孫策を殺せ~孫策~
暗殺とは最も卑しい行為である。
賞賛もなく栄光とは程遠い。極寒の夜の中で汚物にまみれるような、そんな無残な結果しか残さない所業だ。
だが逆説的ではあるが、あえてそんな修羅に身を投じる者は、だからこそ正義を信じている。世間の誰も認めない、おのれ一匹だけの正義。それは執念と言い換えてもよい。
大地に比べれば虫けらにも等しいたった一個の人間の、そのささやかな執念が、大いなる歴史のうねりを歪めてしまうことが、長い年月の間にはまれに起こるものらしい。
許礼は家族に愛されていた。
ひよわな男子だったが、父も三人の兄も許礼をバカにすることなく、彼は裕福な家で何不自由なく過ごした。武芸はからっきしだったが、その分書画にのめりこみ、歌と踊りを学んだ。
夕餉の卓で父が許礼の描いた絵を褒める。宴席で踊れば客よりも先に兄らが喝采を送ってくれた。許礼は家族を愛した。
平穏な日々は突如終わりを告げる。
大陸に戦乱が広がり、許礼の住んでいた江東の地域も例外ではなくなった。様々な勢力が各地で覇を競い、勝者が敗者を呑みこんでいった。
父も兄も戦で死んだ。家は滅んだ。許礼はあっけなくすべてを失った。
父を倒したのは孫策という男だった。火の出るような勢いで辺りを席巻し「江東の小覇王」と呼ばれる男である。
孫策は強かった。怒鳴りつけただけで相手の武将が怯えて死んだほどである。
孫策は速かった。挙兵してから五年も経たぬ。にもかかわらず、すでにその地盤は江東全域に広がり、最早盤石といってよい。
そして何より孫策は若かった。まだ二十六である。曹操や袁紹という大陸中央の実力者たちがみな四十代であることを思えば、二十年後の天下に最も近いのは彼であったと言えるだろう。
許礼は着の身着のままで逃げた。なりふりなど構っていられなかった。残党狩りに怯え、大通りには近づけなかった。かといって、森や林に隠れ住むほどたくましくもない。路地裏や橋の下で泥まみれの残飯をあさって生きた。
人生の変転に許礼は愕然とした。ほんの数日前まで豪奢な屋敷で何不自由なく暮らしていたのだ。呼びつければ召使いが温かい料理を運んできた。今は蠅がたかる骨を自分で探さなくてはならない。目の前のことがすべて夢かウソのように思えた。
もちろん現実はそんな許礼の空想に頓着しなかった。飢えと渇きは募り、傷は治らず、力は失われ、許礼は日ごとに荒んでいった。
「お前、死んでしまいそうだな」
あるとき、黒い衣の男に声をかけられた。街外れの荒地である。ボロボロの着物で倒れ伏す許礼はまさに死の一歩手前であった。
「ただの骸と化すのも惜しかろう。死ぬのは復讐を果たしてからの方がいいとは思わんか?」
黒衣の男はそう言って許礼を導いた。連れていかれたのは山肌にうがたれた暗い洞穴の中だった。闇の中に青白い炎が灯り、白い道衣を着た老人が一心に何かを祈っている。
「于吉というまじない師だ。許礼、お前はここでやつから術を学ぶのだ。そしてその術を以て一族の仇を討て」
「か……仇……?」
「孫策のことだ」
刹那、電撃が走った。孫策。孫策。俺からすべてを奪った男。体から漂う腐臭も、心を覆う絶望も、すべてあいつのせいだ。なぜそれに思い至らなかったのだろう。こんなにボロボロになりながらも俺が死を選ばなかったのは、孫策、あいつがまだ生きているからではないか。
「父も兄も、死してなお無念に悶えている。同じような苦しみを味わっている者が、ほかにも大勢いるのだ。お前が解放してやれ許礼。お前が救ってやるのだ。恨みをすすげ。仇を討て。許礼、孫策を殺せ」
地獄の風のような音が聞こえる。許礼ののどから漏れる雄叫びであった。枯れた体が血の涙を流す。正義のためだ。復讐のためだ。俺が生き永らえたのはこのためだったのだ。
許礼は修羅に堕ちた。黒衣の男はそれを見届け満足げに微笑むと、音もなく洞穴を後にした。
女官たちが皿や杯を片づけている。質素な宴であった。
勝利を祝うとはいえ、まだ戦は続く。一時の勢いに浮かれて深酒をするようなうつけ者は孫策の配下にはいなかった。
部下たちが退いたあとも孫策は一人、正面の宴席に残り、今後について考えていた。江東はほぼ制覇した。このあと西に向かうか北に向かうか。
「どちらにせよ、最後は曹操か」
中原を制する歴戦の覇者。今までの相手とは比べ物にならぬ強さであろう。つけいる隙が見出せぬ強大すぎる敵である。だが曹操を倒さずして天下を掴むことはできない。
「望むところだ。孫家の本気、ようやく見せてやれる」
冷えた酒を飲み干す。途端にそれは炎となって体内をめぐった。孫策は猛っていた。恐れなどまるで感じぬ、一匹の若虎であった。
女官の一人が卓の上を片づけ始めた。孫策は杯を持ったままそれを見つめている。女は主君に恐れ入るのか、目蓋を伏せてこちらを見ようとしない。
孫策は女の顔を見つめ続けた。孫策は妻を愛していたが側女がいないわけではない。
手を伸ばした。女の手首をつかむ。女はびくりと身を震わせたが振り払おうとはしなかった。
「細い腕だ」
「はい、あの……」
「肌も白い。よほど大事に育てられたと見える」
「恐れ入ります……あの、ご主君、おたわむれは……」
「そんな腕で、どうやって我が命を奪うつもりだ?」
瞬間、女が目を剥き、針を吹いた。孫策はすかさず顔をそらす。女の手首を握ったまま剣を抜いたが、それより速く、女は自らもう片方の手で、捕らえられた腕を肘から切り落とした。
孫策は卓を蹴って立ち上がった。細い片腕を放り投げる。女は距離を取り、血まみれのまま微笑んだ。
「なかなか性根のある刺客と見える。痛くないのか?」
「お前を目の前にした喜びで痛みなど感じぬわ。なぜわかった?」
「簡単なことだ。俺が座っている間は、俺の許しなく卓に近づかぬよう言い渡している」
「ほっ、用心深いことだ。だがあんなもので死なれてはこちらの恨みも晴れ切らぬというもの。もっと醜い死を贈ってやる。覚悟せよ、孫策」
「やはり狙いは小覇王の命か。ここまで近づいた刺客は久しぶりだぞ、褒美に名を聞いてやろう」
「正義だ」
「正義?」
「そうよ、お前を討てという天の意志こそ我が名前!」
女、いや許礼は衣服を脱ぎ捨てた。ガリガリに痩せ細った裸体が現れる。おしろいがはげ落ちたサビ色の体には、いたるところに奇妙な模様が刻まれていた。許礼が呪文を唱える。すると、体中の模様から紫色の煙が噴き出し始め、みるみるうちに部屋中にたちこめた。
「妖術か。面白そうだが曲芸見物のヒマはないのでな」
孫策は剣を握り直すと、煙に紛れようとする許礼に向かって駆けだした。刹那、背後に殺気を覚える。腰をひねって身を翻すと、後ろから襲いかかってきた何者かを斬り伏せた。
悲鳴をあげてもんどりうつのは、宴席を片づけていた女官の一人であった。顔には荒々しく血管が浮き出て、目は正気を失っている。煙の中から許礼の声がする。
「女どもに術をかけておいた。次々に襲って来るぞ。視界を奪われたまま、よけきれるか孫策」
その声が終わるを待たず、四方から女たちが襲いかかってきた。皆それぞれ短剣など凶器を手にしている。
孫策は剣を振るった。躊躇はない。覇者たらん者はそのとき為すべきことをためらわない。銀色の閃光が走るたび、妖魔と化した女たちは一人また一人と倒れていった。
最後の一人を斬り伏せると、静寂が訪れた。紫の煙はまだたちこめたままだ。五感を研ぎ澄ませてあたりをうかがう。気配はないが、うかつに動くことはできない。
孫策は汗をぬぐった。おかしい。この程度で汗をかくとは。思えば先ほどから妙に息苦しくもある。
「そうか。この煙……毒か」
目くらましの仕掛けではなく、この煙自体が攻撃だったのだ。女たちは時間稼ぎに過ぎない。
(ヤツの体から噴き出していた。ならば煙がある限り、ヤツもこの近くにいるはず)
膝が崩れた。吐き気がする。毒が回り始めたのかもしれない。
(おのれの体から毒を噴き出す術……決して無事に済むようなものではあるまい。ヤツも命がけということか……)
孫策の腰が落ちた。背中を壁に預けて座り込む。許礼は煙の中から、血走った眼でそれを見つめると、声を立てずに凄惨な笑みを浮かべた。
「だが、虎を侮るのはまだ早い」
突然の動きだった。孫策が駆け出した。煙で一切の視界は利かない。にもかかわらず、まっすぐに出口を目指している。
孫策は許礼の気づかぬうちに地の利を活かしていた。座っていたのは正面の席である。壁が背になれば、あとはまっすぐ走ればよい。
許礼はあわてた。ここまで追いつめて逃がすわけにはいかない。出口はひとつしかない。裸足で床を蹴ると、人にあらざる跳躍で先回りした。向き直る。
孫策が身を低くして迫っていた。許礼はそれを捕らえようと腰を落とす。そこで気づいた。駆け寄る孫策の脇に剣が構えられていることを。それはまるで虎の牙のようにきらめいていた。
衝撃が体を貫いた。許礼は自分の体が吹き飛ばされるのを感じた。廊下を越え、中庭に落ちる。
体が動かなかった。のどが詰まって声も出ない。力を入れると口から血があふれた。胸から剣が墓標のように生えている。
(これまでか……)
許礼はあおむけのまま周囲の様子をうかがった。陣営のあちこちで騒ぎ声がする。かく乱のために火をつけておいたのだが燃え広がる様子がない。孫策軍の統制は予想以上にとれていたらしい。
目がかすんできた。あと一歩のところで。口惜しい。一族の無念を晴らすことができなかった。
「だがな、孫策、死の手は少しずつお前に迫っているぞ。すでにお前は闇に捕らわれているのだ。必ずや次の刺客が、お前を黄泉へと送り込むだろう」
その呪いは誰の耳にも届かなかった。許礼の意識は急速に失われていった。孫策がぐったりしたまま部下に担がれていく様子も、最早彼の目には映らなかった。
宮殿の奥深くにわずか数人だけが存在を知る隠された部屋がある。
虫の音さえ途絶えた深夜、暗い廊下を音もなく歩む人影があった。黒い衣をまとっている。
黒衣の男はその秘密の部屋に入っていった。わずかな明かりの中に一人の男が待っていた。
「第一の矢は外れたようです。孫策は生きております」
深々と礼をしたあと、黒衣の男は報告を始めた。待っていた男は無言でそれを聞いている。
「しかし手傷を負わせることはできました。無為な試みではなかったと言えましょう」
酒の味を確かめるような表情でうなずくと待っていた男は尋ねた。
「刺客は?」
「孫策によって殺されました」
「いいだろう。矢は続け様に射つものだ。第二第三の矢が刺さればそれでよい。支度はできているのだな?」
「はっ、于吉のもとには、あと数人送り込んであります。すぐに次の刺客を放つ手はずを」
「よかろう、だが汚れた矢は証拠が残る。後始末を抜かるなよ」
主の言葉に、黒衣の男は無言で頭を下げた。
「覇道とは、光も闇も制してこそ。天下を取るのはこの曹操だ。誰にも邪魔はさせぬ。虎の成長は早かろう。いかなる手段を用いてもよい。程昱」
名を呼ばれたが程昱は頭を上げられなかった。野望がたぎったときの主の目が、いかに恐ろしいものかよく知っている。主、曹操は青い炎のごとく、静かに、だが厳然と命じるのだった。
「孫策を殺せ」
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