三国志群星伝

桐生イツ

失国のぶさいく~張松~

「曹操はダメだ!役に立たねえ」

 大声に兵士たちが振り返った。どの顔も驚いた表情をしている。当然であろう。曹操とは中原の覇者であり、ここ襄陽は曹操軍の荊州攻略最前線である。軍のド真ん中で総大将をけなす命知らずがあろうか。

 だが、声の主は周囲の反応などまるで意に介さず、小さな体に似合わぬ激しい足取りでズンズン歩いていく。異相であった。額が大きく張り出し、目は落ちくぼんで、鼻がひしゃげている。唇は前にせり出し、大きな歯が収まり切れず外にこぼれていた。アゴが小さく猫背なせいで、魚が服を着ているように見える。益州刺史・劉璋の別駕、張松であった。

「あいつの目は節穴だ。大局が見えちゃいねえ。あんな奴に益州の命運を預けるわけにはいかねえ」

 批判は止まらない。部下の法正が辺りをはばかって声をかけた。

「しかし張松さん、見た感じ曹操殿の反応は悪くなかったじゃありませんか。もう少し譲歩して交渉すれば」

「無駄だ」

 一喝。法正は縮みあがった。張松が一度決断すればそれはもう揺るがない。

「ヤツは話を聞くふりをして、ずっと俺を見下してやがった。俺にはわかる。益州の使者である俺を見下すってことは、益州の価値を認めてねえってことだ。そんなヤツから兵を借りても、肝心要のところで役に立たねえ」

 この襄陽ですら街のにぎわいは成都をしのぐ。音に聞く洛陽などはどれほどの都なのだろう。益州という西の果てからやってきた自分たちが、中原の人々に取るに足らない田舎者として映るのは無理もないかもしれない。

 しかし、と、法正は前を行く上司の背中を見つめて思った。この人、張松は違う。

 幼くして五経をそらんじ、舌鋒ぜっぽうは鋭く、先見の明に富んでいる。判断力と行動力は曹操軍の将と比べても引けを取るまい。多少独断に過ぎ、反発する者も多いが、あの凡庸な君主のもとで益州が今のように栄えることができたのは、ひとえに張松の辣腕のおかげであった。益州に生まれた百年に一人の異才であると法正は確信している。何の後ろ盾もない法正を見出し、ここまで抜擢したのは張松である。恩もあった。だがそれ以上に彼は、張松の才を尊敬していた。だから、曹操が張松を見下したなどとは到底信じられなかったのである。曹操は人材を見ること珠の如き男と聞く。張松という人材が曹操の興味をひかないはずがなかった。

「それに」

 張松が言葉を継いだ。心なしか、語気に先ほどまでの勢いがない。

「あいつは、男前だ」

 それきり、張松は口を開かなかった。

 法正は理解した。張松は不細工である。幼少の頃から周囲に嘲笑われて生きてきた。学を積み、才を磨いてもその笑いは消えなかった。醜く生まれただけで、まるで罪を犯したかのような仕打ちを受ける。反面、整った容姿の者はそれだけでもてはやされた。大した能力もない男が、ただ見た目と人当たりがいいだけで、不相応に出世するのを何度も見た。内なる才に気づこうともせず表面だけで物事を測る凡人たちを、張松は激しく軽蔑していた。そしてそれと同じくらいに、美しい顔というものに憎悪を抱いていた。

 曹操の端正な顔が興味を持たぬというのに、こちらから膝を屈して哀れみを乞うなど死んでもできることではない。

(この人の心はいびつだ。だがそうでなければ生きてこられなかったのだ)

 才のみが張松の翼であった。彼はその翼ではばたける大いなる空を求めた。顔などは重しに過ぎない。張松は叶うなら自分の顔をえぐりとりたかった。胸の奥には常に憤りが渦巻いていた。


 張松らの故郷、益州に危機が迫っていた。

 漢中の張魯が兵を整え、侵略の兆しを見せている。だが益州の兵は弱く、君主劉璋は凡庸であった。援軍を求めなければならない。

 衆議の結果、曹操に助力を乞うことになった。二度返事をはぐらかされ、三度目の使者として張松が腰を上げたのである。

 だが今、張松は曹操を見限った。

「どうするんです張松さん。援軍なしじゃとても張魯を防げません」

「当たり前だ。そんなことはわかってる。あのぼんくらどもだけで益州を守れるはずがない」

「それじゃ一体」

「ちょうどこの先の夏口に劉備という男がいる。そいつに当たってみようと思う」

「劉備…噂は聞いています。確かに歴戦の古強者ですが、それほど大きな勢力ではない。いまだ定まった土地を得ず、諸方をさまよっているとか。頼りになりますでしょうか。それよりは足を伸ばして、更に東、孫権を頼ってみては」

 張松は首を振った。

「孫権は遠い。いざ張魯が攻めてきても間に合わん。実効のない約定など結ぶだけ無駄だ。劉備に領土はないが、逆に言えば、それにもかかわらず乱世を今日まで生き延び得たなにがしかがあるということだ。それが何かを見極めに行く」

 上流から下流へ、漢水の流れの先が夏口である。張松は舟に乗った。船上で容易ならぬことを打ち明ける。

「もし劉備が信頼に足る男なら…俺は益州をヤツにやってもよい」

「張松さん!…それは」

「勘違いするなよ法正。俺たちが守るべきなのは劉璋ではなく益州だ。時勢も知らず民をも顧みず、ただおのれの欲を満たすことだけに必死になり、その挙句、危機にまみえてはオロオロと戸惑うだけ。あんなクズどもは害悪でこそあって、生き残らせてもしょうがない。ヤツらにできることは、人を蔑み、嘲笑うことだけだ。守る価値があるか?お前の才にも気づかなかったヤツらだぞ。俺は益州を守るために動く。益州の大地こそが俺たちを産み育んだのだ。草は笑わぬ。山は蔑まぬ。どうだ法正?お前が守りたいものは何だ?」

 張松の目がギラギラと燃えていた。想いが炎となって法正を包む。法正はその炎に、強さと切なさを感じた。

「…わかりました。私も同じです。益州を守るために動きましょう」

「よく言った。お前の才は俺が最も信頼するものだ。もし劉備が奇貨なら、お前はあちらに残り俺との連絡係になれ」

「はっ」

 舟は進む。河の流れは戻らない。時も同じであった。張松はおのれの行為が、時代をどのようにうねらすか想像し、身震いした。


 劉備との会談は深夜に行われた。

 テントに入ると薄暗い中に劉備が腰かけ、左右に関羽、張飛という猛将が屹立している。法正は威圧感に息を呑んだが、張松は臆することなく劉備の前に立った。

「張松さんってのはアンタかい。へえ、なかなかいい面構えじゃねえか」

 劉備は張松の顔を褒めた。苦労人の劉備にとっては、半ばお世辞のようなものであったろうが、張松の体には電流が走った。

 さらに張松を喜ばせたのは、劉備が異相であったことである。耳が異様に大きく、世慣れたせいで人好きのする顔だが、決して男前ではない。

(この男だ。こいつになら俺の運命を任せられる)

 張松は劉備に益州を獲ることを勧めた。地図を開き地形や気候について具体的な説明を加える。

 劉備は驚いた。うまい話である。うますぎると言ってもいい。大勢力の間をすり抜けるようにして乱世を過ごしてきた彼は、むしろ用心した。

「…張松さん、ひとつ尋きてえ。俺たちがアンタの話に乗るってことは、おたくの大将、劉璋さんの居場所はなくなるってことだ。構わねえのかい?」

「もとより。主の座はひとつだけであるべきと心得ます。私は益州のためにも、あなたに座っていただきたい」

「…国を売ろうってのか」

「はい」

「そんで?代価は何だ?国を売って、アンタは何を得る?」

「…誇りです。益州を、故郷を守ることができたという自負。これは私にしかできないことだ」

 張松は劉備の目を見据えた。劉備も目をそらさなかった。しばしの沈黙。法正は張松の背中に炎を見た。おのれの才を油とし、命を芯として燃え上がる蒼い炎。それは背負った者自身をも燃やしてしまう危うさをはらんでいる。

 やがて、劉備が膝を打って叫んだ。

「よくわかったぜ。アンタの話、乗ろうじゃねえか」


 時が流れた。

 その間、張魯の兵力はいよいよ盛んになり、劉璋以下重臣たちは落ちつかぬ日々を過ごしている。

 あるとき、曹操が張魯を攻めるという知らせが届いた。重臣らはいったん喜んだが、続報を聞いて戦慄する。曹操の大軍勢は張魯を滅ぼしたあとそのまま益州に攻め込むつもりだという。

 慌てふためく重臣らに向けて、張松が言った。

「曹操に対抗できるのは荊州の劉備殿しかありませぬ。国家存亡の危機なれば、今こそ劉備殿をお招きして力をお借りするときかと」

 劉璋は左右を見渡した。重臣らの中に反論する者はない。張松の案は採用された。

 実は、曹操が張魯を攻めるという知らせ自体が張松の策であった。法正からの連絡により、劉備の準備が整ったことを知った張松は、いよいよかねてよりの計画を実行に移したのである。

 劉備の軍勢を公に成都へ招き入れる。それさえ成れば難しいことは何もない。劉璋の手勢が劉備軍に敵うわけがない。劉璋を退かせ、劉備に新しい益州の主となってもらう。

 誰もこの策を見抜いてはいなかった。

(俺の顔を笑った無能どもめ。笑うべきはお前らの間抜け面だ。才を見抜けなかった罪を抱いて滅べ。益州は俺と劉備殿が守る)

 だが益州に愚者だけが揃っていたわけではない。張松と違う目で故郷を見守る者たちも少なからず存在した。

 王累という男は、張松の策は知らずとも、別の理由から劉備軍の招き入れを反対した。劉備には野心がある、その野心が益州には害というのである。

 慧眼であった。確かに劉備には野心があった。張松はそれを劇薬として益州に投じようとしたが、含意なき目に毒薬と映じるのも無理はない。

 王累は張松の唯一といっていい友人であった。才長けて、故郷を愛する気持ちも同じである。しかし、王累は張松の策を知らなかった。一本気で何事にも正直を信条とする友を、張松は国を売るという危うすぎる計略にまきこめなかったのである。

 上層部が王累の意見に耳を貸さなかったのは、張松にとって幸運だった。怠け者の劉璋は、すでに自分で判断するということさえ放棄していた。王累は遠ざけられ、意見は却下された。

 しかし王累は忠言をやめなかった。ついには城門から逆さづりになった。足を繋ぐ縄に剣を当て、劉璋が考えを改めねば縄を切ると叫んだ。命を懸けて主君を諌めたのである。

 張松はやめろと叫びたかった。益州を守ろうという心根は同じなのである。王累ほどの才を無駄死にさせるわけにはいかない。だが真相を打ち明けるには、場所も時もすでに最適を失っている。張松は血が出るほどに唇を噛みしめた。

 劉璋は聞き入れなかった。配下の身で主君を脅すような真似は不遜とした。王累は縄を切った。友の体は張松の目の前で地面に激突し砕け散った。

(許せ王累。お前の才を散らした。許せ。俺も安穏と生きようとは思わんぞ。益州を守るために命を懸ける。これはそのための策なのだ。許せ王累。お前の死を、お前の才を無駄にはせん)

 張松は人知れず慟哭した。才を散らす無念は誰よりもおのれが知っている。顔を笑われ、醜さを卑しまれ、それでも才のみを頼りに故郷を守らんとしてきたのだ。今更やめることはできない。俺は笑われるために産まれてきたのではないのだ。

 張松は劉備の到着を今日か明日かと待った。曹操の侵攻は策であったが、張魯の脅威は事実である。時が経てば、策に疑問を持つ者も現れるだろう。一日でも早い到着が望ましい。

 ようやく劉備軍が動いた。成都のすぐ北、涪城に兵を入れる。上機嫌の劉璋は挨拶に出向いた。

「よい機会です。この場で劉璋を殺しましょう」

 張松が提案するも、しかし劉備は、露骨な手段は反感を買うとして乗ってこない。彼は張松以上に世間を知っていた。涪城に滞在し、人心と兵力の掌握に努め続けた。

 一向に張魯を攻めようとしない劉備に対し、成都でも次第に疑いの声があがり始めた。張松は焦った。劉備に対し、即刻兵を起こして成都に攻め込むよう手紙を書いた。

 だがその手紙は、劉備ではなく劉璋のもとに渡った。張松を見張っていた反対派の手によってである。策はほころびた。手紙を読んだ劉璋は裏切りを知って激怒し、刺客を放った。張松はなますのように切り刻まれて死んだ。

 張松の死を嘆く者は成都に一人もいなかった。ただ涪城の法正だけが涙を流した。

 のちに劉備が益州を落としたとき、法正は言った。

「あの人は才に生き、才に死んだのです。張松さんがいなければ私は殿の側におらず、殿がこうして益州の地に立つこともなかったでしょう」

 劉備は深くうなずいたという。


 後漢の乱世から晋に至るまで、国を売るという大それたことを思いつき、尚且つそれを成し遂げた者は張松しかいない。だが本人はその成就を目にすることなく死んだ。

『三国志』に張松の伝はなく、「劉璋伝」「法正伝」などに名が現れるのみである。

 

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