断崖の斜陽~鄧艾~

 太陽がしなびている。

 辺境では天体でさえも痩せ細るものか。そんなことがあるはずはないと思いながらも、鄧艾は視線を下ろすことができずにいた。空が狭い。

(青空ではないせいか)

 一面に灰色の雲が広がっている。吹きすさぶ寒風は荒々しく、冬十月の太陽は、叱られた子どものように弱々しく西に沈もうとしていた。

(ずっと、沈む陽ばかりを見てきたような気がする)

 幼き頃が蘇る。鄧艾の家は羊飼いであった。家は貧しく暮らしは厳しかった。夕暮れに追われて必死で羊を追う。夜になれば狼が出るからだ。擦り切れた手と泥だらけの足。汗まみれで見上げた茜色の空が、目を閉じて浮かぶ一番古い記憶である。

 ざわめきで我に返る。兵士が岩道をこけつまろびつ駆け寄ってきた。伝令兵であろう。

「鄧忠隊、師纂しさん隊、共に退却してまいります!」

 報告は味方の敗走を伝えるものであった。動揺はない。不利なまま始まった戦場である。何しろ険しい山道を越えたばかり。兵の疲労が癒えていない。おまけに敵にはもう後がなく、かえって死に物狂いの抵抗を見せてくることは当初から想定できた。

 だが、だからといって敗北が許されるわけではない。後がないのはこちらも同じ。この綿竹の砦を抜けば、蜀の都・成都は目の前なのだ。魏蜀の長きにわたる対立がこの一戦で終結する。何があろうと引き下がるわけにはいかない。

 不安げな視線が集まっている。兵らの鄧艾への信頼は厚い。平民出身の将軍に彼らは親近感を覚え、鄧艾もまた、子や孫のように彼らを労わった。綿密に地形を調べ、的確に部隊を配置する鄧艾の戦略は、これまで着実に戦果をあげてきた。それでいて尚、兵らが不安を覚えずにいられないのは敵の猛攻が故か、あるいは疲弊の深刻さを物語るか。

 鄧艾は立ち上がり、視線の前に進み出た。

「無人の野を進むこと七百里。ここに至るまでの苦労を思い返せば身震いがする。山をくりぬき、谷に橋を渡し、道なき道をようやくにして進んだ。いや、道を作るところから始めねばならなんだ。わしも最早七十に近い。もう一度あの道を通れと命じられてもきっぱりと御免被るだろう」

 兵らの顔がわずかに和む。

「木につかまって崖をよじのぼった。獣皮に包まって谷を転げ降りた。この場に無傷の者などおるまい。ここにたどり着けたことは、十の戦に勝つよりも困難で意義のあることであったとわしは断言する。今、目の前に賊軍がいる。諸葛瞻しょかつせん率いる蜀兵十万。先陣の鄧忠、師纂は敗れた」

 ざわめきが広がる。だが鄧艾の声に乱れはない。

「我が方は寡兵。加えて満身に傷を負っている。ならば勝てぬであろうか?否である。兵らよ。道なき道を思え。たどり着けなかった同胞を思え。我らがここにいるのは、ここで無残に朽ちるためではない。七百里を越えてきた戦士たちに、あの程度の砦が抜けぬはずがあろうか。必ずやこの鄧艾がそなたらを勝利へと導いてみせよう。存亡の一戦を制するのは我らだ。山を降りる。全軍続け」

 岩が震えるほどの雄叫びが山中にこだました。甲冑の群れは一斉に山を駆け下った。

(諸葛瞻はよく耐えた。だが耐えるというならわしらの道中こそ忍耐の旅路よ。否応なしに耐えざるを得なかった者と、初めから耐えることを覚悟した者と、さて、どちらが上か)

 数で勝る蜀に対し、魏は戦術において勝った。言い換えれば指揮官の経験の差が勝敗を決した。勢いを殺さず的確に弱点をつく鄧艾の指揮に蜀兵は翻弄された。諸葛瞻は後手に回らざるを得なかった。西に防御を割けば東が攻められる。北が退けば南に押し寄せる。気がつけば部隊は分断され、少しずつ蜀の戦力は削がれていった。隊列を立て直した鄧忠と師纂の部隊が合流すると、程なく綿竹の砦は落ちた。諸葛瞻、戦死。

 成都までの道は開けた。鄧艾軍の進撃を阻むものはなくなった。

 らくという街に着くと皇帝・劉禅からの使者が待っていた。使者は蜀の降伏を申し入れた。


 鄧艾が成都を落としたという報は、当然、友軍の鍾会のもとへも伝わったが、最初鍾会は信じようとしなかった。蜀にとどめをさす栄誉は自分のものであると思いこんでいたからである。だが直面の敵将、姜維が退却し、兵たちの間にも噂が広まる段になってようやく、事実を認めなければならなかった。名門・鍾家に生まれ、文武共に非凡な才能をひけらかしてきた俊才は、ここに初めて、他者の影を踏むという経験を味わったのである。

「鄧艾など、地面の広さを測るしか能のない田舎ジジイではないか。そんな奴がこの鍾会を出し抜いただと?許せん、断じて許せる所業ではない」

 部下が祝杯をあげにきた。鍾会はその顔面を殴りつけると、すぐさま進軍の命を下した。


 草原。灰色の空。幼き頃の記憶だ。

「羊はな」

 父の声がする。

「羊は腹一杯になれば草を食わん。大きくしようと無理矢理食わすことなんてできねえ。羊一頭でさえ人間の思うようにはならねえってこった。ましてや空なんざどうしようもねえ。雨が降るのも、おてんとさんが傾くのも、自然が決めるこった。人には分ってもんがある。できんことはできん。自然のままに任せろ。無理して分に外れても、ろくなことはねえぞ……」

 痩せて小さな父だった。

 鄧艾が書物を読んでいると顔をしかめた。そんな無駄なことをするな。お前は羊飼いにしかなれんのだから。分を忘れるとろくなことはない。酔うといつも同じ話をした。ある夏の夜、酔ったまま草原にさまよい出て、狼に襲われて死んだ。

 棺が歩いてくる。ゆらゆらと、黒い箱が化け物が頭を振るようにして近づいてくる。沿道に並んだ人々は声も立てずに見つめるだけだ。

 棺は鄧艾の目の前で止まった。男が担いでいたのだ。手を後ろで縛って、白い頬には恐れと怯えを浮かべている。相まみえるのは初めてだったが、鄧艾は男の名を知っていた。劉禅という。ひざまずき震えているこの小さな男は、先だってまで蜀の皇帝を名乗っていた。

(元皇帝が元羊飼いの前にひざまずく、か……父が見れば何と言うであろうかのう)

 劉禅の後ろには六十四人の太子や群臣が連なっていた。皆一様にこうべを垂れ、おそれおののきながら鄧艾の言葉を待っている。

 都からの詔勅はまだ届かない。鍾会や他の部隊もまだ到着していない。戦は終わった。今度は治める仕事が始まる。そして今それができるのは鄧艾しかいないのであった。

(これが自然の流れであるなら、身を任せてみるとするかのう。はてさて、我が分に過ぎたるものかどうか)

 鄧艾は劉禅の手を縛っていた戒めを解き、膝をついて優しく話しかけた。

「面を上げられよ、劉禅殿。そなたを行驃騎将軍に任じる。成都の混乱を治めるために力を貸していただこう」

「おお……そ、それでは」

「群臣たちも同じだ。我が命に従うのであれば罪は問わぬ。それぞれの部署に就き、かつての業務を続けるがよい。我らは火をつけぬ。略奪をせぬ。民らにそれを伝え安心させよ。怖れることはない、とな。わしは平穏を好むのだ。何しろ生まれは羊飼いだったからのう」

 鄧艾は笑った。沿道の緊張がほどけていく。劉禅は随喜の涙を流し、鄧艾の足元に額を何度もこすりつけた。

 離れた場所から、歯噛みをしながらその光景を見つめる一人の男がいた。

「おのれ、鄧艾め……我が主になんという恥辱を。見ていろ、蜀の炎がいまだ燃え尽きていないことを思い知らせてやる」

 男は身を翻すと、胸に或る謀略を抱きながら、目立たぬように群集の中へと消えていった。


 鄧艾の統治は順調であった。

 略奪を禁じ、降伏者たちを許したことで、人々は警戒をゆるめた。鄧艾が自分たちと同じ平民出身であるということを知り親近感を抱いた。成都は鄧艾に懐いたのである。

 蜀の兵らは武装を解かれ、魏軍に再編成された。遅れて到着した鍾会がその仕事を担った。鄧艾の指揮下で鄧艾の命令通りに行動しなければならない状況は、鍾会にとって屈辱以外の何物でもない。だが逆らうわけにもいかず、夜ごと酒で鬱憤を晴らすばかりであった。

 ある夜のこと。屋敷に来客があった。

 不機嫌が続いていた鍾会は最初追い返そうとしたが、召使いが告げた名は意外なものであった。思い直して人払いをした部屋に通すよう言いつける。

 念の為、剣を帯び、客の待つ薄暗い部屋へと向かった。

「陣を挟んで向かい合った同士が、こうして卓を挟むとはな。それで?何用だ?姜維」

 来客は蜀の降将、姜維であった。諸葛亮亡きあと蜀の武を一身に背負い、誰よりも果敢に魏に立ち向かった勇将である。先だってはまさに鍾会と激戦を繰り広げ、この姜維のために鍾会は成都入りを逃がしたと言っても過言ではない。今も質素な平服に身を包みながら、身ごなしには一切の隙がなかった。

「まさにあの折りは、貴殿の武略をまざまざと見せつけられました。さすがは音に名高い鍾家の俊英」

「涼州の麒麟児は武骨一辺倒かと思いきや、世辞にも長けているではないか。無理もない。貴様らは敗北者だ。これからはせいぜい我らの機嫌を取らねばな」 

 姜維は答えず、静かに杯を含んだ。奥歯が強く噛みしめられたことに鍾会は気づかない。

「鍾会殿、本日はあなたに力を貸しに参りました」

「力?何の力だ?」

「規律を正すためには力が必要でしょう」

「規律だと?蜀の残党が反乱でも企てているのか?そんなものは我らが即座に取り押さえてみせる」

「我らが、ではありませんな。鄧艾が、でしょう」

 鍾会の動きが止まった。乏しい明かりの中で、相手の眉間に深いしわが刻まれたことを姜維は見逃さなかった。

「今この成都において、兵は鄧艾に心服し、群臣は鄧艾に従っております。魏に将ありと言えども民の口にのぼるのは、ただ鄧艾の名のみ。平穏も解放も勝利も、みな鄧艾一人がもたらしたと、無垢な民の中には涙を流して崇める者までおりまする。例えるなら鄧艾はまさに、成都の王」

「馬鹿なあ!」

 杯が砕けた。鍾会が叩きつけたのだ。燭台が跳ね飛び、明かりが消える。

「馬鹿なことを言うな。鄧艾が王だと?そんなこと、俺は認めん。ヤツは運が巡っただけだ。王だと?ふざけるな。人間には分というものがある。ヤツは王でも将でもない。ただの羊飼いよ。羊飼いの命をみながありがたがって聞いている、こんな、こんな馬鹿げたことがあるか」

「その通りですな。ですから申しました。規律を正さねば、と」

「何?」

 興奮さめやらぬまま鍾会は姜維の顔を見た。だが明かりの消えた部屋は闇に包まれて、卓の向こうの表情さえ判然としない。

「鄧艾はおのれの裁断でもって賞罰を下しました。さらには魏国の許しなく降伏した者たちを要職に就け、おのが意志に沿うよう働かせております。魏ではこのようなことは当たり前なのでしょうか?一介の武人がひとつの国の動向を好きに操るなどということが?さらには戦後処理もままならぬこの時期に、碑を立ておのれの功をあからさまにし、宮中においてははなはだ傲慢、自分が総大将であったからこそお前たちは生き永らえたのだと事あるごとに吹聴する始末。蜀の臣らは毎日のように聞かされておりますぞ、自分以外の者ではこうはいかなかっただろうという鄧艾の広言を。そう、自分以外、たとえば鍾会にはできなかったであろう、と……」

 銀色の光が走る。姜維はわずかに身を引いた。目の前で卓がまっぷたつに割れる。鍾会が目を血走らせながら剣を抜いていた。

「ひ、羊飼いごときが、図に乗りおって。あのジジイにできて、この鍾会にできぬことがあろうか。俺ならもっとうまくできた。綿竹を攻めていたのがたまたまヤツであっただけだ。ただ場所が違ったというだけで、こんな屈辱を味わわねばならぬとは。歪んでいる。歪んでいる。こんなこと、俺は認めんぞ!」

 闇が人を狂わせるのか。人の狂気が闇にほとばしるのか。

 狂いまではしなくとも、鍾会は少なくとも冷静ではなかった。嫉妬と不満が蓄積された心の殻に、ほんの一刺し、針が穴を開けた。あふれた狂気に自身は気づかない。だが姜維は知っていた。その狂気がもともとそこに潜んでいることを、鍾会本人よりも先に気づいていた。

「そう、歪んでいるのですよ。だから、あなたが正せばいいのです」

 夜の闇の中で、姜維の策が実を結ぼうとしていた。

「鄧艾は成都の兵力をもって呉を攻めようとしております。明らかなる不遜。自分が皇帝にでもなったつもりなのでしょう。鍾会殿、本国にご注進なさい。魏への反逆を、あなたが正すのです。これは、あなたにしかできないことなのです」

 兵を失い、国を失い、姜維は一匹の鬼と化していた。天に刃向かい、時の流れに抗おうとする復讐鬼である。皇帝でさえ放り出してしまった蜀という国を本気で再興させようとした。鍾会をそそのかし、鄧艾を排除させ、魏軍に内紛を起こす。その隙をつけば蜀を取り戻すことができる。姜維はそう信じた。彼もまた狂気の中に生きていたのかもしれない。

 鍾会は術中に堕ちた。狂気によって加熱された自尊心は、やがて、成都にかつてない混乱を呼び寄せることとなる。

 鄧艾はそれらの動きにまるで気づかずにいた。


 破たんは唐突に訪れた。

 鄧艾に反逆の兆しあり。鍾会がまことしやかに書き送った弾劾書はあっさりと受け入れられた。姜維の毒が都にまで届いていたのか、大きくなる鄧艾の名声に宮廷が反応したのか、それはわからない。さておき、詔勅が下る。鄧艾を捕らえよ。鍾会は兵を指揮し、鄧艾を囚人護送車に閉じ込めた。

 護送車を都へと送り出したのち、鍾会は密かに刺客を放った。いっそのこと道中において鄧艾を亡き者にしようとしたのである。姜維の誘導によるものであったことは言うを待たない。

 鍾会はさらに暴走した。兵をまとめ、魏に反乱を起こす。姜維以下蜀の残兵もそれに乗じた。

 だが成都の民と兵は鄧艾を忘れてはいなかった。

 乱を起こしたものの、しかし同調する兵は鍾会の予想ほど多くはなかった。鍾会が鄧艾をおとしいれたことをほとんどの者が知っていたのだ。鍾会は逆に、矛を構えた魏の兵らに襲撃された。襲撃に加わった大半が、七百里の道なき道を鄧艾と共に越えてきた兵らであった。

 鍾会は殺され、姜維も連戦ののち力尽きた。燃えさかる戦場で自らのどをかき切ったという。

 三国のひとつ、蜀はこうして潰えた。


 車輪が岩に乗りあげて止まった。今日だけで十数度目の足止めである。

 隊長が岩をどかすよう叫んでいる。だが兵らは山道に慣れず作業はなかなか進まない。

 鄧艾は護送車から空を見上げた。檻の中で手かせをはめられている。

 そびえたつ山々の隙間からしなびた太陽が見えた。いつか見た斜陽である。おずおずと西に暮れながら岩肌を茜に染めている。

(やはり、分ではなかったということか)

 運命の急変に、驚きこそはしたものの、どこかで、やはりという気持ちがあった。今までが異常で、こうなることこそ本筋であったような、定められた流れにようやく戻ったような感覚。

(だがわしにどうすることができただろう。わしはひたすらに最善を尽くしただけだ)

 夜を怖れたとしても、暮れる太陽を止めることはできない。定めがいかなるものであろうとも、人はそのささやかな営みを愚直に繰り返す以外すべはないのだ。だが、それが破滅につながっているのなら、人の命にはどういう意味があるのだろう。

(兵らは無事であろうかのう。それだけが気がかりだ)

 鄧艾は目を閉じた。随分くたびれている。長い間戦ってきたせいだ。草原が見える。灰色の空。緑の草。どこまでも続く地平線。

(あの果てまで行けば、わかるのかもしれん。何のために戦ってきたのか、その答えが)

 断崖に蹄の音が響く。それが差し向けられた追手のものであろうと知りながら、鄧艾はもう目を開こうとはしなかった。

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