなかった。

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