獣王無頼~兀突骨~

 阿骨羅アグラは里で一番の怪力だった。十三にして体はすでにどの大人よりも大きく、密林を駆ければ鹿に追いつくことができた。赤銅色の肌は石のように固く、歯は魚をまるごとかみ砕けるほど強い。烏戈うか国は領土の大半がむきだしの自然に覆われ、中華の文化がいまだ及ばぬ地域である。体の頑健さはそのまま畏敬の対象であった。獰猛なる戦士として、阿骨羅の名は広く知れ渡っていた。

 ある夏の日、阿骨羅は密林の奥で見知らぬ男を見つけた。ひとり大木に背を預けて座りこんでいる。奇異な服装は異国のものだろう。

 傷ついているようだった。息は荒く、体のあちこちに血をにじませている。よく見ると左腕がなかった。

 このとき、阿骨羅は初めて異国の人間を見た。細い体。白い肌。だが特に感慨はない。警戒するでもなく阿骨羅は無造作に男に近づいた。衣服と荷物を奪うためである。烏戈国の戦士にとって密林で傷ついているものは都合のいい獲物に過ぎない。阿骨羅は己がまとう価値観に何の疑問も抱いていなかった。

 男が気づいた。わずかに首を上げる。

「追手か?……いや、違うな」

 男の言葉は阿骨羅にはわからない。わかる必要もなかった。阿骨羅は槍を構えた。

「おい待て、私は怪しい者ではない」

 構わず放たれた槍は、しかし誰もいない地面に突き刺さった。男の姿が消えている。

「言葉が通じぬか。蛮なる地とは聞いていたが」

 すぐ後ろから声がした。いつの間に移動したのか、男が背後に立っている。振り向いた瞬間、目の前に火花が散って阿骨羅はのけぞった。

「なんと硬い皮膚よ。まるでうろこのようだ。お主が特別なのか?それともこの国の民らはみなそのような……」

 意味の分からぬつぶやきを黙って聞いている義理はない。鼻血が阿骨羅を激昂させた。雄叫びをあげて男に飛びかかる。

 ところが、男の身ごなしは今まで見たことのないものだった。捕まえたと思っても羽根のようにするりと抜ける。そしてただの拳が矢よりも速くこちらの体を撃つのだ。目、鼻、脇、顎。男の片腕は的確に急所を襲う。鉄壁の皮膚は役に立たず、阿骨羅はやがてその場に崩れ落ちた。

 豹でさえ素手で捕らえる自分がこれほど相手にならぬとは。体よりも心を打ちのめされた。阿骨羅にとって生まれて初めての敗北であった。

「なんとしぶとい……それにまさかと思ったが、お主、まだ童であるか。末恐ろしいものよ。将来、この南蛮の地に攻め入る者は大層苦労するであろう」

 男は荒い息を整えながらそう言った。無論、阿骨羅には通じない。怒りと悔しさを目に込めて、ひたすら男を睨みつける。

「この期に及んでまだ折れぬか……あっぱれな小僧よ。我が最後の武に、ふさわしい相手であったのう。南蛮の童子よ、お主は将来この地の王になるやもしれんぞ」

 そこで男は苦しそうに顔をしかめた。咳込んだ途端、鮮血が舞う。血を吐いたのだ。

「どうやら命を使い果たしたようだ……願わくば、曹操にこの武を振るいたかったが……」

 ふらつく足を翻す。阿骨羅は追いかけようとしたが、手足に一向力が入らない。

「待て!まだ俺は負けておらぬ!戻れ!」

 倒れたまま阿骨羅は吠えた。だが男には獣の声と同じに聞こえたらしい。一度だけ振り返り、青白い微笑みを返すと森の奥へと消えていった。

 返せぬ屈辱。ぬぐえぬ絶望。唐突につきつけられた敗北は、全身を炎と化しても焼き尽くせなかった。阿骨羅は辺りが闇に染まるのも気づかず、哭き続けた。

 

 敗北とは死よりも恐るべきものだ。

 その日から阿骨羅の胸には信念が芽生えた。あの屈辱を、あの絶望を、二度と味わいたくはない。それはある意味で恐怖に似ていたかもしれない。阿骨羅は死を恐れなかった。それよりも敗北を怖れた。

 血を流せばそれ以上の血をすすった。肉は骨ごと咀嚼した。あらゆる戦いに参加し、あらゆる敵を屠った。二十歳を越えた頃、身長は三メートルに迫り、歩くたびに地響きが起こった。

 すでに里はおろか、国中に至るまで、彼に及ぶ戦士はいなかった。すべての長老から王となるよう勧められ、彼は烏戈国の王・兀突骨の名を継いだ。

 新しい王が最初に下した命令は「勝て」であった。いかなる手を使っても勝て。あらゆる策を用いて勝て。敗者は死者以下だ。俺が王となったからには、どんな敗北であろうともたらしてはならぬ。

 若者たちは熱狂して新王の方針を受け入れた。戦士の誇りを守るために過酷な訓練にも自ら飛び込んだ。老いた者、か弱き者は知恵を揮った。彼らは国中に自生する藤の蔓を特殊な油につけこみ、それを編んで強靭な鎧を作りあげた。矢も剣も通さず、しかも水に浮くほど軽いというその鎧は「藤甲の鎧」と呼ばれ、それを身につけた烏戈国の戦士は「藤甲兵」として恐れられた。

 兀突骨はどんな時でも退かなかった。攻め寄せる敵があればこちらから迎え撃つ。その巨体と怪力は、敵にとっては魔物のようであり、味方にとっては守護神に映った。

 周辺の国々から烏戈国を狙う意志が途絶えたとき、領土は兀突骨が王になる前の倍にも広がっていた。

 兀突骨は常に勝利を求め続けた。そうしていなければ、胸の奥に閉じ込めたあの青白い顔がすぐにでも蘇りそうな気がしたからだ。名も知らぬあの異国の男の姿は、兀突骨にとって敗北の象徴そのものであった。


 血と肉と油の臭いがする。兀突骨の好きな臭いだ。

 一歩踏み出すごとに人波が割れた。驚嘆のささやきがもれる。集まった兵らはみな、神聖なものでも仰ぎ見るような光をその目に宿していた。

(つまり、それほどまでに負けてきたということだ、こいつらは)

 兀突骨が王となって十数年。中原では漢王室が滅び、三国が建った。大陸の西南部を占める蜀は、後方確保のために自分たちが南蛮と呼ぶ地域への一大侵攻作戦を決行したのである。

 迎え撃ったのは密林王・孟獲であった。地の利を活かした攻撃は、最初のうちこそ蜀軍の動揺につけこめたものの、しかし次第に後手に回るようになった。蜀軍の素早い分析と的確な対応が優劣を覆す。蜀の総司令官・諸葛亮の用意した兵器と策は、孟獲を翻弄し、集落を次々と落としていった。狼狽した孟獲は、とうとう長年の宿敵であった兀突骨のもとに逃げこんできたのである。

 兀突骨は孟獲を助けようとは思わなかった。滅ぶ者は滅べ。それが密林の掟である。領土を奪い合った間柄に、情をかける筋合いはない。

 ただ相手が気になった。蜀軍という未知なる敵。聞けばこの南の地域とはまったく違う武装と戦法を持つという。王となって十数年、すでに歯応えのある敵を失った兀突骨にとって、久々に血沸き肉躍る戦であった。

「おお、兀突骨、よく来てくれた」

 天幕から男が出迎えた。兀突骨と対峙すれば小柄に見えるが、それでも常人よりは頭一つ大きい。真っ黒な髭をたくわえ、金の鎧を身にまとっている。密林王・孟獲であった。

「お前と藤甲兵が来てくれたなら一安心だ。蜀のヤツらを共に追い払おうぞ」

 兀突骨の手が伸びた。孟獲の顔面をわしづかみにすると、そのまま体ごと持ち上げる。慌てた孟獲は身をよじって抵抗するが、兀突骨は微動だにしない。

「来たのはお前だ。ここは俺の国だ。立場をわきまえて物を言わねば、頭蓋をこの場で握り潰すぞ」

 そう言うと無造作に孟獲を放り投げた。周囲の兵が一様に後ずさる。

「蜀軍が見たい。戦場が見える場所へ案内しろ」

 咳込みながら顔をさする孟獲をうながして、兀突骨は高台へとのぼった。眼下で戦闘が行われている。部隊ごとに固まって規律通りに動く蜀軍は、まるで一個の大きな生き物のように見えた。弓矢を射込んだ場所へ的確に槍の群れが突撃していく。自分たちよりはるかに小柄な蜀軍に、孟獲軍はそこかしこで蹴散らされていた。

 茂る草木や散在する沼地など、慣れぬ地形に戸惑うと見えて、蜀軍はたいていの兵が徒歩であった。その中に一騎、白馬に乗り銀の鎧をまとった武将がいる。

 繰り出される一撃は明らかに他の者と隔絶していた。何人もの兵が飛びかかっていっても次々とその槍の餌食になる。兀突骨は体の奥が震えてくるのを感じた。

 青白い顔。傷ついた体。片腕の異国の男。

 もう数十年も経つが、一日たりとも忘れたことはない。自分に敗北を与えた唯一の人間。

 兀突骨は銀色の武者にその面影を見た。あいつと同じだ。同じように異国から来て、同じくらい強い。

「あの男は何者だ?」

 傍らの孟獲に訊いた。

「あの銀色の男か?蜀の趙雲という男だ」

 初めて聞く名であった。無論、あのときの男と同一であるはずがない。だが兀突骨は満足であった。あの男を倒すことができれば、ずっと我が身にまとわりついていた敗北の呪縛を解き放つことができると確信した。

「孟獲、陣を敷くぞ。蜀軍は俺が平らげてやる」

 嬉しそうに巨体がつぶやく。その様子が獣の舌なめずりに見えて、孟獲は思わず息を呑んだ。


 兀突骨は桃葉江の岸辺に布陣した。迫る蜀軍は躊躇なく河に乗り入れる。すると途端に先鋒の兵らが苦しみだした。桃葉江は毒の河だったのである。烏戈国の人間は常からこの水を飲んでいるため何ともない。敵の混乱を見定めると、兀突骨は突撃の命を下した。

 烏戈国の兵らが次々に河へと飛び込む。舟は使わない。藤甲の鎧のおかげで体が沈まないのである。

 蜀軍の陣から矢が飛ぶ。だがどれも刺さらない。藤甲の鎧に弾かれて毒の河に落ちるばかりだ。

 蜀軍は動揺した。歩兵が槍を突き入れるが、これも藤甲の鎧を貫くことはできない。

 一方的な虐殺が始まった。武器の通じぬ相手ではなすすべがなく、蜀軍の統制に乱れが生じた。広がる恐怖には抗えない。兵の戦意は失われ、蜀軍は退却を始めた。

 その背中に兀突骨が襲いかかる。手当たり次第に掴んでは投げ、引き裂き、踏み潰した。密林に血しぶきが舞う。返り血を浴びたまま迫りくる兀突骨の姿は、蜀軍に巨大な魔獣のように映った。

 その魔獣に立ち向かう者がいた。白い馬、銀の鎧。蜀の趙雲である。探していた相手が向こうからやってきて、兀突骨は歓喜した。

「このときを待っていたぞ!敗北を返してやる!」

 手にした斧を振り回す。兀突骨の身長は馬に乗った趙雲より高い。斧はうなりをあげて趙雲の顔面を襲った。紙一重でかわす。すかさず突き出された槍は、しかし兀突骨のむきだしの肩で弾かれた。趙雲の顔に驚きが浮かぶ。

「そんなものか?」

 再び斧を振るう。今度は胴体を狙った。趙雲が槍の柄で防ぐ。本来なら槍ごと砕けるはずであったが、趙雲はうまく角度をずらして受け流した。兀突骨がたたらを踏む。その隙に白馬が背後に回った。再び槍が突き出される。だが兀突骨は振り向こうともせず背中の筋肉で弾いた。皮膚は破れず、むしろ白馬の方が後ずさった。

背中に感じた衝撃は並の武将のものではなかった。瞬時の判断をあやまたず、予想外の攻撃にも動じない。申し分のない強敵である。兀突骨の体に随喜の波が走った。

「いいぞ。お前はあの男より強い!」

 斧をかわす。槍を弾く。銀色の騎士と赤黒い巨獣の決闘は数十合に及んだ。辺りに闇が下り始めた頃、蜀軍本陣から退却の鉦が鳴る。趙雲はきびすを返した。

「待て!逃がすか!」

 追いすがる兀突骨の顔に鋭い矢が飛んできた。思わず斧ではたきおとす。その隙に、弓を構えた主を乗せて白馬は全速力で駆けた。兀突骨の脚力をもってしてもさすがに追いつけなかった。

 戦は烏戈国軍の圧勝であった。蜀軍は本陣を数里後退させ、兀突骨らのもとには大量の戦利品が残った。

 宴が開かれた。孟獲は上機嫌で杯を満たしてくる。生肉を肴に、注がれた酒を呑みながら、兀突骨は趙雲との再戦を空想し、一人ほくそ笑んでいた。


 戦は連日続いた。烏戈国軍は蜀軍を圧倒した。十五戦十五勝。落とした敵陣七つ。まさに快進撃といってよい。今までの鬱憤を晴らせて孟獲は小躍りせんばかりであった。

 兀突骨にも不満はなかった。ただ趙雲を仕留め損ねていることだけが心残りである。このまま蜀軍が負け続ければ、勝負がつく前に本国へ帰ってしまう可能性がある。そうはさせない。祝宴の炎に照らされながら、獣王は、いまだ血に飢えて猛るのであった。

 その日。

 烏戈国軍は十六度目の勝利を収めた。だが兀突骨は追撃の手をゆるめない。兵らも更なる獲物を求めて、それに続いた。

 いつしか毒の河を離れ、密林を抜け、一行は盤蛇谷(ばんだこく)というところまで来ていた。草木の生えぬ、岩石だらけの狭い谷間である。ここを抜ければ蜀軍の本陣はすぐそこという場所であった。

 谷の奥に武将の姿があった。白銀の一騎。趙雲が待ちかまえている。

「おお、いたな。今日こそその命を砕いてやる。そこを動くな」

 まさに獲物を見つけた猛獣の如し。足場の悪さも気にせず、兀突骨が突撃する。そのあとを長い列が追った。

 突然、天から轟音が鳴り響いた。ぎょっとした藤甲兵らが見上げると、谷の上から岩や大木が次々と転げ落ちてくる。逃げ遅れた最後尾の兵らが下敷きになった。

 さすがの兀突骨も足を止めて振り返った。谷の入口が完全にふさがれている。と、前方からも同じような轟音。趙雲はと見ればすでにどこにも姿がない。

 入口も出口も塞がれ、兀突骨らは谷に閉じ込められた。よじ登ろうにも、岩肌はもろく、とても数万の軍勢が抜け出せるものではない。

 矢が飛んできた。だが藤甲兵らには何の脅威でもない。これまでのように藤甲の鎧で弾かれるだけのはずであった。

 悲鳴があがった。見ると兵が炎に包まれている。軍列にある予感が走った。予感が恐怖に変わるより早く、谷の上から一斉に火矢が射込まれてきた。

 藤甲の鎧は油を浸み込ませた蔓で出来ている。刀や槍には強くとも、炎にはなすすべがない。火だるまになった兵がのたうちまわる。岩ばかりの谷に水はない。水筒を振りかざしてもとても間に合わず、至るところに火が燃え移り、瞬時に谷は地獄と化した。

 ただの火計ではこれほどまで燃え広がらなかったであろう。油の浸みた藤甲の鎧だからこその惨劇。蜀軍総司令官・諸葛亮の策であった。

 兀突骨は唖然として目の前の光景を見ていた。

 恐るべき景色であった。数瞬前まで勝利の中にいた兵らが次々と焼け死んでいく。炎が岩を焼く。天を焦がす。すでに兀突骨のそばまでが炎に包まれていた。逃げようにも逃げる場所がない。

「俺が……死ぬのか?ここで?戦いもせず、こんなところで焼け死ぬというのか?」

 獣王の問いに答える部下はいなかった。人の形をした炎が寄りかかってくる。兀突骨はそれを振り払ったが、まとわりついた炎が腕を焼いた。

 すでに悲鳴は聞こえなくなっていた。代わりに燃えさかる業火の勢いだけが満ちている。兀突骨は恐怖した。それは生き物が持つ本能から来る恐怖であった。

「ヤツは……趙雲はどこだ?俺はこんなところで死なぬ。死にたくない。俺の戦いはまだ終わっておらんのだ!」

 兀突骨は四方を見回した。谷の上に銀色のきらめきが見える。目を凝らすと、確かにそれは趙雲であった。身じろぎもせずこちらを見下ろしている。

 兀突骨は谷の上に向かって駆けた。届くはずもない。だが座して焼け死ぬことを受け入れられなかった。もう少しで呪縛を解き放てるはずだった。戦って勝つことが兀突骨の生きている意味だった。何者にも頼らず、すがらず、ただおのれの肉体のみで戦ってきたのは、こんなところで焼け死ぬためではない。

 青白い顔が浮かんだ。初めて敗北を知らされたあの顔。兀突骨の生涯はあの顔を追いかける生涯であった。それがもうすぐ終わろうとしている。

「俺は……!お前を……!お前に……!」

 肉の焦げる臭いがする。業火の勢いが一層強まったように感じて、そこで兀突骨の意識は途絶えた。


 盤蛇谷の火計は藤甲兵を全滅させた。

 孟獲は完全に勝機が去ったことを悟り、蜀に降伏した。

 三国志の物語中、最も巨大で最も獰猛な兀突骨の話は、しかし史書には残らず、異形を語り継ぐ伝説の中にわずかに垣間見られるのみである。

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