ゴールを極めし者の悟りとは

水円 岳


 師の居室には出入り口がなかった。完全に封鎖された室内にこもっておられる。中に灯りがあるのかどうかはわからないが、内部は決して明朗でないと思われる。だが、師はそれを苦にされないのであろう。


 改めて師の住んでおられる居室を凝視する。どこにも出口のない封鎖空間……確かにそれは完璧なゴールであった。ゴールという名を冠しながら実は通過点に過ぎない中途半端な関門ばかりを見てきた私は、感激のあまりただただむせび泣いたのであった。


「さすが、ゴールを極めた師だ!」


◇ ◇ ◇


 スタートはあってもゴールはない。私はずっとそう思っていた。何かの始点、出発点は必ずある。人生にしても行動にしても思想にしてもだ。しかしゴールというものは、そこに到達したが最後全てが終わりになってしまう。


 何かを成し遂げるというゴールを設定すれば、その無意味さがよくわかる。ゴールに辿り着こうが着くまいが、ゴールそのものは設定されたところからぴくりとも動かないのだ。

 ゴールに到達できない場合はまだいい。到達するまでゴールであり続けるのだから。だが、ゴールに届いてしまった途端、それはゴールという名称と役割を全て剥奪されてしまう。ゴールに到達した意義が一気に矮小化するのだ。当然、その失望は我々の怠惰と退化をもたらす。誰もゴールなぞ目指さなくなってしまう。


 しかし。しかし、だ。ゴールのない道程は、単なる苦行でしかない。我々はゴールの持つ無意味さをとことん知り尽くしていながらも、仕方なくゴールを設定するのだ。それは究極の終着点ではなく、単なる通過点に過ぎないのに。

 単なるちんけなキロポストにすら、ゴールの名は冠される。我々は突きつけられた現実に鼻白みながらも、仮初かりそめのゴールを受忍せざるを得ないのだ。


◇ ◇ ◇


 そして今も。見果てぬ地平にゴールが置かれている。『難敵撲滅』という名のゴールには、おそらく誰も辿り着けないだろう。辿り着けないという絶望を抱え込めば、生き続けようとすることがとことん辛くなる。

 仕方なく、我々は最終ゴールの手前に様々なミニゴールを置く。曰く、んパーセント減。ん人以下、ん日まで我慢、ん万円まで補助……等々。それらは、誰がどう見ても通過地点に過ぎない。ゴールにはなり得ない。

 しかし我々は、見え見えの欺瞞にあえて目をつぶることでしか新たな日常を構築できない。なので、もうすぐゴールに到達できるかのように己をひたすら鼓舞する。叡智の火は、次々に手渡されてゴールに近づいている、と。


 そのゴールで待っているものは何だ? 何もない。いや、そもそもゴールすら存在しない。


 御託は聞き飽きた。見えない……いや実在しないゴールに向かって走らされることに疲れ果てた。だから私はもう引き返すことにした。ゴールを目指すのではなく、スタートに戻ることを選ぼうと思ったのだ。それが退化であり、人生の放棄であることは百も承知。だが、五里霧中の世界をただ無闇に走り回るよりもはるかにましではないか。


 思い悩んだ末に足をとめた、その時だった。絶望に支配されていた私の耳に、風の噂が飛び込んできたのだ。ゴールを極めた者がいる、と。

 私は藁にもすがる思いで師を訪ね歩いた。きっと師は、迷える私に正しいゴールを指し示してくれるだろう。それは場所ではなく、ゴールというものの概念だ。微塵の過誤も含まれない、完全無欠のゴールを教え導いてくれるだろう。


◇ ◇ ◇


 薄い壁越しに師の声が響いてくる。私はそれに耳をそばだてる。


「ほう。そういうことか」

「はい! 目に見えぬ敵との果てしない戦いに、ゴールなどないはず。それなのに、そこかしこにゴールが乱立しているのです。耐えられません!」

「甘いな」


 師は小さな声で私を咎めた。


「見えぬものなど、そのまま放置しておけばよかろう。恐ろしいのは我々よりもはるかに巨大な敵よ」

「ですが!」

「お主らは、見えぬ敵に何人やられた?」

「そ、それは」

「我々はゴールに辿り着けぬ限り、全滅を免れられぬ。幾千幾万の同胞はらからがこれまで犠牲になってきた」

「う……」


 師の詰問に一段と力がこもる。


「我らにとっては、ゴールが全てじゃ。ゴールなど通過点に過ぎぬと揶揄するお主とは立場が違う!」

「す、すみません」


 しばしの沈黙が私と師との間に落ち、しかるのちに師が穏やかな口調で説いた。


「されど、我らのゴールも確かに通過点じゃな。お主の言わんとしていることも、あながち誤りではない」


 こいつ、日和ったな。師に対する過剰な期待がはげ落ち、反発がむくむくと批判心を惹起した。


「完全無欠のゴールというのは嘘っぱちということですか」

「阿呆。そんな風に言っておるのはお主らではないか。我々は、完全無欠だなどとは最初から言っておらぬ」

「……」

「いいか? 先に言うた通りじゃ。我々はゴールなしでは一時も生き延びられぬ。儂らにとってはゴールが全て。完全無欠ではなく、唯一無二の存在じゃ」

「なるほど。では、なぜ師のゴールは通過点でもあるのですか?」


 師の論理は自己矛盾し、破綻している。私の冷笑を意に介さず、師が淡々と語る。


「当然じゃ。敵から逃れるためのゴールがあり、敵を恐れず生を繋ぐためにゴールを壊す」

「む!」

「お主らはいたずらに敵を怖じるあまり籠ってゴールから離れ、敵を恐れぬゆえに出歩いてゴールを目指すのであろう? 我々とは価値観が全く異なる」


 にべもなく断言されて、さすがにかちんと来た。


「同じじゃないですか!」

「違う。ゴールが天と地ほど違う」


 師は封鎖を解いて部屋から出ると、羽を広げて私の眼前に舞い上がった。


ゴール虫こぶは我々が籠って育つ場所。じゃが、娶るためにはゴールを破らねばならぬ。死を賭して次のゴールをこさえるためにな」

「ぐ……」

「お主のゴールなんぞ、いつでも作れていつでも消せるじゃろうが。我々は虫ゆえ、そうはいかぬ。軽々しく比べるな!」



【 了 】


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ゴールを極めし者の悟りとは 水円 岳 @mizomer

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ